アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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ウマ娘はガチプレイヤーという訳では無いので、何かおかしいことを書いていたらおしえてくださいね。



4話 デビュー戦の悪夢

 

6月の東京レース場は、朝から湿った空気に覆われていた。

 

スタンドへ続く階段を上がると、既に前の方の席が埋まっていた。大きなレンズを抱えた客がフェンス際へ寄り、出走表を広げた隣同士で話している。耳に入るのは、同じ名前ばかりだった。

 

カレンモエ。

 

『閃光の娘』と大きく書かれた応援幕が、向こうの柵に掛かっていた。横に並んだ写真は、現役時代のカレンチャンと、入学時に撮られたモエのものだった。

 

俺は足を止めかけ、鞄の持ち手を握り直した。

 

メイクデビュー、芝2000m。7枠14番のカレンモエは、出走者18名の中で、圧倒的な1番人気に支持されていた。まだ一度も公式戦を走っていない彼女のために、朝早くから場所を取っている客までいる。

 

「今日こそ見られるんだよな。お母さんの現役には間に合わなかったからさ」

 

若い男が、友人に嬉しそうに話していた。俺は出走表を畳み、控室へ戻る階段を下りた。

 

模擬レースを終えてから、モエは練習を休まなかった。映像を見てはコースへ出て、俺の取った時計と、自分が感じた速さを照らし合わせる。できないところは、何度も同じように崩れた。帰り際に俺のメニューへ文句を言うことはあっても、翌日には、先に着替えて待っていた。

 

2000mへの目処は、十分についたとは言えなかった。

 

出走を決める時、そのことも話した。モエは俺の説明を最後まで聞いてから、距離の欄を指した。

 

『それでも、ここで出たい』

 

俺は、その希望を受けて届けを出した。今、鞄に入っている作戦も、この数週間の記録を何度も見直して決めたものだった。

 

控室の扉を開けると、モエは着替えを終え、壁際の椅子に座っていた。レース用の運動着の上から上着を羽織り、膝の上で両手を組んでいる。指先の位置が何度か変わり、最後は片方の手をもう片方で包むようにして止まった。

 

「……外、すごいね」

 

顔を上げずに言った。廊下を行き来する足音の向こうから、場内放送がくぐもって届いている。

 

「見てきたのか」

 

「来る時に。写真も、掛かってた」

 

見ていたのか、と思った。俺が返事を探していると、モエは自分の靴へ目を落とした。

 

「勝つと思って来てるんだよね。あんな顔して待ってるんだから」

 

「期待はされている」

 

「私、まだ何もしてないのに。2000で勝ったこともないし、ちゃんと走れるかも分かんないのに」

 

笑おうとした口元が、途中で止まった。

 

「みんな、ママを見に来てる」

 

その言葉に、すぐには何も返せなかった。資料室で初めて彼女へ目を向けた時のことが、頭をよぎった。

 

俺は向かいへ椅子を引き、腰を下ろした。鞄から出したコース図を膝の上に広げると、モエもようやくこちらを見た。

 

「今日の走りを、もう一度確かめよう」

 

「……うん」

 

「ゲートが開いても、すぐには前へ出ない。先に行かせていい。最初のコーナーまでに、集団の後ろへ入る」

 

出発点から指を動かし、最初の曲がり角へ置く。モエの視線も、その指を追ってきた。

 

「前半の1000は、前を取りにいかない。脚を使うのは最後の600からだ」

 

「抜かれても追わない。でしょ」

 

「ああ。周りが動いても、一緒に出ないこと」

 

ここ数週間、走り始めを遅らせることも試していた。自分から速度を上げずに、先へ行く背中を見送る。そこから、前の走者を目安にして追走できないかと考えていた。

 

モエの身体が速さを落とそうとするたびにどうなるか、俺も繰り返し見ている。だから、出してから抑えるより、出だしで前へ飛び出させない方に望みをかけた。長い距離を、脚を残したまま走れたという裏づけは、まだなかった。

 

「途中で、また出ちゃったら?」

 

モエがコース図から顔を上げた。

 

「一気に落とそうとしないこと。無理に脚を止めると、立て直す時にまた踏んでしまう。腕の振りから、練習で確かめたとおりに」

 

「……うん」

 

返事をした後も、目がこちらに残っていた。俺は図を畳みかけた手を止めた。

 

「できなかった時に、全部取り戻そうとするな。コーナーも直線も、まだ先にある」

 

モエは何か言いかけ、唇を閉じた。それから膝の上の手をほどき、ゆっくり立ち上がる。上着を脱いで椅子の背へ掛けると、ゼッケンの端を指で確かめた。

 

「行ってきます」

 

「ああ」

 

扉が閉まってから、俺も立った。コース図を鞄へ戻す時、角が引っかかり、少し折れた。直して入れ直し、椅子に残ったモエの上着も畳んだが、手の動きが落ち着かなかった。

 

~~

 

パドックに出走者が現れると、柵の向こうで一斉にカメラが上がった。

 

モエの白い髪は、並んだウマ娘たちの中でもよく目立った。14番のゼッケンをつけ、口元を引き結んで歩いている。顔を向けてほしいという声が飛んでも、視線を動かさなかった。

 

「そっくりだな。カレンチャンも、デビューした時はこんな感じだった」

 

「でも、いきなり2000だろ? 持つのかな」

 

「これで勝ったら、すごいぞ」

 

俺は人垣の切れ目からモエの脚を見ていた。歩幅に乱れはなく、片側を庇う様子もない。ただ、こちらを見つけた時も、表情はほとんど変わらなかった。

 

関係者のいる一角に、彼女の父親が立っていた。サングラスを掛け、腕を組んでいる。目が合った気がして会釈すると、顎がわずかに動いた。

 

その隣に、カレンチャンの姿はなかった。

 

出走者たちがコースへ向かった後、俺は関係者席へ移った。鞄を足元に置き、双眼鏡を取り出す。手元には、モエが羽織っていた上着と、畳んだタオルがあった。

 

ファンファーレが鳴る。

 

18名が順にゲートへ入り、最後の扉が閉じられた。モエは外寄りの14番。集団の後ろへ入るには、内側の走者を見送り、自分の位置を決めなければならない。

 

双眼鏡の中で、彼女が前を向いた。

 

ゲートが開いた。

 

白い髪が飛び出した瞬間、俺は立ち上がりかけた。

 

「行くな……」

 

最初の一歩から速かった。隣の走者が姿勢を整える間に肩ひとつ前へ出て、続く踏み込みで、さらに差が開く。

 

モエの上体がわずかに起きた。腕の振りも小さくなる。だが、前へ出る脚の勢いを抑えきれず、次に踏み込んだ時には、もう横に並ぶ相手がいなかった。

 

『14番カレンモエ、抜群のスタートです! 一気に先頭へ出ました!』

 

歓声が上がり、俺の隣でも誰かが身を乗り出した。モエは先頭で最初のコーナーへ入っていく。控室で指を置いた場所を、後続から離れたまま曲がっていった。

 

まだ、先は長い。俺は双眼鏡を握り直し、彼女の腕を見た。

 

短くなっていた振りが、また大きくなっている。脚を出すたびに身体が前へ伸び、後続との差が広がった。前の走者を見ながら位置を決めるはずだった彼女の前には、空いたコースしかなかった。

 

『カレンモエが軽快に飛ばしています! 後続を離して、第2コーナーを回ります!』

 

「そのまま行け!」

 

「さすがだな、速い!」

 

周りで声が重なった。モエが大きくリードしたまま向こう正面へ入ると、応援幕を持った客が両手を上げた。

 

俺は掲示された通過タイムを見た。

 

1000m、60秒2。

 

隣で、感嘆の声が漏れた。俺はその数字を記録し、残りの距離を確かめるようにコースへ目を戻した。

 

あと1000mもある。

 

ここから速度を落とそうとしても、モエは落としたところで留まれない。練習では、そのたびに動きが詰まり、踏み直していた。前に出たまま走り続けても、脚を残せるとは思えなかった。

 

向こう正面の終わりで、モエの顎が上がった。

 

腕を引く動きに肩までついていく。次の一歩で歩幅が詰まり、その次でも戻らない。第3コーナーへ入る頃には、後ろとの間隔が目に見えて縮み始めていた。

 

「……持たせろ」

 

声は、口の中で潰れた。

 

後続の先頭にいた子が外へ持ち出し、モエへ並びかける。道中は無理に追わず、前との差を保って走っていた子だった。腕の動きに余裕があり、曲がりながらも歩幅が変わらない。

 

その肩が横へ来た時、モエが顔を向けた。

 

腕を振り直し、脚を強く踏み込む。一度は並び返したが、続く数歩で半歩、また半歩と置いていかれた。その後ろから、別の子が同じように外へ出てくる。

 

『カレンモエ、ここで先頭を譲ります! 外から続々と後続が接近!』

 

モエが追おうとした背中を、次の走者が隠した。さらにその外から影が重なり、第4コーナーを回る頃には、彼女の白い髪が集団の中へ沈んでいた。

 

俺は双眼鏡を下ろし、モニターへ目を向けた。

 

直線に入った走者たちが、横へ広がっている。前を塞がれていた子が進路を見つけて伸び、先頭を狙う2人が肩を並べた。その後ろで、モエは腕を振っていた。

 

身体が揺れるたび、脚が横へ流れる。前へ出したはずの足が短いところへ落ち、踏み直す間に、また1人が外を抜けていった。

 

彼女はその背中を追った。追いながら、もう一度抜かれた。

 

『カレンモエは苦しくなりました! 後方へ下がっていきます!』

 

近くの客が腕を下ろした。

 

「ああ、止まったか……」

 

「やっぱり長かったんだな」

 

前の席で応援幕を畳み始めた人がいた。まだゴールしていない。俺はその手元から目を離し、モニターの端に映ったモエを見つめた。

 

残り200m。膝が上がらず、足先が芝を擦っていた。それでも顔を上げようとしている。前にいる子の背中を捉えるたびに腕を引き、縮まらない差へ、また脚を出した。

 

先頭がゴールし、大きな歓声が上がった。上位の走者たちが速度を落とし始めても、モエはまだ直線にいた。

 

ゴール板を越えた時には、前に15名がいた。

 

18名中、16着。

 

俺は着順を確かめ、タオルと上着を掴んだ。席を離れる時、足元の鞄へ膝が当たった。拾い上げ、地下へ続く階段を下りる。

 

上では、勝ったウマ娘の名前が何度も呼ばれていた。

 

~~

 

地下通路は、外よりも空気が冷たかった。

 

勝った陣営の声と、取材の準備をするスタッフの足音が、壁に反響している。俺は人の流れから少し離れ、コースから戻る出入口を見ていた。

 

やがて、モエが姿を見せた。

 

運動着は汗を吸って色が濃くなり、膝には土が付いていた。白い髪が頬へ貼りつき、歩くたびに肩が大きく上下する。俺を見つけると足を止めたが、顔を上げていられず、すぐに目を伏せた。

 

近づいて、タオルを頭から掛けた。両端を掴む指に力が入るのを見てから、壁際のベンチへ座らせた。

 

「どこか痛むか」

 

「脚、全部……だるい。あと、息が……」

 

今は話さなくていいと伝え、上着を肩へ掛けた。水を渡すと、モエは少しずつ飲み、膝の上にボトルを置いたまま俯いていた。

 

通路を別の出走者が歩いてきたので、俺は半歩横へ寄った。視線がこちらへ向き、すぐに逸れていく。モエが顔を隠したまま待てるよう、しばらくその位置に立っていた。

 

「……作戦、守れなくて。ごめん」

 

タオルの下から声がした。

 

「抑えようとしたのは見えた」

 

「でも、止まらなかった。ゲートが開いて、少しだけって思ったのに……もう、前に出てた」

 

俺は隣へしゃがんだ。モエはボトルを足元へ置き、タオルを握り直した。

 

「分かってたんだよ。前に行っちゃ駄目だって。あそこで出たら、最後は持たないって。だから落とそうとしたのに、また脚が……」

 

言葉が途切れた。布を掴んだ指が白くなり、肩が震えていた。

 

「……悔しい」

 

俺は頷いた。

 

「隣に来たの、見えた。抜き返そうとしたのに、全然追いつかなくて。次の子が来て、その子にも置いていかれて」

 

タオルの端がずれ、赤くなった目が見えた。モエは構わず続けた。

 

「あいつらの背中を見るのが、あんなに惨めだなんて……」

 

最後まで言えずに口を閉じた。息を吸い、何かを堪えるように顎を引いたが、頬へ涙が落ちた。

 

俺はノートを出しかけた手を止めた。

 

スタートのどこで加速したのか。落とそうとした時、脚がどう動いたのか。聞きたいことはあったが、目の前でタオルを握っているモエへ、今から話してくれとは言えなかった。

 

「俺も、集団の後ろへ入れれば何とかなると考えていた。そこへ入る前に、あれだけ出てしまうところを見込めていなかった」

 

モエは顔を上げなかった。

 

「今すぐ説明しなくていい。覚えていることは、落ち着いてから聞かせてほしい」

 

返事はなかった。俺はそのまま隣にいた。

 

「絢原君」

 

背後から呼ばれ、立ち上がった。モエの父親が、外したサングラスを片手に立っている。娘を見てから、俺へ目を向けた。

 

「申し訳ありません」

 

頭を下げた。父親はすぐには何も言わず、ベンチの前へ歩み寄った。モエは顔を隠したまま、動かなかった。

 

「……惨めだな」

 

静かな声が通路に落ちた。

 

俺は顔を上げたが、父親の目は娘へ向いていた。

 

「血に抗うというのは、こういうことだ」

 

モエの指が、タオルの端をさらに引いた。父親はその手を見つめ、それからポケットへ手を入れた。

 

取り出したハンカチを、俺へ差し出す。

 

「汗を拭いてやれ。それが今の、君の仕事だ」

 

「……はい」

 

受け取ると、父親はベンチから離れた。一度足を止め、娘の方へ顔を向けたが、何も言わずに通路の角を曲がっていった。

 

俺はモエの横へ戻り、ハンカチを差し出した。

 

「顔、拭けるか」

 

タオルの隙間から手が出て、受け取った。自分で目元を押さえ、頬を拭う間、俺は床へ置かれていたボトルを拾った。

 

「……パパ、怒ってた?」

 

「声は荒げなかった」

 

「うん。……ああいう時、いつもそう」

 

ハンカチを握ったまま、モエは黙った。少しして、膝の上のタオルを畳み始めたが、途中で手が止まり、結局まとめて鞄へ押し込んだ。

 

着替えて帰ろうと声をかけると、頷いた。立ち上がる時にはベンチの端へ手をついたが、今度は自分の脚で立てた。

 

~~

 

レース場を出る頃には、夕方になっていた。

 

駅へ向かう人の流れに交じり、ゆっくり歩く。隣のモエは制服に着替えていたが、膝を曲げるたびに歩幅が小さくなった。俺が歩く速さを落とすと、一度だけこちらを見て、それから足元へ視線を戻した。

 

しばらく歩いたところで、鞄の中からスマホの振動が聞こえた。彼女は取り出そうとして、途中で手を離した。

 

「……ニュース、見ないでね」

 

「ああ」

 

「もう書かれてると思うから。やっぱり短距離だって。カレンチャンの娘に2000は無理だって」

 

前を向いたまま言い、少し間を空けた。

 

「今日の見たら、そうなるよね」

 

俺は何も答えず、歩道の端へ寄った。後ろから来た客たちが、俺たちを追い越していく。

 

横断歩道の手前で止まると、モエも足を止めた。信号を見上げながら、握っていたハンカチを片手の中で丸め直した。

 

「私、間違ってたのかな」

 

「2000に出たことか」

 

「それも。ティアラを目指すって言ったことも。……パパの言うとおりにしてれば、こんな負け方はしなかったのかな」

 

青に変わっても、彼女はすぐには動かなかった。後ろから人が来るので、俺たちは脇へ寄った。

 

「短い距離なら、違う結果にはなったかもしれない」

 

モエがこちらを見た。

 

「俺は、まだ君とティアラを目指したいと思っている」

 

「負けても、間違ってないって?」

 

「今日の作戦は上手くいかなかった。前へ出ないように、と言うだけでは止められなかった。そこは、組み直す」

 

彼女は俺を見ていた。

 

「練習では分からなかったこともある。今日の走りを見直して、次に何をするか考えたい」

 

モエはしばらく黙り、やがて視線を外した。

 

「……簡単に言わないでよ。走ってる間、ずっと見られてたんだから。止まったところも、全部」

 

返事ができなかった。

 

俺が記録を見直している間も、彼女は自分の走りを撮られ、話される。明日、コースへ出れば、今日の着順を知っている相手と顔を合わせることになる。

 

モエはハンカチを握り直し、道の向こうへ目を向けた。

 

次に信号が青になった時、彼女から歩き出した。俺も隣へ続き、横断歩道を渡り終えてから、もう一度口を開いた。

 

「明日、脚の様子を見せてくれ。その後で、今日の映像を一緒に見たい」

 

「……見たくない」

 

「そうだろうな」

 

「トレーナーは、見るんでしょ」

 

「見る。スタートから、最後まで」

 

彼女は前を向いたまま、少し唇を噛んだ。

 

駅の入口が見えてきた。階段を上る人たちを見て、モエが小さく息を吐く。俺がゆっくりでいいと言おうとした時、先に声をかけられた。

 

「一つだけ、聞いていい?」

 

「ああ」

 

「前半の、あの1000……私、速かった?」

 

こちらを見なかった。ハンカチを持つ手だけが、少し強く握られた。

 

「速かった。60秒2だった」

 

「……そっか」

 

モエは、一度だけ頷いた。

 

「前に出る速さはあった。それをどう使うか、考え直す。今日みたいに、直線へ入る前に脚を使い切る走りを、もう一度させたくない」

 

「抑え方、見つかるの?」

 

「まだ分からない。今日、どこで何をしようとしたのかも聞いて、それから考える」

 

彼女は顔を伏せたが、歩くのをやめなかった。

 

「次も、2000がいい」

 

「ああ。まずは脚を戻してから、日程を考えよう」

 

「ここでやめたら、あの16着で終わっちゃうから」

 

階段の手前で立ち止まり、モエはハンカチを鞄へ入れた。手すりを掴んで最初の段へ足を掛け、ゆっくり身体を持ち上げる。

 

「……次は、あいつらを抜きたい」

 

俺はその隣で、階段を上った。

 




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