アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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ウマ娘はガチプレイヤーという訳では無いので、何かおかしいことを書いていたらおしえてくださいね。



4話 デビュー戦の悪夢

六月。東京レース場。

 

梅雨入り前の湿った空気が重い日だった。

メイクデビュー。芝2000メートル。

 

スタンドの入りが、新戦にしては異常だった。メイクデビューなんて本来、名前も知られていない新人たちの顔見せだ。トレーナーがまばらに座って、双眼鏡を覗き込む程度の穏やかな空気が普通である。

 

だが、今日のスタンドには一般客が詰めかけていた。カメラの放列。報道陣の数も明らかに多い。その中のほとんどが、一人のウマ娘を撮りに来ている。

 

俺は関係者エリアのフェンス際で、出走表を睨んでいた。

7枠14番、カレンモエ。人気投票は圧倒的1番人気。支持率が他の出走者を大きく引き離している。

 

だが、この支持は彼女の実力への評価じゃない。「カレンチャンの娘」というブランドに対する期待票だ。メイクデビューでこんな支持率を集めるウマ娘なんて、普通は存在しない。

 

 

 

~~

 

 

 

三十分前。地下の控室。

 

モエが運動着に着替えて、壁にもたれていた。顔が白い。唇の色も薄い。

 

俺がドアを開けた時、彼女は両手を膝の上で組んでいた。指先が微かに震えているのが見えた。

 

「聞こえる。……外の空気が」

 

俺が何か言う前に、彼女が口を開いた。ドアの向こう、スタンドの方を見つめている。

 

「みんな、私を見てない。私の中にママを探してる。勝つのが当たり前みたいに思ってる。……勝つシナリオが、もう出来上がってる」

 

「気にするな。お前が走る」

 

「分かってる」

 

分かっていても、体は正直だ。壁にもたれた肩が強張っている。

 

作戦の最終確認をした。

 

「スタートは決まる。お前の脚なら間違いない。だが、行くな。前半1000メートルは死んだふりをしろ。群の中に入って、息を入れて、脚を温存する」

 

「うん」

 

「2000メートルは長い。練習では何度もここで止まった。レースでも同じことが起きる可能性がある。だからこそ、前半を殺せ」

 

「……うん」

 

「周りが先に行っても、気にするな。抜かれても構わない。お前が仕掛けるのは最後の600メートルだ。そこまで我慢できれば、お前のスピードなら届く」

 

後方待機からの直線勝負。彼女のスタミナでは、前半から出して行けば間違いなく止まる。後ろで息を潜めて、最後の直線に全てを懸ける。それしか手がない。

 

モエは膝の上の手を解いて、ゆっくりと立ち上がった。

 

「行ってきます」

 

背中は叩かなかった。触れたら、緊張の糸が切れる気がした。

 

控室のドアが閉まる音。足音が遠ざかっていく。

 

俺は一人になった控室で、壁に手をついた。

胃が重い。今朝飲んだ胃薬が全く効いていない。

 

 

 

~~

 

 

 

パドック。

 

号令がかかり、出走するウマ娘たちがステージに姿を現す。モエが出てきた瞬間、歓声が一段上がった。

 

芦毛の髪を揺らして、少し伏し目がちに立っている。パドックを取り囲む人の壁。レンズの群れ。それが全部、彼女に向いている。

 

「おい見ろよ、あの筋肉。切れる脚だな」

「歩き方も軽い。カレンチャンの再来って言われるのも分かる」

「でも今日は2000だろ? あの体で持つのか?」

「血は争えないって言うしな」

「いやいや、カレンチャンの娘だぞ。常識は通じないさ」

 

フェンスの向こうから、声が聞こえてくる。無責任な期待と、冷静な分析。それが混ざり合って、パドックの中央に立つ彼女に降り注いでいる。

 

モエの表情は硬かった。口元を引き結んで、視線は正面の一点を見つめたまま動かない。ファンに手を振る余裕はない。

 

怖がっているのではない。怒っている。

自分が自分として見てもらえないことに。

 

関係者席の最上段に、一人の男が立っていた。腕を組んで、サングラスをかけて。パパトレーナーだ。隣にカレンチャンの姿はない。自分が来れば現場が余計に混乱することを分かっているのだろう。

 

サングラスの奥の目が、こちらを見ている気がした。

 

ファンファーレが鳴る。18人のウマ娘がゲートへ向かっていく。

 

ここからは、俺にできることはない。モニターの前で見ているしかない。

 

 

 

~~

 

 

 

ゲートが開いた。

 

悪い予感は、一瞬で的中した。

 

大外枠から飛び出したモエの加速が、異常だった。他のウマ娘が一歩目を踏み出す間に、二歩、三歩と前に出ている。体が伸び上がって、地面を蹴る音が違う。

 

抑えが効いていない。

 

「行くな……」

 

呟いても届かない。俺はモニターの手すりを握りしめた。

 

ゲートが開いた瞬間、彼女の体は1200メートルを全力で走るモードに切り替わってしまっている。脳が「待て」と命じても、筋肉が先に動く。スプリンターの体が、作戦を拒否した。

 

練習では何度もペースを落とす訓練をした。控室でも確認した。「行くな」「死んだふりをしろ」「前半は殺せ」。全部言った。本人も分かっていた。分かっていたのに、体がそれを許さなかった。

 

『カレンモエ、速い! 抜群のスタートから一気に先頭へ! 迷いなくハナを奪いにいきます!』

 

実況が叫ぶ。観客が沸く。「いけー!」「さすが閃光の娘!」「逃げ切れ!」

 

歓声は、どこまでも無邪気だった。

 

第1コーナーから第2コーナーへ。モエは先頭を走っている。後続との差が開いていく。5身。6身。誰もついてこない。

 

モニターの中の彼女のフォームは綺麗だった。風を切るストライド、腕の振り、上体の角度。この距離でさえなければ、完璧な走りだ。

 

1000メートル通過のラップタイムが表示された。

 

58秒2。

 

2000メートルのレースで出していいタイムじゃない。シニア級のオープン戦並みの数字を、抑えようとしながら出している。それが何を意味するか。彼女のスピードは世代トップだということ。そして、このペースで走れば残り1000メートルで必ず止まるということ。

 

向こう正面。長い直線を一人で駆けていく。後続の集団は遥か後方。独走。

 

スタンドがざわついている。このまま逃げ切るのではないか、という空気が広がっている。

 

違う。これは逃げじゃない。暴走だ。

 

第3コーナー。

 

来た。

 

モエの動きが変わった。一歩で分かる。さっきまで流れるように回転していた脚が、急に重くなる。上体が起き始める。腕の振りが小さくなる。ストライドが縮む。

 

タキオンが言った通りだ。筋繊維が悲鳴を上げている。速筋に蓄積された乳酸が限界を超えて、エネルギーの供給が途絶える。1200メートルまでは走れるが、その先は体が動かない。練習で何十回も見てきた光景と、まったく同じことが起きている。

 

『カレンモエ、ここで脚色が怪しくなった! 後続が一気に差を詰めてくる!』

 

実況の声色が変わった。興奮から困惑へ。

 

後続集団が波のように押し寄せてくる。ペースを守って走ってきた連中だ。一人、また一人とモエをかわしていく。

 

第4コーナーを回って、最後の直線。東京の長い直線。

 

ここで差し返すはずだった。ここまで脚を溜めていれば、この直線で全てを取り戻せるはずだった。だが、溜める脚など残っていない。前半で全部使い果たしてしまった。

 

モエはまだ走っていた。脚が止まりかけても、腕を振って、歯を食いしばって、前に出ようとしていた。意志だけで体を動かそうとしていた。

 

だが、意志では乳酸は消えない。酸素は増えない。

 

一人、また一人と抜かれていく。風のように過ぎていく背中。さっきまで遥か後方にいたはずの連中が、次々と視界の前に出ていく。

 

『カレンモエ、後退! 飲み込まれていきます!』

 

スタンドの空気が変わった。歓声が、ため息に変わっていく。

 

「なんだよ」「止まっちまった」「やっぱり距離か」「ダメかぁ」

 

失望の声が、パドックで浴びた期待の声と同じ数だけ聞こえてくる。

 

残り200メートル。モエはもう走っていなかった。倒れないように足を前に出しているだけだ。顔を上げる力も残っていない。

 

ゴール板を通過した時、18人中16着。大差の惨敗。

 

モニターから目を離した。

タオルを一枚手に取って、地下道に向かった。

 

 

 

~~

 

 

 

地下通路。

 

勝った陣営の歓声が遠くから聞こえている。華やかな声。インタビューの準備をしているスタッフの足音。

 

俺はその喧騒から離れた場所で、壁にもたれて待っていた。

 

やがて、ふらつく足取りでモエが戻ってきた。全身から湯気が立っている。運動着は汗と泥で汚れて、きっちり結んでいた髪は乱れきっていた。

 

俺の姿を認めて、立ち止まった。

 

何も言わずにタオルをかけた。頭から。通り過ぎる他の陣営の視線から隠すように。

 

タオルの下から、掠れた声が聞こえた。

 

「……作戦、守れなくて。ごめん」

 

「俺の想定が甘かった」

 

「……ううん。体が、勝手に……。抑えようとしたのに、足が言うこと聞かなくて……」

 

肩が震え始めた。泣いているのではない。怒りだ。

 

「全部分かってたのに。行くなって、殺せって、全部言われたのに。それなのに体が——」

 

声が途切れた。タオルを押さえる手が白くなるほど握り込まれている。

 

「……悔しい」

 

「ああ」

 

「あいつらの背中を見るのが……こんなに惨めだなんて、知らなかった」

 

目が赤くなっているのがタオルの隙間から見えた。だが、涙は拭わなかった。怒りの涙は、他人が触っていいものじゃない。

 

俺はそばに立っていた。何か気の利いた言葉が出てくるわけでもなかった。ただ、通路を歩いていく他の陣営が彼女の顔を見ないよう、壁になっていた。

 

「……絢原君」

 

背後から声がかかった。振り返ると、パパトレーナーが立っていた。サングラスを外している。表情は読めない。

 

「申し訳ありません。全て私の責任です」

 

頭を下げた。

 

パパトレーナーは、うずくまる娘を見た。それから、俺を見た。

 

長い沈黙。

 

「……惨めだな」

 

静かな声だった。怒声ではない。ただ、事実を言っている。

 

「血に抗うというのは、こういうことだ」

 

ポケットからハンカチを出して、俺に投げた。

 

「汗を拭いてやれ。それが今の、お前の仕事だ」

 

それだけ言って、踵を返した。背中が通路の角に消えるまで、一度も振り返らなかった。

 

俺はハンカチを受け取って、モエの横にしゃがんだ。

 

「……ほら。顔」

 

モエがタオルの隙間から手を出して、ハンカチを受け取った。自分で拭いた。俺に拭かせるつもりはないらしい。

 

「……パパ、怒ってた?」

 

「怒ってなかった」

 

「……それが一番きつい」

 

「ああ」

 

モエがゆっくりと立ち上がった。脚がまだ震えていたが、自分の力で立った。

 

 

 

~~

 

 

 

帰り道。

 

駅に向かう道を並んで歩いていた。夕闇が迫って、カラスの声が遠くで鳴っている。モエの目は赤かったが、涙の跡は拭き取られていた。

 

しばらく、どちらも何も言わなかった。

 

「……ニュース、見ないでね」

 

モエが前を向いたまま言った。

 

「きっと『やっぱり短距離だ』って書かれてるから。『カレンチャンの娘に2000は無謀』って。……たぶん、全部正しいよ」

 

「見ない」

 

また沈黙。信号が変わるのを待っている間、モエが口を開いた。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

「ん」

 

「私、間違ってたのかな」

 

「何がだ」

 

「全部。この距離に出たことも、ティアラを目指すって決めたことも。……みんな正しかったのかな。タキオンさんも、バクシンオーさんも、パパも」

 

信号が青に変わった。歩き出す。

 

俺はウマホを取り出して、レースのデータを開いた。

 

「前半1000メートルのラップ。58秒2」

 

「……うん」

 

「これはシニア級のオープン戦並みのタイムだ。しかもお前は抑えようとしてこれを出した。抑えきれなかったのは事実だが、逆に言えば、この速度を持っているウマ娘はこのメンバーの中にお前しかいない」

 

モエが画面を覗き込んだ。数字が並んでいる。前半と後半のラップの落差。それは残酷な証拠であると同時に、彼女のスピードの証明でもある。

 

「問題はスタミナの絶対量じゃない。制御だ。お前の体は、ゲートが開いた瞬間に1200メートルモードに切り替わってしまう。それを抑える方法を見つければ、状況は変わる」

 

「……見つかるの、そんなもの」

 

「分からない。だが、今日のデータはタキオンに渡す。あいつなら何か仮説を立てるだろう。練習メニューも組み直す」

 

根拠のある言葉と、ハッタリが混じっている。でも嘘は言っていない。

 

モエは少し黙って歩いていた。足取りはまだ重い。さっきまで2000メートルを走った脚が、まだ悲鳴を上げているのだろう。

 

「……トレーナー」

 

「ん」

 

「一つだけ聞いていい?」

 

「何だ」

 

「前半の、あの1000メートル。……私、速かった?」

 

「速かった」

 

即答した。嘘じゃない。あの1000メートルは、新人のメイクデビューで出していいタイムではなかった。異常な数字だった。

 

「そっか」

 

モエが、ほんの少しだけ顔を上げた。

 

「……じゃあ、まだやれることはあるんだ」

 

「ある。ただし、今日みたいな目に何度も遭うことになる」

 

「分かってる」

 

「次も2000で出す。同じ距離に挑まなきゃ意味がない」

 

「……うん」

 

歩幅が、少しだけ早くなった。

 

「……逃げないよ。ここで辞めたら、本当にただのママの娘で終わる。それだけは嫌」

 

空に一番星が出ていた。見上げる余裕はまだない。二人とも前を向いて歩いていた。

 

未勝利戦。次もまた、同じ距離に挑む。

 

地獄はまだ始まったばかりだ。

 




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