アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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39話 オークス・終

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

第三コーナーから第四コーナーへ。

 

私の体は、もう、レースをするものではなくなっていた。

 

足が、前に出ない。脳からの命令が、筋肉に届く前に霧散している。ワイヤーが切れた操り人形のように、膝が崩れ落ちそうになる。それを、意志だけで支えている。

 

ブチブチ、と。

 

太ももの裏で、筋繊維が悲鳴を上げて千切れていく音が聞こえた。骨伝導で鼓膜に響く。

 

「っ……、ぐぅ……ッ!?」

 

遅れてやってきた激痛が、堰を切ったように押し寄せてくる。肺の中は、空気を吸っているはずなのに、熱い鉛を流し込まれているように焼けている。喉の奥から、鉄錆の味。毛細血管が、破裂している。

 

視界が急速に狭まる。鮮やかだったターフの緑色が、色あせたモノクロームへ変色していく。視野狭窄。脳が、生命維持に不要な機能を次々とシャットダウンしているのだ。

 

——みえない……。

 

視界の中心だけがかろうじて残っている。それ以外は、真っ黒な闇に塗りつぶされていく。

 

耳鳴り。キィィィィィィンという甲高い音が、脳味噌を直接かき回すように響き、観客の歓声を塗りつぶしていく。

 

——止まる。

 

エンジンが焼き付いた。燃料タンクが空になった。私の体は、強制終了しようとしている。

 

重い。一歩進むたびに、泥沼に沈んでいくような感覚。

 

『モエ!』

 

また、あの声がした。今度は幻影じゃない。私の脳内に残っている、最後の防衛本能の警報だ。

 

『もうダメ! 止まって! これ以上は壊れちゃう!』

『鏡を見て! なんて顔をしてるの!?』

『涎が出て、白目を剥いて、鬼みたいだよ!』

『カワイくないよ! こんなボロボロな姿、みんなに見せちゃダメ!』

『こんなの、カレンチャン(ママ)の娘じゃない!』

 

うるさい。

 

うるさい、うるさい、うるさい!

 

私は、動かない足を無理やり持ち上げた。フォームなんてめちゃくちゃだ。スプリンターの美しい走りなんて、見る影もない。ただ、這うように、もがくように。泥水をすするように。

 

——見て、ママ。

 

私は心の中で叫んだ。意識が飛びそうな中で、必死に自分を保つ。

 

——これが、私だよ。

 

カワイくない? 知ってるよ。ボロボロ? 上等だよ。涎まみれで、鼻水を垂らして、苦悶に顔を歪めて。

 

私は今、世界で一番醜い。世界で一番無様だ。アイドルの欠片もない。

 

だからこそ。

 

——ここに、『カレンチャン』はいない。

 

今、この瞬間。私が、私の中のママを殺したんだ。この醜さこそが、私がカレンチャンではないという証明だ。この痛みこそが、私が私であるという証だ。

 

——ざまぁ、みろ。

 

私は口の端を歪めて笑った。引きつった、醜悪な笑みだっただろう。それは勝利の笑みだ。これは、私だけの勝利だ。

 

 

——The Red Ace: Daiwa Scarlet

 

第三コーナーから第四コーナーへ。

 

アタシの目の前で、その「墜落」は起きていた。

 

今まで弾丸のように飛んでいたカレンモエの背中が、ガクンと沈んだ。見えない壁に激突したかのように。

 

——終わった。

 

アタシは確信した。今度こそ、本当に()()()()()。あの異常なペースの代償。肉体が支払うべきツケが、一気に回ってきたのだ。

 

彼女のスピードが、目に見えて落ちる。ストライドが縮こまり、上体が揺れる。糸の切れた操り人形が、惰性だけで動いているような、頼りない足取り。

 

——限界ね。

 

アタシは冷徹に評価した。

 

周りのウマ娘たちが色めき立つ。「止まったぞ!」「捕まえられる!」。勝利への欲望が、集団全体を加速させる。

 

アタシは、誰よりも速く、誰よりも冷静に、アクセルを踏み込んだ。

 

——どきなさい!

 

アタシは他の有象無象を弾き飛ばす勢いで、外へと持ち出した。狙うは一点。あの黒い背中の、その先へ。

 

アタシの足が唸りを上げる。温存していたスタミナが、爆発的な推進力となって地面を蹴る。今のカレンモエとは比べ物にならない速度で、景色が流れていく。

 

ぐんぐんと近づく黒い影。さっきまではあんなに遠かった背中が、今は手の届く距離にある。

 

見える。彼女の姿が、鮮明に見える。

 

酷い有様だった。勝負服は汗と泥で汚れ、髪は振り乱れ、顔は苦痛で歪んでいる。口元からは涎が垂れ、目は焦点が合っていない。あの「クールで完璧なカレンモエ」の面影は、どこにもない。

 

——……ハッ。

 

アタシは鼻で笑った。

 

同情? するわけないでしょ。

 

だって、あいつは。

 

あんなボロボロになっても、まだ足を止めていないんだから。

 

普通なら、心が折れて歩く場面だ。芝の上に倒れ込んでもおかしくない。なのに、あいつはまだ、壊れた足で地面を蹴ろうとしている。前へ。一ミリでも前へ。

 

——……呆れたド根性ね。

 

それは、アタシが知っているどんな綺麗な走りよりも、泥臭くて、胸を打つものだった。

 

だからこそ。アタシは全力で殺す。

 

手加減して並走なんてしない。「頑張ったね」なんて声もかけない。圧倒的な速度差で、風のように抜き去る。

 

それが、パドックで彼女に告げた約束を果たす、唯一の方法。

 

——さよなら、カレンモエ。

 

アタシは彼女の横に並んだ。一瞬の交錯。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

横に、気配。熱い風。

 

——あ。

 

赤い影が、私の視界を覆い尽くす。ダイワスカーレット。ティアラ路線の女王。

 

その瞬間。

 

ふつり、と。世界から「音」が消えた。

 

私の心臓の音も、地面を抉る音も、十万人の大歓声も。すべてが真空に吸い込まれたように消え失せ、私と彼女だけの静寂が訪れる。

 

彼女は、私の方を見なかった。軽蔑も、同情も、憐憫もしない。遥か彼方にあるゴール板だけを見据えて、堂々と、美しく、駆け抜けていく。

 

その横顔は、あまりにも強く。眩しかった。

 

——ありがとう。

 

音のない世界で、私は心の中で呟いた。

 

みんな、私を可哀想な子として見た。ママの幻影は、傷つかないように私を止めようとした。アンタだけが違った。

 

アンタだけが、私を「倒すべき敵」として認めてくれた。手加減なしの全力で、私を殺しに来てくれた。

 

パドックで「死ぬ気で来なさいよ」と告げた、あの言葉を、ちゃんと果たしに来てくれた。

 

——本気で踏み潰してくれて、ありがとう。

 

その殺意だけが、私のちっぽけなプライドを救ってくれたんだよ。

 

スゥッ、と。赤い背中が前に出る。彼女の背中が私の前にハッキリと映った瞬間、堰を切ったように「現実」が戻ってきた。

 

ドワァァァァァァッ!!

 

鼓膜を突き破るような大歓声。風切り音。地面を叩く激しい音。

 

私の「大逃げ」という魔法が解け、現実という暴力的な音が、容赦なく私を打ちのめす。

 

ドドドドドッ!!

 

スカーレットに続いて、後続の集団が殺到してくる。ピンク、青、緑、黄色。色とりどりの勝負服が、私を飲み込んでいく。

 

「邪魔だ!」「どけ!」

 

誰かの怒声。私の被害妄想かもしれない。彼女たちは私を単なる障害物として処理し、見向きもせずに前へと進んでいく。

 

私は、濁流の中の小石のように、揉まれ、弾かれ、後方へと置き去りにされる。

 

景色が遠のく。歓声が遠のく。私の周りだけ、時間が止まっているみたいだ。

 

——終わった。

 

何も残らなかった。記録も、勝利も、プライドも。ただ、壊れた体と、空っぽの心だけ。

 

私は、フラフラとよろめきながら、それでも足を前に出した。

 

なぜ、動いているんだろう。ゴールなんて、もう意味がないのに。私は負けたんだ。「カレンチャンの娘」という煌びやかな看板を叩き割って、中から出てきたのは、こんなにも空っぽで、惨めな敗北者だった。

 

——寒い。

 

初夏の陽射しが降り注いでいるはずなのに、体の芯が凍りついたように寒い。周りの景色が、私を拒絶しているように感じる。誰か。誰か、私を見て。違う。見ないで。こんな醜い私を、誰も見ないで。

 

矛盾した感情が、涙となって溢れ出しそうになる。一人ぼっちだ。本当に、世界でたった一人になってしまった。

 

……違う。一人じゃない。

 

約束した。あの人だけは、約束してくれた。

 

『たとえゴール板の先で力尽きても、俺が必ず受け止める』

 

会見が終わった後の廊下で、絢原さんが言ってくれた言葉。私の手の上に、自分の手を重ねて、確かにそう告げてくれた。

 

その言葉だけが、凍りついた心臓を、わずかに温めている。世界中が私を捨てても、あの人だけは、この泥だらけの残骸(わたし)を拾ってくれる。

 

——とれーなー。

 

名前を呼ぶ。声に出ているのか、心の中だけなのかも分からない。

 

——とれーなー……。とれーなー……っ。

 

パパも、ママも、ファンのみんなも。もう、私のことなんて見ていない。壊れたおもちゃに用はない。

 

それでも、あの人だけは。あの人だけは、待っていてくれると言った。地獄の底で、灰になった私を拾ってくれると言った。

 

——会いたい。

 

栄光なんていらない。カレンチャンの娘という肩書きも、もういらない。

 

今のボロボロで、醜くて、空っぽになった私を許してくれる場所は、世界中で彼の隣しかない。

 

——とれーなー!

 

私は、(すが)るようにその名前を繰り返した。それだけが、今の私を動かす唯一の燃料。それだけが、暗闇の中で光る、たった一つの灯台。

 

ゴールしなきゃ。終わらせなきゃ。トレーナーが待っている場所まで、たどり着かなきゃ。

 

それは、レースというよりは、長い長い旅路の終わりのようだった。

 

 

——Trainer: Ayahara

 

俺は、一度も声を上げなかった。

 

「頑張れ」とも、「走れ」とも叫ばない。叫んだところで、今の彼女には届かないし、それはトレーナーのエゴでしかない。

 

俺はただ、手すりが歪むほど強く握りしめ、瞬きもせずにその光景を網膜に焼き付けていた。

 

先頭集団から脱落し、集団に飲み込まれ、後方へと吐き出される小さな黒い点。泥だらけになり、足をもつれさせながら、それでもまだ動いている。

 

周囲の観客が、目を背けるようにざわめいている。「見ていられない」「もう止めてやれ」。無責任な善意が、また彼女を殺そうとしている。

 

俺だけは目を逸らさない。

 

——俺は、ここにいるぞ。

 

心の中で、何度も繰り返す。

 

お前が栄光を掴めなくても。世界中がお前を嘲笑い、あるいは憐れんでも。俺だけは、お前のその「無様な最期」を、一秒たりとも見逃さない。

 

それが、お前を(そそのか)し、地獄へ突き落とした共犯者の義務だ。

 

先輩から託された、娘の介錯人としての役目。あの夜、雨の中で頭を下げられた、伝説のトレーナーの依頼。

 

——あいつを、オークスという処刑台まで、連れて行ってやってくれ。

 

俺は、その依頼を引き受けた。

 

ならば、最後まで、見届ける。

 

——帰ってこい、モエ。

 

ゴール板の向こう側。全てが終わるその場所で、俺は一番最初に彼女を受け止める。その準備だけをして、俺は静かに待ち続けた。

 

 

——Live: Announcer

 

『カレンモエ、捕まった! ダイワスカーレット、一気に抜き去ったーーッ!!』

 

実況アナウンサーの声が、再び熱を帯びる。

 

『やはり止まった! 夢の逃亡劇、ここで終演! 大欅の向こうで、カレンモエ失速! 飲み込まれる! 集団に飲み込まれていく!』

 

スタンドからは、悲鳴と歓声が入り混じった異様な音が響く。カレンモエの健闘を称える声などない。勝負の世界において、敗者はただ消えゆくのみ。観客の視線は、既に新しい主役——先頭を独走するダイワスカーレットへと移っている。

 

『先頭はダイワスカーレット! 強い! 桜の女王の意地! これが女王の走りだ! 二番手にサカマキリバー! カレンモエは——カレンモエはもう画面に映りません! ズルズルと後退! 完全に圏外へ去りました!』

 

カメラが切り替わる。映し出されるのは、鮮やかな逆転劇。画面の端に見切れるように、泥だらけになって千切れていく黒い点。

 

それは、あまりにも残酷な対比だった。勝者の光と、敗者の闇。

 

 

——The Alchemist: Agnes Tachyon

 

「……ふぅ」

 

タキオンは、双眼鏡を下ろした。レンズ越しに見ていた光景は、終わりを迎えた。物理法則は守られた。

 

「……計算通りだ」

 

彼女は独りごちた。感情の篭らない、乾いた声。

 

周りの観客は、スカーレットの独走に沸いている。タキオンはコースに背を向け、出口へと歩き出した。

 

振り返ることはなかった。

 

誰もいない通路の影に入った瞬間。彼女は立ち止まった。

 

「……ッ」

 

口元を手で覆い、肩を震わせる。

 

その背中は、傍目には、嗚咽を噛み殺しているかのように見えただろう。実験の失敗を悔やんでいるか、見届けた少女の崩壊に耐えかねているか、と。

 

「……ッ……」

 

彼女は誰にもその表情を見せることなく、闇の中へと消えていった。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

直線。長い。長い。終わらない。

 

私の前には、十七人の背中がある。みんな、豆粒みたいに小さくなって、消えてしまった。

 

ターフビジョンが眩しい。誰かが、手を上げている。誰かが、叫んでいる。誰かが、笑っている。

 

——うる、さい。

 

音が、耳の中でグワングワンと反響する。歓声なのか、耳鳴りなのか、私の壊れた呼吸音なのか、区別がつかない。

 

足が、動かない。地面を蹴っている感覚がない。自分の足が、肉の塊を引きずっているみたいだ。一歩進むたびに、視界が白く明滅する。

 

『……あ……』

『……』

 

柵の向こう。たくさんの顔。目が、口が、私を見ている。何かを言っている。

 

見ないで。見ないでよ。こんな、汚いものを。

 

私は首を垂れた。アスファルトにへばりつくゴミみたいに、地面だけを見る。涙なのか、汗なのか、涎なのか。ぐちゃぐちゃになった液体が、視界を塞いでいく。

 

——どこ?

 

ゴールはどこ? 終わりはどこ?

 

——とれー、なー。

 

いない。まだ、いない。もっと先。もっと、遠く。

 

私は、壊れた人形のように、ガクガクと足を運んだ。思考はもう、白い霧の中へ溶けて消えそうだ。

 

ただ、一つだけ。

 

あの人が待っている場所まで。この肉塊を運ばなきゃいけない。

 

それだけの執念が、死んだはずの体を動かしている。

 

遠くで、誰かを祝福するファンファーレが鳴っている気がした。それは私の世界とは関係のない、別の惑星の出来事だった。




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