——Anti-Hero: Curren Moe
第三コーナーから第四コーナーへ。
私の体は、もう、レースをするものではなくなっていた。
足が、前に出ない。脳からの命令が、筋肉に届く前に霧散している。ワイヤーが切れた操り人形のように、膝が崩れ落ちそうになる。それを、意志だけで支えている。
ブチブチ、と。
太ももの裏で、筋繊維が悲鳴を上げて千切れていく音が聞こえた。骨伝導で鼓膜に響く。
「っ……、ぐぅ……ッ!?」
遅れてやってきた激痛が、堰を切ったように押し寄せてくる。肺の中は、空気を吸っているはずなのに、熱い鉛を流し込まれているように焼けている。喉の奥から、鉄錆の味。毛細血管が、破裂している。
視界が急速に狭まる。鮮やかだったターフの緑色が、色あせたモノクロームへ変色していく。視野狭窄。脳が、生命維持に不要な機能を次々とシャットダウンしているのだ。
——みえない……。
視界の中心だけがかろうじて残っている。それ以外は、真っ黒な闇に塗りつぶされていく。
耳鳴り。キィィィィィィンという甲高い音が、脳味噌を直接かき回すように響き、観客の歓声を塗りつぶしていく。
——止まる。
エンジンが焼き付いた。燃料タンクが空になった。私の体は、強制終了しようとしている。
重い。一歩進むたびに、泥沼に沈んでいくような感覚。
『モエ!』
また、あの声がした。今度は幻影じゃない。私の脳内に残っている、最後の防衛本能の警報だ。
『もうダメ! 止まって! これ以上は壊れちゃう!』
『鏡を見て! なんて顔をしてるの!?』
『涎が出て、白目を剥いて、鬼みたいだよ!』
『カワイくないよ! こんなボロボロな姿、みんなに見せちゃダメ!』
『こんなの、
うるさい。
うるさい、うるさい、うるさい!
私は、動かない足を無理やり持ち上げた。フォームなんてめちゃくちゃだ。スプリンターの美しい走りなんて、見る影もない。ただ、這うように、もがくように。泥水をすするように。
——見て、ママ。
私は心の中で叫んだ。意識が飛びそうな中で、必死に自分を保つ。
——これが、私だよ。
カワイくない? 知ってるよ。ボロボロ? 上等だよ。涎まみれで、鼻水を垂らして、苦悶に顔を歪めて。
私は今、世界で一番醜い。世界で一番無様だ。アイドルの欠片もない。
だからこそ。
——ここに、『カレンチャン』はいない。
今、この瞬間。私が、私の中のママを殺したんだ。この醜さこそが、私がカレンチャンではないという証明だ。この痛みこそが、私が私であるという証だ。
——ざまぁ、みろ。
私は口の端を歪めて笑った。引きつった、醜悪な笑みだっただろう。それは勝利の笑みだ。これは、私だけの勝利だ。
~
——The Red Ace: Daiwa Scarlet
第三コーナーから第四コーナーへ。
アタシの目の前で、その「墜落」は起きていた。
今まで弾丸のように飛んでいたカレンモエの背中が、ガクンと沈んだ。見えない壁に激突したかのように。
——終わった。
アタシは確信した。今度こそ、本当に
彼女のスピードが、目に見えて落ちる。ストライドが縮こまり、上体が揺れる。糸の切れた操り人形が、惰性だけで動いているような、頼りない足取り。
——限界ね。
アタシは冷徹に評価した。
周りのウマ娘たちが色めき立つ。「止まったぞ!」「捕まえられる!」。勝利への欲望が、集団全体を加速させる。
アタシは、誰よりも速く、誰よりも冷静に、アクセルを踏み込んだ。
——どきなさい!
アタシは他の有象無象を弾き飛ばす勢いで、外へと持ち出した。狙うは一点。あの黒い背中の、その先へ。
アタシの足が唸りを上げる。温存していたスタミナが、爆発的な推進力となって地面を蹴る。今のカレンモエとは比べ物にならない速度で、景色が流れていく。
ぐんぐんと近づく黒い影。さっきまではあんなに遠かった背中が、今は手の届く距離にある。
見える。彼女の姿が、鮮明に見える。
酷い有様だった。勝負服は汗と泥で汚れ、髪は振り乱れ、顔は苦痛で歪んでいる。口元からは涎が垂れ、目は焦点が合っていない。あの「クールで完璧なカレンモエ」の面影は、どこにもない。
——……ハッ。
アタシは鼻で笑った。
同情? するわけないでしょ。
だって、あいつは。
あんなボロボロになっても、まだ足を止めていないんだから。
普通なら、心が折れて歩く場面だ。芝の上に倒れ込んでもおかしくない。なのに、あいつはまだ、壊れた足で地面を蹴ろうとしている。前へ。一ミリでも前へ。
——……呆れたド根性ね。
それは、アタシが知っているどんな綺麗な走りよりも、泥臭くて、胸を打つものだった。
だからこそ。アタシは全力で殺す。
手加減して並走なんてしない。「頑張ったね」なんて声もかけない。圧倒的な速度差で、風のように抜き去る。
それが、パドックで彼女に告げた約束を果たす、唯一の方法。
——さよなら、カレンモエ。
アタシは彼女の横に並んだ。一瞬の交錯。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
横に、気配。熱い風。
——あ。
赤い影が、私の視界を覆い尽くす。ダイワスカーレット。ティアラ路線の女王。
その瞬間。
ふつり、と。世界から「音」が消えた。
私の心臓の音も、地面を抉る音も、十万人の大歓声も。すべてが真空に吸い込まれたように消え失せ、私と彼女だけの静寂が訪れる。
彼女は、私の方を見なかった。軽蔑も、同情も、憐憫もしない。遥か彼方にあるゴール板だけを見据えて、堂々と、美しく、駆け抜けていく。
その横顔は、あまりにも強く。眩しかった。
——ありがとう。
音のない世界で、私は心の中で呟いた。
みんな、私を可哀想な子として見た。ママの幻影は、傷つかないように私を止めようとした。アンタだけが違った。
アンタだけが、私を「倒すべき敵」として認めてくれた。手加減なしの全力で、私を殺しに来てくれた。
パドックで「死ぬ気で来なさいよ」と告げた、あの言葉を、ちゃんと果たしに来てくれた。
——本気で踏み潰してくれて、ありがとう。
その殺意だけが、私のちっぽけなプライドを救ってくれたんだよ。
スゥッ、と。赤い背中が前に出る。彼女の背中が私の前にハッキリと映った瞬間、堰を切ったように「現実」が戻ってきた。
ドワァァァァァァッ!!
鼓膜を突き破るような大歓声。風切り音。地面を叩く激しい音。
私の「大逃げ」という魔法が解け、現実という暴力的な音が、容赦なく私を打ちのめす。
ドドドドドッ!!
スカーレットに続いて、後続の集団が殺到してくる。ピンク、青、緑、黄色。色とりどりの勝負服が、私を飲み込んでいく。
「邪魔だ!」「どけ!」
誰かの怒声。私の被害妄想かもしれない。彼女たちは私を単なる障害物として処理し、見向きもせずに前へと進んでいく。
私は、濁流の中の小石のように、揉まれ、弾かれ、後方へと置き去りにされる。
景色が遠のく。歓声が遠のく。私の周りだけ、時間が止まっているみたいだ。
——終わった。
何も残らなかった。記録も、勝利も、プライドも。ただ、壊れた体と、空っぽの心だけ。
私は、フラフラとよろめきながら、それでも足を前に出した。
なぜ、動いているんだろう。ゴールなんて、もう意味がないのに。私は負けたんだ。「カレンチャンの娘」という煌びやかな看板を叩き割って、中から出てきたのは、こんなにも空っぽで、惨めな敗北者だった。
——寒い。
初夏の陽射しが降り注いでいるはずなのに、体の芯が凍りついたように寒い。周りの景色が、私を拒絶しているように感じる。誰か。誰か、私を見て。違う。見ないで。こんな醜い私を、誰も見ないで。
矛盾した感情が、涙となって溢れ出しそうになる。一人ぼっちだ。本当に、世界でたった一人になってしまった。
……違う。一人じゃない。
約束した。あの人だけは、約束してくれた。
『たとえゴール板の先で力尽きても、俺が必ず受け止める』
会見が終わった後の廊下で、絢原さんが言ってくれた言葉。私の手の上に、自分の手を重ねて、確かにそう告げてくれた。
その言葉だけが、凍りついた心臓を、わずかに温めている。世界中が私を捨てても、あの人だけは、この泥だらけの
——とれーなー。
名前を呼ぶ。声に出ているのか、心の中だけなのかも分からない。
——とれーなー……。とれーなー……っ。
パパも、ママも、ファンのみんなも。もう、私のことなんて見ていない。壊れたおもちゃに用はない。
それでも、あの人だけは。あの人だけは、待っていてくれると言った。地獄の底で、灰になった私を拾ってくれると言った。
——会いたい。
栄光なんていらない。カレンチャンの娘という肩書きも、もういらない。
今のボロボロで、醜くて、空っぽになった私を許してくれる場所は、世界中で彼の隣しかない。
——とれーなー!
私は、
ゴールしなきゃ。終わらせなきゃ。トレーナーが待っている場所まで、たどり着かなきゃ。
それは、レースというよりは、長い長い旅路の終わりのようだった。
~
——Trainer: Ayahara
俺は、一度も声を上げなかった。
「頑張れ」とも、「走れ」とも叫ばない。叫んだところで、今の彼女には届かないし、それはトレーナーのエゴでしかない。
俺はただ、手すりが歪むほど強く握りしめ、瞬きもせずにその光景を網膜に焼き付けていた。
先頭集団から脱落し、集団に飲み込まれ、後方へと吐き出される小さな黒い点。泥だらけになり、足をもつれさせながら、それでもまだ動いている。
周囲の観客が、目を背けるようにざわめいている。「見ていられない」「もう止めてやれ」。無責任な善意が、また彼女を殺そうとしている。
俺だけは目を逸らさない。
——俺は、ここにいるぞ。
心の中で、何度も繰り返す。
お前が栄光を掴めなくても。世界中がお前を嘲笑い、あるいは憐れんでも。俺だけは、お前のその「無様な最期」を、一秒たりとも見逃さない。
それが、お前を
先輩から託された、娘の介錯人としての役目。あの夜、雨の中で頭を下げられた、伝説のトレーナーの依頼。
——あいつを、オークスという処刑台まで、連れて行ってやってくれ。
俺は、その依頼を引き受けた。
ならば、最後まで、見届ける。
——帰ってこい、モエ。
ゴール板の向こう側。全てが終わるその場所で、俺は一番最初に彼女を受け止める。その準備だけをして、俺は静かに待ち続けた。
~
——Live: Announcer
『カレンモエ、捕まった! ダイワスカーレット、一気に抜き去ったーーッ!!』
実況アナウンサーの声が、再び熱を帯びる。
『やはり止まった! 夢の逃亡劇、ここで終演! 大欅の向こうで、カレンモエ失速! 飲み込まれる! 集団に飲み込まれていく!』
スタンドからは、悲鳴と歓声が入り混じった異様な音が響く。カレンモエの健闘を称える声などない。勝負の世界において、敗者はただ消えゆくのみ。観客の視線は、既に新しい主役——先頭を独走するダイワスカーレットへと移っている。
『先頭はダイワスカーレット! 強い! 桜の女王の意地! これが女王の走りだ! 二番手にサカマキリバー! カレンモエは——カレンモエはもう画面に映りません! ズルズルと後退! 完全に圏外へ去りました!』
カメラが切り替わる。映し出されるのは、鮮やかな逆転劇。画面の端に見切れるように、泥だらけになって千切れていく黒い点。
それは、あまりにも残酷な対比だった。勝者の光と、敗者の闇。
~
——The Alchemist: Agnes Tachyon
「……ふぅ」
タキオンは、双眼鏡を下ろした。レンズ越しに見ていた光景は、終わりを迎えた。物理法則は守られた。
「……計算通りだ」
彼女は独りごちた。感情の篭らない、乾いた声。
周りの観客は、スカーレットの独走に沸いている。タキオンはコースに背を向け、出口へと歩き出した。
振り返ることはなかった。
誰もいない通路の影に入った瞬間。彼女は立ち止まった。
「……ッ」
口元を手で覆い、肩を震わせる。
その背中は、傍目には、嗚咽を噛み殺しているかのように見えただろう。実験の失敗を悔やんでいるか、見届けた少女の崩壊に耐えかねているか、と。
「……ッ……」
彼女は誰にもその表情を見せることなく、闇の中へと消えていった。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
直線。長い。長い。終わらない。
私の前には、十七人の背中がある。みんな、豆粒みたいに小さくなって、消えてしまった。
ターフビジョンが眩しい。誰かが、手を上げている。誰かが、叫んでいる。誰かが、笑っている。
——うる、さい。
音が、耳の中でグワングワンと反響する。歓声なのか、耳鳴りなのか、私の壊れた呼吸音なのか、区別がつかない。
足が、動かない。地面を蹴っている感覚がない。自分の足が、肉の塊を引きずっているみたいだ。一歩進むたびに、視界が白く明滅する。
『……あ……』
『……』
柵の向こう。たくさんの顔。目が、口が、私を見ている。何かを言っている。
見ないで。見ないでよ。こんな、汚いものを。
私は首を垂れた。アスファルトにへばりつくゴミみたいに、地面だけを見る。涙なのか、汗なのか、涎なのか。ぐちゃぐちゃになった液体が、視界を塞いでいく。
——どこ?
ゴールはどこ? 終わりはどこ?
——とれー、なー。
いない。まだ、いない。もっと先。もっと、遠く。
私は、壊れた人形のように、ガクガクと足を運んだ。思考はもう、白い霧の中へ溶けて消えそうだ。
ただ、一つだけ。
あの人が待っている場所まで。この肉塊を運ばなきゃいけない。
それだけの執念が、死んだはずの体を動かしている。
遠くで、誰かを祝福するファンファーレが鳴っている気がした。それは私の世界とは関係のない、別の惑星の出来事だった。