アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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40話 夢の最期(おわり)

 

 

——Live: Announcer

 

『一着、ダイワスカーレット! ニ分二十五秒三! オークスレコードには届きませんでしたが、堂々たる完全勝利! 桜の女王が、樫の女王の座も手に入れました! 二冠達成です!』

 

実況アナウンサーの声が、東京レース場の空気をビリビリと震わせる。

 

スタンドは、爆発的な歓声と拍手に包まれていた。十万人の観衆が総立ちとなり、新しい時代の女王の誕生を祝福している。ターフの上では、ウイニングランを始めたダイワスカーレットが、誇らしげに右手を突き上げ、光り輝く笑顔を振りまいている。

 

それは、完璧な「光」の光景だった。誰もが夢見た、美しく、強く、気高いヒロインの勝利。

 

——けれど。

 

その熱狂の渦は、ゴール板の手前数十メートル付近だけ、ぽっかりと不自然な空白のように途切れていた。

 

レースは終わった。勝負は決した。

 

それでも、まだ終わっていない。最後の一人が、まだゴールしていないからだ。

 

 

——The General Public(大衆)

 

ターフビジョンの端。

 

華やかなウイニングランの映像が見切れたその隅に、異質なものが映り込んでいる。

 

泥と汗にまみれ、真っ黒な汚泥の塊のようになった「それ」は、千切れた糸屑のようにフラフラと、今にも崩れ落ちそうな足取りで歩を進めていた。

 

カレンモエ。

 

桜花賞をラスト二百メートルで止まり、それでもオークスに出走を強行した、十六番目の少女。

 

彼女はもう、走っていなかった。歩いているのか、地面に倒れ込むのを必死に先延ばしにしているだけなのか。その速度は、ジョギングよりも遅い。一歩進むたびに膝がガクンと折れ、上体が大きく揺れる。

 

観客たちは、どう反応していいか分からず、ただ沈黙していた。

 

さっきまでの熱狂が嘘のように、その一角だけ温度が氷点下まで下がっている。嘲笑も、罵声もない。あるのは、見てはいけないものを見てしまったという居心地の悪さと、重苦しい「憐れみ」だけ。

 

「見てられない……」

「もう止めてやれよ……」

「酷すぎる……」

 

誰かの呟きが、静寂の中にポツリと落ちた。それは、会場にいる全員の総意だった。

 

かつて「天才少女」「カレンチャンの再来」「次世代のアイドル」と持て囃された少女の、あまりにも無惨な末路。

 

スマートフォンを構えていた手が、いつの間にか下がっていた。「#カレンモエを救いたい」のタグラインを流し続けていた指は、止まっていた。

 

会見で「私が私であるための答え合わせ」と告げた少女が、答え合わせの結果としてここにいる。誰も、目を逸らせない。誰も、シャッターを切れない。

 

制限時間を告げる掲示板のタイマーが、無慈悲にカウントを刻んでいく。

 

タイムオーバー。一着から一定時間を超えてゴールした場合、一ヶ月間の出走停止などの制裁が課される。それは、ウマ娘としての能力不足を烙印づける、最も屈辱的なルール。

 

今の彼女にとって、その制裁になんの意味があるというのか。

 

「次」がある者だけが恐れるペナルティ。未来を信じている者だけが感じる屈辱。彼女の空っぽの心には、もう、一ミリも響かない。

 

それでも、彼女は止まらない。幾度もフラつき、よろめき、目に見えない鎖を引きずるように体をもがかせながら。何かに取り憑かれたように、ゴール板という一点を目指して。

 

その姿は、戦場で致命傷を負いながら故郷へ帰ろうとする兵士のようだった。

 

 

——Trainer: Ayahara

 

俺は、ゴール板のすぐ先、ターフ上のラチ沿いに立っていた。

 

桜花賞の時、俺はルールを無視してコースへ飛び出したことがある。本来ならライセンス剥奪もあり得たその行為は、緊急措置として不問に付されたが、二度目は許されない。

 

今回は理事長と、なによりモエの父親が方々に頭を下げ、裏で手を回し、運営委員会にねじ込んでくれていた。特例中の特例。

 

『カレンモエがゴールラインを通過した瞬間、あるいは停止した瞬間。直ちに保護することを許可する』

 

それはつまり、「運営側も認めた」ということだ。彼女がこのレースで()()()ことを。一定期間、走れなくなる可能性があることを。

 

俺は腕時計を見ることもなく、一点を見つめていた。胃の腑が鉛のように重い。心臓が早鐘を打っているが、不思議と頭の中は冷え切っていた。

 

——来たか。

 

俺の視界に、黒い姿が入ってきた。

 

酷い有様だった。漆黒の勝負服は、身体中から吹き出した汗が乾燥して白く塩を吹き、跳ね上げられた泥で斑模様に汚れている。手入れの行き届いていた美しい芦毛の髪は、汗と泥で固まり、海藻のように顔に張り付いている。目はうつろで焦点が合わず、口は半開きになり、制御できなくなった唾液が糸を引いて胸元を濡らしている。

 

そこに、「カワイイ」の欠片もない。アイドルとしての輝きもない。見るに堪えない、敗残者の姿。彼女のファンがここにいれば、悲鳴を上げて目を覆うだろう。

 

——それでも。

 

俺は、今まで見たどんな彼女よりも、今の姿を美しいと思った。

 

彼女は、やり遂げたのだ。あのゲートを出てから今のこの瞬間まで、一秒たりとも自分を偽らなかった。偉大な母・カレンチャンという巨大な幻影に媚びず、世間の「カワイイ」という期待に迎合せず。ただ己の命を(まき)にして、その全てを燃やし尽くした。

 

これは、彼女が初めて「自分自身」として表現した、最初で最後の作品だ。

 

ザッ……ザッ……ザッ……。

 

足音が近づく。それは地面を蹴る音というより、肉の塊が地面に落ちるような重く湿った音だった。最後の力を振り絞り、彼女がゴールラインをまたぐ。

 

『……ゴールイン』

 

場内放送が、申し訳なさそうに、ひっそりと告げた。大差の最下位。タイムオーバー。記録に残る価値すらない、完全なる敗北。

 

その瞬間。

 

彼女の体を辛うじて支えていた見えない糸が、プツリと切れた音がした。

 

ガクッ。

 

膝が逆方向に折れるように崩れる。受け身を取る力すら残っていない体は、そのまま前のめりに倒れ込む。硬い地面に顔面から叩きつけられる寸前、俺は滑り込むように彼女を真正面から受け止めた。

 

「……ッ!」

 

重い。熱い。

 

俺の腕の中に倒れ込んだ彼女の体は、炉心融解を起こした原子炉のように、異常な高熱を発していた。服の上からでも火傷しそうなほどの熱量。筋肉は痙攣し、硬直している。耳を当てずとも聞こえるほど、心臓が壊れそうな早さで脈打ち、悲鳴を上げている。

 

「……ぁ……、ぅ……」

 

モエの喉から、空気の漏れるような、うめき声とも呼べない音がした。

 

俺は彼女を抱きしめたまま、その場に膝をついた。

 

泥と汗、焦げ付いたような()の匂いが、俺の鼻腔を満たす。強烈な異臭。それは彼女が生きて戦った証だ。

 

涙は出なかった。俺の感情は、とっくの昔に許容量を超えて、ヒューズが飛んだように焼き切れていたから。彼女の背中に回した自分の手が、情けないほど震えているのを感じた。

 

壊してしまった。

 

俺が、彼女を壊したのだ。才能あるウマ娘を、俺のエゴと彼女の狂気を混ぜ合わせて、一定期間走れない状態まで使い潰した。

 

その罪の重さが、鉛のように胃の底に沈殿していく。一生、消えることのない(カルマ)

 

——それでも、後悔はない。

 

俺たちは選んだのだ。この地獄の底で、二人きりで抱き合う結末を。先輩から託された依頼を、果たした。彼女の望んだ場所まで、連れてきた。

 

「……よくやった」

 

俺は震える声で、彼女の耳元で呟いた。

 

労いの言葉ではない。共犯者としての、任務完了の確認。

 

その声が届いたのか。モエが、ゆっくりと目を開けた。焦点が合っていない。白く濁ったその瞳は、俺を見ているようで、どこか遠くの虚空を見つめている。

 

「……とれー、なー?」

 

掠れた、今にも消え入りそうな声。言葉の輪郭さえ保てない、幼子のうわ言のような響き。

 

「ああ。……ここにいる」

 

俺は彼女の泥だらけの頭を、胸に押し付けた。

 

「……」

 

彼女は、俺の腕の中で、力なく首を巡らせ、ぼんやりと空を見上げた。東京レース場の上空に広がる、突き抜けるような青空。雲ひとつない、残酷なほどの快晴。そこに、彼女が追い求めたものは何もない。

 

「……しずか、だね」

 

彼女が言った。

 

実際には、スタンドには十万人の観客がいる。スカーレットを称える大歓声が、遠雷のように轟いている。決して静かではない。耳を塞ぎたくなるほどの喧騒だ。

 

俺には彼女の言いたいことが分かった。俺たちの周りだけ見えない壁で隔てられたように、世界の音が遠い。深い水底に沈んでいるような、圧迫感のある静寂。

 

「……ああ」

 

「……なんにも、聞こえない」

 

彼女は、震える手で自分の耳に触れようとして、力がなくて諦めた。その手が、俺の腕の上にポトリと落ちる。

 

「ママの声……なんにも、聞こえないや」

 

あれほど彼女を苦しめ、追い立てていた幻聴。「もっと速く」「もっと可愛く」「いい子でいて」。偉大なる母・カレンチャンの呪縛。桜花賞のラスト二百メートルで彼女を止めた、あの「カレンチャン!」というコール。

 

その全てが、業火に焼かれて、消滅したのだ。

 

ここにあるのは、今にも消え入りそうな、彼女の浅い呼吸音だけ。

 

「……全部、置いてきたか」

 

俺が聞くと、彼女は微かに、本当に微かに笑った。それは、すべてを出し尽くして眠りに落ちる赤ん坊が、最後に浮かべるような、無垢で、安らかな表情だった。

 

「うん。……からっぽ、だ」

 

彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。悔し涙ではない。悲しみの涙でもない。器の中身が完全に空っぽになったことで、溢れ出したただの透明な水滴。

 

その涙が、泥で汚れた頬に、一本の白い線を描く。

 

「これで……」

 

彼女は、ふつりと糸が切れたように瞼を閉じた。深い、深い吐息。肺の中に残っていた最後の熱を吐き出すような、長い呼吸。

 

それは、カレンモエという少女の「一度目の人生」が終わる音だった。

 

俺は彼女を強く抱きしめた。この腕の中にあるのは、もう「カレンチャンの娘」ではない。ただの燃えカス。名前のない、灰の塊だ。

 

「……おやすみ、モエ」

 

俺は彼女を背負い上げた。意識を失った彼女の体は、ずっしりと重く、壊れ物のように脆い。

 

担架を持った救護班が駆け寄ってくるのが見えた。俺は首を横に振って拒絶した。

 

担架なんていらない。

 

俺が連れて帰る。

 

地獄の底から、彼女を地上へ戻すのは、共犯者である俺だけの役目だ。

 

 

——The Red Ace: Daiwa Scarlet

 

ウイニングランの途中。

 

アタシは足を止めて、ターフビジョンを見上げた。

 

そこには、トレーナーに背負われて地下バ道へ消えていく、小さくてボロボロの背中が映っていた。

 

場内は妙な空気になっている。沸き立つもの、静まるもの。アタシの勝利を祝うムードは、あいつの「死」によって水を差された形になった。観客たちの多くは、敗者の悲劇に心を痛めるよりも、勝利の美酒に酔うことを選択した。

 

——……最後まで、迷惑なヤツ。

 

アタシは悪態をついた。せっかくの二冠達成、女王の戴冠式だというのに。あいつは、最下位になることで、アタシから「主役」の座を半分奪っていった。記録には残らないかもしれないが、今日の観客の記憶に深く刻まれたのは、アタシの勝利と同じくらい、あいつの破滅的な走りだろう。

 

——……でも。

 

アタシは、その消えゆく背中に向かって、心の中でだけ敬礼した。

 

勝負はアタシの勝ちだ。レースとしても、アタシの完勝。あいつの走りは、愚かで、無意味で、生産性のない自滅だった。アスリートとして褒められたものではない。

 

——けれど。

 

その「無意味」を、命を賭けて貫き通した生き様だけは、認めざるを得ない。

 

パドックで「死ぬ気で来なさいよ」と告げた。あいつは、その言葉を、ちゃんと受け取って、走り切った。アタシが望んだ通りの、敵としての最期を、果たして見せた。

 

アタシにはできない。誰も真似できない。あいつだけの、狂った美学。

 

——さよなら。カレンチャンの亡霊(カレンモエ)

 

アタシは拳を握り直し、前を向いた。

 

もう、後ろは振り返らない。アタシは、光の道を歩く。あいつが選んだ闇の道とは、もう二度と交わることはないだろう。

 

——今度、もし会えたなら。

 

その時は、トリプルティアラの報告でもしてあげるわ。

 

女王は、高らかに右手を突き上げた。観客たちが、ようやく呪縛が解けたように歓声を上げる。

 

祭りは終わった。勝者は光の中へ。敗者は闇の中へ。それが、この世界の絶対的なルール。

 

 

——Epilogue

 

こうして。

 

カレンモエの無謀な挑戦は、幕を閉じた。

 

オークス、最下位。タイムオーバー。その記録は、かつての天才少女の経歴(キャリア)に、消えない汚点として刻まれた。

 

「カレンチャンの再来」という夢は、初夏の風と共に散った。

 

ニュースは一斉に彼女の敗北と、無謀なローテーションを批判するだろう。人々は彼女を憐れみ、同情し、そして「可哀想な子だった」と消費して、やがて忘れていくだろう。

 

残酷なほどに、時は流れる。次のレースが始まれば、新しいヒロインが生まれ、敗者は過去の遺物となる。レースとは、そういうものだ。

 

地下バ道の奥深く。薄暗いコンクリートの通路を、一組の影が進んでいく。トレーナーの背中で、ぐったりとした少女の手が、力なく揺れている。その指先には、もう何も掴んでいない。

 

夢も、希望も。全てはターフの上に置き去りにされた。

 

これにて、自身の血脈と才能に反逆し続けた物語は、終わりを迎える。

 

奇跡は起きなかった。祈りは届かなかった。春の嵐は過ぎ去り、世界はまた、何事もなかったかのように残酷な日常へと戻っていく。

 

残されたのは、燃え尽きた灰と、静寂だけ。灰は、もう燃えない。

 

カレンモエという少女が、己の運命に抗い、傷つき、それでも走り続けた季節は、ここで永遠に失われた。

 

夢は、醒めたのだ。

 

彼女が再び、その脚で夢を見ることは——もう、二度とない。

 

「——などと、思っているのだろうね」




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