41話 白い箱庭
目が覚めた。
白い天井。
風に揺れる、薄いカーテン。
消毒液の匂い。
……病院だ。
しばらく、天井を見ていた。
思考がうまく回らない。頭の中に綿が詰まっているみたいに、重い。
窓の外から、鳥の声がする。
遠くで車の音がする。
どこかの部屋から、看護師さんの声が聞こえる。
静かだ。
あの日の音は、もう聞こえない。
歓声も、実況も、自分の心臓が破裂しそうな音も。
全部、消えている。
体を動かそうとした。
全身が重い。鉛みたいに重い。指先一本動かすのが、ものすごく億劫。
視線を下に落とす。
布団の下。私の脚。
……見るのが怖い。
怖いけど、見た。
布団を少しだけ捲る。
包帯だらけだった。
足首から太ももまで、ぐるぐる巻き。添え木。チューブ。冷却材。
自分の脚なのに、自分のものじゃないみたいに重くて、痺れていて、動かない。
……すごいことになってる。
普通なら、泣くところなのかもしれない。
走れなくなったらどうしよう、って。
でも。
胸に浮かんだのは、安堵だった。
壊れたんだ。
当たり前だ。あんな走り方をしたんだから。
2400メートルをスプリントの走法で。
体が壊れない方がおかしい。
……よかった。
もう、走らなくていい。
カレンチャンの娘として、誰かの期待を背負って、この脚をすり減らす必要はない。
勝たなきゃいけない。速くなきゃいけない。
全部、終わった。
体から力が抜けていく。
鎧を脱いだ、みたいな感覚。
窓からの日差しが、温かかった。
「……目が覚めたか」
横から声がした。
首だけ動かす。
ベッドの脇のパイプ椅子に、絢原さんが座っていた。文庫本を閉じて、こっちを見ている。
顔がひどい。
頬がこけて、無精髭が伸びて、目の下にクマ。
同じ服を着ている。ずっとここにいたのかもしれない。
「……トレーナー」
「ああ」
「……気分は」
「悪くないよ」
本当に、悪くない。
体は重いけど、心は嘘みたいに軽い。
「……空っぽだ」
天井を見ながら言った。
「全部、あそこに置いてきた。プライドも、見栄も、ママへの罪悪感も。全部、燃やしちゃった」
体の中に、もう何も残っていない。
灰。風が吹いたら飛んでいくような、頼りない残骸。
でも、それが心地いい。
空っぽだから、もう何も詰め込まなくていい。
「そうか」
短い。責めない。負けたとも、惜しかったとも言わない。
この人は、いつもそう。
「ねえ、トレーナー」
「なんだ」
「私、もう走れないよ」
包帯だらけの脚を見る。動かない脚。
「体も、心も。……燃料切れ」
もうゲートに入る勇気がない。
心臓が破裂しそうなプレッシャーに耐える力も、誰かと競う気力も、一滴も残っていない。
「分かっている」
絢原さんの声が、優しかった。
前みたいな、刃物みたいな鋭さがない。
「お前は十分にやった。……カレンモエの物語は、あれで完結だ」
完結。
「……そっか。終わり、なんだ」
息を吐いた。
肩の荷が下りる、なんて軽い言い方じゃ足りない。
背中に背負ってた全部が、一気に落ちた。
終わった。
私の戦争は、終わったんだ。
「……じゃあ、これからは」
窓の外を見た。
四角く切り取られた空。
「パンケーキ、食べに行きたいな」
声が出た。自分でも驚くくらい、軽い声。
「服も買いたい。黒いジャージじゃなくて、フリルがいっぱいのやつ。走るのに邪魔なやつ」
「映画も見たい。レースの研究動画じゃなくて、恋愛モノ」
「カロリーなんか気にしないで、生クリームたっぷりのクレープ食べて、胃もたれして後悔したい」
言葉が次々出てくる。
喉の奥が熱くなる。
全部、些細なこと。
普通のウマ娘なら、当たり前にやってること。
でも私には、GⅠのタイトルより遠かった。
砂糖を食べることへの罪悪感。睡眠を削ることへの恐怖。
そういう鎖が、全部外れた。
「……いいじゃないか」
絢原さんが、少しだけ目を細めた。
「全部やればいい。お前はもう自由だ」
「……うん」
信じた。信じたかった。
これで終わり。
私はただのカレンモエに戻る。この脚が治る頃には、世間も忘れてるだろう。
その忘却が、私の救済だ。
ドアが開いて、看護師さんが入ってきた。
「あら、目が覚めたんですね! よかった……!」
検温。点滴の交換。普通の病院の、普通の時間。
その間、私は絢原さんを見ていた。
椅子から立ち上がって、窓際に移動している。背中を向けている。
帰る準備だろうか。
役割が終わったから、消えるつもりだろうか。
……逃がさない。
胸の奥で、何かが灯った。
闘争心じゃない。もっと粘っこくて、甘ったるいやつ。
看護師さんが出て行った。
静かになった病室で、口を開いた。
「……ねえ、トレーナー」
「ん?」
振り返った。逆光で顔がよく見えない。
「約束、覚えてるよね」
シーツを握った。指が白くなるくらい強く。
「『灰になった私を拾う』って。『地獄の底で待ってる』って」
「…………」
「……私を壊したのは、貴方なんだから」
ひどいことを言っている。分かってる。
自分で望んで壊れたくせに、この人のせいにしている。
この人を縛り付けるために、被害者のふりをしている。
でも、しょうがない。
今の私には、この人しかいないんだから。
絢原さんが、少し目を見開いて、それから深く息を吐いた。
苦笑。諦めにも似た、共犯者の笑い方。
「……ああ。俺が拾ったんだ。責任は持つ」
「一生、だよ?」
「気が長い話だな」
「ふふ。言質、取ったからね」
満足して、枕に頭を沈めた。
もう走らない。もう戦わない。
でも、この人だけは離さない。
地獄まで付き合ってくれたんだから、これからの退屈な余生にも、ずっと付き合ってもらう。
「……それじゃあ、これからは私の介護、よろしくね」
笑ったつもりだけど、声が掠れて、うまく笑えなかった。
絢原さんが私の脚に一瞬だけ目を落として、すぐ普段の顔に戻った。
「まずはゆっくり休め。先のことは、体が治ってから考えればいい」
上着を手に取った。
「一度、寮に戻って着替えを持ってくる。何か欲しいものはあるか」
「甘いもの。すっごく甘くて、カロリーが高くて、トレーナーが絶対禁止してたやつ」
「了解。コンビニで一番毒々しいやつを買ってくる」
「ふふ、楽しみ」
背中を向けて、出て行った。
ドアが閉まる。
一人になった。
白い部屋。白い天井。窓の外の鳥の声。
布団の上から、自分の脚をそっと撫でた。
包帯の感触。動かない筋肉。
お疲れ様。もう、頑張らなくていいよ。
脚は、何も返さない。
静かなまま。
それが、嬉しかった。
ちゃんと壊れてくれた。この沈黙が、私が普通に戻れた証拠だ。
目が重くなる。
瞼を閉じた。
深くて、穏やかな眠り。