これまでの話は無かったことにしてください。
力不足で申し訳ない。
病室に、甘い匂いが充満している。
フルーツタルト。有名なお店のやつ。
絢原さんが「何が食べたい」と聞くから、一番高くて一番カロリーの高いやつを頼んだ。
フォークを入れる。サクッと生地が崩れる。カスタードクリームが果物の断面に絡む。
口に入れる。
……美味しい。
現役の時は、こんなもの食べなかった。
糖分を削って、体脂肪率を削って、コンマ一秒のために自分を削っていた。
今は好きなだけ食べられる。
指先に付いたクリームを舐めとる。
これが、戦場から降りた証拠。
カロリーを気にしないで甘いものを食べる。それだけのことが、今の私には勲章みたいなものだ。
絢原さんは、少し離れたパイプ椅子に座っている。
手元のバインダーには、リハビリの計画書と、退学手続きの書類。
「競技能力喪失」って活字で書いてある。
「……口に合ってよかった。退院後の食事制限も、お前が完全にターフから身を引くなら大幅に緩和される。好きな店のリストでも作っておけ」
声が平らだ。いつもの絢原さん。
事務的で、凪いでいて、無駄がない。
「やだ、トレーナー。そんな怖い顔して」
私はフォークを置いて、ベッドの端に身を乗り出した。
「もしかして、私がこのまま引退して、ただの可愛いウマ娘になっちゃうのが不満?」
笑ってみせる。
ちょっとだけ、甘い声で。
私はこういうことができる。
ママから受け継いだ、「見られる側」の才能。普段は嫌いだけど、今は使う。
この人を、こっちに向かせるために。
「私、もう十分すぎるくらい走ったよ。ママの影も、世間の期待も、全部燃やしちゃったし。……だからさ、これからは貴方の時間、全部私にちょうだい」
手を伸ばした。
絢原さんのシャツの袖口に指先が触れる。
離さない。
この人が私以外の何かに時間を使うのが、嫌だ。
この人は、私のために未来を捨てた。
トレーナーとしてのキャリアを、教育者としての正しい道を、全部、私のエゴに付き合って泥に沈めた。
だから、私が責任を取らなきゃいけない。
貴方が失ったものの全部を、私が埋めてあげる。
パパにも、ママにも、誰にもあげない。
この甘い匂いのする部屋の中で、ずっと、私だけのものにする。
「……ああ。お前がそれを望むなら、俺は最後まで付き合う」
絢原さんは、私の指を振り払わなかった。
「……ふふ。嬉しい」
満足して、身を引いた。
タルトの残りに視線を落とす。
最後のひと切れを口に入れる。甘い。甘くて、重くて、少しだけ眠くなる。
~~
日が経つ。
何日経ったか、正直よく分からない。
カレンダーを見れば分かるけど、見ない。日付を数えると、外の世界と繋がってしまう気がするから。
代わりに、甘いもので日を数えている。
フルーツタルトの日。シュークリームの日。チーズケーキの日。焼きプリンの日。
絢原さんは毎日来る。
朝、「来たぞ」と短く言って、パイプ椅子に座る。甘いものの入った紙袋をサイドテーブルに置く。
それから書類を広げて、何か書いている。
私はベッドの上でファッション誌をめくる。
退院したら着たい服に付箋を貼る。ピンクの付箋は「欲しい」。黄色は「ちょっと気になる」。青は「絢原さんに似合いそう」。
青の付箋は、まだ一枚も使っていない。使ったら負けな気がする。何に負けるのかは分からないけど。
昼食は病院食。薄味。文句は言わない。
午後、絢原さんが書類を広げる。退学届とか、実家への連絡とか。私の「普通のウマ娘」としての生活を整えるための、事務的な作業。
その作業を、私は見ている。
絢原さんのペンが動く。ページをめくる。タブレットの画面をスクロールする。
その全部を、ベッドの上から見ている。
見てるだけ。
でも、この人の目が書類に沈み込みすぎると、声をかける。
「ねえ、トレーナー。退院したら一緒に買い物行きたいな。私、普通のウマ娘が着るような服、全然持ってないから」
「ああ。構わないが、人目は大丈夫か。まだお前の顔は知られてる」
「……だから、トレーナーが守ってよ。私、一人じゃどこにも行けないから」
嘘じゃない。でも、本当でもない。
一人で行けないんじゃなくて、一人で行きたくないだけ。
こういう会話を、一日に何度もする。
中身は毎回違うけど、構造は同じ。
絢原さんの意識が私から離れかける→私が引き戻す。その繰り返し。
テレビは一日中つけてある。音量は小さめ。
バラエティとか、料理番組とか、当たり障りのないやつ。
レースの映像が映った瞬間、私はリモコンに手を伸ばす。
「チャンネル変えて」
「……ああ」
絢原さんは何も聞かない。チャンネルを変えてくれる。
画面が料理番組に切り替わる。誰かがオムレツを作っている。安全。
……別に、レースを見るのが怖いわけじゃない。
ただ、見る必要がない。もう私には関係のないものだから。
関係ない。
関係ない。
ウマホの通知も切った。
SNSのタイムラインには、きっとレースの話題が流れている。「○○が勝った」「○○が怪我した」。そういうのが目に入ると、せっかく閉じた扉の隙間から風が吹き込んでくる。
だから、見ない。
ウマホを開くのは、絢原さんにメッセージを送る時だけ。
『明日はモンブランがいいです』とか。
『あと、あの雑誌の最新号も』とか。
絢原さんからの返信は、いつも一行。
『了解』
『分かった』
それでいい。短くていい。返事があるだけで、この人がまだ私の側にいることが確認できるから。
~~
午後三時。看護師さんがバイタルチェックに来る。
「お加減はいかがですか?」
「おかげさまで、少しずつ良くなっています。ご心配おかけしてすみません」
百点満点の笑顔。声のトーンもばっちり。
儚げで、健気で、ちょっとだけ悲劇のヒロインっぽい感じ。
アイドルのスイッチ。
こういうのは得意だ。ずっとやってきたから。
体温計を咥えて、おとなしく腕を差し出して、「ありがとうございます」と微笑む。
看護師さんは痛ましそうな顔をして、カルテに数字を書いて、出ていく。
ドアが閉まった瞬間、顔から力が抜ける。
「……つかれた」
ベッドに転がる。
「あの人、いつも同情するみたいな目で見てくるの。嫌だなあ」
天井を見る。
「私のトレーナーは、絢原さんだけなのに」
意味の分からないことを言っている。看護師さんとトレーナーは全然関係ない。
でも、誰かが私に同情の目を向けるのが嫌で、この人以外の誰かが私の領域に入ってくるのが嫌で、その「嫌」がぜんぶ絢原さんへの「こっち見て」に変換されてしまう。
病んでるな、と思う。自分で思う。
でも、今はこれでいい。
走れない私に残されたのは、この共犯関係だけなんだから。
絢原さんは何も言わない。書類に目を落としたまま。
でも、さっき看護師さんがいる間、この人はずっと窓の方を向いていた。
私がアイドルモードを使うのを、見ないようにしていた。
……気づいてるんだろうな。私が演技してること。
でも、何も言わない。
それが、この人なりの優しさなのか、諦めなのか、分からない。
分からなくていい。
言わないでいてくれるなら、それでいい。
~~
夕方。日が傾いてきた。
昼寝から起きて、また甘いものを要求した。
今日は絢原さんが買ってきたマカロン。ピスタチオとフランボワーズ。
色が綺麗だ。薄暗くなってきた病室で、不思議に浮き上がって見える。
一つ口に入れる。ピスタチオ。甘い。ちょっとだけ塩気がある。
窓の外が、オレンジ色に染まっている。
この時間帯の病室が、一番好きかもしれない。
朝の白すぎる光でもなく、昼の退屈な明るさでもなく。
全部がぼんやりと溶けていく、境界のない時間。
「……ねえ、トレーナー」
「ん」
「私、このままここにずっといてもいいかな」
「退院の許可はもう出てる。ここに居続ける理由はない」
「そういうことじゃなくて」
マカロンをもう一つ。フランボワーズ。
「ずっと、何もしないで、トレーナーと一緒にいたい」
声が小さくなる。
夕暮れの病室で、自分の声が溶けていくのが分かる。
絢原さんは、何も言わなかった。
時計の針が動いている。
秒針の音だけが、この部屋と外の世界を繋いでいる。
外では、もうすぐダービーがある。
テレビをつけなくても知ってる。カレンダーを見なくても分かる。
去年の今頃、私はあのレースに向けて地獄みたいなトレーニングをしていた。
今は、マカロンを食べている。
見ない。知らない。関係ない。
私はもう降りたんだから。
フランボワーズが、少しだけ酸っぱかった。