アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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エタらないように頑張ります
これまでの話は無かったことにしてください。
力不足で申し訳ない。


42話 砂糖菓子の檻

病室に、甘い匂いが充満している。

 

フルーツタルト。有名なお店のやつ。

絢原さんが「何が食べたい」と聞くから、一番高くて一番カロリーの高いやつを頼んだ。

 

フォークを入れる。サクッと生地が崩れる。カスタードクリームが果物の断面に絡む。

口に入れる。

 

……美味しい。

 

現役の時は、こんなもの食べなかった。

糖分を削って、体脂肪率を削って、コンマ一秒のために自分を削っていた。

今は好きなだけ食べられる。

 

指先に付いたクリームを舐めとる。

 

これが、戦場から降りた証拠。

カロリーを気にしないで甘いものを食べる。それだけのことが、今の私には勲章みたいなものだ。

 

絢原さんは、少し離れたパイプ椅子に座っている。

手元のバインダーには、リハビリの計画書と、退学手続きの書類。

「競技能力喪失」って活字で書いてある。

 

「……口に合ってよかった。退院後の食事制限も、お前が完全にターフから身を引くなら大幅に緩和される。好きな店のリストでも作っておけ」

 

声が平らだ。いつもの絢原さん。

事務的で、凪いでいて、無駄がない。

 

「やだ、トレーナー。そんな怖い顔して」

 

私はフォークを置いて、ベッドの端に身を乗り出した。

 

「もしかして、私がこのまま引退して、ただの可愛いウマ娘になっちゃうのが不満?」

 

笑ってみせる。

ちょっとだけ、甘い声で。

 

私はこういうことができる。

ママから受け継いだ、「見られる側」の才能。普段は嫌いだけど、今は使う。

この人を、こっちに向かせるために。

 

「私、もう十分すぎるくらい走ったよ。ママの影も、世間の期待も、全部燃やしちゃったし。……だからさ、これからは貴方の時間、全部私にちょうだい」

 

手を伸ばした。

絢原さんのシャツの袖口に指先が触れる。

 

離さない。

この人が私以外の何かに時間を使うのが、嫌だ。

 

この人は、私のために未来を捨てた。

トレーナーとしてのキャリアを、教育者としての正しい道を、全部、私のエゴに付き合って泥に沈めた。

 

だから、私が責任を取らなきゃいけない。

貴方が失ったものの全部を、私が埋めてあげる。

パパにも、ママにも、誰にもあげない。

この甘い匂いのする部屋の中で、ずっと、私だけのものにする。

 

「……ああ。お前がそれを望むなら、俺は最後まで付き合う」

 

絢原さんは、私の指を振り払わなかった。

 

「……ふふ。嬉しい」

 

満足して、身を引いた。

タルトの残りに視線を落とす。

最後のひと切れを口に入れる。甘い。甘くて、重くて、少しだけ眠くなる。

 

 

 

~~

 

 

 

日が経つ。

 

何日経ったか、正直よく分からない。

カレンダーを見れば分かるけど、見ない。日付を数えると、外の世界と繋がってしまう気がするから。

 

代わりに、甘いもので日を数えている。

フルーツタルトの日。シュークリームの日。チーズケーキの日。焼きプリンの日。

 

絢原さんは毎日来る。

朝、「来たぞ」と短く言って、パイプ椅子に座る。甘いものの入った紙袋をサイドテーブルに置く。

それから書類を広げて、何か書いている。

 

私はベッドの上でファッション誌をめくる。

退院したら着たい服に付箋を貼る。ピンクの付箋は「欲しい」。黄色は「ちょっと気になる」。青は「絢原さんに似合いそう」。

青の付箋は、まだ一枚も使っていない。使ったら負けな気がする。何に負けるのかは分からないけど。

 

昼食は病院食。薄味。文句は言わない。

午後、絢原さんが書類を広げる。退学届とか、実家への連絡とか。私の「普通のウマ娘」としての生活を整えるための、事務的な作業。

 

その作業を、私は見ている。

 

絢原さんのペンが動く。ページをめくる。タブレットの画面をスクロールする。

その全部を、ベッドの上から見ている。

 

見てるだけ。

でも、この人の目が書類に沈み込みすぎると、声をかける。

 

「ねえ、トレーナー。退院したら一緒に買い物行きたいな。私、普通のウマ娘が着るような服、全然持ってないから」

 

「ああ。構わないが、人目は大丈夫か。まだお前の顔は知られてる」

 

「……だから、トレーナーが守ってよ。私、一人じゃどこにも行けないから」

 

嘘じゃない。でも、本当でもない。

一人で行けないんじゃなくて、一人で行きたくないだけ。

 

こういう会話を、一日に何度もする。

中身は毎回違うけど、構造は同じ。

絢原さんの意識が私から離れかける→私が引き戻す。その繰り返し。

 

テレビは一日中つけてある。音量は小さめ。

バラエティとか、料理番組とか、当たり障りのないやつ。

 

レースの映像が映った瞬間、私はリモコンに手を伸ばす。

 

「チャンネル変えて」

 

「……ああ」

 

絢原さんは何も聞かない。チャンネルを変えてくれる。

画面が料理番組に切り替わる。誰かがオムレツを作っている。安全。

 

……別に、レースを見るのが怖いわけじゃない。

ただ、見る必要がない。もう私には関係のないものだから。

 

関係ない。

関係ない。

 

ウマホの通知も切った。

SNSのタイムラインには、きっとレースの話題が流れている。「○○が勝った」「○○が怪我した」。そういうのが目に入ると、せっかく閉じた扉の隙間から風が吹き込んでくる。

 

だから、見ない。

 

ウマホを開くのは、絢原さんにメッセージを送る時だけ。

『明日はモンブランがいいです』とか。

『あと、あの雑誌の最新号も』とか。

 

絢原さんからの返信は、いつも一行。

『了解』

『分かった』

 

それでいい。短くていい。返事があるだけで、この人がまだ私の側にいることが確認できるから。

 

 

 

~~

 

 

 

午後三時。看護師さんがバイタルチェックに来る。

 

「お加減はいかがですか?」

 

「おかげさまで、少しずつ良くなっています。ご心配おかけしてすみません」

 

百点満点の笑顔。声のトーンもばっちり。

儚げで、健気で、ちょっとだけ悲劇のヒロインっぽい感じ。

 

アイドルのスイッチ。

こういうのは得意だ。ずっとやってきたから。

体温計を咥えて、おとなしく腕を差し出して、「ありがとうございます」と微笑む。

看護師さんは痛ましそうな顔をして、カルテに数字を書いて、出ていく。

 

ドアが閉まった瞬間、顔から力が抜ける。

 

「……つかれた」

 

ベッドに転がる。

 

「あの人、いつも同情するみたいな目で見てくるの。嫌だなあ」

 

天井を見る。

 

「私のトレーナーは、絢原さんだけなのに」

 

意味の分からないことを言っている。看護師さんとトレーナーは全然関係ない。

でも、誰かが私に同情の目を向けるのが嫌で、この人以外の誰かが私の領域に入ってくるのが嫌で、その「嫌」がぜんぶ絢原さんへの「こっち見て」に変換されてしまう。

 

病んでるな、と思う。自分で思う。

 

でも、今はこれでいい。

走れない私に残されたのは、この共犯関係だけなんだから。

 

絢原さんは何も言わない。書類に目を落としたまま。

でも、さっき看護師さんがいる間、この人はずっと窓の方を向いていた。

私がアイドルモードを使うのを、見ないようにしていた。

 

……気づいてるんだろうな。私が演技してること。

でも、何も言わない。

それが、この人なりの優しさなのか、諦めなのか、分からない。

 

分からなくていい。

言わないでいてくれるなら、それでいい。

 

 

 

~~

 

 

 

夕方。日が傾いてきた。

 

昼寝から起きて、また甘いものを要求した。

今日は絢原さんが買ってきたマカロン。ピスタチオとフランボワーズ。

色が綺麗だ。薄暗くなってきた病室で、不思議に浮き上がって見える。

 

一つ口に入れる。ピスタチオ。甘い。ちょっとだけ塩気がある。

 

窓の外が、オレンジ色に染まっている。

この時間帯の病室が、一番好きかもしれない。

朝の白すぎる光でもなく、昼の退屈な明るさでもなく。

全部がぼんやりと溶けていく、境界のない時間。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

「ん」

 

「私、このままここにずっといてもいいかな」

 

「退院の許可はもう出てる。ここに居続ける理由はない」

 

「そういうことじゃなくて」

 

マカロンをもう一つ。フランボワーズ。

 

「ずっと、何もしないで、トレーナーと一緒にいたい」

 

声が小さくなる。

夕暮れの病室で、自分の声が溶けていくのが分かる。

 

絢原さんは、何も言わなかった。

 

時計の針が動いている。

秒針の音だけが、この部屋と外の世界を繋いでいる。

 

外では、もうすぐダービーがある。

テレビをつけなくても知ってる。カレンダーを見なくても分かる。

去年の今頃、私はあのレースに向けて地獄みたいなトレーニングをしていた。

今は、マカロンを食べている。

 

見ない。知らない。関係ない。

 

私はもう降りたんだから。

 

フランボワーズが、少しだけ酸っぱかった。

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