アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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43話 震える(におい)

退院予定を数日後に控えたその日。

外界の喧騒から完全に隔絶された白い病室は、穏やかで、ひどく平和な時間の中にあった。

 

徹底的に温度と湿度が管理された無菌室。鼻腔を突く微かな消毒液の匂いは、サイドテーブルに置かれた高級な洋菓子のバターと砂糖の甘い香りに上書きされ、ここがターフという名の血生臭い戦場から最も遠い場所であることを静かに証明している。

絢原が暇つぶしにと持ち込んだ分厚いファッション誌。その光沢のあるページをめくる音が、静かな室内に心地よく響く。

シーツが眩しいベッドの上に身を起こしたカレンモエは、色彩豊かな衣服の羅列を眺めながら、年相応の明るい声を弾ませていた。

 

「ねえ見てトレーナー! これ、すっごく可愛くない? 退院したらこういうの着てみたいな。それに、この近くに新しくできたカフェの特集も載ってるの。ここを出たら、二人で行ってみようよ」

 

彼女が指差したページには、アスリート特有の鋭利な骨格や筋肉のラインを隠すような、淡いシフォン生地のワンピースが載っている。風を含んでふわりと膨らむようなそのデザインは、コンマ一秒の空気抵抗すら削ぎ落とす勝負服とは対極にある、純粋な装飾としての布切れ。

「誰よりも速く走るため」あるいは「完璧なアイドルの偶像を演じるため」「カレンチャンの幻影を振り払うため」にだけ存在していた彼女の肉体が、初めて誰かと競い合うことのない安全な場所で、ただ可愛いものを楽しむためだけに許された装いだった。

 

「お腹いっぱいパンケーキを食べて、私が夕飯の買い物をしてあげる。トレーナーは荷物持ちね!」

 

そんな「普通の女の子」としての凡庸な願望。弾むような声色と、微かに紅潮した頬。

かつて絢原を試すようにまとわりついていた、息苦しいほどの重圧と独占欲の空気はそこにはなく。ただ、重い鎖から解放された少女の、無防備に綻んだ口元だけがあった。

 

「いいんじゃないか? モエが着たいものを着て、行きたい場所へ行けばいい。もう、誰の視線も気にする必要はない。好きなだけ買えばいいさ」

 

窓際に置かれた簡素なパイプ椅子に座り、手元のタブレットで事務手続きを進めながら、絢原は視線を上げずに淡々と答える。

画面に並ぶのは、彼女の引退後の生活を保障するための無機質な数字と文字の羅列。

トレセン学園からの籍を完全に抜くための最終手続き、マスコミの目を逃れるための静かな住居の手配、今回の医療費の清算、そして「一般人」として社会に溶け込むための様々な申請書。

それを一つ一つ打ち込み、処理していく彼の指先は、機械のように正確だった。

 

モエの明るい声が病室に響くたび。彼女が普通の未来を無邪気に語るたび。

冷たい液晶を叩く絢原の指先が、ほんのわずかに滞る。

 

オークスのコース上で、彼女は「カレンチャンの娘」という重い呪縛を自ら焼き尽くし、ただのカレンモエになった。その代償として、二度とあの焦げるような熱狂の中へ戻ることはできなくなった。

一人の才能あるウマ娘の運命を捻じ曲げてしまったという事実に対する、微かな胸の痛みはある。

だが、こうして憑き物が落ちたように笑い、「普通の女の子」としての未来を楽しげに語る彼女の姿を見ていると、案外、これも悪くない結末なのかもしれないと思えた。

すべてを投げ打って彼女をあの地獄へ連れて行った共犯者として、これからはこの穏やかな日常の隣を歩き続ける。それが、今の自分にできる落とし前であり、ささやかな贖罪でもあった。

 

モエ自身も、絢原が自分のためにすべてを投げ打ってそばにいてくれるこの状況に、深く安堵しきっていた。

彼が自分の側にいる限り、彼女はただ可愛く、無邪気でいれば、彼は決して自分を見捨てない。何万という観衆の熱狂も、母カレンチャンの幻影も、もう二人の間には入り込めない。

このまま時間が止まればいい。外の世界の残酷なまでの輝きなど、二度と自分たちに届かなければいいと、本気でそう願っていた。

 

 

 

――テレビから、不意にファンファーレが鳴り響くまでは。

 

 

 

適当なバラエティ番組のCMが流れていたはずのテレビから、突如として、よく通る金管楽器の旋律が病室の空気を震わせた。

画面に映し出されているのは、初夏の強い陽光に照らされた東京レース場。

芝2400m。

同世代の、一つの頂点を決めるための、ただ一つしかない玉座。東京優駿――ダービーの出走を告げる、静寂と緊張に満ちた枠入りの光景だった。

 

「えっ……」

 

モエの指先が、ピタリと止まった。

めくろうとしていたファッション誌のページから視線を上げ、画面を食い入るように見つめる。

 

「そっか、ダービー、今日だったっけ……」

 

ぽつりと漏れたその呟きは、モエが外界とどれだけ離れていたかを如実に表していた。

絢原はタブレットを置き、少しだけモエの様子を窺う。今日がダービーの日であることは当然知っていた。かつて彼女が打ち破ったライバルたちや、鎬を削った同世代の少女たちが、己の存在意義を懸けて激突する最高峰の舞台。

とはいえ、いまの状況で一緒に見ようとは思えなかった。残酷すぎる。

 

「……今の俺たちには関係のない世界だ。 どうする?消すか?」

 

「待って」

 

テレビを消そうとリモコンへ伸ばした絢原の腕を、モエの細い声が引き止めた。

彼女はベッドから身を乗り出し、食い入るように液晶画面を見つめている。

桜花賞に出たウオッカ。当然誰もが歩むと思っていた同世代のウマ娘によるトリプルティアラ路線。それをあっさりと捨てて、舞台を中距離へと移し、より過酷で、より暴力的な熱狂が渦巻く覇道へと進路を変えた、異端の選択。

 

同世代の頂点を争うその苛烈な世界から自らは「逃げ出し」、こうして安全な檻の中でファッション誌を眺めている。その圧倒的な落差が、モエの胸の奥に奇妙なざわめきを生んだ。

 

「がんばれ、ウオッカ」

 

モエの呟きは、テレビの向こうのウオッカへ届くはずもない。

やがて、画面の向こう側で一頭のウマ娘が、静かに、だが確かな闘志を秘めてゲートへと収まっていくのが見えた。

 

ファンファーレの余韻が消える。

数万人の観衆が息を呑む一瞬の静寂の後、金属音と共にゲートが開く。

すべてのウマ娘が憧れ、そして数え切れないほどの者がその夢に破れて散っていく、残酷な2400mの死闘が幕を開けた。

 

「…………」

 

病室には、地鳴りのような大歓声と、実況アナウンサーの切迫した声だけが響き渡る。

絢原は手を下ろし、黙ってモエの横顔を見つめていた。

彼女の視線は画面に釘付けになっている。瞬きすら忘れ、その瞳の奥で、ターフを駆けるウマ娘たちの姿を反射させていた。

最初はただの驚きだった。自分とは違う選択をした同世代への、純粋な疑問。無謀な挑戦の行方を見届けようとする、傍観者としての興味。

だが、レースが中盤を過ぎ、大欅の向こう側で隊列が激しく入れ替わり始めるにつれて、モエの呼吸が微かに浅く、早くなっていく。

 

そして、レースが最終直線へと差し掛かった時。

画面から溢れ出す圧倒的な熱量が、モエの脳髄を直接殴りつけた。

 

画面の向こう側では、色鮮やかな勝負服が次々と後方へ置き去りにされていく。

荒々しい呼吸、限界を迎えた筋肉の痙攣、そして勝利への執念。それらが混ざり合い、強烈な熱気となってむせ返るような錯覚を覚えさせる。

その密集した集団を、分厚い壁を力ずくでこじ開けるようにして抜け出してきた、一頭の影があった。

 

 

 

 

さあ、いよいよ府中の長い坂を駆け上がる!

先頭は依然として譲らない、しかし大外から猛烈な足音!

来た、来た! ウオッカだ!

桜花賞からの挑戦!ティアラ路線を外れ、あえて極悪な覇道へ!

同世代のウマ娘たちと歩んだ美しいレールを、常識という名の分厚い壁を、その圧倒的な闘志で今、叩き割る!

残り200! ウオッカ先頭! ウオッカ先頭に躍り出た!

これが東京優駿! これが、頂点を渇望する者の執念だ!

 

 

 

 

画面の向こう側で、ウオッカが爆発的なストライドで他を完全に置き去りにしていく。

額に浮かぶ汗が初夏の太陽を弾き、力強くターフを蹴り上げるたびに、泥の塊が後方へと飛散する。その一完歩ごとに、画面越しにすら焦げるような熱風が吹き抜けてくるようだ。

常識に囚われないその走りは、正道を往く者が放つ、太陽のように眩く、そして周囲のすべてを焼き尽くさんばかりの絶対的な熱量を持っていた。

己の命をターフの上で燃やし尽くし、ただ「誰よりも速く先頭で駆け抜ける」という一つの目的のためだけに心肺を叩き潰す、極限の生の輝き。

 

「…………」

 

モエの手から、ファッション誌が力なく滑り落ちた。

分厚い紙の束がベッドに落ちる微かな音は、テレビから流れる大歓声の渦に一瞬でかき消された。

 

 

 

 

――Trainer: Ayahara

 

 

 

「……モエ?」

 

不自然な沈黙に気づき、タブレットから完全に視線を外す。

目に映ったのは、食い入るように画面を見つめる少女の横顔だった。

先ほどまで浮かべていた無防備な口元の綻びは完全に消え去り、その瞳の奥には、黒々とした穴のような虚無がぽっかりと口を開けている。

瞬きすら忘れたかのように、その目は一点を見つめていた。

 

「……トレーナー」

 

ぽつりと、彼女の唇が動いた。

その声は、つい先ほどまでの甘ったるい響きを完全に失い、ひどく乾いていた。

 

「お腹空いた」

 

思わず眉間を寄せる。

ほんの数十分前、彼女は俺が買ってきた高カロリーな洋菓子を平らげたばかりだ。

それなのに、自らの腹部にそっと両手を当てるその仕草は、何日も水と食料を絶たれた遭難者のように切実だった。

 

「……さっき食べたばかりだろう。胃に負担がかかったのか、気分でも悪いのか」

 

立ち上がり、彼女の様子を窺おうとパイプ椅子から腰を浮かせた。

だが。

次の瞬間、彼女の取った行動に思考が完全に停止した。

 

深いダメージを負い、今はただ絶対安静を命じられているはずのその細い両脚が。

何の躊躇いもなくシーツを蹴り飛ばし、冷たいリノリウムの床へと降ろされたのだ。

 

「おい、急に立ったら……ッ!」

 

俺の制止の声は、宙に浮いたまま消え去った。

 

彼女は、自らの脚で真っ直ぐに立ち上がっていた。

満足に歩くことすら許されていないはずの肉体。

しかし、そこには痛みやふらつきを感じさせる気配など微塵もない。獲物を前にして弓を引き絞ったような、異様な緊迫感だけが放たれていた。

彼女の身体から、肌を刺すような熱気が立ち昇っている。

さっきまで穏やかだったはずの体温が、まるで内側で何かが弾けたかのように跳ね上がり、少し離れた位置からでも空気が変わったのがはっきりと伝わってくる。

 

分からない。

目の前の少女に何が起きているのか、全く理解できなかった。

 

テレビの中の熱狂に当てられたという、生易しいものではない。

彼女の顔からは、アイドルとしての余裕も、普通の女の子としての幸福な未来予想図も、俺に向けられていた甘い依存すらも、一切合切が剥がれ落ちていた。

ただ、底なしの飢えに突き動かされる獣のような瞳だけが、病室のドア――その向こう側にある外界へと向けられている。

さっきまで笑い合っていたはずの少女の姿はそこにはなく、得体の知れないバケモノが、純白のパジャマを纏って立っているようにしか見えなかった。

 

無言のまま。

ドンッ! と、空気を叩き割るような鋭い踏み込みの音が病室に響いた。

 

「モエ!?」

 

俺が手を伸ばすより早く、少女は弾かれたように病室から駆け出していた。

それは、到底安静を命じられた患者の足取りではない。

コンマ一秒の加速を支配していた天才スプリンターの、本能の瞬発力。

 

跳ね飛ばすように開け放たれたドアの向こう、長い廊下の奥へと、その背中は一瞬にして吸い込まれて消えた。

足音が、遠くに吸い込まれて消えていく。

 

テレビからは、勝利したウマ娘を讃えるアナウンサーの絶叫と、地鳴りのような歓声が、嘲笑うかのように明るく鳴り響いている。

風圧で揺れるカーテン。

床に投げ出され、ページが折れ曲がったファッション誌。

甘い砂糖の匂いが充満していたはずの無菌室には、いつの間にか、激しい摩擦で芝が焦げたような微かな匂いだけが漂っていた。

 

「…………」

 

俺は、開け放たれたドアを見つめたまま、完全に呆然と立ち尽くしていた。

差し出した手は、何一つ掴むことができずに虚空を掻いている。

 

何が彼女を突き動かしたのか、知る由もない。

だが、あの日、オークスで終わらせたかに見えた物語が。

あの地獄の底で焼き尽くしたはずの彼女の中の『何か』が、再び目を覚ましたことだけは、確信として胸に重くのしかかっていた。

ささやかな結末として受け入れようとしていた穏やかな未来は、たった数分の熱狂によって、あっけなく内側から破壊されたのだ。

 

窓の外では、陽が落ち、世界が夜へと沈んでいく。

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