アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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44話 大目玉

「カレンモエさん! あなた自分が今、どこにいるのか分かっているんですか!!」

 

つい数十分前まで、外界の喧騒から完全に隔絶され、ひどく穏やかで平和な時間が流れていたはずの病室。

そこに今、ベテラン病棟看護師の雷のような怒声が、容赦なく響き渡っていた。

 

「病院の廊下を、しかもパジャマ姿で全力疾走するなんて言語道断です! 床の清掃用ワゴンを撥ね飛ばし、点滴のスタンドを薙ぎ倒して……もし他の患者さんや車椅子の方と衝突していたらどうするつもりだったんですか! ここは走る場所じゃありません、大惨事になりますよ!」

「えぐっ……ごめんなしゃい……」

 

純白のシーツの上でちょこんと正座させられているカレンモエは、頭頂部のウマ耳をぺたんと完全に平らに寝かせ、「えぐっ、えぐっ……」とコミカルに肩を揺らしながら情けない声を漏らしていた。

先ほどまで見せていた、絢原の心を絡め取るようなしたたかなアイドルの顔も、未知の異常に震える不気味さも、そこには微塵もない。

ただの、常識的な場所で常識外れのバカなことをやらかし、めちゃくちゃに怒られて縮み上がっている年相応の少女の姿がそこにあった。

 

「だいたい、いくらウマ娘の身体能力が人間より頑丈だからって、あなた自身の身体のことも考えなさい! オークスの後、あなたがどれだけ危険な状態だったか忘れたの!? 脚のダメージも完全に癒えきっていない、リハビリすら終わってない脚でアスファルトを蹴るなんて……一歩間違えれば、一生車椅子生活になってもおかしくない、正気の沙汰じゃない行為ですよ!」

「ふぇぇ……はい……もう、絶対にしません……ゆるして……」

 

モエは両手で顔を覆い、大げさにしゃくり上げながら何度も頭を下げている。

その隣では、彼女の担当トレーナーである絢原もまた、パイプ椅子から立ち上がって直立不動の姿勢を強いられていた。

 

「トレーナーさんもトレーナーさんです! 彼女が急に走り出すまで、一体何を見ていたんですか! 携帯でも弄ってたんですか!? 患者の些細な変化を見逃さないのが、付き添いの大人の責任でしょう!」

「……返す言葉もありません。私の、完全な不注意です。申し訳ない」

 

絢原は深く頭を下げた。

まさか「テレビのレース中継を見ていたら、引退したはずの担当ウマ娘が突然バケモノみたいに覚醒して駆け出していった」などと馬鹿げた言い訳ができるはずもない。

 

ほんの十分前のことだ。

病室を蹴り破るようにして駆け出したモエを追いかけ、絢原が血相を変えて中庭に辿り着いた時。彼女は初夏の陽光の下、芝生の上でぽつんと立ち尽くしていた。

目標を見失ったのか、あるいは燃料が尽きて唐突にエンジンが停止したのか。彼女は自分の足元を不思議そうに見つめ、まるで迷子になった子供のようにガタガタと震えていたのだ。

そこを背後から捕獲し、車椅子に乗せて大急ぎで病室へ連れ戻したのだが、ひっくり返ったワゴンの騒ぎを聞きつけた看護師長に見つかり、この大目玉を食らう羽目になってしまったのである。

 

「いいですか、今日はもう絶対に安静です! トイレ以外でベッドから降りたら、退院を白紙に戻して身体拘束の手続きを取りますからね! トレーナーさんも、次おかしな挙動があったらすぐにナースコールを押してください!」

 

嵐のようにまくし立てた看護師は、最後にピシャリと釘を刺し、バンッ! と大きな音を立てて病室のドアを閉めて去っていった。

後に残されたのは、怒声の余韻と、鼻をすするモエの情けない音だけだった。

 

「……えぐっ、ふすっ……怒られちゃった……」

「……ああ。俺もな」

 

絢原は大きなため息を吐き出し、どさりとパイプ椅子に腰を下ろした。

額には冷や汗が浮かんでいる。怒濤の説教によって、直前に病室を支配していたあの異常な緊迫感は、すっかりどこかへ吹き飛んでしまっている。

彼はベッドの上で涙を拭っている少女を、じっと見つめた。

身体は冷え切ったままだが、あの飢えた獣のような瞳の輝きは消え失せ、今はただひたすらに、自身の身に起きた理解不能な現象への深い戸惑いだけが浮かんでいる。

 

「……で? 一体、何があった」

 

絢原の静かな、だが確かな重みを持った問いかけに、モエはビクッと肩を震わせた。

 

「あのまま引退して、普通の女の子になりたいと言ったのはお前だ。俺も、それに最後まで付き合うと決めた。そのお前が、ウオッカのダービーを見た途端に、憑かれたように走り出した。あれは、どういうことだ」

「……わかんない」

 

モエは、微かに首を横に振りながら、か細い声で答えた。

それは彼をはぐらかすための嘘でも、計算された演技でもなく、心底からの困惑だった。

 

「本当に、自分でも何が起きたのかわかんないの。走りたくなんかなかった。もう世間の期待も、お母さんの影も、あそこで全部燃やし尽くして……私、あれで完全にやりきったはずなのに」

 

彼女は、シーツの上に投げ出された自分の両脚を、まるで自分の意志に従わない得体の知れない機械を見るかのような視線で見つめている。

 

「テレビから、すごい歓声が聞こえて。ウオッカちゃんが、すっごく熱そうに、キラキラ光って走ってて。それを見た瞬間、空っぽだったお腹の底に……いきなり、火の粉みたいなものが飛び込んできた気がしたの」

「火の粉……?」

「うん。そしたら……身体が、内側から弾けるみたいに勝手に動いちゃって」

 

モエの言葉は、深い戸惑いに満ちていた。

自らの意志で動いたのではない。動かされてしまったのだという、物理的な理不尽への困惑。

 

「私、走りたくなんかないのに。あそこで全部やり切って、最高にスッキリしてたのに……脚が、筋肉が、テレビの向こうの熱に当てられて、強制的に弾き出されたみたいに……ッ! 私の意志とは関係なく、ただ熱のある方へ向かって、気がついたら外に飛び出されてたの」

 

モエは、自らの手のひらをじっと見つめ、力なく息を吐き出した。

その白い肌は、初夏だというのに氷のように冷たい。

 

「わかんないよ、トレーナー。私、どうなっちゃったんだろう。……私の身体、なんで私の言うことを聞いてくれないの……」

 

彼女の声には、自分の肉体に起きている異変に対する純粋な疑問だけが滲んでいた。

絢原は、返す言葉を持たなかった。

精神論やフラッシュバックといった言葉で片付けるには、あの時の彼女の異常な低体温と、扉を蹴り開けた時の踏み込みの鋭さは、あまりにも物理的な『変異』を感じさせた。

自分にはこの現象を説明する言葉がない。答えが出せない。ただ彼女の戸惑いを前に、何もできない自分の無力さだけが、鈍い痛みとなって胸の底に沈殿していく。

 

「……俺にも分からない。今のお前の体で、何が起きているのか」

 

正直にそう告げることしかできなかった。

モエは少し驚いたように絢原を見上げ、それから小さく頷いた。

嘘をつかれるよりはいい。「大丈夫だ」と根拠のない保証をされるよりは、「分からない」と正直に言ってくれる方が、今の彼女には信頼できた。

 

「……ただ、一つだけ確かなことがある」

 

絢原は、彼女の包帯に覆われた脚に視線を落とした。

 

「お前の脚は、さっき動いた」

 

モエの表情が、微かに強張った。

それは希望ではなかった。むしろ逆だ。

「脚が壊れた」という事実は、彼女にとっての安全装置だったのだ。壊れたから走れない。走れないから、走らなくていい。走らない理由を、壊れた脚が担保してくれていた。

それが今、揺らいでいる。

 

「……でも、それは」

 

モエが何か言いかけた、その時だった。

 

コンコン、という形式的なノックの音。

返事を待つ気配など微塵もなく、病室のドアが滑るように開いた。

 

「やあ。お見舞いに来たんだが、廊下がえらいことになっていたね。清掃用のワゴンがひっくり返って、点滴スタンドが薙ぎ倒されて。さながら小さな台風の通過跡だ。おまけに看護師の怒声が廊下の端まで響いていたから、入るタイミングを計るのに苦労したよ」

 

そこに立っていたのは、白衣のポケットに片手を突っ込み、もう片方の手にコンビニの袋をぶら下げた一人のウマ娘だった。

くすんだ栗毛。コンビニ袋の中身は、プリンと栄養ドリンクと、なぜかフラスコ型の容器に入った正体不明の液体。

 

「……アグネスタキオン」

 

絢原が、警戒と疲労の入り混じった声でその名を呼ぶ。

タキオンは「やあ」と気だるげに片手を上げ、当然のような顔で病室に入ってきた。コンビニ袋をサイドテーブルに無造作に置く。

 

「見舞い品はそこに。プリンは君の好みが分からなかったから適当だ」

 

どれでもそう変わらないだろう、とでも言いたげな口ぶりで。

だが、タキオンの目は既にモエを観察していた。ベッドの上で正座させられた姿勢、泣き腫らした目、そして――シーツから覗く包帯だらけの脚。

 

「……で。廊下のあの惨状は、まさか君の仕業かい? モエくん」

 

「……うん」

 

モエは観念したように小さく頷いた。もう一度怒られるのかと身構えるように、ウマ耳がぺたんと伏せられている。

 

タキオンは軽く鼻を鳴らした。怒るでも呆れるでもなく、それは予定通りの実験結果を確認した時の、淡白な反応だった。

 

「やはりね。……廊下の破壊痕を見た時点で、大体察しはついていたよ。あの壊れ方は、歩行困難な患者がよろめいた程度では起きない。少なくとも未勝利戦レベルの瞬発力がなければ、ああはならない」

 

タキオンはモエの包帯だらけの脚を一瞥し、何の感慨もなさそうに続けた。

 

「安心したまえ、モエくん。君の脚は壊れてなんかいないよ。私が鍛え上げた脚が、あの程度の負荷で砕けるものか」

 

その言葉は、モエを安心させるためのものではなかった。

自らの研究成果に対する、揺るぎのない自負。ただそれだけだ。

 

モエの顔から表情が抜け落ちた。

「脚が壊れた」という事実は、彼女にとっての安全装置だった。壊れたから走れない。走れないから、走らなくていい。走らない理由を、壊れた脚が担保してくれていた。

それを今、あっさりと、まるで天気の話でもするように剥がされた。

 

絢原もまた、息を呑んでいた。

タキオンの口調には、推測や希望的観測の気配が微塵もない。事実を事実として述べている、それだけの温度。つまり、彼女は最初から知っていたのだ。モエの脚が壊れていないことを。

 

「……だが」

 

タキオンの声色が変わった。

飄々とした自信が消え、代わりに滲み出てきたのは、純粋な困惑だった。

 

彼女はモエのそばまで歩み寄ると、無断でその手首を掴んだ。

 

「ちょっ……冷たっ」

「ふぅむ」

 

モエの抗議を一蹴し、タキオンは脈を測っている。その手つきは医療従事者のそれではなく、未知の鉱物を鑑定する研究者のように冷徹で、好奇心に満ちていた。

十五秒ほどの沈黙。タキオンの眉が、徐々に深く寄せられていく。

 

手を離し、今度はモエの瞳孔を覗き込むように顔を近づける。モエが思わず仰け反るのも構わず、数秒間じっと観察してから、ようやく身を引いた。

 

「……体表温度が異常に低い。初夏だというのに」

 

タキオンの声には、先ほど脚の無事を断言した時の余裕はなかった。

 

「トレーナーくん。一つ聞きたい。彼女が走り出した時の状況を、できるだけ正確に話してくれ。何がきっかけで、どう動き出したのか」

 

「……テレビでダービーの中継を見ていた。ウオッカが最終直線で先頭に立った辺りで、モエの様子が変わった。目の色が別人みたいになって、体から汗が噴き出して……次の瞬間には、ゲートを出る時みたいな踏み込みで病室から飛び出していた。中庭で捕まえた時には、逆に全身が氷みたいに冷え切っていた」

 

「直前に発汗を伴う急激な変化があり、駆動が停止した後は体温が異常に低下していた、と」

 

「ああ。中庭で追いついた時には立ち尽くしていた。迷子みたいに。……また体は冷え切っていた」

 

タキオンは腕を組み、天井を見上げた。

長い沈黙の後、彼女は小さく息を吐いた。

 

「……これは想定していなかった」

 

その呟きに、絢原の背筋に冷たいものが走った。

脚が壊れていないことは「やはりね」で片付けた女が、この現象の前では率直に困惑している。つまり、これはタキオンの計算の外で起きたことなのだ。

 

「脚の状態は私の予測の範囲内だ。スクラップ・アンド・ビルド――破壊と再構築は計画通りに進んでいる。だが……外部の刺激に反応して、本人の意志を無視して肉体が勝手に駆動する? しかも平常時の体温がここまで低下している? これは私の理論にはない」

 

タキオンは白衣のポケットから小さなノートを取り出し、何かを走り書きした。

 

「仮説はある。いくつも浮かんでいる。だが、データが足りない。今日の一件だけでは、検証に必要な情報が決定的に不足している」

 

ノートをポケットにしまい、タキオンはモエを見た。

その目には、脚の無事を語った時の自負はなく、未知の現象を前にした科学者の、剥き出しの好奇心だけが光っている。

 

「モエくん。君の脚が走れることは保証する。それは私の仕事だ。……だが、君の体に今起きていること、その『正体』については、今の私には答えられない」

 

モエは何も言わなかった。

脚が壊れていないと言われて安全装置を剥がされ、しかし体の異変については「分からない」と言われ、どこに足を置けばいいのか見失った顔をしている。

 

タキオンはドアへ向かった。ドアノブに手をかけたところで、少しだけ振り返る。

 

「トレーナーくん。もし今後、彼女の身体にまた何か変わったことが起きたら、報告してくれると嬉しい。今度は、できれば映像付きで」

 

その目は笑っていたが、いつもの全知全能を装った笑みではなかった。

自分の計算を超えた何かが起きている。そのことへの、抑えきれない飢え。

 

「プリン、冷蔵庫に入れておきたまえよ」

 

それだけ言い残して、タキオンは病室を出ていった。

ドアが静かに閉まる。

 

残された二人の間に、重い沈黙が横たわった。

テレビは消されたままだ。窓の外では、ダービーの歓声の余韻すらとうに消え去り、初夏の夕暮れが静かに病室を橙色に染め始めている。

 

モエは布団の上で、自分の脚をそっと撫でた。

包帯の感触。その下にある筋肉。

さっきまでは「壊れた脚」だった。お疲れ様、もう頑張らなくていいよ、と語りかけた脚。

それが今、「壊れていない脚」に変わってしまった。

でも、その脚は、自分の言うことを聞かない。

 

「……トレーナー」

「ん」

「私の脚、壊れてないんだって」

 

その声は、喜びでも悲しみでもなかった。

ただ、途方に暮れていた。

 

走れない脚なら、考えなくてよかった。

走れる脚なのに走らないなら、それは自分の選択になる。

でも、その脚が勝手に走り出すなら――それは一体、誰の選択なんだろう。

 

「……分からないことだらけだな」

 

絢原の呟きは、モエへの言葉であると同時に、自分自身への言葉でもあった。

 

モエは小さく「うん」と頷いて、枕に頭を沈めた。

天井の染みを見つめながら、目を閉じる。

 

泥のように重い眠りが、答えの出ない問いごと、彼女を深い底へと引きずり込んでいく。

 

絢原は、眠りに落ちていくモエの寝顔を見つめながら、タキオンの言葉を反芻していた。

 

"君の体に今起きていること、その『正体』については、今の私には答えられない"

 

あのタキオンが答えられないものを、自分に理解できるはずがない。

だが、理解できなくても、隣にはいられる。

今はそれしかできることがない。

 

窓の外で、夕陽が沈んでいく。

長い夜が始まろうとしていた。

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