アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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45話 退院

翌朝から、病室の空気は微妙に変質していた。

 

変わったのは、たぶん、私の方だ。

 

看護師さんが検温に来る。「お加減いかがですか?」に「はい、おかげさまで」と百点満点の笑顔で返す。朝食のお粥を食べる。絢原さんが持ってきてくれたファッション誌をめくる。午後になれば昼寝をして、起きたら甘いものをねだる。

やっていることは昨日までと何も変わらない。

普通の女の子としての、穏やかで退屈な日常。

 

でも。

 

ページをめくる指先が、時々止まる。

窓の外から風に乗って聞こえてくる、誰かの走る足音。

病棟の廊下を早歩きで過ぎていく看護師のスニーカーの音。

それだけのことで、脚の奥が、ほんの微かに疼く。

 

熱を持つわけではない。痙攣するわけでもない。

ただ、筋肉の繊維の一本一本が、ぴくり、と耳を澄ませるような。

聞き慣れない外国語を耳にした時に、無意識に首を傾げてしまうような、あの感覚。

 

「……」

 

私はその度に、布団の上から自分の脚をそっと押さえた。

大丈夫。動いてない。勝手に走り出したりしてない。

ほら、ちゃんと私のコントロール下にある。

 

……あるよね?

 

「モエ。今日の差し入れ、何がいい」

 

絢原さんの声で、我に返る。

彼はパイプ椅子に座って、いつも通りタブレットを操作している。画面に並んでいるのは退学手続きの書類と、退院後の住居の候補リスト。

私のために、私の「普通の女の子」としての生活を整えるための、無機質な数字と文字の羅列。

 

「んー……カツ丼」

「差し入れでカツ丼は無理がある」

「えー。じゃあ、退院したら食べに連れてって。揚げたてのやつ」

「ああ。いいぞ」

 

こういう会話ができている間は、大丈夫だ。

私はまだ普通でいられる。

 

タキオンが置いていったプリンは、結局、三つとも私が食べた。

味は普通だった。コンビニのプリンに、特別な意味なんかない。

 

ただ、冷蔵庫から取り出す時に見えた、サイドテーブルの上のタキオンのメモ書きが気になった。

走り書きのような、あの意味不明な数式と記号の羅列。

私には一文字も読めなかったけれど、あれは私の体についてのメモだ。

私の体の中で起きている、私にも絢原さんにもタキオンにも分からない「何か」についての、最初の一ページ。

 

見なかったことにして、プリンを食べた。

カラメルが、少しだけ苦かった。

 

 

 

 

 

 

退院前日の夕方。

 

荷物は大してない。

入院中に絢原さんが持ってきてくれた着替えと、ファッション誌が数冊と、食べきれなかったお菓子の箱。あとは、パパとママが持ってきてくれた小さな花束の、もう萎れかけた残骸。

それだけの荷物を、紙袋に詰め込む作業は、十分もかからずに終わってしまった。

 

窓の外は、夕焼けが病室をオレンジ色に染めている。

面会時間の終わりが近い。

明日の朝には、パパが車で迎えに来る。

そうしたら私は、この白い箱庭から出て、外の世界に戻る。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

ベッドの端に腰掛けて、私は足をぶらぶらさせていた。

裸足の爪先が、冷たいリノリウムの床に触れたり離れたりする。

 

「ん」

 

絢原さんはパイプ椅子に座ったまま、帰り支度の途中で手を止めている。

上着を手に取りかけた姿勢のまま、こちらを見た。

 

「……怖いな」

 

ぽつりと、口から零れた。

自分でも驚くくらい、素直な言葉だった。

 

「外に出るのが?」

 

「うん」

 

私は足のぶらぶらを止めずに、窓の外の夕焼けを見つめていた。

 

「この部屋にいる間は、平気だったの。テレビを消して、窓を閉めて、レースの音が聞こえないようにしてれば、体はおとなしくしてくれた。でも……外に出たら」

 

街にはレース場がある。

テレビを消しても、カフェやコンビニのモニターからレース中継が流れてくる。

公園では誰かが走っている。

学園の近くを通れば、練習中のウマ娘たちの蹄鉄の音が風に乗って聞こえてくる。

 

「また、あんなふうになったら」

 

あの日のダービー。

体が勝手に動いて、気がついたら中庭に立っていた。

自分の意志とは何の関係もなく、筋肉が、細胞が、勝手に走り出した。

 

「……次は、病院の廊下じゃなくて、車道かもしれない。人混みの中かもしれない。私……自分が怖い」

 

口に出してみると、思ったよりも声が震えていた。

ああ、私、けっこう怖がってたんだ。

甘いものを食べて、ファッション誌をめくって、退院後の楽しい計画を並べ立てることで、この恐怖に蓋をしていたんだ。

 

絢原さんは、上着を椅子の背に戻して、静かに座り直した。

安易な慰めを言わない人だ。

「大丈夫だ」と無責任に保証しない人だ。

だから私は、この人を信頼している。

 

「……正直に言う」

 

絢原さんは、膝の上で両手を組んだ。

 

「俺にも、次に何が起きるか分からない。お前の体に何が起きているのかも、まだ分からない。タキオンですら分からないと言ったものを、俺が分かるはずがない」

 

うん。知ってる。

 

「だが、一つだけ約束できることがある」

 

絢原さんの目が、真っ直ぐに私を見た。

 

「お前が何かに怯えている時、俺はそばにいる。お前の体が勝手に動き出しても、俺が止める。車道だろうが人混みだろうが、俺が追いかけて捕まえる。……あの日みたいに」

 

あの日。

中庭で立ち尽くしていた私を、背後から捕まえてくれた腕の感触を思い出す。

息を切らして、冷や汗をかいて、それでも私を離さなかった手。

 

「それは、答えにはならないかもしれない。でも」

「……ううん」

 

私は首を横に振った。

目の奥が、じわりと熱くなる。

 

「それでいい。……それがいい」

 

答えなんか、今は要らない。

分からないことだらけでいい。

ただ、追いかけてくれる人がいるなら、外の世界に出る勇気は、たぶん、足りる。

 

「……ありがと、トレーナー」

「礼を言われるようなことじゃない。担当ウマ娘を追いかけるのはトレーナーの仕事だ」

「ふふ。……じゃあ、お仕事頑張ってね」

 

廊下の向こうから、面会時間終了を告げるチャイムが聞こえてきた。

絢原さんは椅子から立ち上がり、上着を羽織った。

 

「明日の朝、お前の親御さんが迎えに来る。俺もその時間に来る」

「うん。……あ、トレーナー」

「なんだ」

「明日、カツ丼食べたい。退院したら」

「……ああ。揚げたてのやつな」

「約束だよ」

 

絢原さんは小さく口元を緩めて、ドアを開けた。

「じゃあ、明日」と短く言って、出ていく。

パタン、とドアが閉まる。

 

私は一人、夕焼け色の病室に残された。

 

窓の外では、空の色が橙から紫に変わり始めている。

明日は、外の世界に戻る日だ。

 

体が反応するかもしれない。

脚が疼くかもしれない。

でも、追いかけてくれる人がいる。

 

それだけを抱えて、私はベッドに潜り込んだ。

シーツを顎まで引き上げて、目を閉じる。

 

眠れるかどうかは、分からなかったけれど。

 

 

 

 

 

 

退院の朝は、拍子抜けするほどあっけなかった。

 

看護師さんに挨拶をして、主治医から退院後の注意事項を聞いて、処方された薬を受け取って。

それだけ。

長い戦争から帰還する兵士のような、大仰なセレモニーは何もない。

ただ、事務的な手続きが済んで、「お大事にどうぞ」の一言で送り出される。

 

車椅子に乗って、絢原さんに押されて、病棟の長い廊下を進む。

数日前、私が全力疾走してワゴンを薙ぎ倒した廊下。

今はきれいに片付いていて、あの日の痕跡は跡形もない。

 

エレベーターに乗り、一階のロビーに降りる。

自動ドアが開く。

 

六月の外気が、肌に触れた。

 

「……あ」

 

湿った風。草の匂い。アスファルトの照り返しの熱。

遠くで車のクラクションが鳴っている。

鳥が啼いている。

世界は、当たり前のように動いている。

 

体が、微かに反応した。

脈拍が、ほんの少しだけ上がる。

指先が、かすかに震える。

 

背中に、車椅子を押す絢原さんの手の感触がある。

その手が、ほんの少しだけ力を込めたのが分かった。

何も言わない。ただ、「ここにいるぞ」という無言の圧。

 

正面玄関のロータリーに、見慣れた車が停まっていた。

運転席にパパ。助手席にママ。

 

車のドアが開いて、ママが降りてきた。

 

「モエ!」

 

カレンチャン。

かつて日本中を熱狂させた閃光のスプリンター。

今は、ただの、心配性の母親。

 

彼女は小走りに駆け寄ってきて、車椅子の前でしゃがみ込んだ。

私の顔を覗き込む。

琥珀色の瞳。私と同じ色。

鏡を見ているみたいで、少しだけ、胸の奥がちくりとした。

 

「おかえりなさい」

 

ママは、ただそう言って、微笑んだ。

その笑顔は、テレビで見るウイニングライブの完璧な笑みでも、SNSに載せる計算し尽くされた小悪魔スマイルでもなく、ただ娘が帰ってきたことが嬉しいだけの、飾り気のない母親の顔だった。

姉妹に間違えられるほど若々しい見た目のくせに、こういう時だけ、ちゃんとお母さんなんだから。ずるい。

 

「……ただいま」

 

私の声は、思ったより小さかった。

でも、震えてはいなかった。

 

運転席から降りてきたパパは、何も言わずに頷いただけだった。

その目は少し赤かったけれど、私は気づかないふりをした。

 

絢原さんが車椅子から私を立ち上がらせ、後部座席に乗せてくれる。

車椅子を畳んでトランクに積む音。

絢原さんが運転席側に回って、パパと何か短い言葉を交わしている。聞き取れなかったけれど、パパが小さく頷いたのが見えた。

 

ドアが閉まる。

エアコンの静かな駆動音と、芳香剤の甘い匂い。

ママが助手席から振り返って、「シートベルト締めた?」と聞いてくる。

私は「うん」と答えて、ベルトのバックルをカチリと鳴らした。

 

車が発進する。

病院の白い建物が、バックミラーの中でゆっくりと遠ざかっていく。

 

私は窓の外を見た。

信号待ちの交差点。横断歩道を渡る人々。コンビニの看板。公園の木々。

何の変哲もない、六月の街並み。

 

この景色の中のどこかに、走っているウマ娘がいる。

レース場があり、練習場があり、歓声がある。

私の体を勝手に動かす「熱」が、この世界のあちこちに散らばっている。

 

前の座席では、ママが「今日の夕飯、何がいい?」とパパに聞いている。

パパは「モエの好きなもので」と短く答えている。

 

「……カツ丼」

 

私は窓に額をつけたまま、小さく言った。

 

ママが「あら、カツ丼?」と楽しそうに振り返る。

パパが「退院祝いにはいいな」とバックミラー越しに頷く。

 

でも、それは家族で食べるカツ丼だ。

私が約束したのは、絢原さんと食べるカツ丼。

……まあ、いいか。カツ丼は二回食べたっていい。

 

背中のシートに体を預けながら、私は自分の手のひらを見つめた。

冷たい。相変わらず、氷みたいに冷たい。

この手が、いつまた、知らない熱に反応して動き出すのか分からない。

 

でも。

 

バックミラー越しに、パパの目が一瞬だけ私を見て、すぐに前に戻った。

 

ああ、帰るんだ。

家に。

 

走らなくていい場所に。

誰にも見られなくていい場所に。

ただの、カレンモエでいられる場所に。

 

私は窓に額をつけて、流れていく景色をぼんやりと眺めた。

車の振動が、少しずつ、強張った体をほぐしていく。

 

まだ、何も解決していない。

体のことも、将来のことも、走ることについても。

全部、宙ぶらりんのまま。

 

でも、今日のところは、それでいい。

カツ丼を食べて、自分の部屋のベッドで寝て、明日のことは明日考える。

 

車は、初夏の陽光の中を、静かに走り続けていた。

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