翌朝から、病室の空気は微妙に変質していた。
変わったのは、たぶん、私の方だ。
看護師さんが検温に来る。「お加減いかがですか?」に「はい、おかげさまで」と百点満点の笑顔で返す。朝食のお粥を食べる。絢原さんが持ってきてくれたファッション誌をめくる。午後になれば昼寝をして、起きたら甘いものをねだる。
やっていることは昨日までと何も変わらない。
普通の女の子としての、穏やかで退屈な日常。
でも。
ページをめくる指先が、時々止まる。
窓の外から風に乗って聞こえてくる、誰かの走る足音。
病棟の廊下を早歩きで過ぎていく看護師のスニーカーの音。
それだけのことで、脚の奥が、ほんの微かに疼く。
熱を持つわけではない。痙攣するわけでもない。
ただ、筋肉の繊維の一本一本が、ぴくり、と耳を澄ませるような。
聞き慣れない外国語を耳にした時に、無意識に首を傾げてしまうような、あの感覚。
「……」
私はその度に、布団の上から自分の脚をそっと押さえた。
大丈夫。動いてない。勝手に走り出したりしてない。
ほら、ちゃんと私のコントロール下にある。
……あるよね?
「モエ。今日の差し入れ、何がいい」
絢原さんの声で、我に返る。
彼はパイプ椅子に座って、いつも通りタブレットを操作している。画面に並んでいるのは退学手続きの書類と、退院後の住居の候補リスト。
私のために、私の「普通の女の子」としての生活を整えるための、無機質な数字と文字の羅列。
「んー……カツ丼」
「差し入れでカツ丼は無理がある」
「えー。じゃあ、退院したら食べに連れてって。揚げたてのやつ」
「ああ。いいぞ」
こういう会話ができている間は、大丈夫だ。
私はまだ普通でいられる。
タキオンが置いていったプリンは、結局、三つとも私が食べた。
味は普通だった。コンビニのプリンに、特別な意味なんかない。
ただ、冷蔵庫から取り出す時に見えた、サイドテーブルの上のタキオンのメモ書きが気になった。
走り書きのような、あの意味不明な数式と記号の羅列。
私には一文字も読めなかったけれど、あれは私の体についてのメモだ。
私の体の中で起きている、私にも絢原さんにもタキオンにも分からない「何か」についての、最初の一ページ。
見なかったことにして、プリンを食べた。
カラメルが、少しだけ苦かった。
~
退院前日の夕方。
荷物は大してない。
入院中に絢原さんが持ってきてくれた着替えと、ファッション誌が数冊と、食べきれなかったお菓子の箱。あとは、パパとママが持ってきてくれた小さな花束の、もう萎れかけた残骸。
それだけの荷物を、紙袋に詰め込む作業は、十分もかからずに終わってしまった。
窓の外は、夕焼けが病室をオレンジ色に染めている。
面会時間の終わりが近い。
明日の朝には、パパが車で迎えに来る。
そうしたら私は、この白い箱庭から出て、外の世界に戻る。
「……ねえ、トレーナー」
ベッドの端に腰掛けて、私は足をぶらぶらさせていた。
裸足の爪先が、冷たいリノリウムの床に触れたり離れたりする。
「ん」
絢原さんはパイプ椅子に座ったまま、帰り支度の途中で手を止めている。
上着を手に取りかけた姿勢のまま、こちらを見た。
「……怖いな」
ぽつりと、口から零れた。
自分でも驚くくらい、素直な言葉だった。
「外に出るのが?」
「うん」
私は足のぶらぶらを止めずに、窓の外の夕焼けを見つめていた。
「この部屋にいる間は、平気だったの。テレビを消して、窓を閉めて、レースの音が聞こえないようにしてれば、体はおとなしくしてくれた。でも……外に出たら」
街にはレース場がある。
テレビを消しても、カフェやコンビニのモニターからレース中継が流れてくる。
公園では誰かが走っている。
学園の近くを通れば、練習中のウマ娘たちの蹄鉄の音が風に乗って聞こえてくる。
「また、あんなふうになったら」
あの日のダービー。
体が勝手に動いて、気がついたら中庭に立っていた。
自分の意志とは何の関係もなく、筋肉が、細胞が、勝手に走り出した。
「……次は、病院の廊下じゃなくて、車道かもしれない。人混みの中かもしれない。私……自分が怖い」
口に出してみると、思ったよりも声が震えていた。
ああ、私、けっこう怖がってたんだ。
甘いものを食べて、ファッション誌をめくって、退院後の楽しい計画を並べ立てることで、この恐怖に蓋をしていたんだ。
絢原さんは、上着を椅子の背に戻して、静かに座り直した。
安易な慰めを言わない人だ。
「大丈夫だ」と無責任に保証しない人だ。
だから私は、この人を信頼している。
「……正直に言う」
絢原さんは、膝の上で両手を組んだ。
「俺にも、次に何が起きるか分からない。お前の体に何が起きているのかも、まだ分からない。タキオンですら分からないと言ったものを、俺が分かるはずがない」
うん。知ってる。
「だが、一つだけ約束できることがある」
絢原さんの目が、真っ直ぐに私を見た。
「お前が何かに怯えている時、俺はそばにいる。お前の体が勝手に動き出しても、俺が止める。車道だろうが人混みだろうが、俺が追いかけて捕まえる。……あの日みたいに」
あの日。
中庭で立ち尽くしていた私を、背後から捕まえてくれた腕の感触を思い出す。
息を切らして、冷や汗をかいて、それでも私を離さなかった手。
「それは、答えにはならないかもしれない。でも」
「……ううん」
私は首を横に振った。
目の奥が、じわりと熱くなる。
「それでいい。……それがいい」
答えなんか、今は要らない。
分からないことだらけでいい。
ただ、追いかけてくれる人がいるなら、外の世界に出る勇気は、たぶん、足りる。
「……ありがと、トレーナー」
「礼を言われるようなことじゃない。担当ウマ娘を追いかけるのはトレーナーの仕事だ」
「ふふ。……じゃあ、お仕事頑張ってね」
廊下の向こうから、面会時間終了を告げるチャイムが聞こえてきた。
絢原さんは椅子から立ち上がり、上着を羽織った。
「明日の朝、お前の親御さんが迎えに来る。俺もその時間に来る」
「うん。……あ、トレーナー」
「なんだ」
「明日、カツ丼食べたい。退院したら」
「……ああ。揚げたてのやつな」
「約束だよ」
絢原さんは小さく口元を緩めて、ドアを開けた。
「じゃあ、明日」と短く言って、出ていく。
パタン、とドアが閉まる。
私は一人、夕焼け色の病室に残された。
窓の外では、空の色が橙から紫に変わり始めている。
明日は、外の世界に戻る日だ。
体が反応するかもしれない。
脚が疼くかもしれない。
でも、追いかけてくれる人がいる。
それだけを抱えて、私はベッドに潜り込んだ。
シーツを顎まで引き上げて、目を閉じる。
眠れるかどうかは、分からなかったけれど。
~
退院の朝は、拍子抜けするほどあっけなかった。
看護師さんに挨拶をして、主治医から退院後の注意事項を聞いて、処方された薬を受け取って。
それだけ。
長い戦争から帰還する兵士のような、大仰なセレモニーは何もない。
ただ、事務的な手続きが済んで、「お大事にどうぞ」の一言で送り出される。
車椅子に乗って、絢原さんに押されて、病棟の長い廊下を進む。
数日前、私が全力疾走してワゴンを薙ぎ倒した廊下。
今はきれいに片付いていて、あの日の痕跡は跡形もない。
エレベーターに乗り、一階のロビーに降りる。
自動ドアが開く。
六月の外気が、肌に触れた。
「……あ」
湿った風。草の匂い。アスファルトの照り返しの熱。
遠くで車のクラクションが鳴っている。
鳥が啼いている。
世界は、当たり前のように動いている。
体が、微かに反応した。
脈拍が、ほんの少しだけ上がる。
指先が、かすかに震える。
背中に、車椅子を押す絢原さんの手の感触がある。
その手が、ほんの少しだけ力を込めたのが分かった。
何も言わない。ただ、「ここにいるぞ」という無言の圧。
正面玄関のロータリーに、見慣れた車が停まっていた。
運転席にパパ。助手席にママ。
車のドアが開いて、ママが降りてきた。
「モエ!」
カレンチャン。
かつて日本中を熱狂させた閃光のスプリンター。
今は、ただの、心配性の母親。
彼女は小走りに駆け寄ってきて、車椅子の前でしゃがみ込んだ。
私の顔を覗き込む。
琥珀色の瞳。私と同じ色。
鏡を見ているみたいで、少しだけ、胸の奥がちくりとした。
「おかえりなさい」
ママは、ただそう言って、微笑んだ。
その笑顔は、テレビで見るウイニングライブの完璧な笑みでも、SNSに載せる計算し尽くされた小悪魔スマイルでもなく、ただ娘が帰ってきたことが嬉しいだけの、飾り気のない母親の顔だった。
姉妹に間違えられるほど若々しい見た目のくせに、こういう時だけ、ちゃんとお母さんなんだから。ずるい。
「……ただいま」
私の声は、思ったより小さかった。
でも、震えてはいなかった。
運転席から降りてきたパパは、何も言わずに頷いただけだった。
その目は少し赤かったけれど、私は気づかないふりをした。
絢原さんが車椅子から私を立ち上がらせ、後部座席に乗せてくれる。
車椅子を畳んでトランクに積む音。
絢原さんが運転席側に回って、パパと何か短い言葉を交わしている。聞き取れなかったけれど、パパが小さく頷いたのが見えた。
ドアが閉まる。
エアコンの静かな駆動音と、芳香剤の甘い匂い。
ママが助手席から振り返って、「シートベルト締めた?」と聞いてくる。
私は「うん」と答えて、ベルトのバックルをカチリと鳴らした。
車が発進する。
病院の白い建物が、バックミラーの中でゆっくりと遠ざかっていく。
私は窓の外を見た。
信号待ちの交差点。横断歩道を渡る人々。コンビニの看板。公園の木々。
何の変哲もない、六月の街並み。
この景色の中のどこかに、走っているウマ娘がいる。
レース場があり、練習場があり、歓声がある。
私の体を勝手に動かす「熱」が、この世界のあちこちに散らばっている。
前の座席では、ママが「今日の夕飯、何がいい?」とパパに聞いている。
パパは「モエの好きなもので」と短く答えている。
「……カツ丼」
私は窓に額をつけたまま、小さく言った。
ママが「あら、カツ丼?」と楽しそうに振り返る。
パパが「退院祝いにはいいな」とバックミラー越しに頷く。
でも、それは家族で食べるカツ丼だ。
私が約束したのは、絢原さんと食べるカツ丼。
……まあ、いいか。カツ丼は二回食べたっていい。
背中のシートに体を預けながら、私は自分の手のひらを見つめた。
冷たい。相変わらず、氷みたいに冷たい。
この手が、いつまた、知らない熱に反応して動き出すのか分からない。
でも。
バックミラー越しに、パパの目が一瞬だけ私を見て、すぐに前に戻った。
ああ、帰るんだ。
家に。
走らなくていい場所に。
誰にも見られなくていい場所に。
ただの、カレンモエでいられる場所に。
私は窓に額をつけて、流れていく景色をぼんやりと眺めた。
車の振動が、少しずつ、強張った体をほぐしていく。
まだ、何も解決していない。
体のことも、将来のことも、走ることについても。
全部、宙ぶらりんのまま。
でも、今日のところは、それでいい。
カツ丼を食べて、自分の部屋のベッドで寝て、明日のことは明日考える。
車は、初夏の陽光の中を、静かに走り続けていた。