アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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カレンチャンメシマズ概念が公式だったことを知らなかったので手直しをしました……。


46話 穏やかでありたい日常

退院して最初の一週間は、まるで長い休暇の始まりのようだった。

 

自分の部屋。自分のベッド。自分の匂いが染み付いた枕。

病院の無機質な白ではない、淡いピンクの壁紙と、棚に並んだぬいぐるみたち。

窓から差し込む朝日の角度も、カーテンの揺れ方も、全部覚えている。

ここは私の場所だ。誰のためでもない、私だけの巣穴。

 

朝は好きな時間に起きる。

目覚まし時計は引き出しの奥にしまった。

明日の朝練のことを考えなくていい朝が、こんなにも甘くて罪深いものだとは知らなかった。

 

ママが作ってくれる朝ご飯は、病院食とは別の意味で刺激的だった。

 

焼き立てのトースト。ここまでは普通。

問題は、その上に載っているものだ。

 

「今朝はね、蜂蜜バターに、カレンの特製マーマレードを合わせてみたの♪ あと、隠し味にちょっとだけお味噌を……」

 

蜂蜜とバターとマーマレードと味噌。

一つ一つは食べ物として成立しているのに、全部載せた瞬間に食べ物の定義から逸脱する。

ママは何を食べても「カレン流アレンジ」を加えずにいられない。本人は大真面目に美味しいと思っている。そこが一番たちが悪い。

 

一口齧る。

 

……うん。蜂蜜とバターは美味しい。マーマレードの酸味もまあ許容範囲。

味噌が来た瞬間、舌が混乱する。甘いのかしょっぱいのか判断がつかないまま、喉の奥に消えていった。

 

「どう? 美味しいでしょ?」

「……うん。元気は、出る」

 

嘘は言ってない。味覚が混乱した結果、脳が覚醒する。ある意味では目覚ましとして最高の効能がある。

 

「モエ、もう一枚焼く?」

「……プレーンで。バターだけで。お願い」

「えー、せっかくのアレンジなのにぃ」

 

ママは少し不満そうだけど、トースターのタイマーを回してくれた。

私がたくさん食べることが、ママにとっては安心の証なのだろう。アレンジの是非はともかく、オークスの後、ろくに食事も摂れなかった娘が、こうしておかわりを求めている。それだけで、この人は救われた顔をする。

 

パパは朝食の席では新聞を読んでいる。

時々、紙面の向こうからちらりと私を見る視線に気づくけれど、何も言わない。

パパはそういう人だ。言葉にしない代わりに、私が好きなフルーツが毎朝食卓に並ぶようになった。

季節の桃。粒の揃った佐藤錦。種なしの巨峰。

値段のことは考えないようにしている。

……フルーツだけは、ママのアレンジが入らない。

パパが黙って皮を剥いて出してくれるから。

それだけで、この人の気遣いの深さが分かる。

 

 

 

 

 

 

絢原さんは、週に三回くらいの頻度で家に来る。

 

引退手続きの書類。保険の申請。学園関連の届出。

事務的な用件が山ほどあって、その処理のために来ているのだけれど、書類はどれも結局提出されないまま、絢原さんの鞄の中で眠っている。

書類仕事が終わると大抵、リビングでお茶を飲んで、パパと二言三言交わして帰っていく。

 

私はその間、わざとリビングに居座って、彼の仕事の邪魔をする。

 

「ねえトレーナー、ここ見て。このワンピース、私に似合うと思わない?」

「……俺に聞かれても分からん」

「えー、使えないなあ。じゃあ、今度一緒に見に行こうよ。トレーナーが選んで」

「……服屋に付き合わされるのか」

「荷物持ち兼護衛兼スポンサーだよ。大事なお仕事でしょ?」

 

ファッション誌のページを彼の顔の前に突きつけると、絢原さんは眉間に皺を寄せつつも、ちらりと誌面に目を落とす。

その一瞬の視線の動きを、私は見逃さない。

 

ふふ。ちゃんと見てる。

 

こういう時の私は、自分でも少し嫌になるくらい、計算高い。

パジャマの襟元をほんの少しだけルーズにしておいたり、髪を下ろして首筋を見せる角度を調整したり。

ママから受け継いだ、この厄介な武器。

レースでは封印していた「見られる側」の本能を、今はたった一人の観客に向けて、惜しげもなく解放している。

 

「……モエ。書類に集中させてくれ」

「はーい」

 

口では引き下がるけれど、ソファの位置は動かない。

絢原さんの視界の端に、常に私がいるように。

彼が私以外の何かに意識を向ける隙を、一秒たりとも与えないように。

 

これは独占欲だ。

知ってる。

重いウマ娘だってことも、知ってる。

でも、今の私にはこの人しかいないんだから、しょうがないじゃん。

 

 

 

 

 

 

約束通り、カツ丼は二回食べた。

 

一回目は退院当日、家族で。

パパが「いい店を知っている」と言って連れて行ってくれた、住宅街の奥にひっそりと佇む定食屋。

年季の入ったカウンターと、油の匂いが染み付いた暖簾。

 

出てきたカツ丼は、見た目は素朴だけれど、衣がサクサクで、卵がとろとろで、甘辛い出汁が白米に染みて、控えめに言って最高だった。

ママは「太っちゃう」と言いながらぺろりと平らげていた。途中で「このタレに柚子胡椒入れたら美味しそう」と言い出して、パパが無言で卓上の調味料を遠ざけたのが面白かった。

その横顔があまりにも私と似ていて、絢原さんが微妙な顔をしていた。

 

二回目は一週間後、絢原さんと二人で。

「約束だったでしょ」と言ったら、彼は黙って車を出してくれた。

同じ店に行くのは芸がないので、別の店を探して、結局三十分くらい車で走り回って、知らない街の知らないカツ丼屋に入った。

味は、正直、一回目の方が美味しかった。

 

でも、絢原さんと向かい合ってカツ丼を食べるという行為そのものが、なんだかおかしくて、嬉しくて、ずっとニヤニヤしてしまった。

 

「……何笑ってるんだ」

「べっつにー。トレーナーがカツ丼食べてるの、なんか新鮮だなって」

「人間は飯を食う生き物だ」

「知ってるけどさ。トレーナーっていつも栄養バーとか缶コーヒーとかで済ませてるイメージだから」

「……否定はしない」

 

帰り道、助手席の窓を開けて、夏の湿った風を浴びた。

髪がばさばさと暴れるのを気にしないで、目を閉じて、風の匂いを吸い込む。

 

こういう時間が、ずっと続けばいいのに。

そう思った。

本気で。

 

 

 

 

 

 

七月に入ると、リハビリが本格化した。

 

週に二回、近くのスポーツクリニックに通う。

内容は地味だ。ストレッチ、軽い筋力トレーニング、プールでの歩行訓練。

レースの過酷さとは比べ物にならない、生温い負荷。

 

理学療法士の先生は、私の脚の状態を見て「回復は順調ですね」と言った。

「ウマ娘の回復力は凄い。このペースなら、日常生活にはすぐ戻れますよ」

 

日常生活。

その言葉に、私はにっこり笑って「ありがとうございます」と答えた。

 

日常生活には戻れる。

でも、「あの生活」には?

 

頭の隅を、タキオンさんの声がよぎる。

「安心したまえ、モエくん。君の脚は壊れてなんかいないよ」

 

……考えない。今は考えない。

 

プールから上がって、着替えて、待合室のソファに座る。

迎えに来た絢原さんの車に乗って、帰る。

車の中では、たわいもない話をする。

今日の天気。明日の予定。テレビで見たバラエティ番組の話。

レースの話だけは、しない。

どちらからともなく、その話題を避けている。

 

 

 

 

 

 

最初の発作は、七月の半ばだった。

 

買い物帰り。

ママと二人で、駅前のショッピングモールに行った帰り道。

両手にはいっぱいの紙袋。中身は、夏物のワンピースと、サンダルと、日焼け止めクリーム。

普通のウマ娘が、普通に買う、普通のもの。

 

横断歩道の信号待ちをしていた時だった。

 

視界の端を、何かが横切った。

 

ウマ娘だ。

ジャージ姿の、たぶんトレセン学園の生徒。

歩道を軽くジョギングしている。イヤホンをつけて、リラックスした表情で、ゆったりとしたペースで。

競走とは程遠い、ただの健康的なランニング。

 

それだけだった。

それだけのことだったのに。

 

脚の奥が、ずくん、と脈打った。

 

「……っ」

 

紙袋を持つ手が、一瞬だけ強張る。

ふくらはぎの筋肉が、微かに震えた。

心臓が、ドクン、と一つだけ大きく跳ねる。

 

……来た。

 

あの感覚。

病室で、廊下の足音を聞いた時に感じた、あの微かな疼き。

でも、今のは病室の時よりも、ほんの少しだけ、強い。

 

「モエ? どうしたの?」

 

ママが、怪訝そうに私の顔を覗き込んでいる。

 

「……ううん。なんでもない。ちょっと立ちくらみ」

 

嘘。

立ちくらみなんかじゃない。

 

信号が青に変わる。

ママに腕を引かれて、横断歩道を渡る。

反対方向に走り去っていくジョギング中のウマ娘の背中が、視界の端で小さくなっていく。

 

脚の疼きは、十秒ほどで消えた。

何事もなかったかのように、筋肉は沈黙を取り戻す。

 

……大丈夫。一瞬だった。動いてない。走り出してない。

 

私は紙袋を持ち直して、ママの隣を歩いた。

何もなかった顔をして。

 

でも、心臓はまだ少しだけ早鐘を打っていた。

 

 

 

 

 

 

それから、発作は少しずつ頻度を上げていった。

 

テレビをザッピングしていて、一瞬だけスポーツニュースの画面が映った時。

脚の奥が、ずくん。

 

散歩中に、公園で全力疾走している子供たちを見かけた時。

ふくらはぎが、ぴくり。

 

夜、ベッドの中でスマホを触っていて、SNSのタイムラインにレースの切り抜き動画のサムネイルが流れてきた時。

指先が、ほんの一瞬だけ、冷たくなる。

 

どれも一瞬だ。

どれも、すぐに消える。

病室を飛び出したあの日のような、爆発的な暴走には至らない。

ただ、体の奥底に沈んでいる何かが、外の世界に散らばっている微かな「熱」を感じ取って、ぴくり、ぴくりと反応する。

 

私は、そのたびに何事もなかった顔をした。

ママの前では。パパの前では。

 

そして、絢原さんの前では。

 

言えなかった。

言ったら、大事になる。

「モエの体がまた反応している」と知られたら、絢原さんは黙っていられないだろう。タキオンさんに連絡するかもしれない。病院に行こうと言うかもしれない。

 

せっかくの、穏やかな日常が壊れてしまう。

 

私はまだ、普通のウマ娘でいたい。

パンケーキを食べて、服を買って、絢原さんの仕事の邪魔をして、夜更かしをして。

その「普通」が、発作のたびに薄い氷の上に立っているような心許なさに変わっていくのを、私は一人で抱え込んでいた。

 

 

 

 

 

 

八月の頭。

 

絢原さんと二人で、夏物の服を買いに出かけた日のこと。

 

「ねえ、これとこれ、どっちがいいと思う?」

 

ショップの試着室のカーテンを開けて、二着のワンピースを交互に体に当ててみせる。

一つは白いシフォン生地の、風を含んでふわりと膨らむやつ。

もう一つは淡いブルーの、肩紐が細くて鎖骨が映えるやつ。

 

どっちもレースのためには一ミリも役に立たない、ひらひらして、風の抵抗だらけの、無駄の塊。

でも、だからいい。

そういう服を選べること自体が、私がもうあの世界にいない証だから。

 

「……どっちでも似合うと思うが」

「それ、一番困る答えなんだけど」

「じゃあ白い方」

「理由は?」

「……分からん。なんとなくだ」

 

なんとなく、かあ。

 

でも、絢原さんが「白」と言ったなら、白にする。

そこに深い理由なんか要らない。

この人が選んでくれたというだけで、十分すぎる理由になる。

 

レジに白いワンピースを持っていく途中、ふと目に入った。

店の奥のテレビモニター。音声はほとんど聞こえないけど、画面の中にいるウマ娘の顔は分かった。

 

ダイワスカーレット。

秋華賞の出走会見。勝負服姿の彼女が、マイクの前で何かを語っている。

画面の下部にテロップが流れている。『ダイワスカーレット、トリプルティアラへ――』

 

脚の奥が、ずくん。

 

「……っ」

 

手に持っていたハンガーが、カタンと小さな音を立てた。

指先が痺れる。脚が震える。

 

ダメ。ここでは、ダメ。

 

私は唇を噛んで、震える手でハンガーを握り直した。

三秒。五秒。七秒。

……消えた。

筋肉が沈黙に戻る。

 

レジに並ぶ。店員さんの「お会計こちらでーす」という明るい声。

財布を出す。お金を払う。紙袋を受け取る。

 

何事もなかった。

何事も、なかった。

 

店を出た後、絢原さんが何気なく聞いてきた。

 

「さっき、何かあったか」

 

ドキリとした。

 

「……ん? 何が?」

「ハンガー、落としかけてただろう」

「ああ、あれ? 手が滑っただけ。汗かいてたし」

 

嘘。

また嘘をついた。

 

絢原さんは「そうか」と短く答えて、それ以上は何も言わなかった。

でも、彼の横顔に一瞬だけ走った微かな影を、私は見逃さなかった。

 

……気づいてる。

全部じゃなくても、何かがおかしいことには、たぶん気づいてる。

 

でも絢原さんも、踏み込んでこない。

私が言わない限り、聞かない。

それが優しさなのか、臆病さなのか、それとも私と同じように、この穏やかな日常を壊したくないだけなのか。

 

二人の間に、透明な壁ができている。

「触れない話題」という名前の、見えない仕切り。

 

私の体に起きていること。

走ること。

これからのこと。

 

全部、壁の向こう側に置いたまま、私たちは甘い日常を続けている。

壁がいつか壊れることは、たぶん、二人とも分かっている。

 

 

 

 

 

 

八月半ば。

 

蝉の声が、朝から晩まで鳴り止まない季節。

 

絢原さんが差し入れに持ってきてくれたスイカを、縁側で食べた。

ママが「塩の代わりにこれかけると美味しいのよ」と謎の粉末を持ってきたけど、パパが静かに取り上げた。

種を飛ばす遊びをしたら、私の方が遠くに飛ばせて、ちょっとだけ得意になった。

 

「当たり前だ。ウマ娘の肺活量を舐めるな」

「えへへ。トレーナーのは全然飛ばないね」

「……種飛ばしに才能を費やす気はない」

 

縁側に並んで座って、切り分けたスイカを齧る。

赤い汁が顎を伝って、慌てて手の甲で拭う。

絢原さんが無言でタオルを差し出してくれる。

 

平和だった。

信じられないくらい、平和だった。

 

庭の向こうに見える青い空。入道雲が、もくもくと育っている。

風鈴の音。蝉の声。スイカの甘い匂い。

トレーニングの予定も、レースの日程も、体重管理のスケジュールも、何もない空白の午後。

 

ぼんやりと空を見上げていると、ふいに絢原さんが口を開いた。

 

「……悪くないな」

「え?」

「こういう時間も、悪くない」

 

珍しいことを言う人だ、と思った。

この人はいつも、何かに追われるように働いている人だったから。

タブレットの画面を睨んで、データと睨み合って、一秒でも無駄にしまいとする人だったから。

 

その人が、縁側でスイカを食べて「悪くない」と言っている。

なんだか嬉しくて、でも同時に、少しだけ胸がちくりとした。

 

この人をここに縛り付けているのは、私だ。

本来なら、別の才能あるウマ娘を導いて、輝かしいキャリアを歩んでいたかもしれない人を、こんな縁側に座らせている。

 

「……トレーナー」

「ん」

「ごめんね」

「何がだ」

「……ううん。なんでもない」

 

スイカの種を、もう一つ飛ばした。

今度はあんまり飛ばなかった。

 

夕方になると、絢原さんは帰る。

玄関先で見送る時、私はいつも最後まで手を振る。

彼の車が角を曲がって見えなくなるまで、ずっと。

 

それから部屋に戻って、ベッドに倒れ込む。

天井を見つめる。

エアコンの駆動音だけが、静かな部屋に響いている。

 

右の脚が、微かに熱を持っている気がする。

いや、気のせいかもしれない。

 

手のひらを脚に当ててみる。

……冷たい。私の手が冷たいのか、脚が冷たいのか。もう分からない。

 

今日は発作が一度もなかった。

それが嬉しいはずなのに、なぜか安心しきれない。

来ないなら来ないで、「いつ来るか」という緊張が、ずっと腹の底に居座っている。

 

爆弾を抱えて生活している感覚に、似ている。

いつ爆発するか分からない。でも爆発しない日が続くと、逆に「そろそろじゃないか」と身構えてしまう。

 

一生このまま、びくびくしながら過ごすのだろうか。

甘いものを食べて、可愛い服を着て、絢原さんに甘えて。

その全部が、いつ体に裏切られるか分からない薄氷の上。

 

……考えたくない。考えたら、負けだ。

今日も何事もなかった。明日もきっと何事もない。

そう信じて目を閉じれば、とりあえず今日は乗り越えられる。

 

蝉の声が、ひときわ大きくなった。

夏は、まだ終わらない。

 

この穏やかな時間が、永遠に続くなんて思っていないけれど。

せめてもう少しだけ。

もう少しだけ、この甘い嘘の中にいさせてほしい。

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