寮へ帰ってシャワーを浴びても、脚の重さは取れなかった。
ベッドへ腰を下ろし、鞄からスマホを取り出す。レース場を出てから一度も開いていなかった画面には、LANEの通知が溜まっていた。ママからのメッセージもあったけれど、今は読めなかった。
部屋の明かりを消して横になると、シーツが腿に擦れた。寝返りを打つだけで、今日どれだけ無茶をしたか分かる。それでも目を閉じれば、直線で見た背中が浮かんでくる。追いつこうとしていた相手まで後ろへ下がってきて、その横を、また別の子が抜けていった。
私は、みんなに抜かれた。
スマホを顔の上へ持ち上げ、検索欄に自分の名前を入れた。
『カレンモエ、1番人気に応えられず16着』
写真は、ゲートを出たところだった。私だけが少し前へ出ていて、後ろの子たちの顔まで写っている。記事を開く前に、下へ指を滑らせた。
『2000は長すぎる。使う方が悪い』
『素直に短距離に行けばいいのに』
『お母さんと同じ路線なら応援する』
「……じゃあ、しなくていいよ」
声に出してから、部屋の入口を見た。マーチャンはまだ帰っていない。誰も聞いていないのに、また小さく言い直した。
「応援してくれなくて、いいから」
その書き込みをしたアカウントの画像には、ママが写っていた。昔の勝負服で笑っている。どのレースの後に撮られた写真かも知っていた。
この人は、今日の私を見ただろうか。直線で動かなくなった脚も、最後まで振っていた腕も。それとも、着順の数字だけを見て、そう書いたんだろうか。
画面を閉じかけた指が止まる。もう少し下には違うことが書いてあるかもしれないと、また続きを読んでしまった。
『顔だけは本当にそっくり』
スマホを裏返し、枕の脇へ押しやった。
私が2000を走りたいと言った。トレーナーに走らされたわけじゃない。帰り道でも、次も同じ距離がいいと言った。
でも、また負けたらどうするの。
あの人が本当に困った顔をしたら。次は距離を変えようと、あの真面目な声で言い出したら。
枕へ顔を押しつけると、濡れた髪が頬に張りついた。疲れているのに眠れない。鞄にはパパのハンカチが入ったままだった。明日、洗って返さなきゃいけないのに、取りに起きるのさえ嫌だった。
「……次は、抜くって言ったのに」
喉の奥が詰まり、最後はうまく声にならなかった。
~~
翌日の放課後、モエは約束の時間にトレーナー室へ来た。
歩く様子を見て脚の張りを確かめ、今日は走らせないと伝えると、少しだけ肩の力が抜けた。椅子へ座った後は鞄を膝に置いたまま、机に広げてある記録を見ている。
「映像、見たんでしょ」
「ああ。君にも確かめたいところがある」
「最後まで見るのは嫌」
「まず、スタートだけでいい。どこで抑えようとしたのか教えてくれ」
モエはモニターへ顔を向けた。俺が再生すると、ゲートが開く直前に鞄の持ち手を握り直した。
飛び出したモエの上体が起きる。隣にいた走者から離れ始めたところで、彼女が画面を指した。
「ここ。後ろに入ろうと思ったの」
映像を止めた。
「腕を小さくした時か」
「うん。でも、脚まで変な感じになって。転びそうで踏んだら、また前に出ちゃった」
俺はその数歩を戻して見た。昨晩も繰り返し見た箇所だったが、本人の言葉を聞くと、腕の動きばかり追っていたことに気づく。接地した足の上へ、身体がうまく乗れていなかった。
「ここで踏み直したんだな」
「……そう。練習でもなるでしょ。それで前に誰もいなくなって、どうしていいか分かんなかった」
机の記録へ書き込んだ。モエは止まった画面を見つめていたが、俺が再びマウスへ触れると、膝の鞄を抱え込んだ。
「今日はここまでにしよう」
画面を閉じ、代わりに次の予定を机へ出した。
7月、福島。芝2000mの未勝利戦。
モエは日付を見て、それから俺へ視線を上げた。
「もう、決めたの?」
「候補だ。脚が戻って、練習を見てから決める。昨日、次も2000がいいと言っていたから探した」
「……言ったけど」
指先で紙の端を押さえた。しばらく日付を見ていたので、俺はそのまま待った。
「今度はどうするの。後ろに入れって言われても、昨日みたいになったら同じだよ」
「目標になる相手がいる状態で、練習したい。まずは俺が自転車で前を走る。離れて走り始めて、追いついてしまう前に距離を保つ。途中からでも、後ろについて走れるか試そう」
「自転車?」
「ああ。君が普段走る速さにはついていけないが、ゆっくり走る練習なら使える」
「……ぶつかったら知らないよ」
「そこは十分に空ける。近すぎたら追わずに外してくれ」
前半1000m、60秒2。机の端に置いたラップ表へ目を落とす。
時計を遅くするだけなら、何度も速度を落とせばできる。練習でも、数字だけは狙いに近づいたことがあった。その後でモエが膝へ手をつき、息を整えるまでにかかった時間を、俺は同じ頁へ書いている。
次は、その疲れ方も見なければならない。
「楽に走れたかも、その都度聞かせてほしい。時計が合ったからできたことにはしない」
「楽じゃなかったら?」
「どこで苦しくなったか聞く。止まりそうなのを無理に続けさせても、昨日の走りは変わらない」
モエは鞄を椅子の脇へ下ろした。机の上の予定表を手元へ引き寄せ、もう一度、福島の文字を読んでいた。
「走るよ、そこ」
「分かった。まずは疲れを取ろう」
「ちゃんと考えてね。私、もう16着は嫌だから」
「ああ」
頷くと、彼女は紙を半分に折って鞄へ入れた。
~~
脚の張りが引いてから、練習を再開した。
朝のコースを、自転車で先に走る。十分に間を空けてついてきたモエは、最初の直線で早くも距離を詰めた。俺が後ろを確かめると、彼女は上体を起こして速度を落とし、その数歩後にはまた近づいてきた。
「そのまま外へ出てくれ。無理に後ろへ入らなくていい」
モエが外側を抜け、少し先で足を止めた。自転車を降りて横へ行くと、彼女は腰に手を当て、コースを睨んでいた。
「間を空けるって、分かってるんだけど」
「詰まる前に落とそうとしたのは見えた」
「落としたら離されるし、追いついたら近すぎるし。ずっとそればっかり」
額に浮いた汗を、手の甲で拭った。
同じ速さで長く走る練習を組んだつもりだった。だが、前との間隔を保とうとするほど、モエは踏み込んでは緩め、また踏み込んだ。自転車との距離が揃っているように見える時も、足元ではそれが続いていた。
長い1本にせず、短い区間で休みを挟むようにした。走る位置や、俺が先に出る距離も変えた。モエは文句を言いながらも、合図の場所へ戻ってきた。
プールの日には、コースへ出たがる彼女を連れて屋内へ移った。
水から上がってくると、白い髪が頬に張りつき、肩から何度も雫が落ちた。手渡したタオルで頭を包んだまま、モエは壁の時計を見た。
「泳ぐのはいいけど、これで走れるようになるの?」
「脚への負担を減らして練習を続けられる。走り方の方は、コースで探す」
「そっちは、全然見つかんないね」
俺は返事を探したが、その間に彼女はタオルへ顔を埋めた。
「……分かってる。今すぐ何とかしろって言っても、無理なんでしょ」
翌朝も、モエはコースへ来た。練習を短く切り上げた日は、まだ動けると食い下がり、走れば遅さに苛立った。速く走りたいのだと俺は思っていたが、休憩中に水を頭から被った彼女は、違うことを言った。
「ずっと脚を突っ張ってるみたいで、嫌なの。ゆっくりなのに、休めてない」
濡れた前髪を掻き上げる。渡したタオルを受け取り、乱暴に髪を拭いた。
「他の子って、あれで楽なんでしょ。どうやってるの」
「……俺にも、まだ分からない」
「だよね」
タオルの下から短い息が漏れた。
その日の練習を終え、モエが着替えに行った後、自転車を押しているとキングヘイローに呼び止められた。
栗毛を揺らし、こちらへ歩いてくる。手にした紙袋が傾かないように持ち直しながら、俺の顔を見た。
「モエさんは?」
「着替えています。もう戻ってくると思いますが」
「なら、これを冷やしておいてちょうだい。ウララさんからの差し入れよ」
袋の中には、ニンジンゼリーが並んでいた。小さな箱が別に入っていて、取り出そうとすると、キングが説明を足した。
「そちらはアタクシから。香りが苦手でなければ、寝る前に使ってみてと伝えて。使い方は中に入っているわ」
「ありがとうございます」
「あの子、眠れているの?」
今朝も少し寝不足だと言っていた。俺がそう答えると、キングはコースの方へ目を向けた。
「練習が終わってからまで、走れなかったところを数えさせないであげて。休み方が分からなくなるわ」
「……俺も、聞きすぎていたかもしれません」
「貴方までそんな顔をしないの。顔を合わせるたびにお互い暗くなっていたら、息が詰まるでしょう」
紙袋の持ち手を、俺の手へ掛け直した。
「あの子、自分の脚を叩いていたわ。さっき、休んでいる時に」
俺は更衣室の入口を振り返った。水を持ちに離れた間だろうか。タオルを渡した時には気づかなかった。
「言うことを聞かないのが腹立たしいのは、分かるけれど……。次も走ってもらう身体でしょう。嫌いになってしまう前に、休ませてあげて」
キングは言い終えると、自分の練習へ戻っていった。
モエが戻ってきたので、紙袋を見せた。中を覗くと、彼女の耳がわずかに動いた。
「ゼリーだ。……こんなに?」
「ウララからだそうだ。こっちの箱はキングから」
箱を手に取り、裏の説明を読む。少し考えてから、袋へ戻した。
「マーチャンに、匂いが平気か聞いてからにする」
「ああ。その方がいい」
歩き出そうとすると、モエが袋をこちらへ向けた。
「トレーナーも1個食べれば。ずっと自転車漕いでたんだから」
1つ受け取り、机のある部屋へ戻った。冷蔵庫へ袋を入れる間、モエは窓際の椅子に座っていた。俺も記録帳を閉じ、受け取ったゼリーを一緒に冷やした。
~~
7月の福島は、パドックの周りに立っているだけで汗が滲んだ。
モエの名前には、今日も多くの視線が集まった。2番人気。前走の16着を知っていても期待する客はいて、柵の向こうから、今度こそと声が掛かった。
彼女は顔を向けず、前を歩く走者との間隔を保っていた。
数週間の練習で、出だしから飛び出さずに済むことは増えた。先に行くものを見送ってから走り出せば、少なくともすぐには追いつかない。だが、その後を楽に走れたと言った日はなかった。
今日の目標は、先行する相手の後ろで運ぶことだった。近づきすぎない距離を取り、脚を使い切る前に直線へ向かう。そのために練習を続けた。
レースへ向かう前、モエは俺の説明を最後まで聞いてから言った。
「後ろには入る。でも、勝てそうだったら行くよ」
「前が開いたらな。無理に狭いところへ入るなよ」
「分かってる。ちゃんと見てて」
「ああ」
モエは一度だけ頷き、コースへ出ていった。
ゲートが開くと、彼女はすぐには飛び出さなかった。隣の走者を先に行かせ、数歩遅れて加速する。その勢いで前との差が詰まったが、最初のコーナーに入る手前で上体を起こし、前を横切っていく集団を見送った。
俺は双眼鏡を目へ当てた。
モエは中団の内側にいた。前を行く背中との間に余地を取り、外側にも別の走者が並んでいる。先頭から大きく離されてはいない。
『カレンモエは中団で運んでいます。前回とは変わって、控える形になりました』
第2コーナーを回り、向こう正面へ出た。先頭の1000m通過は63秒2。モエも間を置かずにその地点を通る。
まだ集団の中にいる。このままなら、追い出す余力が残るかもしれない。
そう思いながら見ていると、前の走者との間隔が詰まった。モエの腕が小さくなり、身体が起きる。少し離れたと思うと、数歩でまた前へ近づいていた。
自転車の後ろで繰り返していた動きだった。
集団は同じ速さで流れている。その中で、モエだけが前との距離を何度も変えていた。内側へ寄って身体が隠れ、次に見えた時には、肩が大きく上下している。
第3コーナーの手前で、外を走っていた子が進出した。
モエもついていこうとしたが、前にいる相手との間が詰まり、また速度を落とした。その間に外の走者が半馬身、1馬身と先へ出る。
「外だ、モエ……」
彼女は顔を外へ向けていた。走者が続いていて出られない。前の背中へ近づき、詰まった脚を引き直す。外側の列が途切れたところで、ようやく進路を移した。
第4コーナーを回る。先頭の2人が、すでに直線へ向いていた。
モエの前も開いた。
「行けっ!」
腕が大きく振られ、白い髪が後ろへ流れた。前にいた子へ追いつき、肩を並べる。そこからもう一段伸びてほしかったが、すぐには離せなかった。
モエは食い下がる相手を外から押し切り、前へ出た。
あと2人。
先頭はまだ遠かった。2番手の子も追い始めていて、モエが抜いた相手を離す間に、前との差が開いていく。
「モエ、前だ! 追え!」
双眼鏡を下ろした。目の前を走っていくモエは口を開け、顎を突き出すようにして前を追っていた。腕を引くたびに上体が振れる。それでも脚を止めず、迫ってきた後続を、もう一度突き放した。
ゴール板を通過する。
3着だった。
勝った子から3馬身。モエが足を緩める頃には、前で腕を上げる姿があった。
俺はゴールで止めた時計へ目を落とし、手元の数字を書き留めた。隣では、前走よりずいぶん良くなったと話している客がいた。
コースの向こうで、モエが先頭だった子を見ていた。しばらく顔を向けたまま、呼吸を整えるためにゆっくり歩いていた。
~~
ウイニングライブで、モエは勝者の隣に立った。
照明が当たると、客席へ向けて笑った。曲に合わせて踏み出し、隣へ向き直る動きも揃っている。レース後には張りが強いと言っていた脚で、最後の振りまで踊り切った。
中央の子が前へ出る。歓声を受けて手を振るその横で、モエも腕を上げた。
俺は客席から拍手を送ったが、彼女がこちらを見たかは分からなかった。
ライブを終え、控室へ続く通路へ出てくると、モエは俺の持つタオルを取った。壁際のベンチへ座り、頭から被る。レースの直後には、ライブの準備をしなきゃと、ほとんど話さなかった。
「……前、開いたのに」
タオルの下から声がした。
「見えてたんだよ。ここで行けば勝てるって、思ったのに。脚が全然、動かなかった」
俺は隣に立ち、彼女が続けるのを待った。
「あんなに我慢したのに。前にも出なかったし、ずっと抑えてたのに」
「何度も踏み直していたな。向こう正面でも」
「だって、すぐ前の子にぶつかりそうになるんだもん。離れたら追わなきゃいけないし、追ったらまた近いし……。最後に走ろうとしたら、もう脚が重くて」
濡れたタオルを膝へ落とし、顔を上げた。
「ちゃんと言われたとおりにしたよ」
「ああ。見ていた」
「じゃあ、なんで勝てないの」
俺は、手にしていた記録を閉じた。
同じ2000mで、16着から3着になった。直線で抜き返す脚もあった。その結果だけを見れば、次はもう少しと考えたくなる。
だが、モエが話しているのは、練習の時から変わらない苦しさだった。道中の数字を落とせても、その間に脚を休められていなかった。
「前半を遅くできれば、もっと脚が残ると思っていた。今日の走り方では、思ったほど残せなかった」
「……また、抑える練習?」
声に疲れが滲んでいた。俺が答える前に、通路の角から別の声がした。
「これ以上、小さく走ってどうするのよ」
赤茶色の長いツインテールを揺らし、ダイワスカーレットが歩いてきた。制服姿で腕を組み、ベンチの前で止まると、モエを見下ろした。
「見てたの?」
「ええ。あの位置なら、最後は来ると思ったわ」
「来なかったね。悪かったね」
「何を拗ねてるのよ。向こう正面から、ずっと窮屈そうだったじゃない。前の子に近づいては離れて、コーナーに入る前から息が上がっていたわ」
モエが膝のタオルを握った。
「そうしないと、前に出ちゃうんだもん。出たら持たないの。この前のレース、見てないの?」
「見たわよ。だから、今日はどう走るのか見に来たんじゃない」
スカーレットは俺へも目を向けた。
「最後に使いたい脚を、あそこで使っていたら勝てないでしょう」
「……そのとおりだ」
俺が答えると、モエはタオルから手を離した。
「じゃあ、どうすればいいの。飛ばしても駄目で、後ろにいても駄目で。私だって、前に誰もいないところを走りたいよ!」
声が通路に響いた。奥から来たスタッフが足を緩め、俺たちの前を静かに通り過ぎた。
スカーレットはモエから目を逸らさなかった。
「だったら、そこで勝つ方法を考えなさいよ。アンタの前に出る速さまで、捨てなくていいでしょう」
「それができれば、苦労しないってば……」
モエは顔を伏せた。スカーレットはしばらく黙っていたが、組んでいた腕を解いた。
「簡単だなんて言ってないわ。でも、あのまま走っていれば勝てるとも思わない」
彼女の声に、モエが顔を上げる。
「ティアラを目指すんでしょう。だったら、早く勝ち上がってきなさいよ。アタシはそこで1番を取るつもりなんだから」
「……私に言うこと、それ?」
「そうよ。アンタだって、3着でいいと思ってないでしょう」
モエは答えなかった。膝に置いたタオルを畳もうとして、途中でやめた。
スカーレットはそれ以上言わず、通路を戻っていった。角を曲がる直前に一度だけ振り返ったが、モエが見ていると分かると、そのまま歩いていった。
足音が遠ざかるまで、俺たちは黙っていた。
「……勝手だよね」
モエが呟いた。
「自分は1番取るから、上がってこいって。私、まだ1回も勝ってないのに」
声が少し震え、彼女は膝のタオルへ目を落とした。
俺はベンチの端へ鞄を置き、その隣へ座った。記録を膝の上で開くと、モエの視線もそちらへ落ちた。
「今日のこと、もう少し聞かせてくれ。前が開いた時には、どこが一番きつかった?」
彼女は自分の腿に触れた。
「ここ。その前から張ってて、脚を出そうとしても、いつもみたいに伸びなかった。……でも、横にいた子には負けたくなかった」
「ああ。抜いてからも、食い下がってきたな」
「抜き返されたら、嫌だったから」
話を聞きながら書き込んだ。勝者を追う姿ばかり見ていた俺に、モエはその前の数歩を話した。少しずつ言葉が増え、俺が記録するのを待ってから、思い出したことを付け加えた。
書き終える頃、控室の方から片づけの音が聞こえてきた。
モエは立ち上がり、タオルを腕へ掛けた。制服へ着替えてくると言いかけて、こちらを見た。
「トレーナー。次は、あそこに立ちたい」
通路の先を見ていた。ステージはもう暗く、客席へ続く扉も閉じられている。
「真ん中?」
「うん。隣で踊るの、もう嫌」
彼女はそれだけ言うと、控室へ歩いていった。
俺はラップ表をもう一度開いた。余白にモエの言葉が並んでいる。前についた時から苦しく、何度も脚を突っ張り、ようやく走れる場所へ出た時には伸びなかった。
自転車の後ろで、それを繰り返させていた。
次の練習にも入れてあった同じメニューへ、線を引いた。何を代わりに書くか決まらないまま、しばらくペンを持っていた。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。