敗戦の夜。寮の自室。
部屋は暗い。ルームメイトのマーチャンはまだ帰っていない。
ベッドの上で、スマホの画面だけが顔を青白く照らしている。
指先がスクロールする。並んでいるのは、予想通りの言葉たちだった。
『カレンモエ、まさかの大敗』
『1番人気16着。距離の壁は厚かった』
『やっぱり血統には逆らえない』
『1200mなら最強だったのに』
「……そんなの、分かってるってば」
低い声。震えている。
「みんなして、知ったような口を……」
スマホを放り投げた。布団の上に落ちて、鈍い音。
分かっている。彼らの言うことは正しい。今日のレース、自分は無様に負けた。1200メートル地点までは誰よりも速く、そこから先は誰よりも遅かった。スプリンターであるという動かぬ証拠。
けれど、認めるわけにはいかない。ここで「やっぱり短距離に行きます」と言ったら、私は一生、ママのコピーとして生きることになる。
枕に顔をうずめた。バタバタと足を動かす。行き場のない感情が、喉の奥でくぐもる。
「うぅ……っ、バカ、バカ……!」
悔しい。負けたことじゃない。自分の体が、自分の意志を裏切ったことが、何よりも許せなかった。
~~
翌日。放課後のトレーナー室。
机の上にラップタイム表とスケジュール表が広げてある。俺はコーヒーを一口飲んで、向かいのモエを見た。頬を膨らませて腕を組み、窓の外を睨んでいる。
「昨日のレース映像、見返したか?」
「見てない。見たくもないもん」
「なら、俺が解説する」
モニターにリプレイを映した。弾丸のように飛び出すモエ。美しいフォーム。圧倒的なスピード。そして、第3コーナーからの失速。
「消してよ」
「見ろ。現実から逃げるな」
俺は冷徹に言った。
「敗因は明確だ。速すぎた」
「嫌味?」
「事実だ。前半1000メートル、58秒2。2000メートルのレースで出していいタイムじゃない」
ラップ表を指差した。
「前にも言ったが、君の体は出力の調整が利かない。ゲートが開いた瞬間、筋肉が勝手にトップスピードを出力してしまう。ギアが一速と五速しかない車と同じだ。中間の回転数で巡航するという選択肢が、そもそも体の構造にない」
モエが唇を噛んだ。
「じゃあ、どうすればよかったのよ」
「抑えようとしたよ。無理やりブレーキをかけるみたいに。でも、止まらなかった」
「ああ、見ていた。君は戦っていた」
俺は頷いた。
「だから、次の課題は抑制だ。スピードを殺す練習をする」
「殺す?」
「ゆっくり走る。長く走る。退屈で、苦しいトレーニングになる」
それは彼女の天性を否定する行為だ。全力を出せないストレスは、走ることを愛するウマ娘にとって計り知れない。だが、2000メートルを走り切るには、自分の本能を飼い慣らすしかない。
「……やる」
即答だった。
「泥水を啜ってでも、這いつくばってでも、あいつらを見返したい」
「いい目だ」
俺はスケジュール表を指差した。
「7月、福島レース場。芝2000メートル、未勝利戦」
「……また2000?」
「逃げないと言っただろう」
普通なら距離を短縮して勝ち癖をつけるのがセオリーだ。1200メートルなら今のままでも楽勝だろう。だが、それでは意味がない。
「ここで勝てなければ、オークスなんて夢のまた夢だ」
「望むところ」
モエは立ち上がった。
「証明してやる。私の体が2000メートルを走れないなんて、誰にも言わせない」
~~
その日から、地味で過酷な日々が始まった。
メニューは一変した。タイムトライアルやダッシュは禁止。代わりに組み込まれたのは、ひたすら長い距離を一定のペースで走り続けるLSD(ロング・スロー・ディスタンス)と、プール練習。
「遅い! ペースが上がってるぞ!」
朝のコース。俺は自転車で並走しながら、ストップウォッチと睨めっこしていた。
モエは苦悶の表情を浮かべている。全速力で走る方がよほど楽なのだ。溢れ出そうとするパワーを無理やり押し込め、ゆっくりと足を動かす。暴れる猛獣に首輪をつけて散歩させているようなものだ。
ただ、これは精神力の問題だけではなかった。モエの体には「中間の出力」という概念がそもそもない。全力で走るか、止まるか。その二択しかできない体に、60パーセントの出力を強いている。存在しないギアを無理やりねじ込んでいるようなものだ。当然、体中が軋む。
「……あーもう、イライラするっ!」
休憩中、ボトルの水を頭から被りながら、濡れた髪を乱暴にかき上げた。
「もっと速く走れるのに。体がウズウズして、爆発しそう」
「それを我慢しろ。爆発させるのは直線だけだ」
タオルを渡した。
「今の君は火薬を撒き散らしながら走っている。最後まで取っておくんだ」
「分かってるよ」
ムスッとしながら顔を拭うモエ。その様子を、遠くから眺めている視線があった。
「あらあら。相変わらず、不器用な戦い方ね」
キングヘイローだ。
「キング先輩」
俺が会釈すると、優雅に近づいてきた。
「見ていられないわね。あの子、ストレスで胃に穴が空くんじゃないかしら」
「かもしれません。ですが、ここを乗り越えないと」
「フン。一流は、我慢強さも一流であるべきよ。……とはいえ、ストレスの逃がし方くらいは覚えさせなさいな」
紙袋を押し付けてきた。
「差し入れよ。ウララさんが『モエちゃんにあげて!』ってうるさいから、仕方なく」
「ありがとうございます。……中身は?」
「高知産の最高級ニンジンゼリー。疲労回復にいいわ。……それと、こっちはリラックス効果のあるアロマオイル。寝る前に枕元に一滴垂らすのよ。寮の部屋でも使えるものを選んであるから」
絶対キング先輩が自分で選んだやつだ。ありがたく受け取った。
「あの子に伝えておきなさい。『自分の体を敵だと思っているうちは、まだ半人前』と」
「……」
「体が言うことを聞かないのは、仲直りできていないだけよ。……ま、それはアタクシ自身にも言えることだけれど」
キングヘイローはそれだけ言って、去っていった。
走りについては何も聞かなかった。タイムも、作戦も、距離のことも。ただ食べ物と香りで包んで、一言だけ核心を置いていく。いつもそうだ。
だが、その一言は重い。「体と仲直り」——今のモエは自分の体を敵として扱っている。ねじ伏せる対象。支配すべき獣。それではいつか限界が来る。
——いや、すでに限界は来ているのかもしれない。存在しないギアを作ろうとしている時点で、方向が間違っている可能性がある。
だが、今の俺には他の手が思いつかない。
紙袋を握りしめて、コースへ戻った。
~~
数週間後。未勝利戦の日。
福島レース場。「カレンモエ」の名前は、前走の大敗にも関わらず注目を集めていた。人気は2番人気。「カレンチャンの娘」への未練を捨てきれない人々が、まだ彼女に投票している。
パドック。モエは前回より落ち着いているように見えた。だが瞳の奥に、ギラギラとした飢餓感が渦巻いている。
「調子は?」
「悪くない。イライラするくらい、体が軽い」
「今日は我慢のレースだ。スタートで出遅れてもいい。誰かの後ろにつけ」
「分かってる」
徹底的なマーク戦法。逃げウマの後ろに張り付き、風除けを使い、強制的にペースを落とさせる。今は形振り構っていられない。
「行ってこい。今度こそウイニングライブのセンターを奪ってこい」
「当たり前でしょ」
モエはターフへ向かった。
~~
ゲートが開いた。
モエのスタートは今回も抜群だった。だが、即座に体を起こしてブレーキをかけた。行こうとする足を、必死に止める。
抑えた。
先頭集団を見送り、中団の内側、馬群のポケットに潜り込んだ。前後左右を囲まれて動けない位置。これなら暴走しようがない。
1000メートル通過、61秒フラット。前走とは比較にならない落ち着いた流れ。
——いける。直線で弾けられる。
俺は勝利を確信しかけた。
だが、第3コーナーを過ぎたあたりで異変が起きた。
モエの走りがぎこちない。呼吸が荒くなり、上体が不自然に起き上がっている。ペースを抑え込もうとするあまり、フォームが強張り、リズムが崩壊しかけている。
抑え込みすぎた反動だ。「走りたい」「前に出せ」という本能が、理性の檻を食い破ろうとしている。モエは必死にそれをなだめようとしているが、その格闘自体が、無駄なスタミナを浪費させていた。
体の中で、存在しないギアを探して空回りしている。全力と停止の間を行ったり来たりしながら、どちらにも定まれない。走っているのか、自分と戦っているのか、もう区別がついていない。
第4コーナー。直線。前が開いた。
「行けェッ!!」
モエがスパートをかける。だが、伸びない。道中の格闘で精神力とスタミナを使い果たしていた。ジリジリとは伸びるが、キレがない。他の子たちと一緒に流れ込むような、凡庸な末脚。
3着。1着から3バ身離された完敗だった。
~~
レース後のウイニングライブ。
モエはステージの上に立っていた。上位3名だけが許されるセンターステージ。だが彼女がいるのは中央ではない。1着の横、サブセンターの位置だ。
完璧なダンス。アイドルの笑顔。だが、目は笑っていなかった。
ライブが終わり、照明が消えた薄暗い通路。モエは壁に手をついていた。
「なんで」
震える声。
「あんなに我慢したのに。あんなに抑えたのに」
汗を拭った。
「最後、全然動かなかった。足が石みたいだった」
俺はかける言葉が見つからなかった。作戦は間違っていなかったはずだ。だが結果はついてこなかった。暴走は止められた。だが勝利には届かなかった。
「迷いがあるうちは、勝てないわよ」
不意に声がした。通路の角に、腕を組んだウマ娘が立っている。ツインテールに勝気な瞳。ダイワスカーレット。
「見てらんないわね。レース中ずっと自分の体と喧嘩してたじゃない」
「なによ、それ」
「『走りたくない』って顔しながら走って、勝てるわけないでしょ。馬群の中で縮こまって、小さくなって。そんなの、アンタの走りじゃないわ」
スカーレットはモエの武器が過度な抑制によって殺されていたことを見抜いていた。
「アンタの良さは、誰にも止められないスピードでしょ。それを殺してどうするのよ」
「だって、抑えなきゃ持たないんだもん! 2000メートルなんだから!」
「なら、持たせなさいよ。自分の武器を捨てずに勝ち切る方法を考えなさい」
くるりと背を向けた。
「次は、もっとマシな走りを見せてよね。アンタのその茨の道を行く覚悟、笑うつもりはないわ」
肩越しにチラリとモエを見た。
「むしろ感心してるくらいよ。だからこそ、アタシが倒すべきライバルは、中途半端に縮こまったアンタじゃない。迷いを捨てて、全力を出してくるアンタよ」
去っていった。トゲのある言葉だが、確かな期待が含まれていた。
モエは壁をドンと叩いた。
「次は……次は、絶対に負けないんだから……!」
未勝利戦での敗北。「抑えても勝てない」という事実は、俺たちの戦略を根底から揺るがすものだった。
スピードを殺せば持たない。スピードを殺さなければ持たない。どちらを選んでも破綻する。
——もしかしたら、問題は「抑えるか抑えないか」ではなく、そもそも「抑える」ということ自体が、この子の体にはできないのかもしれない。
だが、その考えの先にある答えが、俺にはまだ見えなかった。
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