九月になっても、夏の残り火はしつこく居座っていた。
朝晩はいくらか涼しくなったけれど、日中の陽射しはまだ容赦がない。
蝉の声がツクツクボウシに変わって、入道雲の輪郭が少しだけ痩せた。
それでも風は湿っていて、空気の底にべったりと夏が張り付いている。
私の体も、同じだった。
反応は、消えなかった。
消えるどころか、少しずつ、確実に強くなっていた。
八月の終わりまでは、「ぴくり」で済んでいた。
微かな疼き。一瞬の震え。すぐに消える。
怖いけれど、やり過ごせる。見なかったふりができる。
でも、九月に入ってからは、質が変わった。
リハビリの帰り道。
クリニックの駐車場に向かって歩いている時、隣の公園のトラックで走っている一団が目に入った。
地元の陸上クラブだろうか。中学生くらいの子たちが、コーチの号令に合わせてダッシュを繰り返している。
ずくん。
脚の奥で、何かが脈打つ。
いつもの疼き。でも、今日のはいつもより深い場所から来ている。
ずくん。ずくん。
心臓と連動するように、脚の筋肉が鼓動する。
指先が冷たくなる。手のひらに汗が滲む。
「……っ、」
立ち止まってしまった。
歩道の真ん中で、紙袋を握りしめたまま、動けなくなった。
公園のフェンス越しに見える、走る子供たちの姿。彼女たちの荒い呼吸。地面を蹴る足音。
私の体が、それを聴いている。
筋肉の一本一本が耳を澄ませて、外の世界の何かを必死に拾い集めている。
今までの反応とは、明らかに違う。
「ぴくり」ではない。もっと深く、もっと長く、体の芯に食い込むような疼き。
消えない。十秒経っても、二十秒経っても、脚の奥の鼓動が収まらない。
走り出しはしなかった。
着火には至らなかった。
でも、体が「走りたがっている」のが分かる。
私の意志とは関係なく、筋肉と細胞が、あのフェンスの向こうに向かって手を伸ばしている。
三十秒。四十秒。
「……お待たせ。車、回してきた。……モエ?」
絢原さんの声で、糸が切れたように体から力が抜けた。
脚の鼓動が、すっと静まる。
まるでスイッチが切れたみたいに、唐突に。
「……あ、うん。ごめん、ぼーっとしてた」
笑った。
いつも通りの笑顔を作った。つもりだった。
でも、今回はうまくいかなかった。
「……モエ」
絢原さんが、車のドアを開けたまま、じっと私を見ている。
その目には、問い詰めるような鋭さはない。
ただ、静かに、真っ直ぐに、私を見ている。
「お前、最近――」
「大丈夫だよ。なんでもない」
遮った。
反射的に、壁を立てた。
絢原さんは、一瞬だけ口を噤んだ。
それから「……乗れ」とだけ言って、運転席に回った。
車に乗り込む。シートベルトを締める。エンジンがかかる。
いつも通りの動作。いつも通りの車内。いつも通りの沈黙。
でも、今日の沈黙は、いつもと違った。
「触れない話題」を避けているだけの沈黙ではない。
壁のこちら側にいる私と、壁の向こう側にいる絢原さんの間で、何かが軋んでいる音がする。
私は窓の外を見た。
流れていく景色。信号。横断歩道。公園。走っている人。
目を逸らす。
でも、街中のどこを見ても、「走っている誰か」がいる。
逃げ場がない。
指先が、まだ少しだけ冷たかった。
~
限界は、その三日後に来た。
夕食後。
リビングのソファで、ママと一緒にテレビを見ていた。
パパは書斎にいる。絢原さんはもう帰った後。
ドラマの途中でCMに切り替わった。
何の変哲もない、ビールのCM。
画面には、夏の海辺を全力で駆けていく若者たちの姿。
ウマ娘ですらない。ただのビールのイメージ映像。
それだけだったのに。
ずくん。
来た。
ずくん。ずくん。ずくん。
深い。今までで一番深い。
脚の奥ではなく、腹の底から突き上げてくるような鼓動。
両脚の筋肉が、同時に波打った。
ふくらはぎ。太もも。腸腰筋。全部が一斉に脈打っている。
「……ッ、」
ソファの上で、体が跳ねた。
自分で跳ねたのではない。筋肉が、勝手に収縮した。
「モエ!?」
ママの声が、遠くで聞こえる。
駄目だ。
これは今までの「疼き」じゃない。
もっと深い。もっと強い。体が、言うことを聞かない。
両手でソファの肘掛けを掴む。
握りしめる。指の関節が白くなるほど強く。
脚を押さえつけるように、膝を抱え込む。
走るな。動くな。ここで暴走したら、ママを怖がらせる。
心の中で必死に叫ぶ。
でも体は聞いてくれない。筋肉が震えて、歯がカチカチと鳴っている。体温が下がっていくのが分かる。指先が、手首が、急速に冷えていく。
十秒。二十秒。
リモコンを握ったママが、慌ててテレビを消した。
画面が真っ暗になる。
……途端に、波が引いた。
脚の震えが止まる。心臓の鼓動が落ち着いていく。
冷え切った指先に、じわりと体温が戻ってくる。
「モエ……! 大丈夫? 何があったの?」
ママが私の肩を掴んで、揺さぶっている。
その目には、純粋な恐怖が浮かんでいた。
娘の体が突然痙攣して、歯をガチガチ鳴らして、氷のように冷たくなった。
どんな母親だって怖い。
「……だい、じょうぶ。大丈夫。もう平気」
声が掠れている。
額に汗が滲んでいる。
大丈夫なんかじゃないことは、自分が一番分かっている。
ママは泣きそうな顔をしていた。
「病院に電話する」と言って立ち上がりかけたのを、私は必死で止めた。
「大丈夫だから。本当に。ちょっとびっくりしただけだから。お願い、大袈裟にしないで」
嘘。嘘。嘘。
全部嘘。
でも、ここで大事にされたら、この日常が終わってしまう。
普通のウマ娘でいられる時間が、終わってしまう。
ママは、しばらく私の顔を凝視して、それから渋々頷いた。
「……明日、絢原さんに連絡するからね。絶対に」
私は「うん」と小さく答えて、自分の部屋に逃げ込んだ。
ベッドに倒れ込む。
枕に顔を押しつける。
もう、隠せない。
分かっていた。いつかこうなることは分かっていた。
薄氷の上で踊っていた日常が、今夜、静かにひび割れた音を立てた。
~
翌朝。
ママが本当に絢原さんに電話をかけたらしく、昼前には彼が家に来ていた。
リビングに呼ばれた時、絢原さんはソファに座って、いつも通りの無表情でお茶を飲んでいた。
でも、その目は私を見た瞬間、微かに動いた。
査定するような視線ではない。ただ、確認している。
私がここにいることを。壊れていないことを。
ママとパパは、気を利かせて席を外してくれた。
リビングには、私と絢原さんだけが残された。
長い沈黙。
テレビは消されている。時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいる。
「……トレーナー」
私が先に口を開いた。
もう隠せないなら、自分から言った方がいい。
これ以上嘘をつき続けるのは、この人に対して、卑怯だ。
「体が、変なの」
声は思ったより落ち着いていた。
泣きそうになるかと思ったけれど、不思議と涙は出なかった。
むしろ、ずっと抱え込んでいた重荷を下ろすような、静かな疲労感があった。
「退院してからずっと……時々、体が勝手に反応するの。走ってるウマ娘を見たり、レースの音を聞いたりすると、脚が疼いて、筋肉が震えて。最初はほんの一瞬だったけど、最近どんどん強くなってて」
絢原さんは、黙って聞いている。
相槌も打たない。遮りもしない。ただ、全神経を私の言葉に集中させている。
「昨日の夜は……テレビのCMを見ただけで、体が跳ねた。ウマ娘のレースですらない、ただの映像で。脚が震えて、体温が下がって、歯がガチガチ鳴って……ママの目の前で」
私は、自分の手のひらを見つめた。
今は普通の体温。普通の色。普通の手。
「別に、走りたいわけじゃないの。あの日みたいに、飛び出したくなったわけでもない。ただ……体が、勝手に。私の意志とは関係なく、勝手に」
最後の言葉は、少し震えた。
「……私、どうしたらいいか分かんない。怖い。自分の体なのに、自分のものじゃないみたい」
言い終えて、息を吐いた。
長い長い息だった。
何ヶ月も胸の奥に溜め込んでいた空気を、全部吐き出したような。
絢原さんは、しばらく黙っていた。
それから、静かに口を開いた。
「……いつから、だ」
「……七月の半ば。最初は本当に小さかったから、大丈夫だと思ってた」
「二ヶ月。……二ヶ月、一人で抱えてたのか」
その声には、責める響きはなかった。
でも、自分自身に向けた苛立ちのようなものが、微かに滲んでいた。
気づいていたのに、踏み込めなかった自分への。
「……すまなかった」
「え?」
「お前が何か隠していることには、薄々気づいていた。でも、お前が言わない以上、聞くべきじゃないと思った。それは……判断を間違えた。俺の方から、もっと早く聞くべきだった」
私は首を横に振った。
「違うよ。隠してたのは私の方だもん。トレーナーのせいじゃない」
「それでも、だ」
絢原さんは膝の上で両手を組んで、少しだけ俯いた。
考えている顔だ。何かを決断しようとしている顔。
やがて、顔を上げた。
その目には、迷いの残滓があったけれど、それを押し殺すような静かな決意があった。
「モエ。一つ、提案がある」
「……うん」
「タキオンに、連絡を取る」
その名前を聞いた瞬間、心臓がひゅっと縮んだ。
タキオンさん。
あの人の実験室で、何度吐きそうになりながらトレーニングをしたか分からない。
呼吸法もリミッター解除も、全部あの人の理論だ。
オークスで私の体を「作り変えた」張本人。
そして退院の日に、私の手首を掴んで「君の脚は壊れていない」と告げ、「何か変わったことがあったら報告してくれ」と言い残して去っていった。
「……タキオンさんに?」
「ああ。俺はお前の体に何が起きているのか、今も分からない。リハビリの先生にも、たぶんこれは分からない。普通の医学の範疇を超えている。……タキオンなら、何か糸口を掴めるかもしれない」
絢原さんの声は、淡々としている。
でも、この提案をするのに、どれだけ迷ったかは想像がつく。
オークスへの出走を決めたのは、絢原さん自身だ。
私が望み、パパが託し、そして最後に引き金を引いたのはこの人。
その判断の結果が、今の私の体。
絢原さんはそれを、誰のせいにもしなかった。タキオンさんにも、パパにも、私にも。
全部、自分の決断として背負っている。
だからこそ、今またタキオンさんに頼ることには、この人なりの抵抗があるはずだ。
それでも、今の状況を放置する方が危険だと判断した。
この人は、いつもそうだ。迷っても、最後には自分で決める。
「……お前が嫌なら、やめる。お前の体のことだ。お前が決めていい」
「ううん」
私は、小さく首を振った。
「……お願い。連絡して」
怖い。
タキオンさんに会うのも、自分の体の「正体」を知るのも、怖い。
でも、このまま怯えながら暮らすのは、もっと怖い。
絢原さんは頷いて、ポケットからスマートフォンを取り出した。
――Trainer: Ayahara
連絡先は、まだ残っていた。
退院の日にタキオンと交わした「何かあったら報告してくれ」という言葉。
あの時は社交辞令に近いものだと思っていた。いや、社交辞令ではないことは分かっていた。あれは科学者としての純粋な好奇心だ。実験の被験者から目を離したくないという、タキオン特有の執着。
だが、今はそれでもいい。
動機が何であれ、今のモエの体を診られるのは限られている。
普通の医者では分からない。普通のトレーナーにも分からない。
あの天才にして狂人の目にしか、見えないものがある。
通話ボタンを押す。
三回のコール音の後、聞き覚えのある気だるげな声が応答した。
「やあ。トレーナーくん。こちらから連絡しようかと思っていたところだ」
出し抜けに、そう言われた。
「……どういう意味だ」
「いや、なに。そろそろ君から連絡が来る頃だと思っていたんだよ。時期的にね」
電話越しでも分かる、あの含みのある笑み。
やはりタキオンは何かを予測していたのだ。答えは持っていなくても、仮説の中に「この時期に症状が悪化する」という予測が含まれていた。
苛立ちを飲み込む。今は、それを追及している場合ではない。
「モエの体に変化が出ている。退院後から断続的に、外部の刺激に反応して筋肉の痙攣や体温の低下が起きていた。頻度と強度が上がっている。昨夜は自宅でCM映像を見ただけで全身の筋肉が痙攣した」
事実だけを、簡潔に伝える。
感情を交えない。トレーナーとして、観測した現象を報告する。
電話の向こうで、ペンが走る音が聞こえた。
メモを取っている。
「ふむ。……反応のトリガーは映像か、音か、それとも視覚的に『走っている存在』を認識することか」
「全部だ。走っているウマ娘を見かけた時、レースの音声が聞こえた時、映像で走っているのを見た時。共通しているのは『何かが走っている』という情報が入力された瞬間に反応が起きる点だ」
「それ自体は駆動には至っていない? 彼女はまた走り出したりはしていないんだね?」
「していない。ダービーの時のような暴走は起きていない。だが、昨夜の反応は明らかにこれまでより激しかった。次がどうなるか分からない」
「なるほど」
タキオンが、小さく息を吐いた。
電話越しの沈黙が、数秒間続く。
「トレーナーくん。正直に言おう。私にも、まだ確かな答えはない」
知っている。タキオンが「分からない」と認めるのは、入院中にも聞いた。
だが、あの時と少しだけ声の温度が違う。
純粋な困惑ではなく、不十分ながらも仮説が育ってきた者の、慎重な口ぶり。
「ただ、一つ言えることがある。このまま放置すれば、彼女の体はますます不安定になる。外部刺激に対する感受性が上がり続ければ、いずれ制御不能な駆動が起きる。それは病室で廊下を走った程度では済まない可能性がある」
腹の底が、冷えた。
分かっていたことだ。分かっていたが、専門家の口から明言されると、重さが違う。
「どうすればいい」
「それが難しい。私の手元にあるのは仮説だけで、検証するデータが圧倒的に不足している」
タキオンの声が、少しだけ熱を帯びた。
「彼女の体が外部からの刺激に反応するなら、その反応を観察できる環境が必要だ。閉じ込めて刺激を遮断しても根本的な解決にはならない。むしろ、制御された環境で意図的に刺激を与え、反応のパターンを把握する方が建設的だ」
「……つまり」
「走らせろ、とは言わない。だが、走れる環境に置くことは検討すべきだと思う。そうでなければ、私にもこれ以上のことは言えない」
走れる環境。
その言葉が、胸の中で重く転がった。
電話を切った後、しばらくスマートフォンの画面を見つめていた。
通話時間、四分十二秒。
タキオンは答えを持っていなかった。
だが、方向は示した。
「走れる環境に置く」。それは、モエをもう一度ターフの近くに戻すということだ。
彼女が望んでいるのは、普通のウマ娘としての日常だ。
走ることから離れた、穏やかな生活。
それを俺は守ると決めた。彼女の余生に最後まで付き合うと決めた。
だが、その日常が、彼女の体に牙を剥いている。
走らないことが、彼女を壊し始めている。
矛盾だ。
走れば壊れるかもしれない。走らなくても壊れ始めている。
どちらを選んでも、リスクがある。
……だが。
あの時も、そうだった。
オークスへの出走登録を出した夜も、こうやって天秤を揺らしていた。
モエが望み、彼女の父親が託し、最後に判を押したのは俺だ。
その結果を、誰のせいにもするつもりはない。
あの判断が正しかったのかどうか、今でも分からない。
だが、俺が決めたことだ。
そして今回も、決めるのは俺だ。
いや、違う。
決めるのは、モエだ。
俺にできるのは、選択肢を提示して、彼女が選んだ道に付き合うことだけだ。
スマートフォンをポケットにしまって、リビングに戻った。
ソファの上で、モエが膝を抱えて待っていた。
俺の顔を見上げる。不安と、微かな期待が入り混じった目。
「……タキオンさんは、何て」
俺は向かいに座って、正直に伝えた。
答えはまだない。だが、このまま放置は危険だということ。
体の反応を把握するために、走れる環境に身を置くことを検討すべきだということ。
モエは黙って聞いていた。
膝を抱える腕に、少しだけ力が入ったのが見えた。
「それは……また走れってこと?」
「違う。復帰しろという話じゃない。体がどう反応するかを確認するだけだ。練習場を借りて、軽く走ってみる。それだけでいい。タキオンがデータを取って、そこから先を考える」
「……走る理由は、要らないの?」
「要らない。検査だ。ただの、体の検査」
モエは、しばらく自分の膝を見つめていた。
右手の指先が、無意識に自分のふくらはぎを撫でている。
あの、冷え切った脚を。
「……うん」
小さく、頷いた。
「怖いけど。……このまま怯えてるのも、もう疲れちゃった」
その声は、諦めでも決意でもなかった。
ただ、正直な疲労。
二ヶ月間、爆弾を抱えて普通の顔をし続けた少女の、限界の吐露。
「走る理由は、ないよ。走りたいわけでもない。でも……自分の体のことくらい、自分で知りたい」
俺は頷いた。
これは復帰ではない。
これは検査だ。
彼女がそう思える範囲で、一歩だけ前に進む。
それだけでいい。今は、それだけでいい。