アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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47話 始めの一歩

九月になっても、夏の残り火はしつこく居座っていた。

 

朝晩はいくらか涼しくなったけれど、日中の陽射しはまだ容赦がない。

蝉の声がツクツクボウシに変わって、入道雲の輪郭が少しだけ痩せた。

それでも風は湿っていて、空気の底にべったりと夏が張り付いている。

 

私の体も、同じだった。

 

反応は、消えなかった。

消えるどころか、少しずつ、確実に強くなっていた。

 

八月の終わりまでは、「ぴくり」で済んでいた。

微かな疼き。一瞬の震え。すぐに消える。

怖いけれど、やり過ごせる。見なかったふりができる。

 

でも、九月に入ってからは、質が変わった。

 

リハビリの帰り道。

クリニックの駐車場に向かって歩いている時、隣の公園のトラックで走っている一団が目に入った。

地元の陸上クラブだろうか。中学生くらいの子たちが、コーチの号令に合わせてダッシュを繰り返している。

 

ずくん。

 

脚の奥で、何かが脈打つ。

いつもの疼き。でも、今日のはいつもより深い場所から来ている。

 

ずくん。ずくん。

 

心臓と連動するように、脚の筋肉が鼓動する。

指先が冷たくなる。手のひらに汗が滲む。

 

「……っ、」

 

立ち止まってしまった。

歩道の真ん中で、紙袋を握りしめたまま、動けなくなった。

公園のフェンス越しに見える、走る子供たちの姿。彼女たちの荒い呼吸。地面を蹴る足音。

 

私の体が、それを聴いている。

筋肉の一本一本が耳を澄ませて、外の世界の何かを必死に拾い集めている。

 

今までの反応とは、明らかに違う。

「ぴくり」ではない。もっと深く、もっと長く、体の芯に食い込むような疼き。

消えない。十秒経っても、二十秒経っても、脚の奥の鼓動が収まらない。

 

走り出しはしなかった。

着火には至らなかった。

でも、体が「走りたがっている」のが分かる。

私の意志とは関係なく、筋肉と細胞が、あのフェンスの向こうに向かって手を伸ばしている。

 

三十秒。四十秒。

 

「……お待たせ。車、回してきた。……モエ?」

 

絢原さんの声で、糸が切れたように体から力が抜けた。

脚の鼓動が、すっと静まる。

まるでスイッチが切れたみたいに、唐突に。

 

「……あ、うん。ごめん、ぼーっとしてた」

 

笑った。

いつも通りの笑顔を作った。つもりだった。

 

でも、今回はうまくいかなかった。

 

「……モエ」

 

絢原さんが、車のドアを開けたまま、じっと私を見ている。

その目には、問い詰めるような鋭さはない。

ただ、静かに、真っ直ぐに、私を見ている。

 

「お前、最近――」

「大丈夫だよ。なんでもない」

 

遮った。

反射的に、壁を立てた。

 

絢原さんは、一瞬だけ口を噤んだ。

それから「……乗れ」とだけ言って、運転席に回った。

 

車に乗り込む。シートベルトを締める。エンジンがかかる。

いつも通りの動作。いつも通りの車内。いつも通りの沈黙。

 

でも、今日の沈黙は、いつもと違った。

「触れない話題」を避けているだけの沈黙ではない。

壁のこちら側にいる私と、壁の向こう側にいる絢原さんの間で、何かが軋んでいる音がする。

 

私は窓の外を見た。

流れていく景色。信号。横断歩道。公園。走っている人。

 

目を逸らす。

でも、街中のどこを見ても、「走っている誰か」がいる。

逃げ場がない。

 

指先が、まだ少しだけ冷たかった。

 

 

 

 

限界は、その三日後に来た。

 

夕食後。

リビングのソファで、ママと一緒にテレビを見ていた。

パパは書斎にいる。絢原さんはもう帰った後。

 

ドラマの途中でCMに切り替わった。

何の変哲もない、ビールのCM。

画面には、夏の海辺を全力で駆けていく若者たちの姿。

ウマ娘ですらない。ただのビールのイメージ映像。

 

それだけだったのに。

 

ずくん。

 

来た。

 

ずくん。ずくん。ずくん。

 

深い。今までで一番深い。

脚の奥ではなく、腹の底から突き上げてくるような鼓動。

両脚の筋肉が、同時に波打った。

ふくらはぎ。太もも。腸腰筋。全部が一斉に脈打っている。

 

「……ッ、」

 

ソファの上で、体が跳ねた。

自分で跳ねたのではない。筋肉が、勝手に収縮した。

 

「モエ!?」

 

ママの声が、遠くで聞こえる。

 

駄目だ。

これは今までの「疼き」じゃない。

もっと深い。もっと強い。体が、言うことを聞かない。

 

両手でソファの肘掛けを掴む。

握りしめる。指の関節が白くなるほど強く。

脚を押さえつけるように、膝を抱え込む。

 

走るな。動くな。ここで暴走したら、ママを怖がらせる。

 

心の中で必死に叫ぶ。

でも体は聞いてくれない。筋肉が震えて、歯がカチカチと鳴っている。体温が下がっていくのが分かる。指先が、手首が、急速に冷えていく。

 

十秒。二十秒。

 

リモコンを握ったママが、慌ててテレビを消した。

画面が真っ暗になる。

 

……途端に、波が引いた。

 

脚の震えが止まる。心臓の鼓動が落ち着いていく。

冷え切った指先に、じわりと体温が戻ってくる。

 

「モエ……! 大丈夫? 何があったの?」

 

ママが私の肩を掴んで、揺さぶっている。

その目には、純粋な恐怖が浮かんでいた。

娘の体が突然痙攣して、歯をガチガチ鳴らして、氷のように冷たくなった。

どんな母親だって怖い。

 

「……だい、じょうぶ。大丈夫。もう平気」

 

声が掠れている。

額に汗が滲んでいる。

大丈夫なんかじゃないことは、自分が一番分かっている。

 

ママは泣きそうな顔をしていた。

「病院に電話する」と言って立ち上がりかけたのを、私は必死で止めた。

 

「大丈夫だから。本当に。ちょっとびっくりしただけだから。お願い、大袈裟にしないで」

 

嘘。嘘。嘘。

全部嘘。

 

でも、ここで大事にされたら、この日常が終わってしまう。

普通のウマ娘でいられる時間が、終わってしまう。

 

ママは、しばらく私の顔を凝視して、それから渋々頷いた。

「……明日、絢原さんに連絡するからね。絶対に」

 

私は「うん」と小さく答えて、自分の部屋に逃げ込んだ。

 

ベッドに倒れ込む。

枕に顔を押しつける。

 

もう、隠せない。

分かっていた。いつかこうなることは分かっていた。

 

薄氷の上で踊っていた日常が、今夜、静かにひび割れた音を立てた。

 

 

 

 

翌朝。

 

ママが本当に絢原さんに電話をかけたらしく、昼前には彼が家に来ていた。

 

リビングに呼ばれた時、絢原さんはソファに座って、いつも通りの無表情でお茶を飲んでいた。

でも、その目は私を見た瞬間、微かに動いた。

査定するような視線ではない。ただ、確認している。

私がここにいることを。壊れていないことを。

 

ママとパパは、気を利かせて席を外してくれた。

リビングには、私と絢原さんだけが残された。

 

長い沈黙。

 

テレビは消されている。時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいる。

 

「……トレーナー」

 

私が先に口を開いた。

もう隠せないなら、自分から言った方がいい。

これ以上嘘をつき続けるのは、この人に対して、卑怯だ。

 

「体が、変なの」

 

声は思ったより落ち着いていた。

泣きそうになるかと思ったけれど、不思議と涙は出なかった。

むしろ、ずっと抱え込んでいた重荷を下ろすような、静かな疲労感があった。

 

「退院してからずっと……時々、体が勝手に反応するの。走ってるウマ娘を見たり、レースの音を聞いたりすると、脚が疼いて、筋肉が震えて。最初はほんの一瞬だったけど、最近どんどん強くなってて」

 

絢原さんは、黙って聞いている。

相槌も打たない。遮りもしない。ただ、全神経を私の言葉に集中させている。

 

「昨日の夜は……テレビのCMを見ただけで、体が跳ねた。ウマ娘のレースですらない、ただの映像で。脚が震えて、体温が下がって、歯がガチガチ鳴って……ママの目の前で」

 

私は、自分の手のひらを見つめた。

今は普通の体温。普通の色。普通の手。

 

「別に、走りたいわけじゃないの。あの日みたいに、飛び出したくなったわけでもない。ただ……体が、勝手に。私の意志とは関係なく、勝手に」

 

最後の言葉は、少し震えた。

 

「……私、どうしたらいいか分かんない。怖い。自分の体なのに、自分のものじゃないみたい」

 

言い終えて、息を吐いた。

長い長い息だった。

何ヶ月も胸の奥に溜め込んでいた空気を、全部吐き出したような。

 

絢原さんは、しばらく黙っていた。

それから、静かに口を開いた。

 

「……いつから、だ」

 

「……七月の半ば。最初は本当に小さかったから、大丈夫だと思ってた」

 

「二ヶ月。……二ヶ月、一人で抱えてたのか」

 

その声には、責める響きはなかった。

でも、自分自身に向けた苛立ちのようなものが、微かに滲んでいた。

気づいていたのに、踏み込めなかった自分への。

 

「……すまなかった」

 

「え?」

 

「お前が何か隠していることには、薄々気づいていた。でも、お前が言わない以上、聞くべきじゃないと思った。それは……判断を間違えた。俺の方から、もっと早く聞くべきだった」

 

私は首を横に振った。

 

「違うよ。隠してたのは私の方だもん。トレーナーのせいじゃない」

 

「それでも、だ」

 

絢原さんは膝の上で両手を組んで、少しだけ俯いた。

考えている顔だ。何かを決断しようとしている顔。

 

やがて、顔を上げた。

その目には、迷いの残滓があったけれど、それを押し殺すような静かな決意があった。

 

「モエ。一つ、提案がある」

 

「……うん」

 

「タキオンに、連絡を取る」

 

その名前を聞いた瞬間、心臓がひゅっと縮んだ。

 

タキオンさん。

あの人の実験室で、何度吐きそうになりながらトレーニングをしたか分からない。

呼吸法もリミッター解除も、全部あの人の理論だ。

オークスで私の体を「作り変えた」張本人。

そして退院の日に、私の手首を掴んで「君の脚は壊れていない」と告げ、「何か変わったことがあったら報告してくれ」と言い残して去っていった。

 

「……タキオンさんに?」

 

「ああ。俺はお前の体に何が起きているのか、今も分からない。リハビリの先生にも、たぶんこれは分からない。普通の医学の範疇を超えている。……タキオンなら、何か糸口を掴めるかもしれない」

 

絢原さんの声は、淡々としている。

でも、この提案をするのに、どれだけ迷ったかは想像がつく。

 

オークスへの出走を決めたのは、絢原さん自身だ。

私が望み、パパが託し、そして最後に引き金を引いたのはこの人。

その判断の結果が、今の私の体。

絢原さんはそれを、誰のせいにもしなかった。タキオンさんにも、パパにも、私にも。

全部、自分の決断として背負っている。

だからこそ、今またタキオンさんに頼ることには、この人なりの抵抗があるはずだ。

それでも、今の状況を放置する方が危険だと判断した。

この人は、いつもそうだ。迷っても、最後には自分で決める。

 

「……お前が嫌なら、やめる。お前の体のことだ。お前が決めていい」

 

「ううん」

 

私は、小さく首を振った。

 

「……お願い。連絡して」

 

怖い。

タキオンさんに会うのも、自分の体の「正体」を知るのも、怖い。

でも、このまま怯えながら暮らすのは、もっと怖い。

 

絢原さんは頷いて、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 

 

 

――Trainer: Ayahara

 

 

 

連絡先は、まだ残っていた。

 

退院の日にタキオンと交わした「何かあったら報告してくれ」という言葉。

あの時は社交辞令に近いものだと思っていた。いや、社交辞令ではないことは分かっていた。あれは科学者としての純粋な好奇心だ。実験の被験者から目を離したくないという、タキオン特有の執着。

 

だが、今はそれでもいい。

動機が何であれ、今のモエの体を診られるのは限られている。

普通の医者では分からない。普通のトレーナーにも分からない。

あの天才にして狂人の目にしか、見えないものがある。

 

通話ボタンを押す。

三回のコール音の後、聞き覚えのある気だるげな声が応答した。

 

「やあ。トレーナーくん。こちらから連絡しようかと思っていたところだ」

 

出し抜けに、そう言われた。

 

「……どういう意味だ」

 

「いや、なに。そろそろ君から連絡が来る頃だと思っていたんだよ。時期的にね」

 

電話越しでも分かる、あの含みのある笑み。

やはりタキオンは何かを予測していたのだ。答えは持っていなくても、仮説の中に「この時期に症状が悪化する」という予測が含まれていた。

 

苛立ちを飲み込む。今は、それを追及している場合ではない。

 

「モエの体に変化が出ている。退院後から断続的に、外部の刺激に反応して筋肉の痙攣や体温の低下が起きていた。頻度と強度が上がっている。昨夜は自宅でCM映像を見ただけで全身の筋肉が痙攣した」

 

事実だけを、簡潔に伝える。

感情を交えない。トレーナーとして、観測した現象を報告する。

 

電話の向こうで、ペンが走る音が聞こえた。

メモを取っている。

 

「ふむ。……反応のトリガーは映像か、音か、それとも視覚的に『走っている存在』を認識することか」

 

「全部だ。走っているウマ娘を見かけた時、レースの音声が聞こえた時、映像で走っているのを見た時。共通しているのは『何かが走っている』という情報が入力された瞬間に反応が起きる点だ」

 

「それ自体は駆動には至っていない? 彼女はまた走り出したりはしていないんだね?」

 

「していない。ダービーの時のような暴走は起きていない。だが、昨夜の反応は明らかにこれまでより激しかった。次がどうなるか分からない」

 

「なるほど」

 

タキオンが、小さく息を吐いた。

電話越しの沈黙が、数秒間続く。

 

「トレーナーくん。正直に言おう。私にも、まだ確かな答えはない」

 

知っている。タキオンが「分からない」と認めるのは、入院中にも聞いた。

だが、あの時と少しだけ声の温度が違う。

純粋な困惑ではなく、不十分ながらも仮説が育ってきた者の、慎重な口ぶり。

 

「ただ、一つ言えることがある。このまま放置すれば、彼女の体はますます不安定になる。外部刺激に対する感受性が上がり続ければ、いずれ制御不能な駆動が起きる。それは病室で廊下を走った程度では済まない可能性がある」

 

腹の底が、冷えた。

分かっていたことだ。分かっていたが、専門家の口から明言されると、重さが違う。

 

「どうすればいい」

 

「それが難しい。私の手元にあるのは仮説だけで、検証するデータが圧倒的に不足している」

 

タキオンの声が、少しだけ熱を帯びた。

 

「彼女の体が外部からの刺激に反応するなら、その反応を観察できる環境が必要だ。閉じ込めて刺激を遮断しても根本的な解決にはならない。むしろ、制御された環境で意図的に刺激を与え、反応のパターンを把握する方が建設的だ」

 

「……つまり」

 

「走らせろ、とは言わない。だが、走れる環境に置くことは検討すべきだと思う。そうでなければ、私にもこれ以上のことは言えない」

 

走れる環境。

その言葉が、胸の中で重く転がった。

 

電話を切った後、しばらくスマートフォンの画面を見つめていた。

通話時間、四分十二秒。

 

タキオンは答えを持っていなかった。

だが、方向は示した。

「走れる環境に置く」。それは、モエをもう一度ターフの近くに戻すということだ。

 

彼女が望んでいるのは、普通のウマ娘としての日常だ。

走ることから離れた、穏やかな生活。

それを俺は守ると決めた。彼女の余生に最後まで付き合うと決めた。

 

だが、その日常が、彼女の体に牙を剥いている。

走らないことが、彼女を壊し始めている。

 

矛盾だ。

走れば壊れるかもしれない。走らなくても壊れ始めている。

どちらを選んでも、リスクがある。

 

……だが。

 

あの時も、そうだった。

オークスへの出走登録を出した夜も、こうやって天秤を揺らしていた。

モエが望み、彼女の父親が託し、最後に判を押したのは俺だ。

その結果を、誰のせいにもするつもりはない。

あの判断が正しかったのかどうか、今でも分からない。

だが、俺が決めたことだ。

 

そして今回も、決めるのは俺だ。

いや、違う。

 

決めるのは、モエだ。

俺にできるのは、選択肢を提示して、彼女が選んだ道に付き合うことだけだ。

 

スマートフォンをポケットにしまって、リビングに戻った。

 

ソファの上で、モエが膝を抱えて待っていた。

俺の顔を見上げる。不安と、微かな期待が入り混じった目。

 

「……タキオンさんは、何て」

 

俺は向かいに座って、正直に伝えた。

答えはまだない。だが、このまま放置は危険だということ。

体の反応を把握するために、走れる環境に身を置くことを検討すべきだということ。

 

モエは黙って聞いていた。

膝を抱える腕に、少しだけ力が入ったのが見えた。

 

「それは……また走れってこと?」

 

「違う。復帰しろという話じゃない。体がどう反応するかを確認するだけだ。練習場を借りて、軽く走ってみる。それだけでいい。タキオンがデータを取って、そこから先を考える」

 

「……走る理由は、要らないの?」

 

「要らない。検査だ。ただの、体の検査」

 

モエは、しばらく自分の膝を見つめていた。

右手の指先が、無意識に自分のふくらはぎを撫でている。

あの、冷え切った脚を。

 

「……うん」

 

小さく、頷いた。

 

「怖いけど。……このまま怯えてるのも、もう疲れちゃった」

 

その声は、諦めでも決意でもなかった。

ただ、正直な疲労。

二ヶ月間、爆弾を抱えて普通の顔をし続けた少女の、限界の吐露。

 

「走る理由は、ないよ。走りたいわけでもない。でも……自分の体のことくらい、自分で知りたい」

 

俺は頷いた。

 

これは復帰ではない。

これは検査だ。

彼女がそう思える範囲で、一歩だけ前に進む。

 

それだけでいい。今は、それだけでいい。

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