九月の中旬。
トレセン学園の第三練習場。
本コースや主要な練習場ではなく、普段はリハビリや調整に使われる、学園の外れにある小さなダートコース。
観客席はない。芝の手入れもされていない。ただ、一周400メートルの楕円形のトラックが、秋の陽射しの下でぼんやりと横たわっているだけの場所。
コースの周囲には雑草が伸び放題で、フェンスの金網には蔦が絡まっている。
時折吹き抜ける風だけが、ここにも季節が流れていることを証明していた。
モエの引退届は、まだ提出されていない。
退院後、何度か書類を手に取ったが、結局出さなかった。出せなかったのではなく、出す理由もないまま日が過ぎた、というのが正確なところだろう。学園に籍がある以上、施設を使う権利はある。今日はその権利を、初めて行使する日だ。
――Trainer: Ayahara
この場所を選んだのは、俺だ。
本コースは論外。主要練習場にも、この時間帯は多くのウマ娘とトレーナーがいる。モエが走っている姿を誰かに見られたら、翌日にはスポーツ紙の見出しになる。「オークスで散った天才少女、電撃復帰か」。そんな安っぽい見出しに、今のモエを晒すわけにはいかない。
それに、他のウマ娘がいる場所は避けたかった。
練習に打ち込むウマ娘たちの気迫、必死さ。そういうものに囲まれた時、モエの体がどう反応するか分からない。あの日のように、また勝手に動き出すかもしれない。
ここなら、その心配はない。。
朝九時の第三練習場には、俺たち以外、誰もいなかった。
モエはまだ寮に戻っていない。退院後はずっと実家暮らしで、今日も俺が自宅まで迎えに行った。寮に戻るのは、本人が走ると決めた時でいい。今はまだ、その段階ではない。
車から降りたモエは、トラックの入り口に立って、しばらく黙ったまま辺りを見回していた。
ジャージ姿。
四ヶ月ぶりに見る、その姿。
退院してからずっと、パステルカラーのワンピースや、ひらひらしたブラウスばかり着ていた少女が、黒いジャージと運動靴に身を包んでいる。
機能性だけを追求した、飾り気のない服。
かつて毎日のように見ていたはずのその姿が、今はひどく異質に見えた。
ジャージの上から分かるほどに細くなった手首。首筋の線が以前より鋭い。
四ヶ月の療養生活で、アスリートの体は確実に痩せていた。
「……久しぶりだね、この格好」
モエ自身も、居心地が悪そうに袖口を引っ張っている。
指先が白い。体温が低い証拠だ。九月だというのに。
「似合ってるよ。お嬢さん」
その横で、タキオンが腕を組んで楽しそうに目を細めていた。
白衣のポケットには、例によって正体不明の計測器具がいくつも突っ込まれている。首からぶら下げたストップウォッチ。手元のタブレット。腰に巻いたポーチからは、使い道の分からないセンサーの類がはみ出している。
タキオンには昨日のうちに概要を伝えてある。
今日の目的は「体の検査」であること。レースへの復帰を前提とした練習ではないこと。モエ本人がそう認識していること。
タキオンは「了解した。私は黙ってデータを取る」と返した。その声が楽しそうだったのが引っかかったが、今はそれを気にしている余裕はない。
モエの前に立つ。
できるだけ平坦な声を心がけた。
「今日は無理をする必要はない。軽く流すだけでいい」
モエが頷く。その目が微かに揺れているのを、見逃さなかった。
「まず歩く。一周、ゆっくり歩く。それから早歩き。問題なければ軽いジョグ。それだけだ。ダッシュはしなくていい。体がどう反応するか、それを確認するだけだ」
「……うん」
小さな声。
けれど、拒絶の色はない。恐怖はあっても、後ろ向きではない。
昨日リビングで見せた「自分の体のことくらい、自分で知りたい」という言葉は、嘘ではなかったのだろう。
「俺はここで見ている。何かあったら、すぐに声をかけろ。無理をする必要は、一切ない」
「……分かった」
モエはトラックの入り口に向き直った。
その背中を見送りながら、俺はストップウォッチを握りしめた。
四ヶ月前、この子をオークスのゲートに送り出した時のことを思い出す。
あの時は「行け」と言った。灰になるまで走れと命じた。
今日は違う。
「無理をするな」と言っている。
同じ人間が、同じウマ娘に対して、正反対のことを言っている。
どちらの俺が正しいのか、今でも分からない。
だが、今の俺にできることは、彼女が安全に一歩を踏み出せる場所を用意して、その一歩を見守ることだ。
それだけでいい。今は、それだけでいい。
――Anti-Hero: Curren Moe
トラックの入り口に立った。
足元は、踏み固められたダートの地面。
芝ではない。柔らかくもない。ただ硬くて、乾いて、埃っぽい。
レース場のターフとは似ても似つかない、素っ気ない地面。
靴底を通して伝わってくる、大地の感触。
風が頬を撫でていく。
九月の、少しだけ涼しくなった空気。
鼻腔をくすぐるのは、消毒液でもバターの匂いでもなく、乾いた土と、枯れかけた草の匂い。
……ああ。
なんだろう、この感覚。
懐かしい、とは違う。
嫌だ、とも違う。
ただ、体の奥で何かが、ぴくり、と耳を澄ませた。
いつもの反応。
でも今日は、怖がらなくていい。
ここには誰も走っていない。レースの熱もない。
安全な場所だと、頭では分かっている。
深呼吸をする。
肺に、秋の空気が入ってくる。
病室の消毒液の匂いでも、リビングの芳香剤の匂いでもない。
外の、広い世界の空気。
「……行くよ」
誰にともなく呟いて、一歩を踏み出した。
歩く。
ただ、歩く。
右足。左足。右足。左足。
トラックの縁に沿って、ゆっくりと。
リハビリで何度もやった動作と同じ。
でも、違う。
クリニックのプールや、病院の廊下とは、全然違う。
空が広い。
見上げれば、秋の高い青空がどこまでも続いている。入道雲はもう見当たらない。代わりに、薄い刷毛で掃いたような巻雲が、空の高いところに浮かんでいる。
風がある。
壁に遮られない、遮るものが何もない、開けた場所を吹き抜ける風。
ウマ耳が風を受けて、微かに揺れる。
髪が風に遊ばれて、視界の端でちらちらと踊る。
地面が、足の裏に返ってくる。
踏む。沈む。蹴る。その度に、ダートの硬い感触が靴底を通して骨まで伝わる。
プールの中の無重力とは全然違う。重力が、ちゃんとここにある。
脚は……動く。普通に動く。
痛みはない。違和感もない。
タキオンさんが言った通り、壊れてなんかいない。
一歩、また一歩。
足の裏で大地を確かめるように、慎重に歩を進める。
トラックを四分の一周したところで、ふと気づいた。
無意識に、歩幅が広がっていた。
リハビリの時のような、恐る恐るの小さな歩幅ではなく、自然な幅。
体が覚えている。歩くという動作の、最適な幅を。
半周。
正面に、絢原さんとタキオンさんの姿が見える。
絢原さんはストップウォッチを握ったまま、じっと私を見ている。
タキオンさんはタブレットに視線を落としている。
二人が見ている。
でも、それが今は重荷にならない。
観客一万人の視線とは違う。品定めの視線でもない。
ただ、見守っている。それだけ。
一周、歩き終えた。
何も起きなかった。
体は冷たいまま。反応もない。心拍も平常。
「……早歩きに上げてみろ」
絢原さんの声が、トラックの脇から飛んでくる。
穏やかで、でも注意深い声。
頷いて、ペースを上げる。
早歩き。歩幅を少しだけ広げて、腕を振って。
ふくらはぎの筋肉が、久しぶりにまとまった負荷を受けている。
固い。
四ヶ月のブランクが、筋肉の柔軟性を奪っている。
ゴムが干からびたみたいに、伸びが悪い。
でも動かないわけじゃない。錆びた歯車が、ぎしぎしと音を立てながら回り始める感覚。
二周目。
やっぱり、何も起きない。
反応なし。疼きなし。
誰も走っていないから、当たり前だ。
早歩きの振動が、体全体に伝わっている。
骨盤。背骨。肩甲骨。
連動して揺れる。歩くという動作に必要な筋肉と骨格の全部が、久しぶりに仕事をしている。
思ったよりも、体が軽い。
四ヶ月寝ていたわりには、筋肉が落ちていない気がする。
リハビリのおかげか、それとも……タキオンさんの「スクラップ・アンド・ビルド」のおかげか。
考えないようにした。今はただ、歩くことに集中する。
三周目に入ったところで、絢原さんがもう一度声をかけた。
「……軽いジョグ。行けそうか」
行けそうか、と聞いている。
行け、ではなく。
この人は、いつも私に選ばせる。
「……うん」
少しだけ、ペースを上げた。
走っている。
私は、走っている。
ジョグ。ゆっくりとした、世界で一番遅いジョグ。
競歩にも負けるくらいの、ゆるゆるとした速度。
レースを知っている人間が見たら、これを「走っている」と呼ぶかどうかすら怪しい。
でも。
足が地面を離れる瞬間がある。
両足が宙に浮く、ほんの一瞬。
歩行にはないその一瞬が、「走っている」ということの証明。
風が、さっきより強く頬を撫でる。
速度が上がった分だけ、空気が体にぶつかってくる。
ウマ耳が、風圧を受けて後ろに倒れる。
髪が風に流されて、視界から消える。
地面を蹴る感触が、足の裏から脛を通って、腰に、背骨に、頭のてっぺんまで伝わってくる。
一歩ごとに体が浮いて、沈んで、また浮く。
その反復のリズム。
……あ。
これ。
この感覚。
知ってる。
ずっと昔から知ってる。
風。地面。体を運ぶ筋肉のリズム。
全部が噛み合って、一つの動作になる。
それが、走るということ。
まだ幼かった頃。
パパとママの前を、意味もなく駆け回っていた頃。
速さなんか関係なくて、勝ち負けなんか知らなくて、ただ風を切るのが面白くて。
あの頃の感覚に、ほんの少しだけ似ている。
胸の奥で、何かが小さく震えた。
反応?
いや、違う。
あの「ずくん」とは違う。もっと穏やかで、もっと静かな、微かな振動。
体の表面ではなく、もっと深い場所。胸の真ん中あたり。
なんだろう、これ。
分からない。
でも、嫌な感じじゃない。
むしろ、温かい。ほんのりと。
四周目。五周目。
ジョグを続ける。
体は冷たいまま。誘爆の気配はない。
でも、胸の奥の微かな温もりは消えない。走るたびに、少しだけ、揺れている。
足音が、ダートの上で乾いた音を立てる。
タッ、タッ、タッ、タッ。
規則正しい、自分だけのリズム。
誰とも競っていない。
誰にも見せるためでもない。
タイムも順位も関係ない。
ただ、走っている。
私の脚で、私の意志で、私のペースで。
当たり前のことなのに。
それが今は、少しだけ嬉しかった。
――The Alchemist: Agnes Tachyon
タブレットの数値を見つめながら、私は片方の眉を上げた。
心拍数、安定。体表温度、低いが変動なし。筋電図、正常な範囲内のジョギングパターン。
予想通りと言えば予想通り。この環境では刺激が足りない。
他のウマ娘が走っていない以上、ダービーの時のような外部刺激が存在しない。彼女の体が反応しようもない。
筋肉の使い方にも注目している。
ジョギング程度の負荷であっても、四ヶ月のブランク後にしては動きが良すぎる。
通常、これだけの期間走っていなければ、筋の協調性は著しく低下する。ぎこちなさ、左右の不均衡、衝撃吸収の遅延。そういったものが見られて然るべきだ。
だが、彼女の走りにはそれがほとんどない。
固さはある。柔軟性の低下は明らかだ。だが、筋肉そのものの「質」が違う。
オークス前のトレーニングで限界まで追い込み、レース本番で完全に破壊された筋繊維が、再生の過程で以前よりも密度の高い構造に作り変わっている。
スクラップ・アンド・ビルド。
計画通りだ。この点に関しては、何の驚きもない。
だが、一つだけ。
一つだけ、面白い数値がある。
ジョグを始めてから三周目以降、彼女の心拍数が微かに上昇している。
微かに、だ。ジョギングによる物理的な上昇分を差し引いても、なお僅かに高い。
数値にして五から八拍。誤差と言えば誤差の範囲。
だが、科学者にとっての「誤差」と、「意味のある偏差」の境界線は、しばしば直感によって引かれる。
この上昇に対応する外部刺激が存在しない。
誰も走っていない。歓声もない。映像もない。
トリガーが不在なのに、心拍が上がっている。
グラフを拡大する。
三周目の中盤から緩やかに上昇を始め、以降は微増を続けている。
筋電図にも対応する変化がある。下腿三頭筋の活動量が、ジョギングの標準値よりも僅かに高い。つまり、必要以上に脚に力が入っている。
だが、これは「暴走」の兆候ではない。パターンが違う。ダービー当日の記録と比較すると、あの時は心拍数と体表温度が同時に急激な変動を示した。今日のこれは、もっと穏やかで、持続的な、じわじわとした変化だ。
これが何を意味するのか。
まだ断定はできない。
できないが、仮説の一つが、少しだけ確度を上げた。
彼女の体は、外部からの刺激にだけ反応しているのではないかもしれない。
もっと別の何か――彼女自身の内側にある、まだ名前のつけられないものが、走るという行為そのものに対して、微かに反応している可能性。
外燃機関だと思っていたものの中に、極めて小さな内燃機関の種火が残っている?
オークスの業火で全てを焼き払ったはずの炉の底に、まだ消えていない火種がある?
興味深い仮説だ。だが、興味深いだけでは論文にならない。
ノートに走り書きする。
「外部刺激ゼロ環境下における微細な心拍上昇。筋電図に対応変化あり。暴走パターンとは異なる。内因性のトリガーの可能性。要追跡。サンプル数不足。最低五回以上の反復試行が必要」
もちろん、今の段階でこれを彼女やトレーナーくんに伝えるつもりはない。
データが足りなさすぎる。仮説を語るのは、検証が済んでからだ。
中途半端な期待を持たせることは、科学者として最も忌避すべき行為の一つだ。
それでも。
口元が、勝手に緩むのを抑えられなかった。
面白い。
実に面白い。
灰の底から、微かな熱が検出されている。
――Anti-Hero: Curren Moe
六周で、やめた。
絢原さんが「今日はここまでだ」と言って、タオルと水のボトルを差し出してくれた。
受け取って、まずタオルで顔を拭く。
汗は……ほとんどかいていない。ジョグ程度では、体が温まりきらない。
でも、額にうっすらと汗の膜がある。冷たい汗ではなく、運動による、普通の汗。
水を飲む。
冷たい液体が、喉を通って胃に落ちていく。
ボトルの口を離して、ふう、と息を吐く。
空を見上げた。
高い。秋の空は、夏よりもずっと高い。
「……どうだ。体は」
絢原さんが、横に来て聞いた。
声は落ち着いている。でも、目は注意深く私を観察している。
瞳孔の大きさとか、顔色とか、呼吸のリズムとか。トレーナーの目。
「うん。……普通、だった」
普通。
四ヶ月ぶりに走って、感想が「普通」。
劇的な何かを期待していたわけじゃないけど、あまりにも何も起きなさすぎて、拍子抜けしている。
誘爆もなかった。暴走もなかった。痛みもなかった。
ただの、ジョグだった。
六周走って、息はほとんど上がっていない。
脚の疲労感も軽い。リハビリで歩いていた時の方がよっぽど疲れた。
これがタキオンさんの言う「リビルド」の結果なのだとしたら、少し怖いくらいだ。
でも。
「……嫌じゃなかった」
口から零れた言葉に、自分で驚いた。
絢原さんが、少しだけ目を見開いた。
「……嫌じゃなかった?」
「うん。走るの、嫌だと思ってたの。怖いし、体は勝手に動くし、もう関わりたくないって。でも……今日のは、なんか、普通で。ただ走ってるだけで。それが……嫌じゃなかった」
自分でも、何を言っているのかよく分からない。
走ることが好きだとか、また走りたいとか、そんな大層なことじゃない。
ただ、「嫌じゃなかった」。
それだけの、ささやかな感想。
でも、四ヶ月前の私にとって「走る」は恐怖と呪縛の象徴だった。
母の影に追い詰められ、観客の声に壊され、自分の体に裏切られた場所。
そこに戻ることが「嫌じゃなかった」と言えたのは、たぶん、小さくない変化だ。
「……そうか」
絢原さんは、それだけ言って、微かに口元を緩めた。
多くを語らない。いつも通りだ。
でも、その短い「そうか」の中に、安堵のようなものが混じっていた気がした。
タキオンさんが近づいてきて、タブレットを操作しながら聞いた。
「身体的な異常は感じなかったかい。痛み、痺れ、違和感。何でもいい」
「ないです。……あ、ちょっと筋肉が固かったかも。久しぶりすぎて」
「それは当然だ。四ヶ月のブランクがあれば、筋の柔軟性は落ちる。逆に言えば、それ以外の機能は問題なく動作しているということだ。……それ以外は?」
タキオンさんの目が、わずかに鋭くなった。
何か特定の答えを待っているような目。
でも、誘導はしない。私の言葉を待っている。
「特には。……あ、でも」
私は少し考えて、言葉を選んだ。
「三周目くらいから、胸の奥が……ちょっとだけ、ざわざわした。いつもの反応とは違う。あの、ずくんってやつじゃなくて。もっと静かで、穏やかな……なんだろう。うまく言えないけど」
タキオンさんの目が、一瞬だけ光った。
何か思い当たることがあるような、でもすぐに表情を戻して、タブレットに何かを書き込んだ。
「ふむ。貴重なデータだ。ありがとう」
それだけ。
説明も解釈もなし。
相変わらず、この人は肝心なことを教えてくれない。
でも、なんとなく。
タキオンさんが「ありがとう」と言ったことの方が、今は気になった。
この人が素直に礼を言うのは、珍しいことだから。
「次回はいつにするかい?」
タキオンさんが、当然のように聞いてきた。
「もう終わり」ではなく、「次はいつ」。
絢原さんを見る。
絢原さんは私を見ている。
決めるのは、お前だ。そう言わんばかりの目。
「……三日後くらいに。また、ここで」
タキオンさんが頷く。絢原さんも頷く。
三人で、荷物をまとめて練習場を後にした。
タキオンさんは白衣のポケットにタブレットを突っ込んで、ひらひらと手を振って自分の研究棟の方へ歩いていった。
「データの整理があるから」と言い残して。たぶん嘘じゃないけど、本当でもない。あの人は一人で考える時間が欲しいだけだ。
残されたのは、私と絢原さんの二人。
駐車場に向かって歩く。
隣を歩く絢原さんの歩幅に、自然と合わせている自分に気づく。
こういう些細なことが、体に染み付いている。トレーナーと並んで歩いた、何百回もの練習の記憶が。
~
帰りの車の中で、私は助手席の窓に額をつけて、流れていく景色を見ていた。
体は冷たいまま。
でも、脚の奥に残っている感覚は、いつもの「ずくん」とは違う。
もっとぼんやりとした、温い残り火のようなもの。
火傷するような熱さではなく、日向に置いた石が夕方になっても微かに温かいような、そういう類の熱。
走った。
四ヶ月ぶりに走った。
誰のためでもなく、何のためでもなく、ただ体の検査として。
それだけのことなのに。
「嫌じゃなかった」。
その五文字が、胸の中で小さな燠火のように、じんわりと熱を持っている。
信号で止まった。
窓の外に、トレセン学園の校舎の尖塔が見える。
あそこには、今も走り続けている子たちがいる。
スカーレット。ウオッカ。マーチャン。
秋のレースに向けて、命を削りながらトレーニングに明け暮れている同世代の子たち。
私は、あの場所から降りた。
降りたことを後悔はしていない。
でも。
「……トレーナー」
「ん」
「また、来てもいい?」
絢原さんは、前を向いたまま答えた。
「お前が、そうしたいなら」
そうしたいのかどうか、自分でもまだ分からない。
でも、「嫌じゃない」なら、もう一回くらい試してみてもいいかもしれない。
それくらいの、ささやかな「もう一回」。
走りたいわけじゃない。
まだ、そこまでは思えない。
でも、嫌じゃなかった。
それだけは、確かだ。
「……うん。また行く」
窓の外で、秋の雲が高く流れていた。
夏は、ようやく終わりかけている。
信号が青に変わって、車が動き出す。
背中のシートに体を預けて、目を閉じた。
瞼の裏に、さっきのダートコースの景色が浮かぶ。
広い空。乾いた土。自分の足音。
あの足音が、まだ耳の奥に残っている。
タッ、タッ、タッ、タッ。
誰とも競っていない、私だけのリズム。
それを思い出すことが、不思議と、嫌じゃなかった。