(3/26 23:55)
十月。
練習を再開してから、三週間が経っていた。
第三練習場での練習は、週に二回のペースで続いた。
最初はジョグだけだったのが、二回目には流し、三回目には八分の力でのスプリント。
絢原さんが慎重にペースを管理し、タキオンさんがデータを取り、私はただ言われた通りに走った。
体は、驚くほどよく動いた。
四ヶ月のブランクが嘘みたいに、筋肉は命令に応えてくれた。
最初の数回こそ固さがあったけど、走るたびに柔軟性が戻っていく。
タキオンさんは「リビルドの恩恵だ」と満足げに言ってたけど、詳しい説明はしてくれなかった。いつものことだけどさ。
走っている間、あの変な感じは一度も起きなかった。
第三練習場には誰もいないから、まあ当然っちゃ当然。
でも、あの胸の奥の微かな「ざわざわ」は、走るたびに感じた。
何なのかは、まだ分からない。
分からないけど、嫌じゃなかった。
三週目の練習後、絢原さんがタブレットの画面を見ながら言った。
「タイムだけ見れば、オープン戦レベルには仕上がっている」
淡々とした声。事実の報告。
でも、その言葉の裏にある意味くらい、分かる。
「……レースに出なよ、ってこと?」
「違う。出られる状態にある、と言っただけだ。出るかどうかは――」
「私が決める。……でしょ?」
絢原さんは、少しだけ目を細めた。
肯定の表情。
タキオンさんが横から口を挟んだ。
「実戦データは、練習場では取れないものがある。他のウマ娘と走った時に彼女の体がどう反応するか。……それは、レースでしか分からない」
分かってる。
練習場ではずっと一人で走ってた。
周りに誰もいない、無菌室みたいな環境。
でも、レースには他のウマ娘がいる。観客がいる。実況がある。
体が反応するかもしれないし、しないかもしれない。
怖い。
でも、怖いまま逃げ続けるのは、もっと怖い。
「……出る」
自分でも意外なくらい、あっさり言えた。
「オープン戦でいい。短い距離で。……体がどうなるか、知りたいから」
走りたいから、じゃない。
知りたいから。
自分の体が、周りの中でどうなるのかを。
その動機は、まだ消極的だった。
でも、四ヶ月前の私よりは、半歩だけ前に出てる。たぶん。
~~
出走登録の手続きは、絢原さんがやってくれた。
京都レース場。芝1200メートル。十月中旬のオープン特別。
格としては低い。GⅠどころかGⅢにも及ばない、日の当たらない裏開催のレース。
普通なら、注目なんて集まらない。
普通なら、ね。
出走表が公開された翌朝、メディアがとんでもないことになってた。
SNSのタイムラインがザワついている。
「カレンモエ出走表に載ってるんだけど!?」
「え、引退してなかったの?」
「オークスの後ずっと行方不明だったのに」
「復帰戦がオープン特別って何事」
「あのオークスの大逃げのカレンモエが帰ってくるのか」
スポーツ紙のウェブ版にも記事が出ていた。
『衝撃! カレンモエ、電撃復帰! オークスで散った天才少女がオープン戦に出走登録』
大袈裟な見出しと、オークスのゴール板前で崩れ落ちる私の写真。
……この写真ほんと使わないでほしいんだけど。何回見ても最悪の気分になる。
「……ねえ、こうなるって分かってた?」
「……ある程度は」
電話越しの絢原さんの声は平坦だった。
でも、その「ある程度は」の裏に苦い計算があったことくらい分かる。
出走表は公開情報だ。
カレンモエの名前が載れば、どんなに地味なレースでも話題になる。
だってみんなまだ覚えてるでしょ、あのオークス。
前半1000メートルを57秒台で飛ばして、タイムオーバーで最下位で、意識失ってゴール板越えたウマ娘のこと。
あの映像、何百万回も再生されてるって話だし。
そりゃ騒ぐよね。「あの子が帰ってきた」って。
静かに検査するつもりだったのに。出走表が公開された瞬間に、全部吹き飛んじゃった。
「……レース場、すっごい人来ちゃうよね」
「来る。確実に」
「やだ……」
正直、きつい。
また身体が変になるのが怖いのもあるけど、それだけじゃない。
あのオークスで、私は盛大に
前代未聞の大逃げ。タイムオーバー。絢原さんに背負われて退場する最下位。
あれを見た何万人もの観客と、何百万人もの視聴者に、私はとんでもなく大きな感情をぶちまけてしまった。
感動した人。怒った人。泣いた人。呆れた人。心配してくれた人。
全部、私が撒いた種だ。
で、その私が、数ヶ月後にしれっとオープン特別に名前を載せてる。
「復帰」なんて大層なもんじゃない。ただの検査。体の状態を確認したいだけ。
でも世間からしたら、そんなの知ったこっちゃないよね。
「あの壮絶なオークスの後に、カレンモエが帰ってきた」。
そういう物語に、勝手に組み込まれちゃう。
……うん、気まずいなんてもんじゃない。
あれだけ派手に散っておいて、「いや検査なんで」って。何それ。
SNSのフォロワーがママのおかげで5分で10万人になった時と同じ種類の居心地の悪さ。
自分の意志とは無関係に、勝手に「物語」が作られていく感じ。
「嫌なら、取り消せる。まだ間に合う」
「……ううん」
取り消さない。
取り消したら、また逃げることになる。
気まずいくらい、自分で引き受ける。
「行く。……トレーナーがちゃんとそばにいてくれるなら、ね」
「当たり前だ」
その返事が聞けたから、私はスマートフォンの通知を全部オフにして、ベッドに潜り込んだ。
レースまで、あと五日。
……なんか胃が痛い。これはただのストレスだと思う。たぶん。
~~
十月中旬。
京都レース場。
予感は、見事に的中した。
オープン特別には似つかわしくない数の観客が、スタンドに詰めかけていた。
後で聞いた話では、同日裏開催のGⅢとほぼ同じ入りだったらしい。
オープン特別で。
……勘弁してほしい。
パドックに向かう通路の時点で、もう空気が違う。いつもの裏開催のゆるさが、どこにもない。人の密度。報道陣のカメラの数。ざわめきの音量。全部が、格違い。
「カレンモエだ」
「本当に出るんだ」
「あのオークスの……」
「なんか痩せてない? 大丈夫かな」
「でもすごい、よく戻ってきたよね」
通路を歩くだけで、声が四方から飛んでくる。
好奇。同情。期待。心配。声援。
全部が混ざり合って、一つの大きなうねりになっている。
気まずい。
あれだけ世間を騒がせておいて、しれっとオープン戦に出てきたウマ娘。
「復帰のヒロイン」じゃない。ただの検査なの。
でもそんなこと、この通路で叫んだって伝わらない。
「……トレーナー」
「ああ。分かっている。そばにいる」
絢原さんが、半歩前を歩いてくれている。
壁になって。盾になって。
記者のマイクが突き出されるたびに、「コメントは控えます」と短く遮ってくれる。
パドックに呼ばれた。
一人ずつ名前を読み上げられ、お立ち台に立つ。
体操服姿の出走者が順番にステージに上がっていく。
GⅠ以外のレースは体操服。飾り気のない上下。
久しぶりに袖を通した時、腕が少し細くなってることに気づいた。四ヶ月のブランクは、やっぱりちゃんと体に出てる。
私の番が来た時、それまでとは明らかに違う音量の歓声が弾けた。
お立ち台の上。
四方八方からの視線。フラッシュ。声援。
オープン特別のパドックで、こんな歓声が上がることは普通ありえない。
……本当に気まずい。
ぎこちなく会釈した。笑顔は作れなかった。
それでも歓声は鳴り止まなかった。
ゲート裏に移動する。
他の出走者たちが準備をしている。
十一人のウマ娘。彼女たちは出走表が公開された時点で、今日何が起きるか分かっていたはずだ。
カレンモエが同じレースに出る。あのオークスのカレンモエが。観客もメディアも押し寄せる。
覚悟はしてただろう。でも、実際に目の当たりにするのとでは全然違う。
パドックの異様な熱気、スタンドを埋め尽くす人の数、自分たちに向けられてるわけじゃない歓声の渦。
それを肌で浴びて、何人かの顔には隠しきれない緊張と、それからほんの少しの闘志が滲んでいた。
自分たちのレースを、こんな形で特別なものにされたことへの意地みたいなもの。
……ごめんね。場を荒らすつもりはないの。ほんとに。
心の中で謝りながら、ゲートに向かった。
ゲートに入る。
狭い金属の箱。正面に広がる芝のコース。
1200メートル。
心臓が速く鳴っている。
久しぶりのゲート。久しぶりの、スタートを待つ数秒間。
会場からの視線が背中に突き刺さっている。
隣のゲートから、誰かの荒い呼吸が聞こえる。
前のめりの闘志。一つでも上の着順を、という必死さ。
……私には、それがない。
勝ちたいとも、負けたくないとも、思ってない。
ただ、走る。体の状態を確認する。それだけ。
ガコン、とゲートが開いた。
――Live: Announcer
スタートしました! 京都第十一レース、芝1200メートル、オープン特別!
十二人が一斉にゲートを飛び出していきます!
本日の京都レース場、オープン特別としては異例の大入りです!
お目当てはこの子か、七番カレンモエ!
今年五月のオークスで壮絶な大逃げを見せ長期休養、その動向が注目されていましたが、
本日このレースで電撃復帰! ファンの熱気が裏開催とは思えない盛り上がりを見せています!
さて肝心のスタートですが――おっと、カレンモエ、やや控えめなスタート!
中団の後ろ、九番手あたりに位置取り!
オークスの大逃げとは打って変わって、控えるレースを選択しました!
――Anti-Hero: Curren Moe
走ってる。
芝の感触が、練習場のダートとは全然違う。
柔らかくて、弾力があって、踏み込むたびに草の繊維が靴底を押し返してくる。
この感触、体が覚えてる。
風が、速い。
練習のジョグとは比べものにならない速度で、空気が体にぶつかってくる。
ウマ耳が風圧で後ろに倒れる。視界が狭まる。
周囲には、他のウマ娘がいる。
息遣い。足音。地面を蹴る衝撃。
集団で走るっていう体験が、四ヶ月ぶりに体を包んでる。
脚の奥を意識する。あの変な反応が来るかもしれない、と身構えていた。
でも、何も起きない。
ざわざわもない。疼きもない。体は冷たいまま。
……来ない。
拍子抜けするくらい、何も来なかった。
周りのウマ娘たちの闘志は確かに感じる。一つでも上の着順を、と必死に走ってる。
でも、私の体はそれに反応しない。静かなまま。冷えたまま。
じゃあ、今走ってるのは、全部私だ。
あの日みたいに体が勝手に動いてるんじゃない。
私の脚。私の筋肉。私のリズム。
1200メートル。
この距離なら、何も考えなくても走れちゃう。
第三コーナー。
前の集団が少し膨らんだ。
内側に、スペースが空いてる。
……あ。
考えるより先に、体が動いた。
変な反応じゃない。もっと原始的な、本能みたいなやつ。
スペースが空いた。そこに入れば前に出られる。
その情報が目から脳をすっ飛ばして、直接脚に届いた。
スプリンターとしての、体に刻まれた反射。
気がついたら、内に切り込んでた。
第四コーナー。
前にいた二人の間を、するりと抜ける。
彼女たちが私に気づいた時には、もう半馬身前にいた。
直線。
残り200メートル。
脚が、回る。
何も考えてない。勝ちたいとも思ってない。
ただ、体が知ってる。この距離の走り方を。
どのタイミングで加速して、どのストライドで地面を蹴って、どの角度で体を倒せばいいか。
1200メートルのスプリンター。それが私の体だ。
四ヶ月のブランクも、オークスの崩壊も、この距離の走り方だけは消してくれなかった。
タキオンさんのリビルドのおかげか、むしろ以前より体が軽い気すらする。
スタンドが沸いてる。
轟音みたいな歓声が、空気を震わせてる。
……うるさいなあ。
でも、体は止まらない。止める理由がない。
ゴール板が近づいてくる。
あと百メートル。五十メートル。
駆け抜けた。
――Live: Announcer
直線で七番カレンモエが内から鮮やかに抜け出した!
第三コーナーからするすると進出、この直線で一気に脚を伸ばしてきました!
先頭に立った! カレンモエ先頭!
そのままゴールイン!
復帰初戦のカレンモエ、オープン特別を快勝です!
いやあ、これは見事な差し切り勝ちでした!
四ヶ月のブランクを全く感じさせない、実に滑らかな走り!
タイムは一分九秒八、オープン特別としては水準級のタイムですが、
手応え的にはまだまだ余力を残しているように見えました!
スタンドは大歓声! オープン特別でこの盛り上がりは異例中の異例です!
カレンモエ、見事な復帰戦勝利! 今後のローテーションが非常に気になります!
――Anti-Hero: Curren Moe
ゴール板を過ぎて、ゆっくりと減速する。
歓声が四方八方から降り注いでくる。
「おかえり!」「よく戻ってきた!」「カレンモエ!」
……勝っちゃった。
電光掲示板に「7」の数字が点灯してる。
一着。カレンモエ。タイム、一分九秒八。
検査のつもりだったのに。体の状態を確認するだけのつもりだったのに。
勝っちゃった。
体は、何も起きなかった。
あの変な反応は来なかった。疼きもなかった。体は冷たいまま。
1200メートルを、ただ普通に走って、普通に勝ってしまった。
スプリンターの体。1200メートルに特化した筋肉と反射。
オークスで全部燃やし尽くしたはずなのに、この距離だけは、何も変わっていない。
四ヶ月休んでも、壊れても、体はこの距離の勝ち方を忘れてくれない。
胸の中に、何もない。
嬉しくない。悔しくもない。達成感もない。
ただ走って、体が知ってる通りに走って、結果的に一番前にいた。それだけ。
でも世間的には「カレンモエ、復帰初戦を快勝!」だ。
明日のスポーツ紙の見出しが目に浮かぶ。
……あーあ。ますます大事になっちゃうじゃん。
ほんっと、気まず。
検量を済ませる。
形式的な手続き。体重計に乗って、数字を確認されて、判を押されて。
そして。
「――続いて、ウイニングライブの準備をお願いします」
スタッフの声が、廊下に響いた。
……そうだった。
忘れてたわけじゃない。分かってた。
勝ったら、センターに立たなきゃいけないってことくらい。
ウイニングライブ。
レースが終わった後、ファンと喜びを分かち合うためのライブパフォーマンス。
着順の高いウマ娘ほどセンターに近い位置。
一着の私は、ど真ん中。
控え室で、勝負服の入ったケースを開けた。
……いや、開けかけて、やめた。
一応持ってきてはいた。ウイニングライブで着るかもしれないから、と絢原さんが車に積んでくれていた。
GⅠならこれを着なきゃいけないけど、オープン特別なら用意された衣装でもいい。
ケースの隙間から、漆黒の生地が覗いている。銀色の装飾が、控え室の蛍光灯を反射している。
最後にこれを着たのは、オークスだ。
あの日、この黒い服は汗と泥で斑模様に汚れて、塩を吹いて、ゴール板の前で崩れ落ちた私の体を包んでいた。
クリーニングに出したら綺麗になって戻ってきたけど、なんだろう、匂いが取れてない気がする。実際には取れてるんだと思う。でも、鼻が覚えてる。あの日の汗と泥と、鉄の味がする唾液の匂い。
……作り直した方がいいのかな。
縁起が悪い、とかそういう話じゃない。いや、それもあるけど。
あの日のことが染みついた服を着続けるのは、なんというか……しっくりこない。
あの勝負服は「カレンチャンの影を殺すための戦闘服」として作った。
でも、影はもうオークスで燃やし尽くした。燃やし尽くしたはずの服を、まだ着てる。
目的を果たした道具を、惰性で使い続けてる感じ。
ケースを閉じた。
まあ、やっぱりいらなかったな。一応持ってきただけだし。
スタッフが用意してくれた衣装に袖を通す。見慣れないデザイン。別に可愛くも格好よくもない、ありもの感のある衣装。でも、あの黒を着るよりはずっとマシだった。
鏡に映ってるのは、検査のつもりで走ったら勝っちゃって、これからセンターでライブしなきゃいけない、ちょっと困った顔のウマ娘。
でも、手は抜けない。
このレースに出た十二人全員が、このオープン特別に全力を尽くした。
あの異常な観客数に呑まれそうになりながらも、自分のレースを走りきった。
ゲート裏で見た、何人かの顔に浮かんでた闘志と意地。
彼女たちにとって、このレースは「カレンモエの復帰戦」なんかじゃない。自分自身の大事な一戦。
その締めくくりに、センターの私がてきとうなパフォーマンスしたら。
それは、彼女たちに対して失礼だ。
だから、やる。ちゃんとやる。
心が空っぽでも、体は動く。ステージに立てばアイドルの本能が起動する。
ママから受け継いだ、この厄介すぎる才能。
普段は隠してるけど、こういう時だけは使わせてもらう。
ステージに上がった。
照明が点く。
イントロが流れる。
マイクを握る。
センター。
十二人の真ん中。
オープン特別とは思えない数の観客が、ステージの前にぎっしり詰まってる。
カメラのフラッシュ。サイリウムの光。期待と興奮に満ちた目、目、目。
音楽が始まった。
体が動く。
振り付けを、体が覚えてる。何百回と練習した動き。
笑顔を作る。声を張る。指先まで神経を通す。
ステップを踏むたびに、衣装の裾が翻る。
スイッチが入った。
ママ譲りの、あのカリスマのスイッチ。
「見られる側」の本能が、ステージの上で完全に解放される。
観客が沸いた。
「カレンモエ!」
「おかえり!」
「最高!」
声援が波みたいに押し寄せてくる。
オープン特別のウイニングライブで、こんな歓声が上がることは、たぶん今後もない。
今日ここにいる全員が、「カレンモエの復帰」っていう物語に酔ってる。
私は、完璧にやった。
一つのミスもなく、一瞬の綻びもなく、センターとしての責務を全うした。
隣に立つ二着と三着の子たちが、少し気圧されたように目を見開いてたのが、視界の端に映った。
……ごめんね。場を食うつもりはなかったの。でも、手を抜けなかった。
曲が終わる。
最後のポーズ。
歓声がひときわ大きくなる。
笑顔のまま、息を整える。
汗が額を伝って、顎から落ちる。
完璧なパフォーマンスだった。
カレンチャンの娘に相応しい、文句のつけようのないステージ。
――で。
心の中には、やっぱり何もなかった。
歓声が遠い。
照明が眩しい。
笑顔を作ってた顔の筋肉が、少しだけ引き攣ってる。
楽しくない。
誇らしくもない。
ただ、義務を果たした。それだけ。
センターから降りる。
ステージ裏の通路で、壁にもたれかかった。
照明の熱で火照った体を、コンクリートの冷たさが吸い取っていく。
「……はぁ」
長い、長い息を吐いた。
空っぽだ。
レースも、ライブも、勝利も、歓声も、全部私を通り抜けて、どこかへ消えていった。
何も引っかからない。何も残らない。
記者たちが通路の向こうに群がっているのが見えた。
マイクが突き出される前に、絢原さんが横に来た。
「コメントは控えます。本日は調整レースです」
その硬い声と、記者を見据える目。
私はその背中に隠れるようにして、報道陣の波をすり抜けた。
駐車場。
車に乗り込んで、ドアを閉めた瞬間、外界の喧騒が遮断された。
静寂。
エアコンの低い駆動音だけが、車内に満ちている。
「……お疲れ」
「うん。……疲れた」
走ったことよりも、ライブの方がずっと疲れた。
人の波に揉まれて、笑顔を作って、完璧を演じて。
全部、空っぽのまま。
「体は? 変な反応は?」
「……なかった」
「なかった?」
「うん。全然。身構えてたのに、何も来なかった。脚の奥のざわざわもなかった。体は冷たいまま。ただ普通に走って、普通に勝っちゃった」
絢原さんが少し黙った。
考え込むように眉を寄せている。
「……1200メートルだったからか。それとも、相手のレベルか」
「分かんない。練習の時はざわざわがあったのに、今日はそれすらなかった。人はいっぱいいたのに」
「……タキオンに報告する」
「うん」
何が起きたのか、正確に言えば何が起きなかったのか、今の私には分からない。
タキオンさんなら何か仮説を立ててくれるかもしれないけど、きっと今日も「データが足りない」って言うだろう。
「走ること自体は?」
「……普通、だった。1200メートルだから。この距離なら、考えなくても走れちゃうの。体が全部知ってるから」
その言葉を口にした瞬間、少しだけ胸がざらついた。
考えなくても走れる。体が全部知ってる。
それはつまり、オークスで全部燃やしたつもりなのに、スプリンターの部分だけは何も変わっていないということだ。
壊したかった自分が、壊れていない。
「ライブは」
「……ちゃんとやったよ。手は抜いてない」
「ああ。見ていた」
絢原さんの声が、少しだけ静かになった。
何を感じたんだろう。
心が空っぽのまま完璧なパフォーマンスをする担当ウマ娘を見て、この人は何を思ったんだろう。
聞けなかった。
聞いたら、きっと正直に答えてくれる。
でも、今はその正直さが怖い。
「……ねえ、トレーナー」
「ん」
「勝ったのに、なんにも感じないの。ライブも、ちゃんとやったのに、何も残ってない。嬉しくも悲しくもない。ただ、走って、勝って、踊って、終わった。それだけ」
「……ああ」
「これって、おかしいのかな」
「おかしくはない。今のお前にとって、あのレースは検査だ。検査の結果に一喜一憂する必要はない」
「……そっか」
検査。
そうだ。これは検査。
勝ち負けは関係ない。ライブの出来も関係ない。
体がどう反応するかを確かめるための、ただの実験。
なのに。
反応は来なかった。
身構えていたのに、何も起きなかった。
1200メートルを素の力で走って、素の力で勝てた。
それだけの、何も起きなかったレース。
……なのに、走った後の脚に、ほんの微かに、あの温もりが残っている気がした。
練習場で感じたのと同じ、名前のつけられない穏やかな感覚。
レースの最中は感じなかった。走ってる最中は何もなかった。
終わった後に、ほんの一瞬だけ。
嬉しくはない。
でも、嫌でもなかった。
その矛盾を抱えたまま、車は秋の街を走り抜けていった。