アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

64 / 121
※業務連絡
46話のカレンチャンをメシマズにしました。
カレンチャンメシマズ概念ってただの二次創作ネタだと思ってましたよ。



50話 秋華賞

オープン特別を勝ってしまってから、日常が少しだけ変わった。

 

変わったのは、私じゃなくて、周りの方。

 

近所のコンビニに行くだけで、店員さんの目が変わった。

「あ、あのウマ娘の……」という視線。

レジでお菓子を買う時に、ちらちらとこちらを窺う目。

声をかけてくるほどの勇気はないけど、気づいてはいる、という距離感。

 

SNSは、もっと露骨だった。

通知をオフにしていても、ママが「モエ、またニュースに出てるよ」と教えてくれる。

余計なお世話なんだけど。

 

『カレンモエ、復帰初戦を快勝! 完全復活か!?』

『オークスの悲劇から五ヶ月、天才少女が帰ってきた』

『復帰戦ウイニングライブが話題沸騰! カレンチャン二世の圧巻パフォーマンス』

 

……まだ言ってるの?カレンチャン二世。

やめてほしいんだけど、ほんとに。

私は私で、ママはママなの。そこ、もうとっくに卒業したんだけど。

 

でも、どうしたって世間はそう見る。

カレンチャンの娘が復帰して、勝って、ライブも完璧だった。

それだけで十分な「物語」が成立してしまう。

私の事情なんか、誰も聞いてくれない。

検査だったんです、なんて言ったところで、誰が信じるの。

でももう、仕方ないことだと割り切った。

 

「……トレーナー、なんか私また勝手に物語にされてるんだけど」

 

絢原さんの車の助手席で、スマートフォンの画面をひらひら見せた。

 

「放っておけ。そのうち次の話題に流れる」

「そうかなあ。カレンチャン二世、って見出しが目に入るたびに胃が痛いんだけど」

「……気持ちは分かる」

 

絢原さんは前を向いたまま、低い声で言った。

この人も、スポーツ紙に「復活の立役者」とか書かれてるらしい。

二人して、望んでもいない物語の登場人物にされてる。

 

「まあいいけどさ。……次のレース、どうする?」

 

「GⅢを一つ、入れようと思っている。時期は十一月の頭。距離は1200メートル」

 

「GⅢ、かあ」

 

オープン特別より一つ上の格。

相手も強くなる。観客も増える。

体がどう反応するか、もう一段階上のデータが必要だ、とタキオンさんも言ってた。

 

「……分かった。出る」

 

もう、いちいち迷ってる段階じゃない。

検査を続けるなら、段階を踏むしかない。

オープンの次はGⅢ。GⅢの次は……まあ、それはその時考えよう。

 

「あ、でもトレーナー」

「なんだ」

「今度はもうちょっと静かなレースがいいな。オープンであんなに人来られたら、GⅢとか大変なことになるでしょ」

 

「……善処する」

 

善処、って。いや、まぁ、仕方ないかなぁ。

 

 

 

~~

 

 

 

オープン特別の次の週。

 

秋華賞の日が来た。

 

私は、自分の寮の部屋にいた。

ベッドの上で、スマートフォンをいじっている。

テレビはつけていない。レース中継を見るつもりはなかった。

 

秋華賞。

トリプルティアラの最後の一冠。

桜花賞、オークスを制したダイワスカーレットが、三冠に挑む。

 

そして、ダービーを制したウオッカが、秋華賞に帰ってきた。

桜花賞でスカーレットに負けて、このままじゃ勝てないと感じて、一度ティアラ路線を離れてダービーに挑んだ。そこで結果を出して、ひと回り大きくなって、戻ってきた。

あの子らしいっていうか。正面からぶつかることしか知らないウマ娘。

 

本来なら、私もあそこにいたはずだった。

トリプルティアラを目標に掲げて入学し、桜花賞で砕け、オークスで燃え尽きた。

私が最初に絢原さんに突きつけた条件。「トリプルティアラを目指して」。

あの約束の最終地点に、今日、スカーレットとウオッカが二人で立っている。

私だけが、いない。

 

……別に、何も感じない。

 

嫉妬? ない。

悔しさ? ない。

二人とも強い。桜花賞でもオークスでもダービーでも、実力で勝ってきた。

私がいてもいなくても、あの二人の決着はいつか来るものだった。

 

スマートフォンの画面を眺める。

SNSのタイムラインが、秋華賞一色に染まっている。

「スカーレットvsウオッカ、世紀の対決!」「三冠かダービーウマ娘の意地か」「歴史的瞬間を見届けろ」。

そんな文字の羅列が、次から次へと流れていく。

 

引退届は、まだ出していない。

絢原さんが作成した書類の束は、絢原さんの引き出しの中で眠ったままだ。

先週、私はオープン特別に出走して勝った。

籍の上では、私はまだ現役のウマ娘だ。

 

でも、秋華賞に出る資格はない。

出る理由もない。

私の秋華賞は、オークスの最終直線で終わった。

 

画面をスクロールする指が、ふと止まった。

誰かのツイート。パドックの写真が二枚並んでいる。

 

スカーレットとウオッカ。

 

勝負服に身を包んだ二人。

スカーレットの青と白。ウオッカの黄色と黒。

対照的な色彩。対照的な佇まい。

でも、二人の目に宿っている光は同じだ。前しか見ていない。一切の妥協を許さない、研ぎ澄まされた闘志。

 

……綺麗。

 

二人とも、本当に綺麗だ。

あそこに立てるウマ娘は、ああいう目をしてるんだ。

 

スマートフォンを伏せて、ベッドに仰向けになった。

天井の染みを見つめる。

 

しばらくして、どこかから微かにテレビの音が聞こえてきた。

共有スペースのテレビだろうか。マーチャンも部屋にはいない。見に行ったんだろう。同室のベッドは空っぽだ。そりゃそうだ。普通なら秋華賞を見逃すはずがない。

 

実況の声が、壁と床を透過して、ぼんやりと届いてくる。

言葉は聞き取れない。ただ、興奮した声のトーンだけが、低い振動として伝わってくる。

 

……大丈夫。

体は反応していない。

壁を隔てた実況の残響くらいじゃ、疼きすら起きない。

 

目を閉じた。

 

 

 

~~~

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

秋華賞、芝2000メートル!

ゲートが開きました! 十八人のウマ娘、一斉にスタート!

 

注目はもちろん二人!

桜花賞、オークスを制し、トリプルティアラに王手をかけたダイワスカーレット!

そしてダービーウマ娘ウオッカが、このティアラ路線に帰ってきた!

三冠か、阻止か! 同世代の二大巨頭が、ここ京都で激突します!

 

スカーレット、好位の三番手に取りつきました! いつも通りのポジショニング!

対するウオッカは中団のやや後ろ、八番手あたり! こちらも得意の差し脚を溜める構え!

 

第一コーナーを抜けて、向こう正面に入っていきます!

 

 

 

――Red Ace: Daiwa Scarlet

 

 

 

三番手。

前に二人。後ろに十五人。

いつも通りの位置。いつも通りの呼吸。いつも通りの私。

 

……のはずだった。

 

向こう正面。隊列が落ち着き始める。

 

背後に、気配がある。

八番手あたり。少し離れた位置。

でも、確実にこちらを見ている視線。

 

ウオッカ。

 

ウオッカ。

アイツが帰ってきてることくらい、とっくに分かってる。

桜花賞で負けて、ダービーに行って、そこで勝って、帰ってきた。

 

……上等よ。

来なさい。またティアラの舞台に戻ってくるなんて、いい度胸じゃない。

 

でも。

 

視界の端が、ちらつく。

 

内ラチ沿いに、空いたスペースがある。

誰もいない空間。一人分の幅。

 

あそこに、いるはずだった子がいない。

 

……何を考えてるの。

レースの最中に、いないウマ娘のことを考えてどうするの。

 

首を振る。集中。前を見る。

今日の相手はウオッカ。あの子じゃない。

あの子のことは、今は関係ない。

 

関係ない。

関係ないのに、内ラチ沿いの空白が、視界の端にちらつくのはなぜ。

 

 

 

――Hero: Vodka

 

 

 

八番手。スカーレットの背中が、五人分前に見える。

 

青と白の勝負服。

桜花賞、オークス。二冠を獲ったウマ娘の背中。

今日ここで三冠目を獲らせるわけにはいかない。

 

桜花賞で負けた。スカーレットに、正面から叩き潰された。

このままじゃ勝てない。同じ場所で同じことをやっても届かない。

だからダービーに行った。別の頂点を獲りに行った。

そこで掴んだものを持って、帰ってきた。

 

今度こそ、スカーレットを倒す。同世代の頂点は、オレだ。

場違いだって言いたいやつには好きに言わせておけばいい。

オレはオレの走りで証明する。

 

第二コーナーに入る。

スカーレットの位置を確認する。三番手、変わらず。

 

……でも、なんか。

スカーレットの走りが、いつもと違う気がする。

 

桜花賞の時のスカーレットは、もっと隙がなかった。

前を見据えて、周囲の全てを支配するような、あの圧倒的な存在感。

 

今日のスカーレットには、どこか……散漫なものがある。

フォームは完璧だ。ポジションも的確だ。

でも、意識がほんの一瞬、どこか別の場所に飛んでいる。

そんな気配。

 

何を見てるんだ、スカーレット。

お前の相手はオレだろ。

前を見ろ。オレを見ろ。

 

……いや。

分かってる。分かってるよ。

お前が見てるのは、ここにいないあいつのことだろ。

 

カレンモエ。

 

あいつがいないことを、お前は気にしてる。

三冠をかけたレースだっていうのに、あいつの不在が頭の片隅にこびりついてる。

 

……ふざけんなよ。

 

オレはお前を倒すためにここに来たんだ。

お前がよそ見してる間に勝っても、そんなの意味がない。

 

第三コーナーまであと200。

脚を溜める。溜めて、溜めて、最後の直線で全部ぶつける。

 

お前がオレを見ないなら、力ずくで振り向かせる。

それがオレの走りだ。

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

第三コーナーに入ります! 先頭集団に動きが出始めた!

スカーレット、じわりとポジションを上げて二番手に浮上!

そして後方からウオッカ! 外に持ち出して進出を開始しました!

 

第四コーナー! スカーレット先頭に立った! 堂々の先頭!

しかし大外からウオッカ! ウオッカが凄まじい脚で追い込んでくる!

 

直線に入りました! 残り400メートル!

スカーレット先頭! ウオッカ猛追!

二人の差がみるみる縮まっていく!

 

 

 

――Red Ace: Daiwa Scarlet

 

 

 

直線。

先頭に立った。

残り400メートル。

 

脚に力を込める。ギアを最大まで上げる。

ここからは出し惜しみなんてない。全部出す。

 

……外から、来てる。

 

ウオッカ。

大外から、恐ろしい勢いで迫ってくる。

地鳴りみたいな足音。蹄鉄が芝を抉る音。

あいつの殺気が、肌を焼くほどに近い。

 

残り300。

並んできた。

 

ウオッカの息遣いが、すぐ隣で聞こえる。

荒くて、熱くて、全てをぶつけるような呼吸。

 

ウオッカの目は、真っ直ぐに私を見ている。

よそ見なんかしていない。一点の曇りもなく、私だけを見ている。

――ああ、そうか。

 

こいつは、私を見てくれてるんだ。

私の全力を引き出すために、ここに来てくれたんだ。

 

あの子はいない。

桜花賞で私の隣にいたあの子は、ここにはいない。

でも、ウオッカがいる。

ダービーを勝ったウマ娘が、もう一度ティアラ路線に殴り込んできて、今、私の隣で全力を出している。

 

だったら、応えなくてどうする。

 

脚が唸る。

残り200。

ウオッカが半バ身前に出た。

 

……抜かせない。

 

歯を食いしばる。

三冠をかけたレースで、ここで負けるわけにはいかない。

桜花賞の、あの不完全な勝利の上に積み重ねてきたものの全部を、ここで。

 

内から、差し返す。

ウオッカの鼻先に、もう一度並ぶ。

 

残り100。

二人が、完全に並んでいる。

 

ゴール板が迫る。

 

ここで。ここで。ここで。

 

叫ぶ。声にならない叫び。

最後の一歩に、持てる全てを叩き込む。

 

 

 

――Hero: Vodka

 

 

 

残り100。

並んでる。スカーレットと、完全に並んでる。

 

こいつの目が変わった。

さっきまでどこかを見ていた目が、今は完全にオレだけを捉えてる。

 

……やっと、本気になったな。

 

嬉しいよ、スカーレット。

これだよ、これ。

お前のこの目が見たかったんだ。

 

でも、だからって譲る気はない。

オレはオレの走りで勝つ。

 

脚を回す。もう一歩。もう一歩。

体中の筋肉が悲鳴を上げてる。肺が破裂しそう。

でも止まれない。止まったら負けだ。

 

ゴール板。

 

二人同時に駆け抜けた。

 

……どっちだ。

 

分からない。分からないけど。

 

隣のスカーレットの目と、一瞬だけ目が合った。

お互い、全力を出し切った目。

何の悔いもない。そういう目。

 

写真判定の電光が点灯する。

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

ゴールイン! 際どい! 際どいです!

スカーレットとウオッカ、ほぼ同時にゴール板を通過しました!

写真判定です! 写真判定に入りました!

 

場内は騒然! どちらが先着したのか、肉眼では全く判別がつきません!

三冠がかかったこのレースで、まさかの大接戦!

 

さあ、結果は……!

 

……出ました!

一着、ダイワスカーレット! ダイワスカーレット一着です!

二着、ウオッカ! 差はハナ差!

 

ダイワスカーレット、秋華賞を制覇!

桜花賞、オークス、秋華賞! トリプルティアラ達成です!

史上最高の接戦を制しての三冠!

ハナ差で沈んだウオッカも素晴らしいレースでした! 場内は鳴り止まない大歓声です!

 

 

 

~~~

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

どれくらい経っただろう。

数分か、十数分か。

 

遠くから、歓声が聞こえた。

大勢のウマ娘の、感情のこもった声。

 

聞き取れたのは、一言だけだった。

 

「……三冠、か」

 

スカーレットが、勝ったのだ。

 

桜花賞。オークス。秋華賞。

トリプルティアラ、完全制覇。

 

私が最初に掲げた目標を、私ではない誰かが成し遂げた。

 

「…………」

 

天井を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 

何も感じない。

嫉妬も、悔しさも、悲しみも、本当に、何も。

スカーレットは凄い。それは純粋な事実だ。

あの子が三冠を取るのは、当然の結果。おめでとう。心からそう思う。

 

……のに。

 

胸の奥に、小さな引っかかりがある。

 

棘みたいな。

あるいは、飲み込んだ小石が胃の底で転がってるような。

痛いわけじゃない。ただ、そこに「ある」。

 

何が引っかかっているのか、自分でも分からない。

 

スカーレットへの嫉妬じゃない。

走れなかった自分への後悔でもない。

もっと漠然とした、形のないもの。

 

しばらくして、スマートフォンを手に取った。

画面をつける。

SNSは祝福の嵐だった。

「スカーレット三冠おめでとう」「歴史的快挙」「最強のティアラ」。

「ウオッカ惜しい! ハナ差!」「あの追い込みは鳥肌」「二人とも凄すぎ」。

 

その洪水みたいな祝辞の中に、一つだけ目に留まったツイートがあった。

 

「スカーレットのレース後インタビュー、なんか表情硬くなかった? 三冠取ったのに」

 

添付された短い動画。

タップして、再生する。

 

レース後のスカーレットが、マイクの前に立っていた。

勝負服は泥で汚れ、額に汗が光っている。

勝者の顔。

でも、確かに、何かが違った。

 

三冠を達成した直後とは思えない、微かな翳り。

笑顔はある。誇りもある。でも、その奥に。

何かが足りない、っていう顔。

 

インタビュアーの質問に答えるスカーレットの声は、いつも通り凛としていた。

でも、最後に一つだけ、奇妙な間があった。

 

「今日の勝利についてお聞かせください」

「……ええ。目標としていた三冠を達成できたことは、素直に嬉しく思います」

 

その「嬉しく思います」の前の、コンマ数秒の沈黙。

三冠を取ったウマ娘の第一声が「嬉しく思います」であることの、違和感。

「最高です」でも「信じられない」でも「やった」でもなく。

感情を濾過して、一番無難な言葉を選んだような、あの間。

 

動画の中で、インタビュアーが続けた。

 

「ウオッカさんとの激闘でした。ハナ差の接戦、いかがでしたか」

 

「……ウオッカは、強かった」

 

スカーレットの声が、少しだけ柔らかくなった。

 

「ウオッカがいなければ、今日の私はもっとつまらないレースをしていたと思います。……感謝しています」

 

その言葉の後に、スカーレットは一瞬だけ視線を落とした。

カメラは逃さなかった。あの一瞬の、下を向いた目。

 

何かを言いかけて、飲み込んだような。

あるいは、言うべきことが他にもあったのに、言えなかったような。

 

動画はそこで終わっていた。

 

スマートフォンを伏せる。

 

今度は、天井の染みじゃなくて、窓の外の空を見つめた。

夕暮れが近い。空の色が、橙に変わり始めている。

 

スカーレットは三冠を取った。

ウオッカとの死闘を制して、ハナ差で勝った。

文句なしの偉業。歴史に残るレース。

 

……なのに、あの一瞬の、下を向いた目。

 

三冠を達成した直後のウマ娘が見せる表情じゃなかった。

「嬉しく思います」の前のコンマ数秒の沈黙。

何かが足りない、っていう顔。

 

なんでだろう。

 

ウオッカとあそこまで死闘を演じて、ハナ差で勝って、三冠を取って。

それでもまだ足りないものがあるとしたら、それは何なのか。

 

……まさか。

 

浮かんだ考えを、すぐに振り払った。

馬鹿じゃないの。自意識過剰にもほどがある。

 

私はもう走っていない。オープン特別を一回走っただけの、検査中のウマ娘。

三冠レースの結果に影響を与えられるような存在じゃない。

スカーレットの表情が曇っていたとして、それは私とは関係ない。あの子の中の問題だ。

ウオッカとの勝負の中で、何か思うところがあっただけだろう。

 

私がいなかったから、なんて。

終わったウマ娘が、三冠レースを見てそんなことを考えるなんて、おこがましいにもほどがある。

あの二人に失礼だ。

 

うん。関係ない。

私は関係ない。

 

……なのに。

 

胸の奥に、小さな小石が転がった。

何の根拠もない、ただの引っかかり。

たぶん気のせいだ。きっと気のせい。

 

「……すごいね、スカーレット」

 

誰にも聞こえない声で呟いて、布団を頭まで被った。

 

 

~~

 

 

 

翌朝。

 

食堂に行ったら、壁掛けのテレビが昨日の秋華賞のダイジェストを流していた。

朝食を取っている何人かのウマ娘が、画面を見ながら興奮気味に喋っている。

 

「スカーレットすごかったよね」「ウオッカとのハナ差、鳥肌立った」「三冠だよ三冠」

 

私はなるべく目立たないように端の席に座って、トーストを齧った。

 

テーブルの上に誰かが置いていったスポーツ紙がある。

一面には、勝負服姿のスカーレットがゴール板を駆け抜ける瞬間の写真。ほんの鼻先だけウオッカより前に出ている。

見出しには『ダイワスカーレット、トリプルティアラ完全制覇! 激闘ハナ差! 史上最強のティアラウマ娘誕生!』と大きく打たれている。

 

「あ、モエちゃんおはようございます」

 

隣に座ってきたのはマーチャンだった。

トレーにお粥と漬物を載せて、いつものおっとりした笑顔。

 

「昨日、見なかったんですね。お部屋にいたでしょう?」

 

「……うん。見なかった」

 

「そうですか。すごいレースでしたよ。スカーレットさん、最後の直線で本当にギリギリで」

 

マーチャンは穏やかに語る。

昨日のレースの感想。スカーレットの粘り。ウオッカの追い込み。ハナ差の決着。

まるで映画の感想を話すみたいに、淡々と、でも正確に。

この子の目はいつだってカメラだ。見たものを全部記録して、いつでも再生できる。

 

「……すごいね」

 

「ですです。すごかったです」

 

マーチャンはお粥を一口すすって、少しだけ目を細めた。

 

「マーチャンたちも、あの二人と走ったんですよね。桜花賞で」

 

私たち。

マーチャンも3着に入った。あの子もあの舞台の当事者だ。

NHKマイルカップに路線を変えたマーチャンと、オークスで壊れた私。二人とも、あの日の続きをそれぞれの形で降りた。

 

「……うん。走ったね」

 

「ですねぇ」

 

マーチャンの声はいつも通りおっとりしていた。

でも、「走ったんですよね」の語尾に、ほんの僅かに、噛みしめるような響きがあった。

この子も、何か思うところはあるのだろう。あの秋華賞を外から見て。

 

それ以上は、お互いに踏み込まなかった。

 

「……ごちそうさま」

 

トーストを半分残して、席を立った。

マーチャンが「あら、もう行くんですか?」と言ったけど、「ちょっと部屋で準備する」と答えて共有スペースを出た。

 

部屋に戻る。

マーチャンのベッドは、きっちり整えられている。あの子は朝が早い。

 

自分のベッドに腰掛けて、スマートフォンを開く。

 

昨日見たあのインタビュー動画。

もう一度再生しようとして、指が止まった。

 

……やめよう。

見たところで、何も変わらない。

スカーレットが三冠を取った。ウオッカがハナ差で迫った。二人とも凄かった。おめでとう。それでいい。

あの子の表情が曇っていたとしても、それは私とは何の関係もない。

 

スマートフォンをベッドに投げ出して、窓の外を見た。

 

十月の終わり。

寮の窓から見えるのは、学園の敷地内の並木道。

葉が色づいて、朝の光を受けて赤や黄色に光っている。

この並木道を、今日もたくさんのウマ娘が練習場に向かって走っていく。

 

来週はGⅢだ。

オープン特別より一つ上の格。

体がどう反応するか。相手が強くなった時に、何が変わるのか。

 

考えなきゃいけないことは、そっちだ。

スカーレットの三冠じゃなくて、自分の体のこと。

自分の検査のこと。

 

……なのに。

 

窓ガラスに映った自分の顔を見る。

琥珀色の瞳。ママと同じ色の瞳。

 

その瞳の奥に、昨日見たスカーレットの表情が残像みたいに焼き付いている。

三冠を取ったのに、何かが足りないっていう、あの顔。

そしてウオッカの、全力を出し切った後の、清々しくも悔しそうな顔。

二人とも、全部を出して戦った顔をしてた。

 

あの顔の意味を、考え始めたら危ない。

 

だって、認めちゃったら。

 

スカーレットの表情が曇っていた理由に、もし私が関係しているとしたら。

そう思ったら、次に浮かぶのは「じゃあ、私が走れば」で。

その先にあるのは——

 

……考えすぎだ。

私が関係してるわけない。自意識過剰。おしまい。

 

でも、小石は転がったまま、止まらなかった。

 

窓の外で、風が木の葉を巻き上げた。

赤い葉が一枚、くるくると回りながら空に舞い上がって、見えなくなった。

 

秋が、深まっていく。




低評価が多くて怖いんですが、評価や感想などポチって頂けると嬉しいです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。