寮に戻って、最初に困ったのは荷物だった。
入院前に持ち出した私物は最低限。退院後は実家にいたから、寮の部屋にはほとんど何も残っていない。
クローゼットの中は半分空っぽ。棚のぬいぐるみたちだけが、数ヶ月間の留守を忠実に守ってくれていた。
「モエちゃん、おかえりなさいです」
向かいのベッドの上で、マーチャンがマーちゃん人形を掲げてぱたぱた振っていた。
人形の方も「おかえり」と言っているらしい。
「……ただいま。散らかしてない?」
「マーちゃんはいつでも整理整頓ですよ。見てください、この美しい陳列」
マーチャンのベッド周りを見た。
枕元にマーちゃん人形が三体。サイドテーブルにマーちゃん人形が二体。窓際の棚にマーちゃん人形が――数えるのをやめた。
「……増えてない?」
「新作が出たのです。夏の限定カラー。こっちがサマーマーちゃんで、こっちがトロピカルマーちゃん。どちらもかわいいでしょう?」
「どっちも同じ顔じゃん」
「違います! よく見てください、リボンの色が!」
マーチャンが二体の人形を私の顔の前に突き出してきた。確かに、リボンがピンクと水色で違う。
……それだけだけど。
「はいはい。かわいいかわいい」
「ふふっ。分かればよろしいのです」
満足そうに頷いて、マーチャンは人形を定位置に戻した。
この子の「定位置」は厳密に決まっていて、少しでもずれると直す。マーちゃん人形の配置に関しては、この子の几帳面さは異常だ。
~~
同室生活が再開して、すぐに思い出したことがある。
マーチャンは、寝相が壊滅的に悪い。
夜中にふと目が覚めると、向かいのベッドからマーチャンの腕がはみ出している。たまに脚もはみ出している。一度、枕が部屋の真ん中まで飛んできていたことがある。
「マーチャン……マーチャン、腕」
「……むにゃ……まーちゃんは……しゅてーじの……うえ……」
寝言。しかも自分の夢の中でもステージに立っているらしい。この子のブランディングへの執念は睡眠中も途切れない。
もう一つ。
マーチャンは朝が早い。
私がまだ布団の中で死んでいる時間に、もう起きている。静かに着替えて、静かにストレッチして、静かに出ていく。
この「静かに」が地味にありがたい。起こされたら私は不機嫌の塊になる。マーチャンはそれを一年目で学習したらしい。
「モエちゃんの不機嫌は、朝いちばんが最も濃度が高いのです。近づいてはいけない時間帯として記録済みです」
「……記録すんな」
「大事な情報ですから。マーちゃんの取材ノートにメモしてあります」
取材ノート。
マーチャンは本当にそういうノートを持っている。「マーちゃん的 お友達データベース」と表紙に書いてあるのを一度だけ見たことがある。中身は見せてくれなかった。
「モエちゃんのページ、ちゃんとありますよ。好きな食べ物、嫌いな食べ物、機嫌が悪い時間帯、笑うツボ、全部記録してます」
「……なんか怖いんだけど」
「愛ですよ、愛」
にこにこ。
この子の「愛」は、記録すること。覚えていること。忘れないこと。
それがマーチャンの一番大事な価値観だと、一年一緒に暮らしていれば分かる。
忘れられることが、この子にとっては一番怖い。
だから、自分も他人のことを忘れない。全部記録して、全部覚えて、全部残す。
……重いけど、嫌いじゃない。
~~
十月の夕方。
練習から帰ってきて、部屋でゴロゴロしていたら、マーチャンが声をかけてきた。
「モエちゃん、夕飯まだですか? マーちゃんと一緒に食堂行きませんか」
「……んー、もうちょっと」
「もうちょっとって言って三十分経ってます」
「……あと五分」
「それも三回目です」
見抜かれている。
正直に言えば、食堂に行くのが億劫だった。
人が多い時間帯は視線が気になる。でも遅い時間に行くとメニューが残り物になる。
入院前はそんなこと気にしなかったのに。
「……マーチャン、先行ってていいよ」
「嫌です」
「え」
「マーちゃんは、モエちゃんと一緒にご飯を食べたいのです。一人で食べるご飯は美味しくないのです」
まっすぐな目で言われた。
この子はこういう時、一切の含みがない。ただ本心を言っているだけ。
「……分かった。行く」
「やったです! 今日の日替わりメニュー、ハンバーグですよ。マーちゃん調べ済みです」
「調べてるんだ」
「当然です。食堂の週間メニューはマーちゃんのデータベースに収録済みです」
この子のデータベースの範囲が日に日に広がっている気がする。
食堂までの廊下を並んで歩く。
マーチャンは私より小さいのに、歩幅が大きい。たたたっと小走りに近いペースで前を行く。
「ほら、モエちゃん、遅いですよ」
「……私、今日走ったんだけど。練習で」
「マーちゃんも走りましたけど?」
……言い返せない。
食堂で、向かい合ってハンバーグを食べた。
マーチャンがスマートフォンを構えた。
「はい、マーちゃんとモエちゃんの復活ディナー、記念撮影です」
「撮らなくていいから」
「ダメです。記録は大事です。……はい、チーズ」
パシャ。
私は目を逸らしていたので、たぶん映りが最悪だと思う。
「モエちゃん、ちゃんとカメラ見てください」
「嫌」
「じゃあもう一枚」
「だから嫌だって」
「はい、チーズ」
パシャ。
「……マーチャン」
「ふふっ。こっちの方が自然でいいですね。保存します」
……勝てない。この子には、食堂でも勝てない。
ハンバーグを食べながら、マーチャンがぽつりと言った。
「モエちゃんが戻ってきてくれて、嬉しいです」
「……別に、ただ寮に戻っただけだよ」
「でも、嬉しいのです。向かいのベッドが空っぽだったの、寂しかったですから」
マーチャンがハンバーグを頬張りながら、もごもごと続ける。
「マーちゃん人形を代わりに置いてみたんですけど、人形は寝息を立てないので」
「当たり前でしょ」
「モエちゃんの寝息、すごく静かなんですよ。知ってましたか? すーすーって、猫みたいに。マーちゃん、あの音がないと寝つきが悪くなっちゃって」
「……」
なんだろう。
くすぐったいような、困るような、でも嫌じゃない気持ち。
「だから、おかえりなさい。モエちゃん」
マーチャンの黄緑の瞳が、テーブル越しにまっすぐこちらを見ている。
「……ただいま。マーチャン」
二回目の「ただいま」。
最初のは荷物を持って部屋に入った時の。
今度のは、もうちょっと、ちゃんとしたやつ。
マーチャンがにこっと笑って、残りのハンバーグにがぶりとかぶりついた。
その食べっぷりは、小さい体のどこに入るのか心配になるくらい豪快だった。
部屋に戻る廊下で、マーチャンが小さな声で言った。
「マーちゃん、モエちゃんのこと、ずっと録ってますからね」
「……それ、録画の録?」
「記録の録。記憶の記。全部です」
「……重いよ、マーチャン」
「重くて結構です。マーちゃんは軽い記憶なんか残しませんので」
にこにこ笑って、マーチャンは部屋のドアを開けた。
定位置のマーちゃん人形たちが、棚の上からお出迎え。
ベッドに倒れ込む。
向かいのベッドでは、マーチャンが今日の「取材ノート」に何か書き込んでいる。
ペンの音がさらさらと聞こえる。
何を書いてるんだろう。
「モエちゃん、ハンバーグ完食。食欲回復傾向」とか書いてそう。
……まあ、いいか。
記録されるくらい、別に減るもんじゃないし。
目を閉じる。
向かいのベッドに、ちゃんと誰かがいる夜。
悪くない。