アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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51話 京阪杯

十一月のある日の昼。

 

学園の食堂で、一人で遅めの昼食を取っていた。

練習後、人が少なくなる時間帯を狙って来る。あんまり人の多い場所にいたくない。

視線が気になる。「あのオークスの子」「復帰したんだってね」。聞こえてなくても、そう思われてる気がする。

 

カレーをつついていたら、後ろからどすん、と衝撃が来た。

 

「モエちゃーん! 久しぶりー!」

 

背中に飛びつかれた。

この体当たり。この声。この温度。

 

「……ウララちゃん」

 

振り返ると、ピンク髪の小さなウマ娘が、満面の笑みでこちらを見上げていた。

ハルウララ。キング先輩のルームメイト。学園のマスコット。

練習着姿で、額に汗が光っている。走ってきたのだろう。この子はいつも走っている。

 

「モエちゃん、戻ってたんだ! 知らなかった! いつ戻ったの?」

 

「……ちょっと前かな」

 

「えー、もっと早く教えてよ! 全然会わないから、まだおうちにいるのかと思ってた!」

 

ウララちゃんがトレーの向かい側にすとんと座った。

自分の昼食は持っていない。たぶん食堂に来たんじゃなくて、私を見つけて飛んできただけ。

 

「ウララちゃんは元気そうだね」

 

「元気だよ! 今日もいっぱい走ったの! ……でも今日も負けちゃった。えへへ」

 

えへへ、で済ませられるのがこの子だ。

 

「練習で負けたの?」

 

「うん。タイムトライアルで、みんなに追いつけなくて。でもねでもね、前よりちょっとだけタイム縮んだの! 0.3秒だけど!」

 

0.3秒。

スプリンターの世界では意味のある数字だ。でもウララちゃんの言い方だと、テストで3点上がったのを喜んでるみたいに聞こえる。

 

「すごいじゃん。0.3秒」

 

「えへへ。……ねえモエちゃん、モエちゃんも走ってるんでしょ? レース出てたよね。テレビで見たよ!」

 

「……見てたんだ」

 

「見た見た! オープン特別、一着でしょ! すっごかったよ! ビューンって!」

 

ビューン。

あの空っぽのレースが、ウララちゃんにはそう見えたのか。

 

「……あれ、そんなに大したことないよ」

 

「えー、大したことあるよ! 一着だよ一着! 私なんか一着になったことないもん!」

 

ウララちゃんの目が、きらきらしている。

一着を取ったことがないウマ娘が、一着を取っても何も感じなかったウマ娘を、心から羨ましそうに見ている。

 

……なんだろう、この居心地の悪さ。

 

「ウララちゃんは、次のレースいつ?」

 

「えっとね、来月! また1200メートル! 今度こそ勝ちたいなー。……って、いつも言ってるけどね。えへへ」

 

また、えへへ。

 

勝てないのに。何回走っても勝てないのに。

それでも「勝ちたい」って言えるこの子が、私には眩しすぎて直視できない。

 

「……ウララちゃんはさ」

 

「ん?」

 

「走るの、まだ好き?」

 

聞いてから、馬鹿な質問だと思った。

この子に「まだ」なんて要らない。最初からずっと好きに決まってる。

 

「好きだよ! 大好き!」

 

即答。

0.1秒の迷いもなかった。

 

「だって、走ってる時が一番楽しいもん。風がびゅーってなって、みんなの声が聞こえて、足がバタバタってなって。……負けちゃうけど、でも走ってる間はずーっと楽しいの」

 

走ってる間は、ずっと楽しい。

 

その言葉が、カレーのスプーンを持つ手を止めさせた。

 

私はあのオープン特別で、走ってる間、何を感じていた?

……何も。何も感じなかった。

体を動かして、前の子を抜いて、一着でゴールして。全部、作業みたいだった。

 

「モエちゃん? カレー冷めちゃうよ?」

 

「……うん。食べる」

 

スプーンを動かした。

ウララちゃんはしばらくニコニコしながらこっちを見ていたけど、やがて「あ、キングちゃんとの約束忘れてた!」と叫んで席を立った。

 

「モエちゃん、また遊ぼうね! 今度一緒に走ろ!」

 

「……うん。また」

 

ひらひらと手を振って、ウララちゃんは食堂を駆け出していった。

廊下を走るなって怒られるよ、たぶん。

 

一人残された食堂で、冷めかけのカレーを口に運ぶ。

 

走ってる間はずっと楽しい。

 

あの子は、負けても負けても、あれが本心なんだ。

才能がなくても。勝てなくても。走ること自体が、あの子にとっては報酬になっている。

 

私は、勝てる。

才能もある。走れば結果は出る。

でも、走ってる間に「楽しい」と思ったことが、一度もない。

 

……一度もない、はずだ。

 

カレーを全部食べ終えて、トレーを返却口に置いた。

 

食堂を出る時、廊下の向こうからウララちゃんの声が聞こえた。

「キングちゃーん、待ってー!」

キング先輩の「走るんじゃないわよ!」が追いかけている。

 

……ふっ、と。

 

笑ってしまった。小さく。ほんの一瞬だけ。

 

笑えた。それだけで、今日はいい日だと思うことにした。

 

 

 

~~

 

 

 

十一月。

 

GⅢの京阪杯に向けて調整を続けている間に、マイルチャンピオンシップの日が来て、過ぎていった。

 

芝1600メートル。GⅠ。

本来なら、マイル路線のトップが集う最高峰の舞台。

 

今年のマイルCSには、ちょっと変わった顔ぶれが揃ったらしい。

SNSのタイムラインが教えてくれた。通知はオフにしてても、トレンドに入ってたら嫌でも目に入る。

 

『速報:ダイワスカーレット、マイルCS出走を電撃発表! 三冠ウマ娘がマイル路線へ!』

『ウオッカもマイルCSへ! 秋華賞に続き再びスカーレットと激突か!』

 

スカーレットとウオッカが、揃ってマイルCSに出る。

 

……え、なんで?

 

スカーレットは三冠を獲ったばかりだ。普通ならエリザベス女王杯か有馬記念に行くでしょ。

ウオッカもダービーと秋華賞を戦った後で、天皇賞秋とか有馬記念とか、もっと王道のローテーションがあるはず。

なのに二人揃ってマイルCS。1600メートル。

 

……1600メートル。

 

桜花賞と、同じ距離。

 

「…………」

 

スマートフォンの画面を、しばらく見つめた。

それから、そっと伏せた。

 

考えない。

二人がなぜマイルCSに出るのか、その理由を推測するのは、やめる。

考え始めたら、秋華賞の夜から胸の底にある小石が、また転がり出す。

 

マイルCSの当日、私は第三練習場にいた。

絢原さんと二人で、京阪杯に向けた調整。

テレビも、スマートフォンも、見なかった。

絢原さんも何も言わなかった。

 

たぶん、この人も分かってる。

今日マイルCSがあることも、スカーレットとウオッカが出ることも、そしてその意味を私が考えたくないことも。

 

だから何も言わない。

私も何も聞かない。

 

……でも、ちょっとだけ思った。

タキオンさんが今日に限っていないのは、マイルCSのデータを取りに行ったから。

つまり、あの人にとっては私の練習よりマイルCSの方が面白いってこと。

別にいいけど。

 

むしろ、今日は絢原さんを独り占めできてる。

タキオンさんがいると、二人の間で専門用語が飛び交って、私は置いてきぼりにされる。

今日は絢原さんの目が、私だけを見てる。ストップウォッチを構えて、私の走りだけを追ってる。

 

……なんか、それだけでちょっと機嫌がいい自分がいる。

何それ。空っぽのはずなのに。

 

練習は淡々と進んだ。

流し。スプリント。タイム計測。

 

練習が終わって、帰りの車の中。

窓の外はもう暗い。十一月の日没は早い。

 

マイルCSの結果は、知らない。

知りたくない。

今日のところは、知らないままでいい。

 

 

 

~~

 

 

 

十一月の終わり。

 

京阪杯。芝1200メートル。GⅢ。

 

レース当日。京都レース場。

晩秋の空気は冷たくて、吐く息が白い。

 

スタンドを見上げて、ため息が出た。

GⅢなのに、GⅡ並みに人が入ってる。前回のオープンよりは落ち着いたけど、それでも異常な数。

カレンモエ(わたし)が出るだけで、レースの格に関係なく人が集まっちゃう。

なにこの集客力。勘弁してほしいんだけど。

 

パドック。

お立ち台に上がった時の歓声は、前回よりは控えめ。

でもGⅢの水準からすれば、やっぱり異常に大きい。

ぎこちなく会釈して、降りる。もう慣れた。慣れたくなかったけど。

 

ゲートに入る。

1200メートル。

深呼吸。

 

前回と同じ距離。同じ芝。同じ京都。

条件は何も変わらない。

大丈夫。走れる。

 

ガコン。

 

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

スタートしました! 京阪杯、芝1200メートル、GⅢ!

14人のウマ娘達が一斉にゲートを飛び出します!

 

注目のカレンモエは八番ゲートから!

スタートは悪くない! 中団やや前、五番手あたりに位置取りました!

前回オープン特別を快勝しての参戦、GⅢでの走りに注目です!

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

走ってる。

五番手。悪くない位置。

 

芝の感触。風。集団の中にいる圧。

全部、前回と同じ。体も同じように動いてる。

 

1200メートル。

この距離なら、何も考えなくても走れる。

私の脚。私の筋肉。私のリズム。

 

あの反応は、今回も来ない。

まあ、前回のオープンでも来なかったし。当然っちゃ当然かもしれない。

 

周りのウマ娘たちの足音が、前回より速い。

当たり前か。オープン特別とGⅢじゃ、走ってる子のレベルが違う。

 

第三コーナー。

前の集団が膨らんだ。内側にスペースが空いてる。

 

見えてる。

前回と同じだ。あの時はここで内に切り込んで、するりと前に出た。

 

脚を動かす。スペースに入る。

 

……入れた。でも、前回みたいに「気がついたら切り込んでた」じゃない。

自分で見て、自分で判断して、自分で脚を動かした。

それだけの話。ちゃんと走れてる。

 

第四コーナー。

前の子を抜こうとする。

 

……抜けない。

 

速い。この子、速い。

オープン特別の子たちより、明らかにギアが一段上。

同じように脚を動かしてるのに、差が縮まらない。

 

直線。残り200メートル。

 

脚を回す。体が知ってる通りに。

どのタイミングで加速して、どのストライドで地面を蹴ればいいか、全部分かってる。

ちゃんとやってる。サボってない。

 

でも、周りの子たちが速い。

一人、また一人、私の横を通り過ぎていく。

抜き返す脚がない。出し惜しみじゃない。これが今の精いっぱい。

 

ゴール板を、そのまま通過した。

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

ゴールイン!

 

八番カレンモエは……七着。

前回オープン特別を快勝しての参戦でしたが、

今日はいいところがありませんでした。

直線でも伸びを欠き、上位との差は歴然。

復帰二戦目にして早くも壁にぶつかったか。

今後の巻き返しに期待したいところです。

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

七着。

 

十四人中の七着。

オープンを勝ったウマ娘の成績としては、酷い。

 

でも、悔しくなかった。

前回勝った時に何も感じなかったのと同じで、今回負けても何も感じない。

 

そりゃそうだ。

オープン特別で通用したものが、GⅢで通用しなかっただけ。

相手が強くなれば、熱のない素の走りじゃ足りなくなる。当たり前の話。

 

ウイニングライブは、七着なので端っこ。

振り付けを淡々とこなした。観客の視線は上位の子たちに向いてる。

……こっちの方が気楽でいいかも。正直。

 

ライブ後、記者に聞かれた。

 

「……普通に負けました。相手が強かったです」

 

嘘じゃない。本当にそれだけのこと。

 

駐車場。車に乗り込む。

 

「……今回も、来なかった」

 

私から言った。あの反応のこと。

絢原さんは頷いた。

 

「GⅢでも来なかった。前回のオープンと同じだ」

 

「うん」

 

「……タキオンに共有する。来月、阪神カップに出る。GⅡだ」

 

「条件上げるんだ」

 

「ああ。GⅢで来ないなら、GⅡで試すしかない」

 

「……検査の続き、ね」

 

「……ああ」

 

車が発進する。

助手席の窓に額をつけて、目を閉じた。

 

勝っても負けても空っぽ。

 

……のはずなのに。

 

目を閉じると、絢原さんの声が近い。

運転席との距離。手を伸ばせば届く距離。

この車の中だけは、世界から切り離された二人きりの空間。

レース場の歓声も、記者のカメラも、ここには入ってこない。

 

「……トレーナー」

 

「ん」

 

「今日、ゴールした後、最初に見えたの、トレーナーだった」

 

「……そうか」

 

「スタンドに何千人もいたのに。最初に目が合ったの、トレーナーだった。なんでだろ」

 

「……観客席の位置を事前に確認してたからだろう」

 

「つまんない答え」

 

でも、口元が緩んだ。自分でも分かった。

七着で空っぽなのに、こういう時だけ笑えるのは、ずるい。

 

「……ヒーター、もうちょっと上げてくれない?」

 

「これ以上は暑い」

 

「トレーナーが暑くても、私が寒いの。……ね?」

 

絢原さんが何も言わずにヒーターのダイヤルを回した。

温風が、少しだけ強くなる。

 

こういうところ、この人は甘い。口では突っぱねるくせに、結局やってくれる。

それを分かってて甘えてる私も私だけど。

 

窓に額をつけたまま、目を閉じる。

 

でも、一つだけ。

 

さっき着替えてる時に脚に触れた。

走った後の筋肉の、微かな余熱。

その余熱の中に、ほんの一瞬だけ、あの穏やかな「ざわざわ」を感じた。

 

レース中は来なかったのに。

走ってる最中は何もなかったのに。

終わった後に、ほんの一瞬だけ。

 

……なんなの、ほんとに。

 

消えてはいなかった。

七着の、空っぽのレースの後でも。

 

 

 

~~~

 

 

 

京阪杯から数日後。

 

夜。自分の部屋。ベッドの上。

 

秋華賞の後から、胸の奥に小さな小石がある。

京阪杯で七着に沈んでも、その小石は消えなかった。むしろ、走れば走るほど存在感を増している気がする。

 

スマートフォンを触っていた。

特に目的もなく、SNSのタイムラインをぼんやりとスクロールする。

京阪杯の結果についてはもう話題が移っていて、代わりに年末のレースの展望とか、来シーズンの注目ウマ娘の話とかが流れてくる。

 

指が止まった。

 

マイルCSのダイジェスト映像が、サムネイルになって表示されている。

 

『【公式ハイライト】マイルチャンピオンシップ ダイジェスト』

 

……見なかった。マイルCSの日、私はこの映像を見なかった。

結果だけは知ってる。ウオッカが勝ったこと。スカーレットが負けたこと。

それ以外は、何も知らない。

 

指が、サムネイルの上で止まっている。

 

見なくていい。

見る必要はない。

私には関係ないレースだ。

 

……でも。

 

タップした。

 

画面が切り替わる。

実況の声が、スマートフォンのスピーカーから流れ出す。

 

芝1600メートル。GⅠ。

十八人の出走。

その中に、青と白の勝負服と、黒と黄の勝負服。

 

映像は最終直線から始まっていた。

ダイジェストだから、前半は省略されている。

 

残り400メートル。

先頭集団から抜け出してきたのは、スカーレット。

三冠ウマ娘の青い勝負服が、直線の真ん中で躍動している。

 

でも、何かが変だった。

 

スカーレットの走りは、速い。確かに速い。秋華賞の時と同じように、全力で腕を振っている。

でも、何かが噛み合っていない。

本人は間違いなく全力だ。手を抜くなんて、あの子の辞書にはない。

なのに、秋華賞の最終直線で見た、あの研ぎ澄まされた切れ味が出ていない。

全力なのに、全力が全力になりきっていない。そんな矛盾した走り。

 

残り200メートル。

大外から、ウオッカが来た。

 

黒と黄の勝負服が、風を切り裂くように伸びてくる。

あの子の走りは、いつ見ても真っ直ぐだ。迷いがない。ただ前だけを見て、全力で。

 

並んだ。

残り100メートルで、二人が完全に並んだ。

 

そこからの直線は、秋華賞の再現みたいだった。

二人が叩き合う。一完歩ごとに、前に出たり追いつかれたりを繰り返す。

 

でも、秋華賞とは何かが違う。

 

秋華賞の最終直線では、スカーレットの目に火がついた。

ウオッカに並ばれた瞬間、あの子の中の何かが弾けて、最後の一完歩で差し返した。

あの時のスカーレットは、全力だった。ウオッカを見て、ウオッカと戦って、全部を出し切った。

 

今回は、違う。

 

スカーレットは全力で走っている。一歩も手を抜いていない。

でも、最後の一完歩で、秋華賞の時に見えた「もう一段」が来ない。

本人が出し惜しみしているんじゃない。出そうとしているのに、噛み合わない。

歯車が空回りしている。全力なのに、全力が形にならない。

 

ゴール。

ウオッカが半身差で先着。

 

映像が、レース後のインタビューに切り替わった。

 

ウオッカが先だった。

いつもの勝負服のままマイクの前に立つウオッカ。汗と泥で汚れた顔。

勝者のはずなのに、その表情は妙に硬かった。

 

「今日の勝利についてお聞かせください」

 

「……勝ちは勝ちだ。でも、こういう勝ち方がしたかったわけじゃねえ」

 

ウオッカの声は、低くて、不機嫌だった。

勝ったウマ娘の声じゃない。

 

「スカーレットは、今日も全力だったと思う。あいつが手を抜くわけねえし。……でも、秋華賞の時とは何かが違った。あん時の方がずっとヤバかった。同じ全力のはずなのに、何かが足りねえ」

 

ウオッカが、マイクを真っ直ぐに見据えた。

 

「オレはスカーレットの全力に勝ちたいんだ。こんな……こんな、半端な勝ち方なんて」

 

言葉が途切れた。

ウオッカが唇を噛んで、それ以上は何も言わなかった。

 

映像が切り替わる。

スカーレットのインタビュー。

 

青い勝負服。敗者の顔。

でも、悔しそうかと言われると、ちょっと違う。

悔しさの奥に、もっと別の感情がある。

 

「今日のレースの感想をお聞かせください」

 

「……ウオッカは強かった。今日は、アイツが上だった」

 

スカーレットの声は、いつも通り凛としている。

でも、次の言葉に、微かな棘があった。

 

「アタシの走りが、足りなかった。自分でも分かってる」

 

「何が足りなかったとお考えですか?」

 

長い沈黙。

 

スカーレットの目が、一瞬だけカメラから外れた。

どこか遠くを見ている。レース場の向こう側。あるいは、ここにいない誰かを。

 

「……それが分かったら、苦労しないわよ」

 

ぶっきらぼうに言い捨てて、スカーレットはインタビューを切り上げた。

マイクの前から立ち去る背中。その肩が、微かに強張っている。

 

映像が終わった。

 

「…………」

 

スマートフォンの画面が暗くなる。

天井が見える。自分の部屋の、見慣れた天井。

 

二人とも、満たされていなかった。

 

勝ったウオッカは「こんな勝ち方がしたかったわけじゃない」と言った。

負けたスカーレットは「何が足りないか分かったら苦労しない」と言った。

 

三冠ウマ娘とダービーウマ娘が、マイル路線にわざわざ降りてきて、1600メートルで激突して。

それでも、二人とも満足していない。

 

1600メートル。

桜花賞と、同じ距離。

 

……まさか。

 

浮かんだ考えを、すぐに打ち消した。

馬鹿じゃないの。自意識過剰にもほどがある。

 

私はもう終わったウマ娘だ。

GⅢで七着になるのが精一杯の、検査のためだけに走ってる抜け殻。

そんな私が、あの二人の走りに影響してるなんて。

今も現役で、命を削って走り続けている二人に対して、「私がいなかったから」なんて思うこと自体が、おこがましい。

 

スカーレットの歯車が噛み合わなかったのは、あの子自身の問題だ。

ウオッカが不満だったのも、あの子が求める勝ち方が高すぎるからだ。

 

私なんか関係ない。

 

……でも。

 

あの二人がわざわざ1600メートルに来た理由。

 

チューリップ賞で三人が激突して、桜花賞で決着をつけるはずだった距離。

私がエゴでティアラ路線を引っ掻き回して、結局何も決められないまま壊れた距離。

 

もし、私のせいで二人の間に決着のつかない何かが残っているのだとしたら。

それを清算する力が、今の私にはない。

走る理由がないまま検査のためにレースに出て、GⅢで七着になるのが精一杯の、終わったウマ娘には。

 

スマートフォンを裏返して、枕の下に押し込んだ。

布団を頭まで被る。

 

十二月の阪神カップまで、あと少し。

 

次はGⅡ。

体がどう反応するか、まだ分からない。

GⅢでは来なかった。GⅡならどうなるのか。

 

……検査の続き。

それだけ。

 

それ以外のことは、考えない。

考え始めたら、秋華賞の夜から胸の底にある小石が、また転がり出す。

そしたら最後、次に浮かぶのは「じゃあ、走らなきゃ」で。

 

私はまだ、その結論に辿り着く準備ができていない。

 

目を閉じる。

冬の夜が、静かに部屋を包んでいく。

 

小石は、胸の奥で転がったまま、止まらなかった。

 




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