――Hero: Vodka
レース場の通路。
ウイニングライブを終えて、控室に戻る途中だった。
勝った。
マイルチャンピオンシップ。芝1600メートル。GⅠ。
半馬身差で、スカーレットを差し切った。
……勝った、はずだ。
なのに、この胸の底に溜まってる重たいものは何だ。
ダービーを勝った時とも違う。秋華賞で負けた時とも違う。
勝ちも負けも、スカッとしねえ。
中途半端な温度の風呂に浸かってるみたいな、気持ち悪さ。
前方に、青い勝負服の背中が見えた。
スカーレット。
一人で歩いている。付き添いのスタッフとも離れて、通路の真ん中を、背筋を伸ばして。
負けたくせに堂々としてやがる。いつもそうだ、アイツは。
……でも、肩が強張ってる。
あれは、オレの知ってるスカーレットの「負けた後の顔」じゃない。
秋華賞で勝った時のスカーレットの方が、よっぽど苦しそうだった。
今のアイツは、苦しいんじゃなくて、分かんないって顔してる。
脚が勝手に速まった。
「おい、スカーレット」
声をかけた。
自分でも思ったより、低い声が出た。
スカーレットが足を止めて、振り返る。
青い瞳が、オレを映した。
「……ウオッカ。何」
「何、じゃねえだろ」
並んだ。通路の蛍光灯が、二人の影を床に落としている。
他に誰もいない。ちょうどいい。
言いたいことがある。
ずっと、直線を走ってる間から、喉の奥に引っかかってた言葉が。
「さっきのレース。お前、全力だったか」
スカーレットの目が、一瞬だけ鋭くなった。
「……当たり前でしょ。アタシが手を抜くわけないじゃない」
「分かってる。お前が手を抜くような奴じゃねえことくらい、オレだって知ってる」
「じゃあ何が言いたいのよ」
「全力だったのは分かる。お前が一歩も手を抜いてねえのは、後ろから見てて分かった」
一呼吸。
「でも、秋華賞と違っただろ」
――Red Ace: Daiwa Scarlet
秋華賞と違った。
その言葉が、胸に刺さった。
刺さったのは、図星だったからだ。
「……何が言いたいの」
「お前、秋華賞の最終直線で、オレに並ばれた時。あの瞬間、もう一段ギアが入っただろ。あれで差し返された。あの一歩で、オレは負けた」
ウオッカの目が、真っ直ぐにアタシを見ている。
いつもそうだ。コイツは真っ正面からしかぶつかってこない。
「今日は、あれが来なかった。お前は全力で走ってた。間違いない。でも、あの『もう一段』がなかった。オレにはそう見えた」
否定できなかった。
アタシも分かっていた。走ってる最中から、ずっと。
全力で脚を動かしている。全力で腕を振っている。
秋華賞の時と同じことをしている。同じ体で、同じ気持ちで。
なのに、最後の直線で、あと一枚のギアが噛み合わなかった。
出し惜しみなんかしていない。
出そうとして、手を伸ばして、届かなかった。
自分の全力が、全力にならない。
それが一番怖い。
「……」
言葉に詰まった。
分からないわけじゃない。薄々、気づいてはいる。
でも、それを口にしたら終わりだ。
「全力で走ったわ。一歩も手を抜いてない。それは誓える。でも……秋華賞の時みたいにならなかった」
一呼吸。
「アタシが未熟なだけよ。同じ全力を、いつでも出せないアタシが悪い。それだけの話」
ウオッカが黙った。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
通路の蛍光灯が、じじ、と小さな音を立てている。
――Hero: Vodka
スカーレットが「未熟なだけ」と言った。
三冠を獲った奴が、自分を未熟だと言ってる。
嘘だ。
いや、嘘じゃないのかもしれない。本気でそう思ってるのかもしれない。
でも、オレにはそうは見えなかった。
こいつは気づいてる。何が足りないか、たぶん分かってる。
でも、それを認めたら自分のプライドが許さないから、「未熟」で蓋をしてる。
……不器用な奴。
でも、一つだけ。
走ってる最中、ずっと感じてたことがある。
言葉にするのが難しい。けど、言わなきゃいけない気がする。
「……なあ、スカーレット」
「何よ」
「今日のマイルCS、1600メートルだったな」
「……当たり前でしょ。マイルCSなんだから」
「桜花賞と同じ距離だ」
スカーレットの肩が、ぴくりと動いた。
「……それがどうしたのよ」
「オレがダービーに行って、お前が三冠を獲って。二人とも、やるべきことはやった。でもよ。1600メートルだけは、まだ決着がついてねえ気がしてた。だからここに来た」
「……」
「お前も、そうだろ」
スカーレットは答えなかった。
でも、否定もしなかった。
それが答えだった。
「でも、走ってみて思った。二人で走っても、何かが足りねえ。お前も全力だった。オレも全力だった。なのに、秋華賞みたいにならなかった。何でだろうな」
「……知らないわよ、そんなの」
スカーレットの声に、棘があった。
でも、怒ってるんじゃない。怒りの形を借りた、困惑だ。
アタシの投げかけた疑問に、アイツも答えが出せないでいる。
――Red Ace: Daiwa Scarlet
ウオッカの言葉が、胸の中で反響している。
1600メートル。桜花賞と同じ距離。
アタシがここに来た理由を、コイツに見透かされていた。
三冠を獲った。
秋華賞で、ウオッカをハナ差で退けて、三つ目の冠を手にした。
それでも消えなかったものがある。
桜花賞の日のこと。
勝った。勝ったのに、勝った気がしなかった。
周りが「勝者」にしてくれたから勝者になっただけで、アタシ自身はゴール板を過ぎた瞬間、何も感じなかった。
あのレースには、足りないものがあった。
足りないものが何なのか、アタシはずっと、考えないようにしてきた。
「……ウオッカ」
「あ?」
「アンタの言いたいことは、何となく分かるわ。でも、アタシには関係ない」
嘘だ。関係ある。
でも、認めたくなかった。
「アタシは、目の前の相手に勝つだけよ。今日はアンタに負けた。次は勝つ。それだけ」
「……そうかよ」
ウオッカの声に、失望の色がちらついた。
違う。アタシだってこんな答えがしたいわけじゃない。
でも、今のアタシには、これ以上の言葉が見つからない。
分からないのだ。本当に。
全力で走ったのに、全力にならなかった理由が。
1600メートルに何が足りないのかが。
「……次は有馬か?」
ウオッカが、話題を変えた。
この不器用な奴なりの、撤退の合図だろう。
「まだ決めてないわ」
「そうかよ。まあ、どこで走ってもいい。次はちゃんと……全部出し切ったお前に、勝ちてえ」
「……偉そうなこと言うわね。負ける前提で話さないでくれる?」
「はっ。言ってろ」
ウオッカが鼻で笑って、背中を向けた。
黒と黄の勝負服が、通路の向こうに遠ざかっていく。
一人になった。
通路の蛍光灯の音だけが残っている。
壁にもたれかかって、天井を見上げた。
1600メートル。
あの距離で、アタシの全力が全力にならなかった。
秋華賞ではできた。ウオッカに並ばれた瞬間、全部が噛み合った。あの一歩に、全部を注ぎ込めた。
でも今日は、それができなかった。
……理由なら、心当たりがないわけじゃない。
でも、そんなものは理由にならない。
誰かがいないから全力を出せない? 馬鹿言わないで。
三冠ウマ娘が、対戦相手の顔ぶれに左右されるなんて、そんなの甘えだ。
いつでも、誰が相手でも、最高の走りを出せないなら、それはアタシが未熟なだけ。
……未熟、ね。
三冠を獲った直後に、自分を未熟だと思うことになるなんて、笑えるわ。
でも、それでいい。
足りないなら、補えばいい。
走って、走って、体で塗り潰せばいい。
誰がいようがいまいが関係なく、全力を全力にできるウマ娘に。
それがダイワスカーレットだ。
昔から、ずっと。
壁から背中を離して、控室に向かって歩き出した。
肩の強張りは、まだ取れなかった。
それから一週間後。
十一月末。京都レース場。
京阪杯を見に来た、なんて言ったら笑われるだろうか。
三冠ウマ娘が、GⅢを。しかも自分が出るわけでもないのに。
チケットを買って、一般客に紛れてスタンドの上の方に座った。
帽子を深く被って、マフラーで顔の半分を隠す。こんな格好でレース場に来るのは初めてだ。
見つかったら面倒なことになる。「ダイワスカーレット、京阪杯を観戦」なんて記事が出たら、理由を聞かれる。答えられるわけがない。
出走表を開いた。
芝1200メートル。GⅢ。十四人の出走。
その中に、名前がある。
カレンモエ。八番ゲート。
退院したとは聞いていた。
夏の終わりに、絢原トレーナーから事務的な連絡があった。「退院しました。経過は良好です」。それだけ。アタシからの返信も、「分かった」の一言だけ。
何度か、メッセージを打ちかけた。
「退院おめでとう」。打って、消した。軽すぎる。
「会いに行っていい?」。打って、消した。あの子が今、誰かに会いたい状態かどうかも分からないのに。
「また走れるの?」。打ちかけて、やめた。残酷すぎる。それにアタシが聞いていい質問じゃない。
友達なのに。
友達だから、何を言えばいいのか分からない。
他人なら「お大事に」で済む。ファンなら「応援してます」で済む。
でもアタシたちは、同じターフで殴り合った仲だ。チューリップ賞でインを突かれて負けて、桜花賞でハナ差で勝ち返して、オークスでは壊れていくあの子の背中を見送るしかできなかった。
そういう関係の相手に、「元気?」は白々しすぎる。
結局、何も送らないまま秋が来て、冬が近づいて。
そして今日、あの子がGⅢに出ると聞いた。
オープン特別を勝って、次はGⅢ。復帰二戦目。
……見届けなきゃいけない気がした。
友達として、じゃない。何として見届けるのかは、自分でもよく分かっていない。
ただ、知らないままではいられなかった。
スタンドの階段を上がって、席に着こうとした時。
「……は?」
目が合った。
三列前の席に、パーカーのフードを目深に被った奴がいた。
見知った癖っ毛。わざとらしい猫背。フードの隙間から覗く、見覚えのありすぎる横顔。
ウオッカ。
あっちも気づいた。
フードの下で、目が見開かれている。
「……なんでお前がいんだよ」
「こっちのセリフよ」
しばらく睨み合った。
周囲の一般客が怪訝そうにこちらを見ている。二人とも変装が雑すぎて、逆に目立っている。
ウオッカが先に目を逸らした。
「……別に。たまたま暇だっただけだ」
「奇遇ね。アタシも、たまたま近くを通りかかっただけ」
「……チケット握りしめてる奴が言うかよ」
「……うるさいわね」
結局、隣に座った。
二人とも、なぜ京阪杯なんかを見に来たのか、口にはしなかった。
口にしなくても、分かっていた。
あの子が走ると聞いて、居ても立ってもいられなかったのだ。二人とも。
友達だから。
それだけじゃないかもしれないけど、今はそういうことにしておく。
――Hero: Vodka
隣にスカーレットがいる。
マイルCSの後、通路で詰め寄って以来だ。
あの時は険悪な空気で別れたけど、今はそういう感じじゃない。
二人とも、同じものを見に来た。
同じ奴のことが気になって、同じように連絡できなくて、同じように一人で来て、同じように鉢合わせた。
……似た者同士かよ。笑えねえ。
オレも、メッセージを何度か打った。
「退院おめでとな」。送れなかった。
あいつがオレに言われて嬉しいか分からなかった。ダービーに行ったオレの言葉を、あいつがどう受け取るのか、想像がつかなかった。
桜花賞で戦って、オークスで壊れるのを見て。
友達だと思ってる。向こうもたぶんそう思ってくれてる。
でも、友達だからこそ、今のあいつに何を言えばいいのか分からない。
「元気か」は嘘くさい。
「また走ろうぜ」は無責任だ。
走れるかどうかも分かんないのに、そんなこと言えるわけがない。
パドックが始まった。
遠くて顔はよく見えないが、出走表の八番がお立ち台に上がったのは分かった。
カレンモエ。
小さい。
前より、小さく見える。
あのオークスの日、先頭を独走していた時の威圧感が、ここからは感じられない。
ただの小柄なウマ娘が、お立ち台でぎこちなく会釈している。
「……痩せたわね」
隣で、スカーレットが小さく呟いた。
声が硬い。平気なフリをしているけど、この距離なら分かる。
こいつも、あいつのことが心配で来たんだ。
「ああ。……でも、走れてるんだろ。オープン勝ったんだし」
「そうね」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
ファンファーレ。
ゲートイン。
スタート。
八番カレンモエ、中団やや前、五番手。
スタートは悪くない。
「……悪くないな」
「……ええ」
第三コーナー。
集団が動き始める。
前の子たちが仕掛けて、隊列が崩れていく。
カレンモエは……動かない。
五番手のまま。前にスペースが空いたのに、反応が遅い。
自分で判断して、自分で脚を動かそうとしている。でも、ワンテンポ遅れてる。
チューリップ賞の時は、あんなんじゃなかった。
コースの隙間を、獣みたいな嗅覚で嗅ぎ分けて、考えるより先に体が反応してた。
インを突いてスカーレットを差し切った、あの鋭さが、どこにもない。
第四コーナー。直線。
カレンモエは集団の中に埋もれたまま、ずるずると後退していく。
追い上げる脚がない。伸びがない。
ゴール。
七着。
「…………」
掲示板を見上げた。
八番の数字が、七番目に表示されている。
隣のスカーレットを、横目で見た。
帽子の鍔の下で、スカーレットは掲示板を見つめている。
表情は読めない。いつも通りの、完璧なポーカーフェイス。
でも、膝の上で組んだ手の指が、白くなるほど力が入っていた。
――Red Ace: Daiwa Scarlet
七着。
GⅢで、七着。
桜花賞でアタシとハナ差を演じた子が。
オークスの前半1000メートルを57秒2で飛ばして、レースの歴史を書き換えた子が。
七着。
……分かっていたのかもしれない。
覚悟はしていた。オープン特別を勝ったとはいえ、あのオークスの後だ。元通りになるはずがない。
でも、実際に見ると。
あの走りには、何もなかった。
速さもなかった。鋭さもなかった。
チューリップ賞で見せた、コーナーの内側を獣みたいに駆け抜ける嗅覚もなかった。
桜花賞の直線で見せた、アタシの横に食らいついて離れなかった、あの執念もなかった。
ただ、普通に走って、普通に負けていた。
GⅢの、普通のウマ娘。
それが今の、カレンモエ。
「……行くか」
ウオッカが立ち上がった。
声が、妙に平坦だった。いつものガサツな大声じゃない。
「……そうね」
アタシも立った。
スタンドの階段を降りる。
隣を歩くウオッカの横顔は、正面を向いたまま動かない。
フードの下で、何を考えているのか分からない。
レース場を出た。
帰り道は別々だ。
改札に向かいかけたウオッカが、足を止めてこっちを振り返った。
「……なあ、スカーレット」
「何よ」
「あいつ、終わっちまったのかな」
声が、小さかった。
ウオッカの声が小さいのを、アタシは初めて聞いた。
オレたち三人で笑い合ってた頃を、コイツも思い出しているのだろうか。
レースでは殴り合って、それ以外の時間は友達で。そういう関係が、アタシたちにはあった。
「……知らないわよ。アタシが決めることじゃないでしょ」
「……だよな」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
言えなかった。
「終わってない」と言いたかった。でも、さっきの走りを見た後では、その言葉に根拠がない。
「終わった」とも言いたくなかった。友達に、そんなこと言えるわけがない。
「……スカーレット」
「何よ。もう帰るんでしょ」
「マイルCSの時さ。オレ、インタビューであいつの名前、出さなかっただろ」
「……ええ」
「お前も、出さなかった」
「……当たり前でしょ。あの子に関係ないレースなんだから」
「……そうだな」
ウオッカが、フードの奥で何かを噛み潰すような顔をした。
「でもよ。関係ないはずなのに、1600メートルに来ちまったし、こうやって京阪杯まで見に来ちまった。オレたち、揃いも揃って」
「……うるさいわね。帰りなさいよ」
「帰るよ。……じゃあな」
ウオッカの背中が、人混みに紛れて消えていった。
一人になった。
改札の前で立ち止まる。
ICカードを握ったまま、しばらく動けなかった。
さっきの七着の走りが、まだ目の裏に残っている。
集団に埋もれて、伸びを欠いて、ずるずると後退していく、小さな背中。
あれが、アタシの友達の、今の姿。
あれが、オークスで自分の全部を燃やし尽くした子の、今。
友達だ。ライバルだった。
チューリップ賞で負けて、桜花賞でハナ差で勝って、オークスでは壊れていくのを見送るしかできなかった。
退院したと聞いてホッとして、連絡しようとして、何を言えばいいか分からなくて、結局何も送れないまま冬が来た。
そういう子の七着を見て、悲しくないわけがない。
でも、悲しんだところで何になる。
アタシが悲しんだって、あの子の脚は速くならない。
ライバルだったなんて、今のあの子に言ったら、重荷にしかならない。
……ライバル「だった」?
今でも、そうなんじゃないの。
マイルCSで全力が全力にならなかったのは、そういうことなんじゃないの。
……やめなさい。みっともない。
「……馬鹿みたい」
誰にともなく呟いて、改札を通った。
帰ろう。
有馬記念の調整が待っている。
アタシには、まだ走るべきレースがある。
それなのに。
ホームのガラスに映る自分の目が、少しだけ赤かった。
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