未勝利戦から数日が過ぎても、カフェテリアへ入る時には少し身構えた。
昼休みの席はほとんど埋まっている。トレーを持ってテーブルの間を歩くと、こちらを見た子が隣へ何か囁いた。私の話だとは限らないのに、目が合う前に顔を背けてしまう。
パスタとサラダだけでも、今は多い気がした。盛りつけてもらった時には食べられそうだったのに、漂ってくる揚げ物の匂いで胃が重くなる。飲み物を取るのを忘れたことに気づいたが、入口へ戻るのも億劫だった。
奥の席を探していたところで、窓際から腕が上がった。
「モエ! こっち、空いてるぜ!」
ウオッカだった。短い茶色の髪を跳ねさせ、向かいの椅子に置いた鞄を足元へ下ろしている。制服のネクタイは少し緩んでいて、もう片方の手には箸があった。
何人かが私を見た。呼ばれてしまえば、そのまま通り過ぎるわけにもいかない。テーブルへ近づき、空けてもらった椅子の前へトレーを置いた。
「……ありがと」
「おう。あっち、混んでたろ」
向かいへ腰を下ろすと、ウオッカは私の皿を見て眉を寄せた。
「それだけかよ。足りるのか?」
「足りるよ。ウオッカと一緒にしないで」
相手のトレーには、大盛りのご飯にハンバーグ、唐揚げの小皿まで載っていた。牛乳のパックも開いている。私が見ている間にも、箸で切ったハンバーグをご飯に載せ、大きな一口で頬張った。
「今朝、結構走ったからな。午後もあるし」
「私は体重管理があるの」
言ってから、サラダへフォークを入れた。誰かに減らせと言われたわけじゃない。それでも、食べたくない理由をそのまま話すよりは言いやすかった。
ウオッカは私の顔を見ていたが、何も聞かずに箸を伸ばした。小皿から持ち上げた唐揚げが、私のパスタの上へ置かれる。
「ちょっと。いらないってば」
「うまいぜ、それ。今日、揚げたてだった」
「今、体重管理って言ったでしょ」
「1個くらい食ったって、いきなり重くなんねえだろ。……あ、嫌いだったか?」
「嫌いじゃないけど」
戻すにも、もうソースがついていた。ウオッカは残りの唐揚げを自分の口へ運んでいる。文句を言い続けるのも面倒になり、私はフォークの先で衣を割った。
まだ温かいところから肉汁が出た。半分を口に入れると、噛むたびに醤油と生姜の味がした。思っていたよりすんなり飲み込めて、もう半分にもフォークを刺した。
「な?」
「……何、その得意そうな顔」
「うまかっただろ」
「まあね。ありがと」
そう答えると、ウオッカは満足したらしく、自分の食事へ戻った。私はパスタを少し巻き取り、唐揚げを載せていたところから食べ始めた。
向こうのテーブルで笑い声が上がった。さっきなら顔を伏せていたかもしれないが、今はウオッカのご飯が減る速さに気を取られていた。
「そんなに急いで食べなくても、逃げないよ」
「ちょっと教室で寝てえんだよ。昼休み、もう半分もねえし」
「食べてすぐ寝るの?」
「少しだけな。……そうだ。お前のレース、見たぜ」
巻きかけたパスタが、フォークから落ちた。
ウオッカは箸を止め、私へ顔を向けた。さっきまで食べていた口の中のものを飲み込んでから、言葉を続けた。
「最後、前のヤツを抜いた時は来ると思ったんだけどな」
「……3着だったね」
「見てたから知ってるって」
「だったら、話すことないでしょ」
自分でも棘のある言い方だと思った。せっかく席を空けてくれて、食べ物までくれた相手にする返事じゃない。でも、惜しかったねと言われるのも、次は勝てるよと言われるのも、もう嫌だった。
ウオッカは怒らず、少し身を乗り出した。
「直線で、外からもう1回来られただろ。あそこ、抜かせなかったじゃねえか」
私は皿から目を上げた。
「あの時は……抜いたばっかりだったから。戻されるの、嫌で」
「だろうな。腕、すげえ振ってたもんな」
ウオッカは自分の肘を少し引いてみせた。
あの子の足音は覚えていた。横に並びかけられ、もう1回だけと思って踏んだ。前の2人を追う余裕なんてなかった。ゴールまでに抜き返されるのが怖くて、それでも顔だけは前へ向けていた。
「必死だったんだよ。もう、脚が動かなくて」
「レースを見てた時は、脚を残してんのかと思った。後で映像を見直したら、コーナー入る前からきつそうだったけど」
「ずっと抑えてたから。近づくとぶつかりそうになるし、離れたら追わなきゃいけないし。最後には、走り方まで分かんなくなってた」
口にすると、また腿の張りを思い出した。緩めようとしても脚が突っ張り、踏み直すとすぐに前との差が詰まる。隙間が開いた時には、そこから飛び出す力がほとんど残っていなかった。
ウオッカは椅子の背へ身体を預けた。
「見てて、窮屈そうだなとは思ったぜ。前に出る時のお前、もっと伸びるだろ」
「スカーレットにも言われた。それじゃ勝てないって」
「あいつに?」
「レース場まで来てたの。早く勝ち上がってこいって、言うだけ言って帰っちゃった」
「ハハッ。言いそうだな」
「笑い事じゃないんだけど。こっちは、その1勝ができなくて困ってるんだから」
「悪い。……でも、わざわざ福島まで行ったのか、あいつ」
ウオッカは少し意外そうに呟き、牛乳へ手を伸ばした。私はフォークでパスタを寄せたが、まだ口には運べなかった。
食事中に、こんな話をするつもりはなかった。走れない話なら、トレーナーと毎日している。ご飯を食べる間くらい忘れていたかったのに、自分から続きを話していた。
「それで、また練習を考え直してるところ。何をやっても、最後は同じになるんだけどね」
「トレーナーと?」
「うん。この前のメニューもやめた。今朝はプールで、次のレースはまだ」
ウオッカは空になった牛乳のパックをトレーへ戻し、私を見た。
「なあ。そこまでして、ティアラに行きたいんだな」
フォークを置いた。
その聞き方をされると、次に何が来るのか身構えてしまう。短い距離にすればいい。そっちの方が勝てる。聞く前から相手の返事を思い浮かべ、いつもの言葉を口にした。
「ママと同じ道を行きたくないから」
「……そっか」
それだけで、ウオッカは少し黙った。私が続きを待っていると、箸を置いて考え込んだ。
「でも、違う道なら、ティアラ以外にもあるだろ。あそこがいいのは、何でなんだ?」
答えようとした口が止まった。
ウオッカは、何で短距離にしないのかとは聞かなかった。私が黙っていると、言いにくけりゃいいけど、と付け足した。
「……そこで勝ったら、みんなが見るから」
自分の声が思ったより小さくて、一度息を吸った。
「桜花賞も、オークスも、秋華賞も。大勢が見て、勝った子の名前を覚えるでしょ。ママが勝ってないところで私が勝てば、私の話になると思ったの」
窓の向こうに、昼のコースが見えた。遠くを走っている子の姿を、目で追った。
「小さい頃から、レースに出たいって言うと、ママみたいになりたいんだねって言われた。勝ちたいって言っても同じ。まだ、どのレースに出たいかも話してないのに」
ウオッカは口を挟まなかった。急かされないので、私は次の言葉を探せた。
「私が短距離を走れば、みんな喜ぶと思う。やっぱりって。勝てばママに似て強いんだねって言われて、負ければ、まだママには遠いねって言われるんだよ」
皿の上で、パスタのソースが乾き始めていた。
「……もう、嫌なの。同じ顔で、同じところを走って、どこまで行ってもママと比べられるの」
話しているうちに、声が強くなった。ウオッカの向こうを通った子がこちらを見たので、私は少し声を落とした。
「ママのこと、嫌いなわけじゃないよ。すごいのは分かってる。どれだけ頑張ってきたかも、少しは知ってる。でも、私がこれからやることまで、全部ママの続きにしないでほしい」
言い終えてから、こんなことを話してよかったのかと思った。
羨ましいと言われたこともある。あのカレンチャンが家にいて、同じ顔に生まれて、何が不満なのか。自分には贅沢に聞こえると、困った顔をされたこともある。
だから、もう話さなくなった。短距離は嫌だとだけ言って、相手が諦めるのを待っていた。
ウオッカはまだこちらを見ていた。私は、先に目を逸らしたくなるのを堪えた。
「ティアラで勝って、私の名前を覚えさせたい。カレンチャンの娘って呼ぶ前に、カレンモエが勝ったって言わせたいの」
最後まで言うと、ウオッカはゆっくり口の端を上げた。
「いいじゃねえか」
「……そんな簡単に言わないでよ。1勝もしてないんだから」
「今のは、お前がやりたいことの話だろ。オレ、そういうの好きだぜ」
照れもなく言い、ウオッカは自分の胸へ親指を向けた。
「オレだって、最高にカッコいいウマ娘になりたくて走ってんだ。自分で、これだって思ったことをやりてえし、まだ誰も見たことねえ走りで、客席を沸かせたい」
そこまで一息に言ってから、少し笑った。
「だから、『お前はこっちにしとけ』って決められたら腹立つのは、分かる。そいつが正しそうだと、余計にな」
「……うん」
「自分で選んで、最後までやって勝ったら、最高だろ。お前、それをティアラでやりたいんだな」
私は頷いた。
そんなふうに勝つところなら、何度も思い描いた。スタンドの前を先頭で駆け抜け、誰より早くゴールへ届く。息が苦しくても、脚が重くても、自分が勝ったと分かって笑うところまで。
今は、直線で置いていかれた景色ばかり思い出してしまうけれど。
「でも、走れないんだよ。飛ばしても持たないし、抑えても駄目。この前だって、勝つつもりで行ったのに」
「そこはオレにも分かんねえ。あの走りをどうすりゃ直せるかなんて、今ここで言えねえよ」
ウオッカは少し眉を寄せたまま答えた。
「ただ、あれだけ踏ん張って3着まで来たお前に、諦めろとは思わなかった。次、どうやって走ってくるのか見てえって思ったぜ」
私は口を開きかけ、何も言わずに閉じた。
ずっと、失敗したレースの説明をしていた。どうしてあんなに前へ出たのか。どうして今度は伸びなかったのか。自分でも分からないことを聞かれ、最後には距離の話になる。
ウオッカは、次の私を見たいと言った。
「また負けるかもしれないよ」
「そりゃ、レースだからな。オレだって絶対勝てるなんて言えねえし」
箸を取り直し、残っていたご飯を寄せた。
「でもよ。お前が本気で狙ってるんなら、勝ち上がってこいよ。一緒のレースで走ろうぜ」
「スカーレットと同じこと言ってる」
「一緒にすんなって。……ま、そこは同じかもな。お前、レース前から負けてくれそうにねえし」
「当たり前でしょ。走る前から諦めるくらいなら、出ないよ」
言い返すと、ウオッカが声を立てて笑った。
「そういうヤツと走りてえんだよ、オレは」
私も少しだけ笑ってしまった。さっきまで食べる気になれなかったパスタを巻き取り、口へ運んだ。冷めていたが、食べられた。
「ウオッカ。やっぱりここにいたのね」
横から声がして、ウオッカの笑顔が止まった。
スカーレットが、テーブルの脇に立っていた。長いツインテールが歩いてきた勢いで揺れ、腕には薄いノートとプリントを抱えている。
「げ」
「何よ、その声。食べ終わったなら教室に戻るわよ」
「戻るって。今から少し寝ようと思ってたんだよ」
「寝る? 午後の小テスト、忘れてるでしょう」
ウオッカは箸を持ったまま止まった。スカーレットが深く息を吐き、プリントを1枚抜いて差し出す。
「昨日、ここまでは覚えるって言ってたわよね。終わったの?」
「……大体な」
「じゃあ、これは?」
指したところを見て、ウオッカが黙った。
私にも答えが見えそうになったが、覗く前にプリントがウオッカの方へ向いた。さっきまでの勢いを失った相手へ、スカーレットは容赦なく続けた。
「補習になったら、放課後のトレーニングに間に合わないでしょう。自分で出した予定くらい守りなさいよ」
「分かってるって。飯、あと一口だから待てよ」
ウオッカが急いでご飯を口へ運ぶ。その間に、スカーレットが私へ顔を向けた。
「モエ。脚の方はどう?」
「もう、歩くのは平気。今朝はプールだった」
「そう。次はまだ決まってないのね」
頷くと、スカーレットはそれ以上聞かなかった。プリントをノートへ挟み、ウオッカが箸を置くのを待っている。
私は、あの日の通路で言い返せなかった言葉を思い出した。
「……2人とも、簡単に勝ち上がってこいって言うよね」
スカーレットがこちらを見る。ウオッカも水を飲みながら、私へ目を向けた。
「あんな負け方したのに。もっと他に、強い子がいるでしょ」
「いるわよ」
スカーレットはすぐに答えた。
「今だって、勝ちたい相手はいるわ。それでも、アンタとも走ってみたいと思ってるの。おかしい?」
「……おかしくは、ないけど」
「オレもそういう話してたんだよ」
ウオッカが言うと、スカーレットは少し意外そうに顔を向けた。それから、私へ視線を戻す。
「アンタが来るまで、待っていてあげるわけじゃないからね。アタシはアタシで勝つために走るし、同じレースに出たら負けるつもりもないわ」
「それは、分かってる」
「なら、いいじゃない。次に会った時も、まだ嫌味だと思う?」
福島で、見ていたのかと聞いた後に、自分が何を返したか思い出した。私は少し皿へ目を落とし、それから顔を上げた。
「……思わない。たぶん」
「たぶんなのね」
「負けた直後に言われたら、また腹立つかもしれないし」
ウオッカが噴き出した。スカーレットは呆れたような顔をしたが、私が見ていると、わずかに口元を緩めた。
「だったら、今度は勝ちなさいよ」
「そうする。……勝ったら、ちゃんと見ててよね」
「ええ」
向かいから、オレもな、と声が重なった。
ウオッカは空になった皿を重ね、椅子から立ち上がった。足元の鞄を拾うと、スカーレットもノートを持ち直した。
「じゃあな、モエ。次も楽しみにしてるぜ」
「その前に小テストよ」
「分かってるって言ってんだろ。……そのプリント、もう1回見せてくれよ」
「教室で。食器を持ったまま見ないの」
2人のやり取りを聞いていると、つい言いたくなった。
「仲いいね、2人とも」
「「良くない!」」
声が重なった。ウオッカはスカーレットを見て、スカーレットもウオッカを見た。どちらも嫌そうに顔を背けるので、今度は私が笑ってしまった。
「はいはい。テスト、頑張ってね」
ウオッカが何か言いかけたが、スカーレットに先を促され、トレーを持って歩き出した。返却口へ向かう途中でも、2人はまだ話していた。
私は皿に残ったパスタを集めた。
食べ終わってから、取っていなかった水を汲みに行った。戻ってサラダも口に運んでいると、鞄の中でスマホが震えた。
トレーナーからだった。
『放課後、次の出走について相談したい。授業が終わったら来てくれ』
画面を見ながら、コップを置いた。
次の作戦は、まだ聞いていない。練習を変えるとは言っていたが、それで2000を走り切れるようになるかは分からなかった。あの人も、前みたいに、抑えれば脚が残るとは言わなくなった。
『分かった。行く』
そこまで打って送った後、指が画面に残った。
もう少し、何か伝えようかと思った。今日、ウオッカと話したこと。スカーレットにも、勝ったら見ていてと言ってしまったこと。
でも、それは会ってからでいい。
スマホを鞄へ戻し、残っていた水を飲んだ。隣のテーブルでも椅子を引く音がして、昼休みの終わりが近いことに気づく。
空の皿をトレーへ重ね、席を立った。
返却口の前で列に並ぶと、壁に貼られたレースのポスターが目に入った。勝負服のウマ娘たちが、並んでこちらを見ている。その中に、まだ私の姿はない。
ウオッカもスカーレットも、あそこへ行くつもりなんだろう。先へ進んで、私が追いついた時には、きっと今より強くなっている。
その2人に、勝ったところを見せると言った。
順番が来てトレーを置いた後も、自分で口にした言葉が残っていた。教室へ戻る階段を上りながら、放課後に聞きたいことを考えた。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。