アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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6話 王道と覇道

未勝利戦での敗北から、数日が過ぎた。

 

昼休み。カフェテリアは午前中のトレーニングで腹を空かせたウマ娘たちの喧騒で満ちていた。

 

私はトレーを持って空席を探していた。グリーンサラダと最低限のパスタ。常温のミネラルウォーター。完璧な管理メニュー。見るだけで胃が重い。

 

食欲はない。未勝利戦のあの感覚——足が鉛になり、思考が白濁していく恐怖が、まだ体にこびりついている。

 

周囲からの視線。「あれ、カレンモエじゃない?」「なんで中距離なの?」ひそひそ声が鼓膜を撫でる。被害妄想かもしれない。でも今の私には、全ての目が憐れみか嘲笑に見えた。

 

逃げるように奥の席へ向かおうとした時。

 

「おーい、モエ! こっち空いてんぞ!」

 

雑踏を切り裂く声。窓際の席で手を振っているのは、ウオッカだった。跳ねた髪、ラフに着崩した制服。彼女の周りだけ妙に人口密度が低い。カラッとした空気が、周囲の湿っぽい視線を寄せ付けない防壁になっている。

 

少し迷った。今の気分で、あんな陽のエネルギーの塊と話すのは荷が重い。だが他に席もないし、あの笑顔を無視するのも気が引けた。

 

「ありがと。座らせてもらうね」

 

「おう。……って、おい。それだけかよ? 小鳥の餌かよ」

 

ウオッカは私のトレーを見て眉をひそめた。対照的に、彼女の前には大盛りの白米にハンバーグ、唐揚げ、牛乳。しっかりしたアスリートの食事量。見ているだけで胸焼けしそうだが、その生命力の強さに圧倒される。

 

「私は体重管理がシビアなの。アンタみたいに燃費良くないし」

 

ウオッカの体はしっかりした骨格で、パワーがありそうだ。対して私は母譲りの華奢な——いや、華奢に見えるだけだ。実際には筋肉の密度が異常に高いとタキオンさんに言われている。見た目より体重がある。でもその筋肉は瞬発力に全振りされていて、長く走ることには向いていない。

 

食べて強くなるタイプと、削ぎ落として研ぎ澄ますタイプ。根本的な作りが違う。

 

「燃費の問題じゃねえだろ。カッコよく走るにゃエネルギーが必要なんだよ。ほら」

 

ウオッカは自分の皿から唐揚げを一つ、私のパスタの上に放り込んだ。

 

「ちょっと! 何すんのよ!」

 

「食え食え。元気出さねえと次も勝てねえぞ」

 

ニカッと笑ってハンバーグを頬張る。その屈託のなさに毒気を抜かれた。文句を言おうとした口を閉じ、不承不承フォークを手に取る。

 

観念して唐揚げを口に運んだ。衣を噛むと、肉汁が広がる。濃い味が、疲弊した体に染みる。久しぶりに「味」を感じた気がした。

 

「どうだ? 美味いだろ?」

 

「……まあね」

 

ウオッカは水を一気に飲み干して、ふっと表情を引き締めた。能天気な空気が、一瞬でアスリートのそれに変わる。

 

「見たぜ、この間の未勝利戦」

 

口の中の肉汁が、冷たい泥の味に変わった。

 

やはりその話題か。フォークを強く握って、上目遣いに睨みつけた。

 

「用があるなら手短に。負けたレースの話なんて楽しくないでしょ」

 

「バーカ。誰が笑うかよ」

 

ウオッカの目に嘲笑はなかった。あるのは純粋な興味と、隠しきれない共感。

 

「正直、驚いたぜ。モエって、あんなに器用なことできたんだな」

 

「器用?」

 

「あそこまで本能を殺して、無理やり枠に収まろうとする走り。並大抵の精神力じゃねえよ」

 

感心したように唸った。

 

「オレにゃ真似できねえ。ゲートが開いた瞬間に飛び出しちまう。お前のあの我慢は、執念だ」

 

「……」

 

「でもよ、窮屈そうだったぜ。お前の良さが全部死んでた」

 

痛いところを突かれる。一番分かっていることだった。我慢すればするほど武器が死んでいく。2000メートルを走り切るために、私は私自身を殺していた。

 

「うるさいな。スカーレットにも同じこと言われた」

 

「げっ、あいつにもかよ。……ま、あいつも見る目あるからな」

 

ウオッカは身を乗り出した。テーブル越しに、真っ直ぐな視線。

 

「なぁ、モエ。お前、なんでそこまでティアラ路線にこだわるんだ?」

 

直球。興味本位じゃない。本気で理由を知りたがっている。

 

「ママと同じ道を行きたくないから」

 

いつもの定型文。

 

「それだけか?」

 

見透かされている。

 

私はフォークを置いて、自分の手を見た。酷使した体の熱で、指先が微かに震えている。

 

心の奥にある澱を、言葉にして吐き出した。

 

「それだけじゃない」

 

「私が短距離を走れば、きっと今よりずっとうまくいく。みんなが言う通り、そっちの方が向いてるし、楽だと思う」

 

「おう」

 

「でも、それはママと同じことをしたに過ぎないの。ママと同じレールを、同じ顔で走って、同じ勝ち方をする。そこに『私』はいない」

 

拳を握った。爪が掌に食い込む。

 

「私が私であるためには、ママが走らなかった場所で、ママより強い証明をしなきゃいけないの」

 

呪いにも似た渇望。ただの反抗期じゃない。存在証明をかけた、切実な叫び。「カレンチャン」という完成された物語の続編として消費されることを、魂が拒絶している。

 

一気にまくし立てた。引かれるかもしれない。

 

だがウオッカは目を丸くして——それから、楽しそうに噴き出した。

 

「ハハッ! 違げえねえ! オレもそうだ!」

 

「え?」

 

胸を親指で指した。

 

「オレもよ、『こうあるべき』とか『普通はこうだ』とか、どうでもいいんだ。オレはただ、オレが思う最高にカッコいいウマ娘になりてえだけ。そのためなら常識だってへし折ってやる」

 

テーブルを軽く叩いた。

 

「路線がどうとか、スタミナがどうとか、関係ねえだろ。オレたちが信じた道を突き進む。それが一番カッコいいじゃねえか」

 

シンプルで、暴力的で、圧倒的に力強い言葉。

 

私が「否定」から入っているのに対して、彼女は純粋な「理想」を追い求めている。ベクトルは違う。だが「常識」や「枠組み」を壊そうとする魂の在り方は、驚くほど似ていた。

 

「ふふっ」

 

笑みがこぼれた。こんな近くに、こんなに単純で熱い同志がいたなんて。

 

「茨の道だからやめちまえ、とは言わねえ。お前がそれを選んだなら、それがお前の覇道だ。貫き通せよ、モエ。外野の声なんか、お前のスピードで置き去りにしちまえ」

 

どんな慰めよりも心に響いた。「頑張れ」でも「無理するな」でもない。「やっちまえ」という共犯者のエール。

 

「ありがとう。少し元気出た」

 

「おう! 礼はレースで返せよ。お前が勝ち上がってこねえと、張り合いがねえからな」

 

ウオッカは白米を一気にかき込んで立ち上がった。

 

「じゃあな! 予鈴の前に教室戻って寝溜めするわ!」

 

「ちょっと、待ちなさいウオッカ!」

 

食堂の入り口から凛とした声。ツインテールのダイワスカーレットが、怒り肩で早足に歩み寄ってくる。

 

「げ」

 

「『げ』じゃないわよ! また午後の小テスト忘れてるでしょ! 補習になったらトレーニングに響くのよ? 自分の管理もできないで、何がカッコいいよ」

 

「あー、そういやそんなんあったな」

 

スカーレットの手には対策プリントが握られている。わざわざ声をかけに来るあたり、放っておけないのだろう。

 

二人のやり取りを見ていると、さっきまでの深刻な悩みが少し遠くなった。王道を往く優等生と、覇道を往く反逆児。対照的だが、根底にある「強さへの渇望」は同じだ。

 

「仲良いね、二人とも」

 

声を揃えて叫んだ。

 

「「良くない!!」」

 

息ぴったり。周囲からクスクスと笑い声。

 

「はいはい」

 

残りのパスタを口に運んだ。冷めていたけど、さっきよりずっと美味しかった。

 

ウオッカはスカーレットに首根っこを掴まれて教室へ引きずられていく。「離せよ! オレは眠いんだよ!」「うるさい! 赤点取ったら承知しないわよ!」

 

水を飲んだ。

 

現実は変わらない。精神的に持ち直しても、肉体の限界は消えない。2000メートルの壁は高い。次のレースも同じように苦しむかもしれない。

 

けれど。

「貫き通せ」と言ってくれた友がいる。

「マシな走りを見せろ」と怒ってくれたライバルがいる。

 

トレーナーはまだ次のプランを明かしていない。「考えがある」とだけ言って、昨晩はパソコンに向かっていた。

 

私の中には一つの予感があった。あの人なら、この状況を打破するための、とんでもない手を打ってくるはずだ。

 

トレーを片付けて、午後の授業に向かった。

足取りは来た時より、少しだけ軽かった。




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