年が明けた。
シニア級。
寮の自室で迎えた新年は、静かなものだった。
実家に帰る選択肢もあったけど、やめた。
帰ったらママが「お雑煮食べる?」って聞いてきて、パパが黙って蜜柑を剥いてくれて、穏やかで温かい空間に包まれて、たぶん私はまた「このままでいいかな」って思っちゃう。
今はそれが怖い。
あの甘い日常に溶けてしまうのが、怖い。
だから、寮にいる。
ここには練習場がある。絢原さんがいる。走る場所がある。
走る理由はまだないけど、走る場所くらいは、近くに置いておきたかった。
……正直に言えば、理由の半分は絢原さんだ。
実家にいると、絢原さんは週に何回か来てくれるだけ。
寮にいれば、練習のたびに会える。毎日じゃなくても、距離が近い。
その方が、いい。
なんでいいのかは、あんまり考えないようにしてる。
~~
元日の朝。
まだ暗いうちに目が覚めて、寝付けなかったので、一人で初詣に出た。
去年と同じ神社。
去年は絢原さんと二人で来た。甘酒を買ってきてくれている間に、境内の裏手で、あの子と会った。
今年は一人。
表参道は初詣客で賑わっているけれど、境内の裏手に回ると、去年と同じ静けさが広がっている。
常緑樹が日の光を遮って、空気はひんやりと冷たい。しめ縄の張られた御神木。木漏れ日。
……なんで、またここに来ちゃったんだろう。
自分でも分からない。
去年のあの会話が、なんとなく引っかかっていたのかもしれない。
御神木の前で、ぼんやり立ち止まっていた。
賽銭も投げてない。お願いすることも、特にない。
検査がうまくいきますように、とか? 体が勝手に動きませんように、とか?
……なんだそれ。神様に頼むことじゃない。
「あら」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返る。
小柄な体。私よりさらに頭一つ分低い。
眼鏡。黒い髪。和服姿。去年と同じ、鈴を転がすような声。
ドリームジャーニーさんが、参道の脇の石段に腰掛けていた。
……いた。最初からそこにいた。私が気づかなかっただけだ。
「おはようございます。……カレンモエさん」
去年と同じ挨拶。去年と同じ穏やかな微笑み。
でも、その眼鏡の奥にある視線が、去年よりほんの少しだけ鋭く感じるのは、気のせいだろうか。
「……おはようございます。あけましておめでとうございます、ドリームジャーニーさん」
「ええ。おめでとうございます。……去年と同じ場所で、去年と同じ方にお会いするとは。ご縁がありますね」
にこり、と微笑む。
その笑顔の裏を読もうとして、読めなくて、胃がきゅっと縮んだ。
「お一人ですか? 去年はトレーナーさんとご一緒でしたね」
「……今年は一人で来ました」
「そうですか」
ジャーニーさんは、石段に座ったまま、私を見上げている。
144センチの体で、見上げているはずなのに、こちらが見下ろされているような錯覚を覚える。
「阪神カップ、拝見しましたよ」
来た。
心臓が、嫌な音を立てる。
「第三コーナーからの、あの走り。あれは素晴らしかった。……本当に」
「……ありがとうございます」
「ただ」
ジャーニーさんが、眼鏡の位置を直した。
「去年の貴女と、別のウマ娘を見ている気がしました」
「…………」
「去年、ここでお話しした時。貴女は怒っていた。『ママのコピーにはならない』『自分だけの力で証明する』。あの子は、ただの駄々っ子でしたけれど……真っ直ぐに、自分の意志で駄々をこねていた」
ジャーニーさんが、ほんの少しだけ首を傾けた。
「阪神カップの貴女には、あの時の『意志』が見えなかった」
「……」
「代わりに、見えたのは……そうですね。何と言えばいいでしょう。意志ではなく、もっと奥の、もっと古い何か。火のようなもの。制御されていない、剥き出しの衝動」
ぞわり、と背筋が粟立った。
この人には、見えている。
あの阪神カップの走りの中にあった、もっと深い部分を。
「邪魔」「遅い」という、あの醜い衝動の輪郭を。
「……それ、褒めてます?」
「さあ。どちらでしょう」
微笑む。答えない。
この人はいつもこうだ。核心を突いておいて、判定を相手に投げる。
「去年、私は貴女を『駄々っ子』と申しました」
「……覚えてます」
「あの駄々っ子は、オークスで燃え尽きたんですね」
淡々と。事実確認のように。
「今の貴女は、何ですか?」
「……検査、です。体の検査のために走ってるだけ」
「ふふ」
ジャーニーさんが、小さく笑った。
嘲笑ではない。でも、信じてもいない。
「それは、トレーナーさんに伝える用の言葉ですか? それとも、ご自分に言い聞かせる用の?」
「……両方」
正直に答えた。嘘をついても、この人には通じない。
「正直ですね。それは美徳です」
ジャーニーさんが、石段から立ち上がった。和服の裾を整える。
「一つだけ、余計なことを言ってもいいですか」
「……どうぞ」
「駄々っ子は、燃え尽きても駄々っ子ですよ」
「…………」
「動機が幼いから、逆に簡単には死なない。論理で走っているウマ娘は、論理が破綻すれば止まります。でも感情で走っているウマ娘は、感情がある限り止まれない。貴女の火は、オークスで消えたのではなく、形を変えただけだと思いますけれど」
ジャーニーさんが、眼鏡の奥の瞳を細めた。
去年と同じ、熱を帯びた真剣な眼差し。
「阪神カップの第三コーナーで出てきたもの。あれが何なのか、ご自分では分かっていないのでしょう?」
「……分かりません」
「でしょうね。分かっていたら、あんな顔はしませんから」
あんな顔。今の私は、どんな顔をしているんだろう。
「怖がっているのなら、それでいいと思いますよ。怖がれるうちは、まだ自分を見失っていない証拠です」
絢原さんと同じことを言っている。
でも、この人の口から出ると、意味の温度が違う。
絢原さんのそれは「大丈夫だ」という守りの言葉だった。
ジャーニーさんのそれは「まだ走れる」という、追い込みの言葉だ。
「……ジャーニーさん」
「はい」
「去年、『反抗期がいつまで続くか見もの』って言いましたよね」
「ええ、言いました」
「反抗期は終わりました。でも、もっとたちの悪い何かが残ってるみたいです」
ジャーニーさんが、ふっと目を伏せた。
初めて見る表情だった。穏やかでも、鋭くもない。どこか、懐かしいものを見るような。
「……ええ。そういうものです。旅というのは」
「旅?」
「どんなに迷っても、足を止めても、一度歩き始めた道は消えないんですよ。景色が変わっても、足元の道だけはずっと続いている。それが旅路というものです」
ジャーニーさんが、和服の袖で口元を隠して、微笑んだ。
「貴女の旅が、どこに辿り着くのか。……楽しみにしていますね。カレンモエさん」
去年と同じ言葉。でも、響き方がまるで違う。
去年は「駄々っ子がどこまでやれるか」という試すような期待だった。
今年は……もう少し静かで、もう少し深い何か。
ひらひらと片手を振って、ジャーニーさんは表参道の方へ消えていった。
和服の小さな背中が、朝の光の中に溶けていく。
「…………」
一人残された境内の裏で、白い息を吐いた。
駄々っ子は、燃え尽きても駄々っ子。
火は消えたのではなく、形を変えただけ。
……そうなのかな。
あの阪神カップで出てきたものが、あの「駄々」の成れの果てだとしたら。
考えかけて、やめた。
今日は正月だ。考えるのは、明日でいい。
寮に戻ろう。
マーチャンが起きてたら、一緒にお雑煮でも作ろう。
冷えた手をポケットに突っ込んで、参道を歩き出した。
~~
寮に戻ったら、マーチャンが起きていた。
向かいのベッドから、もぞもぞと布団が動く音。
「……あ、モエちゃん。おはようです。お出かけしてたんですか?」
「……ちょっと初詣。あけおめ、マーチャン」
「あけおめです!」
「帰らなかったの?」
「帰ったんですけど、昨日の夜に戻ってきました。明日から練習始めたいので」
元日の朝から練習の話をするところが、この子らしい。
マーチャンはいつだって真っ直ぐだ。走ることが好きで、強くなることが好きで、それを隠さない。
「モエちゃんは? お正月、おうちに帰らないんですか?」
「……んー、今年はいいかな」
「そうですか。じゃあ、一緒にお雑煮作りましょうです。マーちゃん、お餅ならいっぱいありますです!」
布団からにょきっと腕が伸びて、枕元のコンビニ袋を掲げて見せてくる。
切り餅のパックがいくつか。あとみかん。
「……なにそれ、いつ買ったの」
「昨日の夜、駅前のコンビニで。お正月はお餅を食べなきゃですから!」
……なんか、じわっときた。
この子は何も聞かない。
私がなんで帰省しないのかとか、体のこととか、レースのこととか。
ただ「一緒にいるなら一緒にお雑煮食べよう」って、それだけ。
「……ありがと。作ろ」
「やったです! マーちゃん、お雑煮は醤油派です」
「私も」
「おお、気が合いますです!」
マーチャンがぱっと起き上がって、てきぱきと着替え始めた。
お正月の朝なのに、動きが俊敏。スプリンターの血が元日から騒いでるらしい。
共有キッチンに向かう廊下で、マーチャンがぽつりと言った。
「モエちゃん、今年は短距離のレース、もっと出るんですか?」
「……どうだろ。まだ分かんない」
「出てくれたら嬉しいです。マーちゃん、モエちゃんと走りたいですから」
さらっと言う。この子はいつもそうだ。
「走りたい」を、なんの衒いもなく口にできる。
「……考えとく」
「はいです!」
にこにこしながらキッチンのドアを開けたマーチャンの背中を見て、少しだけ胸が痛んだ。
走りたい、か。
私は、まだその言葉を自分の口から言えない。
~~
共有キッチンで鍋にお湯を沸かしていたら、もう一人やってきた。
「あけましておめでとう。二人とも残ってたんだね」
フジキセキ先輩。
栗東寮の寮長。ショートカットの髪をきちんと整えた、隙のない佇まい。ルームウェア姿でもどこか舞台映えする雰囲気があるのは、この人の生まれ持った華だろう。
年末年始も寮に残って、帰省組が出払った後の管理をしてくれている。
「あけましておめでとうございます、フジ先輩」
マーチャンがぺこりと頭を下げる。
「あけましておめでとうございます」
私も続けて頭を下げた。
「お雑煮? いいね、私も混ぜてもらっていいかな」
「もちろんです! お餅いっぱいありますです!」
マーチャンが嬉しそうにお餅を一つ追加で鍋に放り込んだ。
三人で共有スペースのテーブルを囲む。
お雑煮と、みかんと、マーチャンが実家から持ってきたらしい黒豆。
質素だけど、悪くないお正月。
フジキセキ先輩が、お雑煮を一口すすってから、穏やかに言った。
「阪神カップ、見たよ」
一瞬、心臓が縮んだ。
あの走りを見てた。あの第三コーナーからの走りを。
……あの時、私の中に浮かんだものまでは、見えてないよね。
「邪魔」とか「遅い」とか、あんな醜い衝動のことは。
「……あれ、自分でもよく分かんないんです。体が勝手に動いちゃって」
声が少し上擦った。気づかれてないといいけど。
「すごかったね。第三コーナーからの脚、寮のテレビで見てたんだけど、みんな声出してた」
「マーちゃんも声出しました。『なんですかあの脚!?』って」
マーチャンが目を輝かせている。
……見られてたのか。あの走りを。あの、自分でも制御できなかった走りを。
「寮長としては、ちょっと心配もしてる。阪神カップの後、顔色悪かったでしょ。ライブの時も、笑顔は完璧だったけど、唇の色が白かった」
……見てたんだ。そこまで。
この人には走りの中身は見えてない。あの傲慢な衝動のことも知らない。
でも、走った後の私の顔色は、ちゃんと見てる。
「大丈夫です。痛いとかはないので」
「うん、無理にとは言わない。ただ、困ったことがあったら言ってね。寮長の仕事だから、じゃなくて。ただの先輩として」
その言葉が、じわりと胸に染みた。
フジキセキ先輩は、オークスの前も後も、私のことを気にかけてくれていた。
直接何かを聞いてきたり、踏み込んできたりはしない。ただ、いつも視界の隅にいて、「何かあったら」の距離を保ってくれている。
「……ありがとうございます」
「それと」
フジキセキ先輩が、ふっと悪戯っぽく笑った。
普段の寮長モードとは少し違う、年上の友人みたいな顔。
「京阪杯の七着の後と、阪神カップの一着の後で、モエちゃんの顔、全然変わってなかったのが気になってね」
「……え?」
「普通、負けたら悔しいし、勝ったら嬉しいでしょ。でもモエちゃん、どっちの後も同じ顔してた」
心臓が、ドキリと跳ねた。
見抜かれてる。
マーチャンがきょとんとした顔でこっちを見ている。この子は、そういう機微には――
「……それは」
「別に答えなくていいよ。ただ、見てるからね、ってだけ。寮長だから」
フジキセキ先輩は最後にウインクして、お椀の残りを飲み干した。
「今年もよろしくね。二人とも」
「はいです!」
「……はい。よろしくお願いします」
先輩がキッチンに食器を下げに行った後、マーチャンが不思議そうに首を傾げた。
「モエちゃん、勝っても嬉しくないんですか?」
「……今はちょっと、そういう感じかも」
「ふうん。不思議ですね。マーちゃんは勝ったらすっごく嬉しいですけど」
さらっと、当たり前みたいに。
「……でしょうね」
「負けたらすっごく悔しいですし」
「……うん」
「走るの楽しいですし」
「…………」
三連打。
全部、私が今言えない言葉だ。
マーチャンは黒豆をつまみながら、にこにこしている。
悪気はない。この子にはいつも悪気がない。
ただ自分の感情をそのまま口にしてるだけ。
それが、眩しかった。
「モエちゃん」
「ん」
「阪神カップの映像、何回も見ちゃいました。あの第三コーナーからの走り、ずっと録画で残してあるんです」
「……なんで」
「だって、あの時のモエちゃん、すっごくキラキラしてたから」
にこにこ。無邪気に。
まるで綺麗な石を拾った子供みたいな顔で。
「マーちゃん、ああいうモエちゃんと走りたいんです。あの時のモエちゃんと、短距離で」
心臓を、素手で掴まれたような感覚がした。
この子は知らない。あの走りの最中に、私が何を感じていたかを。
「邪魔」だの「遅い」だの、あの醜い衝動のことを。
でも、画面越しに見えたものだけで、この子は正確に「あの瞬間の私」を捉えている。
キラキラしてた。
それは褒め言葉のはずなのに、なぜかぞわりと背筋が粟立った。
あの走りの中にいた「私」を肯定されることが、こんなに怖いなんて。
マーチャンの黄緑の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
おっとりとした表情の奥に、逃がさないような静かな熱がある。
この子は無邪気に見えて、見るべきものを一切見逃さない。
走るウマ娘の、一番剥き出しの瞬間を、正確に切り取って保存する。
それが善意だから、余計にたちが悪い。
「……それ、いつか消してね」
「えー、もったいないですよぅ」
「いいから」
マーチャンは不服そうに頬を膨らませたけど、それ以上は押してこなかった。
代わりに、最後の黒豆をつまんで、ぽいっと口に放り込んだ。
「でも、マーちゃんの目の中には残ってますから。あのキラキラ」
……この子には、勝てない。
別の意味で、絶対に勝てない。
~~
夜。
向かいのベッドで、マーチャンの寝息が聞こえる。
穏やかな、安らかな寝息。
走ることが好きで、勝てば嬉しくて、負ければ悔しいウマ娘の、何の屈託もない眠り。
その寝息を聞きながら、私は目を閉じた。
暗闘の中で、マーチャンの声が反芻される。
「マーちゃんの目の中には残ってますから。あのキラキラ」
あの子の黄緑の瞳に映った私は、どんな顔をしていたんだろう。
あの子が「キラキラ」と呼んだものの正体を、いつか知る日が来るんだろうか。
……来てほしいような、来てほしくないような。
冬の夜は、長い。
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