アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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53話 新年

年が明けた。

シニア級。

 

寮の自室で迎えた新年は、静かなものだった。

 

実家に帰る選択肢もあったけど、やめた。

帰ったらママが「お雑煮食べる?」って聞いてきて、パパが黙って蜜柑を剥いてくれて、穏やかで温かい空間に包まれて、たぶん私はまた「このままでいいかな」って思っちゃう。

今はそれが怖い。

あの甘い日常に溶けてしまうのが、怖い。

 

だから、寮にいる。

ここには練習場がある。絢原さんがいる。走る場所がある。

走る理由はまだないけど、走る場所くらいは、近くに置いておきたかった。

 

……正直に言えば、理由の半分は絢原さんだ。

実家にいると、絢原さんは週に何回か来てくれるだけ。

寮にいれば、練習のたびに会える。毎日じゃなくても、距離が近い。

その方が、いい。

なんでいいのかは、あんまり考えないようにしてる。

 

 

 

~~

 

 

 

元日の朝。

まだ暗いうちに目が覚めて、寝付けなかったので、一人で初詣に出た。

 

去年と同じ神社。

去年は絢原さんと二人で来た。甘酒を買ってきてくれている間に、境内の裏手で、あの子と会った。

 

今年は一人。

表参道は初詣客で賑わっているけれど、境内の裏手に回ると、去年と同じ静けさが広がっている。

常緑樹が日の光を遮って、空気はひんやりと冷たい。しめ縄の張られた御神木。木漏れ日。

 

……なんで、またここに来ちゃったんだろう。

 

自分でも分からない。

去年のあの会話が、なんとなく引っかかっていたのかもしれない。

 

御神木の前で、ぼんやり立ち止まっていた。

賽銭も投げてない。お願いすることも、特にない。

検査がうまくいきますように、とか? 体が勝手に動きませんように、とか?

……なんだそれ。神様に頼むことじゃない。

 

「あら」

 

背後から、聞き覚えのある声がした。

 

振り返る。

 

小柄な体。私よりさらに頭一つ分低い。

眼鏡。黒い髪。和服姿。去年と同じ、鈴を転がすような声。

 

ドリームジャーニーさんが、参道の脇の石段に腰掛けていた。

……いた。最初からそこにいた。私が気づかなかっただけだ。

 

「おはようございます。……カレンモエさん」

 

去年と同じ挨拶。去年と同じ穏やかな微笑み。

でも、その眼鏡の奥にある視線が、去年よりほんの少しだけ鋭く感じるのは、気のせいだろうか。

 

「……おはようございます。あけましておめでとうございます、ドリームジャーニーさん」

 

「ええ。おめでとうございます。……去年と同じ場所で、去年と同じ方にお会いするとは。ご縁がありますね」

 

にこり、と微笑む。

その笑顔の裏を読もうとして、読めなくて、胃がきゅっと縮んだ。

 

「お一人ですか? 去年はトレーナーさんとご一緒でしたね」

 

「……今年は一人で来ました」

 

「そうですか」

 

ジャーニーさんは、石段に座ったまま、私を見上げている。

144センチの体で、見上げているはずなのに、こちらが見下ろされているような錯覚を覚える。

 

「阪神カップ、拝見しましたよ」

 

来た。

 

心臓が、嫌な音を立てる。

 

「第三コーナーからの、あの走り。あれは素晴らしかった。……本当に」

 

「……ありがとうございます」

 

「ただ」

 

ジャーニーさんが、眼鏡の位置を直した。

 

「去年の貴女と、別のウマ娘を見ている気がしました」

 

「…………」

 

「去年、ここでお話しした時。貴女は怒っていた。『ママのコピーにはならない』『自分だけの力で証明する』。あの子は、ただの駄々っ子でしたけれど……真っ直ぐに、自分の意志で駄々をこねていた」

 

ジャーニーさんが、ほんの少しだけ首を傾けた。

 

「阪神カップの貴女には、あの時の『意志』が見えなかった」

 

「……」

 

「代わりに、見えたのは……そうですね。何と言えばいいでしょう。意志ではなく、もっと奥の、もっと古い何か。火のようなもの。制御されていない、剥き出しの衝動」

 

ぞわり、と背筋が粟立った。

 

この人には、見えている。

あの阪神カップの走りの中にあった、もっと深い部分を。

「邪魔」「遅い」という、あの醜い衝動の輪郭を。

 

「……それ、褒めてます?」

 

「さあ。どちらでしょう」

 

微笑む。答えない。

この人はいつもこうだ。核心を突いておいて、判定を相手に投げる。

 

「去年、私は貴女を『駄々っ子』と申しました」

 

「……覚えてます」

 

「あの駄々っ子は、オークスで燃え尽きたんですね」

 

淡々と。事実確認のように。

 

「今の貴女は、何ですか?」

 

「……検査、です。体の検査のために走ってるだけ」

 

「ふふ」

 

ジャーニーさんが、小さく笑った。

嘲笑ではない。でも、信じてもいない。

 

「それは、トレーナーさんに伝える用の言葉ですか? それとも、ご自分に言い聞かせる用の?」

 

「……両方」

 

正直に答えた。嘘をついても、この人には通じない。

 

「正直ですね。それは美徳です」

 

ジャーニーさんが、石段から立ち上がった。和服の裾を整える。

 

「一つだけ、余計なことを言ってもいいですか」

 

「……どうぞ」

 

「駄々っ子は、燃え尽きても駄々っ子ですよ」

 

「…………」

 

「動機が幼いから、逆に簡単には死なない。論理で走っているウマ娘は、論理が破綻すれば止まります。でも感情で走っているウマ娘は、感情がある限り止まれない。貴女の火は、オークスで消えたのではなく、形を変えただけだと思いますけれど」

 

ジャーニーさんが、眼鏡の奥の瞳を細めた。

去年と同じ、熱を帯びた真剣な眼差し。

 

「阪神カップの第三コーナーで出てきたもの。あれが何なのか、ご自分では分かっていないのでしょう?」

 

「……分かりません」

 

「でしょうね。分かっていたら、あんな顔はしませんから」

 

あんな顔。今の私は、どんな顔をしているんだろう。

 

「怖がっているのなら、それでいいと思いますよ。怖がれるうちは、まだ自分を見失っていない証拠です」

 

絢原さんと同じことを言っている。

でも、この人の口から出ると、意味の温度が違う。

絢原さんのそれは「大丈夫だ」という守りの言葉だった。

ジャーニーさんのそれは「まだ走れる」という、追い込みの言葉だ。

 

「……ジャーニーさん」

 

「はい」

 

「去年、『反抗期がいつまで続くか見もの』って言いましたよね」

 

「ええ、言いました」

 

「反抗期は終わりました。でも、もっとたちの悪い何かが残ってるみたいです」

 

ジャーニーさんが、ふっと目を伏せた。

初めて見る表情だった。穏やかでも、鋭くもない。どこか、懐かしいものを見るような。

 

「……ええ。そういうものです。旅というのは」

 

「旅?」

 

「どんなに迷っても、足を止めても、一度歩き始めた道は消えないんですよ。景色が変わっても、足元の道だけはずっと続いている。それが旅路というものです」

 

ジャーニーさんが、和服の袖で口元を隠して、微笑んだ。

 

「貴女の旅が、どこに辿り着くのか。……楽しみにしていますね。カレンモエさん」

 

去年と同じ言葉。でも、響き方がまるで違う。

 

去年は「駄々っ子がどこまでやれるか」という試すような期待だった。

今年は……もう少し静かで、もう少し深い何か。

 

ひらひらと片手を振って、ジャーニーさんは表参道の方へ消えていった。

和服の小さな背中が、朝の光の中に溶けていく。

 

「…………」

 

一人残された境内の裏で、白い息を吐いた。

 

駄々っ子は、燃え尽きても駄々っ子。

火は消えたのではなく、形を変えただけ。

 

……そうなのかな。

あの阪神カップで出てきたものが、あの「駄々」の成れの果てだとしたら。

 

考えかけて、やめた。

今日は正月だ。考えるのは、明日でいい。

 

寮に戻ろう。

マーチャンが起きてたら、一緒にお雑煮でも作ろう。

 

冷えた手をポケットに突っ込んで、参道を歩き出した。

 

 

 

~~

 

 

 

寮に戻ったら、マーチャンが起きていた。

 

向かいのベッドから、もぞもぞと布団が動く音。

 

「……あ、モエちゃん。おはようです。お出かけしてたんですか?」

 

「……ちょっと初詣。あけおめ、マーチャン」

 

「あけおめです!」

 

「帰らなかったの?」

 

「帰ったんですけど、昨日の夜に戻ってきました。明日から練習始めたいので」

 

元日の朝から練習の話をするところが、この子らしい。

マーチャンはいつだって真っ直ぐだ。走ることが好きで、強くなることが好きで、それを隠さない。

 

「モエちゃんは? お正月、おうちに帰らないんですか?」

 

「……んー、今年はいいかな」

 

「そうですか。じゃあ、一緒にお雑煮作りましょうです。マーちゃん、お餅ならいっぱいありますです!」

 

布団からにょきっと腕が伸びて、枕元のコンビニ袋を掲げて見せてくる。

切り餅のパックがいくつか。あとみかん。

 

「……なにそれ、いつ買ったの」

 

「昨日の夜、駅前のコンビニで。お正月はお餅を食べなきゃですから!」

 

……なんか、じわっときた。

 

この子は何も聞かない。

私がなんで帰省しないのかとか、体のこととか、レースのこととか。

ただ「一緒にいるなら一緒にお雑煮食べよう」って、それだけ。

 

「……ありがと。作ろ」

 

「やったです! マーちゃん、お雑煮は醤油派です」

 

「私も」

 

「おお、気が合いますです!」

 

マーチャンがぱっと起き上がって、てきぱきと着替え始めた。

お正月の朝なのに、動きが俊敏。スプリンターの血が元日から騒いでるらしい。

 

共有キッチンに向かう廊下で、マーチャンがぽつりと言った。

 

「モエちゃん、今年は短距離のレース、もっと出るんですか?」

 

「……どうだろ。まだ分かんない」

 

「出てくれたら嬉しいです。マーちゃん、モエちゃんと走りたいですから」

 

さらっと言う。この子はいつもそうだ。

「走りたい」を、なんの衒いもなく口にできる。

 

「……考えとく」

 

「はいです!」

 

にこにこしながらキッチンのドアを開けたマーチャンの背中を見て、少しだけ胸が痛んだ。

 

走りたい、か。

 

私は、まだその言葉を自分の口から言えない。

 

 

 

~~

 

 

 

共有キッチンで鍋にお湯を沸かしていたら、もう一人やってきた。

 

「あけましておめでとう。二人とも残ってたんだね」

 

フジキセキ先輩。

栗東寮の寮長。ショートカットの髪をきちんと整えた、隙のない佇まい。ルームウェア姿でもどこか舞台映えする雰囲気があるのは、この人の生まれ持った華だろう。

年末年始も寮に残って、帰省組が出払った後の管理をしてくれている。

 

「あけましておめでとうございます、フジ先輩」

 

マーチャンがぺこりと頭を下げる。

 

「あけましておめでとうございます」

 

私も続けて頭を下げた。

 

「お雑煮? いいね、私も混ぜてもらっていいかな」

 

「もちろんです! お餅いっぱいありますです!」

 

マーチャンが嬉しそうにお餅を一つ追加で鍋に放り込んだ。

 

三人で共有スペースのテーブルを囲む。

お雑煮と、みかんと、マーチャンが実家から持ってきたらしい黒豆。

質素だけど、悪くないお正月。

 

フジキセキ先輩が、お雑煮を一口すすってから、穏やかに言った。

 

「阪神カップ、見たよ」

 

一瞬、心臓が縮んだ。

 

あの走りを見てた。あの第三コーナーからの走りを。

……あの時、私の中に浮かんだものまでは、見えてないよね。

「邪魔」とか「遅い」とか、あんな醜い衝動のことは。

 

「……あれ、自分でもよく分かんないんです。体が勝手に動いちゃって」

 

声が少し上擦った。気づかれてないといいけど。

 

「すごかったね。第三コーナーからの脚、寮のテレビで見てたんだけど、みんな声出してた」

 

「マーちゃんも声出しました。『なんですかあの脚!?』って」

 

マーチャンが目を輝かせている。

……見られてたのか。あの走りを。あの、自分でも制御できなかった走りを。

 

「寮長としては、ちょっと心配もしてる。阪神カップの後、顔色悪かったでしょ。ライブの時も、笑顔は完璧だったけど、唇の色が白かった」

 

……見てたんだ。そこまで。

 

この人には走りの中身は見えてない。あの傲慢な衝動のことも知らない。

でも、走った後の私の顔色は、ちゃんと見てる。

 

「大丈夫です。痛いとかはないので」

 

「うん、無理にとは言わない。ただ、困ったことがあったら言ってね。寮長の仕事だから、じゃなくて。ただの先輩として」

 

その言葉が、じわりと胸に染みた。

フジキセキ先輩は、オークスの前も後も、私のことを気にかけてくれていた。

直接何かを聞いてきたり、踏み込んできたりはしない。ただ、いつも視界の隅にいて、「何かあったら」の距離を保ってくれている。

 

「……ありがとうございます」

 

「それと」

 

フジキセキ先輩が、ふっと悪戯っぽく笑った。

普段の寮長モードとは少し違う、年上の友人みたいな顔。

 

「京阪杯の七着の後と、阪神カップの一着の後で、モエちゃんの顔、全然変わってなかったのが気になってね」

 

「……え?」

 

「普通、負けたら悔しいし、勝ったら嬉しいでしょ。でもモエちゃん、どっちの後も同じ顔してた」

 

心臓が、ドキリと跳ねた。

 

見抜かれてる。

 

マーチャンがきょとんとした顔でこっちを見ている。この子は、そういう機微には――

 

「……それは」

 

「別に答えなくていいよ。ただ、見てるからね、ってだけ。寮長だから」

 

フジキセキ先輩は最後にウインクして、お椀の残りを飲み干した。

 

「今年もよろしくね。二人とも」

 

「はいです!」

「……はい。よろしくお願いします」

 

先輩がキッチンに食器を下げに行った後、マーチャンが不思議そうに首を傾げた。

 

「モエちゃん、勝っても嬉しくないんですか?」

 

「……今はちょっと、そういう感じかも」

 

「ふうん。不思議ですね。マーちゃんは勝ったらすっごく嬉しいですけど」

 

さらっと、当たり前みたいに。

 

「……でしょうね」

 

「負けたらすっごく悔しいですし」

 

「……うん」

 

「走るの楽しいですし」

 

「…………」

 

三連打。

全部、私が今言えない言葉だ。

 

マーチャンは黒豆をつまみながら、にこにこしている。

悪気はない。この子にはいつも悪気がない。

ただ自分の感情をそのまま口にしてるだけ。

 

それが、眩しかった。

 

「モエちゃん」

 

「ん」

 

「阪神カップの映像、何回も見ちゃいました。あの第三コーナーからの走り、ずっと録画で残してあるんです」

 

「……なんで」

 

「だって、あの時のモエちゃん、すっごくキラキラしてたから」

 

にこにこ。無邪気に。

まるで綺麗な石を拾った子供みたいな顔で。

 

「マーちゃん、ああいうモエちゃんと走りたいんです。あの時のモエちゃんと、短距離で」

 

心臓を、素手で掴まれたような感覚がした。

 

この子は知らない。あの走りの最中に、私が何を感じていたかを。

「邪魔」だの「遅い」だの、あの醜い衝動のことを。

でも、画面越しに見えたものだけで、この子は正確に「あの瞬間の私」を捉えている。

 

キラキラしてた。

 

それは褒め言葉のはずなのに、なぜかぞわりと背筋が粟立った。

あの走りの中にいた「私」を肯定されることが、こんなに怖いなんて。

 

マーチャンの黄緑の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。

おっとりとした表情の奥に、逃がさないような静かな熱がある。

この子は無邪気に見えて、見るべきものを一切見逃さない。

走るウマ娘の、一番剥き出しの瞬間を、正確に切り取って保存する。

それが善意だから、余計にたちが悪い。

 

「……それ、いつか消してね」

 

「えー、もったいないですよぅ」

 

「いいから」

 

マーチャンは不服そうに頬を膨らませたけど、それ以上は押してこなかった。

代わりに、最後の黒豆をつまんで、ぽいっと口に放り込んだ。

 

「でも、マーちゃんの目の中には残ってますから。あのキラキラ」

 

……この子には、勝てない。

別の意味で、絶対に勝てない。

 

 

 

~~

 

 

 

夜。

 

向かいのベッドで、マーチャンの寝息が聞こえる。

穏やかな、安らかな寝息。

走ることが好きで、勝てば嬉しくて、負ければ悔しいウマ娘の、何の屈託もない眠り。

 

その寝息を聞きながら、私は目を閉じた。

 

暗闘の中で、マーチャンの声が反芻される。

 

「マーちゃんの目の中には残ってますから。あのキラキラ」

 

あの子の黄緑の瞳に映った私は、どんな顔をしていたんだろう。

あの子が「キラキラ」と呼んだものの正体を、いつか知る日が来るんだろうか。

 

……来てほしいような、来てほしくないような。

 

冬の夜は、長い。

 




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