勝ちより負けの描写の方が圧倒的に多い小説ですが、これからもよろしくお願い致します。
感謝です。
それと、納得いっていなかった1話を書き直しております。
今後にも少し関わってくるので、一度目を通しておいていただけると幸いです。
一月の半ば。
シニア級最初のレースは、シルクロードステークス。芝1200メートル。GⅢ。
結果だけ言えば、京阪杯と同じだった。
六着。
体は動かなかった。
阪神カップで燃え上がったあの感覚は、今回も来なかった。
自分の脚で、自分の意志で走って、それが限界だった。
普通に走って、普通に負けた。
ウイニングライブは端っこ。淡々とこなした。
GⅡの阪神カップでセンターを張ったのと同じウマ娘が、GⅢのライブで端っこにいる。
その落差を、私自身は何も感じない。
帰りの車で、絢原さんに聞かれた。
「体感は」
「京阪杯と同じ。何も来なかった」
「……ああ」
それだけの会話。
でも、「それだけ」でいい。この人は余計なことを言わない。慰めも、励ましもしない。
ただ「ああ」と受け止めて、次のプランを考える。
阪神カップの後は、その「ああ」すら言えないくらい二人とも動揺してた。
あの夜、車の中で絢原さんの袖を掴んだこと、覚えてるかな。覚えてるだろうな。
今日は掴まなかった。掴む必要がなかった。何も起きなかったから。
……ちょっとだけ、掴みたかったけど。
別に何も起きてないのに掴んだら、ただの甘えだし。
いや、甘えでもよくない?
……よくないか。たぶん。
もう、このパターンには慣れ始めている。
GⅢでは動かない。GⅡでは動いた。オープンは動かなかったけど、素の力で勝てただけ。
法則はまだ見えない。でも、データは溜まっている。
絢原さんとタキオンさんが、それを精査してくれている。
私は、走って、結果を報告するだけ。
メディアは相変わらず騒いでいた。
『カレンモエ、またもGⅢで凡走! 阪神カップの激走は何だったのか』
『GⅡでは圧勝、GⅢでは惨敗。カレンモエの不可解なムラ』
『復活か迷走か? 専門家の見解は割れる』
落差が派手すぎるのだ。GⅡの阪神カップを五人抜きで制したウマ娘が、格下のGⅢで六着に沈む。普通に考えたら意味が分からない。
ネットでは「調子の波が激しい」「メンタルの問題」「オークスの後遺症」と好き勝手に分析されてた。
全部外れ。でも正解を知ってるのは、私と絢原さんとタキオンさんだけ。
GⅢでまた動かなかった。阪神カップの時は動いた。シルクロードSでは動かない。
このパターンを確認するたびに、怖いと思う。
でも、本当に怖いのは、パターンの方じゃない。
阪神カップの直線を思い出す時、体が震えるのは恐怖だけじゃない。
あの瞬間、前を走るウマ娘たちを「邪魔」だと思った。「遅い」と思った。
醜い衝動。絶対に認めちゃいけない感情。
なのに、あの数秒間が、オークス以降で一番「生きてる」って感じた時間だった。
その事実が、一番怖い。
シルクロードSで体が動かなかった時、失望した自分がいなかったか。
「また来なかった」と、がっかりした自分がいなかったか。
……いた。
ほんの一瞬。ゲートが開いて、体が冷たいままだと分かった瞬間。
「ああ、今日も来ないんだ」と思った自分が、確かにいた。
怖い。
あの衝動を恐れているはずの私が、あの衝動を待っている。
~~
一月下旬の休日。
キング先輩に買い物に誘われた。
『モエ、今度の日曜空いてる? 気になってるブランドの春物が出たの。付き合いなさいよ。一人で行くのは退屈だから、特別にあなたを連れてってあげるわ』
メッセージが来たのは三日前。
キング先輩は昔からこういう言い方をする。
素直に「一緒に行こう」って言えばいいのに、「連れてってあげる」。
これがキング先輩なりの気遣いだ。「暇なら遊んであげるわよ」の形を借りた、不器用な「元気?」。
オークスの前も後も、引きこもってた時も復帰した今も、態度が変わらない。
「大丈夫?」とか「無理しないでね」とか、そういう言葉は一切ない。
ただ普通に「買い物に付き合いなさい」って言ってくる。
それが、ありがたかった。
日曜日。駅前のショッピングモール。
キング先輩は相変わらずだった。
フロアを颯爽と渡り歩き、次から次へと服を手に取り、試着室に消え、出てきてはポーズを決める。
「ねえモエ、これとこれ、どっちが私に相応しいと思う?」
赤いニットと、紺のタートルネック。
どっちもキング先輩に似合いそう。
「……んー、赤の方が映えると思います。キング先輩の髪色に合うし」
「当然よ。私もそう思ってたわ。よし、決まり!」
即断即決。迷いがない。
この人はいつもそうだ。自分に似合うものを知っていて、迷わず選ぶ。
「モエは? 何も買わないつもり? せっかく私が連れてきてあげたのに」
「んー……私は見てるだけでいいかな」
「つまらないこと言わないの。ほら、これなんか似合いそうじゃない。試着しなさいよ」
白いシフォンブラウスを押しつけられた。首元に小さなリボン。走ることと何の関係もない、ただの「かわいい服」。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
試着室に入る。鏡の前でブラウスを合わせてみる。
……悪くない。
リボンが、ちょっとだけ華やかで。
こういう服を「似合う」と思える日が来るなんて、一年前には想像もしなかった。
カーテンを開けると、キング先輩が腕を組んで待ち構えていた。
「ほら、やっぱりいいじゃない。……買いなさいよ。似合ってるんだから。私が保証するわ」
「……うん。買います」
レジに並ぶ。キング先輩が隣で、次に行く店の話をしている。
カフェでお茶しましょう、あそこのモンブランが絶品なのよ、最近できた雑貨屋も見たいの。
この人と歩いていると、レースのことも、体のことも、全部忘れていられる。それがキング先輩なりの設計なんだと思う。ファッションと食べ物とたわいもない会話で一日を埋め尽くして、私の頭からレースを追い出す。
カフェに向かうエスカレーターで、キング先輩がふと言った。
「モエ、最近ちゃんと食べてる? さっき試着した時、去年より腕が細くなってたわよ」
「……え、そうですか?」
「私の目を甘く見ないで。服のシルエットに関しては、誰よりも見る目があるの」
それだけ言って、キング先輩はエスカレーターを降りると「さ、カフェ行くわよ。モンブラン、あなたの分も頼んであげるから」と歩き出した。
……心配してるって、素直に言えばいいのに。
でも、それがキング先輩なのだ。
「腕が細い」を「服のシルエット」の話にすり替えて、「ちゃんと食べなさい」を「モンブラン奢ってあげる」に変換する。
全部、ファッションと食べ物の言葉に包んで、気遣いの形をした気遣いを消す。
この人は私の走りのことを一切聞かない。
阪神カップのことも、シルクロードSの凡走のことも、体のことも。
たぶん知ってる。テレビで見てるだろうし、SNSでも話題になってた。
でも、聞かない。
その代わりに、「ねえ、あのコート見なさいよ」「このアクセサリー、私に似合うと思わない?」と、徹底的にどうでもいい話をしてくる。
「あ、そうだ。バレンタイン近いじゃない。モエ、誰かにあげるの?」
「……は?」
「チョコよ。義理でも本命でも。どうせトレーナーにあげるんでしょう?」
「な、なんでそうなるんですか」
「だって顔に書いてあるもの」
「書いてないです! ……書いてないったら!」
キング先輩がケラケラ笑ってる。
私はたぶん、耳まで真っ赤になってる。
「あら、かわいい。……ふん、やっぱりさっきのブラウス、正解だったわ。赤くなった顔に白が映えるもの」
「……キング先輩!」
「なによ。一流の目は誤魔化せないの。表情も、体型の変化も、心の動きも、全部ね」
カフェのテーブルで、モンブランをつつきながら、たわいもない話を続けた。
学園のこと。最近見たドラマのこと。ウララちゃんが寝ぼけてキング先輩のベッドに潜り込んできた話。季節限定のスイーツのこと。
走ることの話は、一言も出なかった。
帰り道。
駅の改札で、キング先輩と別れる。
「じゃあね、モエ。また付き合わせてあげるわ」
「……ありがとうございます、キング先輩」
「何がよ。普通にお買い物しただけじゃない。……ああ、それと」
振り返ったキング先輩の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「モンブラン、おいしかったでしょう? 来週はケーキ屋にしましょうか。新作のタルトがあるの。……一人で行くのは退屈だから」
翻訳:来週も会おう。ちゃんと食べてるか確認するから。
「……はい。付き合います」
「当然よ」
ひらひらと手を振って、キング先輩は人混みに消えていった。
一人になった帰り道。
紙袋を抱えて、冬の夕暮れの中を歩く。
……顔に書いてある、か。
キング先輩のあの一言が、まだ耳に残ってる。
チョコ。バレンタイン。トレーナーにあげるんでしょ。
否定した。全力で否定した。
でも、帰り道に、チョコレート専門店の前を通りかかった時。
足が、一瞬だけ止まった。
ショーウインドウに並んだ綺麗な箱。
……去年のこと、思い出した。
去年の私は、必死だった。
デパートの催事場で何時間も悩んで、惑星みたいなビターチョコを選んで、ネイビーのリボンをかけて。
「義理だから」って何回も自分に言い聞かせて、心臓バクバクさせながらトレーナー室に行って。
そしたら、あの引き出しが開いてて。
ママのファングッズ。ファンレターの下書き。「あなたは僕の光です」。
全部見つけちゃって、全部壊れて、チョコを足元に投げつけて、「嘘つき」って。
……あれ、去年の今頃だ。まだ一年も経ってない。
あの後、色々あって、和解して。
絢原さんがママのファンだったことも、今はもう知ってる。
それでもこの人は私を「カレンモエ」として見てくれてるって、今は分かってる。
去年の私より、ずっと多くのことを知った上で、まだこの人のそばにいる。
だから今年は、去年みたいに「義理だから」なんて嘘はつかない。
つかなくていい。
……でも。
ショーウインドウの中の、黒い箱に銀のリボンがかかったチョコが目に入った。
あの人の無表情に渡したら、どんな顔するかな。
去年のチョコ、結局食べてくれたんだよね。投げつけたやつ。
ぼろぼろの箱から一粒ずつ拾って、食べてくれた。
あの時の顔、覚えてる。
「今まで食べた、どんなチョコレートよりも」って。
……やめよう。
入らない。買わない。今年は、まだ。
まだ、ってなに。「まだ」ってことは、いつか買うつもりなの。
……知らない。
一瞬だけだから。
紙袋を抱え直して、歩き出す。
普通に遊んだだけ。
キング先輩はそう言った。
普通の休日。普通の買い物。普通の友達。
オークスで燃え尽きた後、私はこういう「普通」がほしくてたまらなかった。
パンケーキを食べて、服を買って、友達と笑って。
走ることから離れた、穏やかな日常。
今、その「普通」は手に入ってる。
キング先輩との買い物は楽しかった。モンブランは美味しかった。白いブラウスは似合ってた。
全部、ちゃんと「普通」で、「楽しくて」、「いい一日」だった。
……なのに。
帰り道、ふと空を見上げた時に感じた、あの微かな物足りなさは何だろう。
楽しかった。確かに楽しかった。
でも、阪神カップの第三コーナーで体が燃え上がった瞬間の、あの——
……やめよう。比べるのは。
紙袋を抱え直して、歩く速度を上げた。
寮まで、あと少し。
学園の正門をくぐって、寮棟への小道に入った時だった。
「バクシーーーーン!!」
背後から、爆風みたいな声が叩きつけられた。
地面を踏み鳴らす足音。猛烈な速度で何かが近づいてくる。
振り返る暇もなく、私の横を一陣の風が駆け抜けて——急停止。
「おおっ! カレンモエさん!!」
ジャージ姿のウマ娘が、目の前にいた。
ハチマキ。ポニーテール。弾ける笑顔。汗だくの額。
一月の夕暮れにこの汗の量って、どれだけ走ってたの。
サクラバクシンオーさん。
学級委員長。短距離の絶対王者。
一年前の新入生レースの日に、嵐みたいに現れて嵐みたいに去っていった人。
「お久しぶりです! お元気ですか! いや、お元気そうですね! よかったです!!」
声が、でかい。一年前と何も変わっていない。
「……お久しぶりです、バクシンオーさん。練習帰りですか」
「はいッ! 夕方のバクシンを終えてきたところです! 冬場は日が短いので、いつもより早く切り上げましたが、密度はバクシン的に完璧でした!!」
何を言っているのか半分くらい分からないけど、この人はいつもそうだ。
「あのですね! モエさん! 私、テレビ見ましたよ! 阪神カップ!!」
来た。阪神カップの話題。
「あの脚! あの切れ味! 短距離で走ってくれてるんですね! 私、ずっと待ってたんですよ! あの新入生レースの日に言いましたよね、『スプリントに来てください』って! 来てくれたんですね! バクシン的に大感激です!!」
……覚えてたんだ。あの日のこと。
「あの、私は別にスプリントに転向したわけじゃなくて——」
「でも1200メートル走ってますよね! GⅢも出てましたよね! それはもう立派にスプリンターです! 学級委員長が認定します!!」
一方的に認定されてしまった。
この人の言葉には悪意がゼロだから、否定するのも気が引ける。
「実は!」
バクシンオーさんが、ぐっと拳を握った。
「私、今年で引退するんです!」
「……え」
「なので!最後のレースをバクシン的に全力で駆け抜けるつもりです! 春は高松宮記念! あれが私の、最後のGⅠになります!!」
高松宮記念。
芝1200メートル。GⅠ。三月末。
……1200メートルのGⅠ。
「もし! もしですよ! モエさんがスプリント路線を続けてくれるなら! いつか同じ舞台で走れたら、こんなにバクシンなことはないです!!」
バクシンオーさんの目が、きらきらと輝いている。
一年前と同じ。あの新入生レースの日と同じ、純粋な熱量。
でも、一年前と一つだけ違うことがある。
あの日の私は、「短距離になんか興味ない」と冷たく突っぱねた。
今の私は——
「……バクシンオーさん」
「はいっ!」
「高松宮記念、応援してます」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
「ありがとうございます!! 応援、バクシン的に力になります! ……でもですね!」
バクシンオーさんが、びしっと指を突き出した。
「応援より、対戦の方が百倍嬉しいですからね! 覚えておいてください! バクシーーン!!」
言うだけ言って、来た時と同じ速度で走り去っていった。
残されたのは、冬の夕暮れの風と、砂埃と、紙袋を抱えた私。
「…………」
高松宮記念。三月末。芝1200メートル。GⅠ。
あの人の、最後の舞台。
一年前、「いつか短距離で走りたくなったら、全力でお相手します。待ってますから」って言われた。
あの時は、他人事だと思ってた。
今は——
……今は、どうだろう。
分からない。まだ分からない。
でも、「他人事」とは、もう思えなかった。
正月の朝、マーチャンが何の気負いもなく並べた言葉が、脳の奥で繰り返し響いている。
「走るの楽しいですし」
「あの時のモエちゃん、すっごくキラキラしてたから」
あの一言が、今日一日、ずっと喉の奥に引っかかっていた。
楽しい。キラキラ。
私はあの阪神カップで、楽しいと思ったの?
あの傲慢な高揚の中に、「楽しい」は混じってたの?
マーチャンの目に映った「キラキラ」は、私のどの部分を切り取ったもの?
……分からない。
分からないまま、寮の玄関をくぐった。
「あ、おかえり。モエちゃん、いい紙袋持ってるね。見せて見せて」
共有スペースからフジ先輩の声。
「おかえりです、モエちゃん。お餅の残り、焼いて食べちゃいました。ごめんなさいです」
部屋のドアを開けた瞬間のマーチャンの声に、思わず笑った。
「……別にいいよ。ただいま」
普通の夜。普通の寮。
でも胸の奥の「ざわざわ」は、消灯した後も、布団の中で、小さく脈打ち続けていた。
感想、評価等ございましたらよろしくお願い致します。