アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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いつもお読みいただいてありがとうございます。
勝ちより負けの描写の方が圧倒的に多い小説ですが、これからもよろしくお願い致します。
感謝です。

それと、納得いっていなかった1話を書き直しております。
今後にも少し関わってくるので、一度目を通しておいていただけると幸いです。


54話 ざわざわ

一月の半ば。

 

シニア級最初のレースは、シルクロードステークス。芝1200メートル。GⅢ。

 

結果だけ言えば、京阪杯と同じだった。

 

六着。

 

体は動かなかった。

阪神カップで燃え上がったあの感覚は、今回も来なかった。

自分の脚で、自分の意志で走って、それが限界だった。

普通に走って、普通に負けた。

 

ウイニングライブは端っこ。淡々とこなした。

GⅡの阪神カップでセンターを張ったのと同じウマ娘が、GⅢのライブで端っこにいる。

その落差を、私自身は何も感じない。

 

帰りの車で、絢原さんに聞かれた。

 

「体感は」

 

「京阪杯と同じ。何も来なかった」

 

「……ああ」

 

それだけの会話。

でも、「それだけ」でいい。この人は余計なことを言わない。慰めも、励ましもしない。

ただ「ああ」と受け止めて、次のプランを考える。

 

阪神カップの後は、その「ああ」すら言えないくらい二人とも動揺してた。

あの夜、車の中で絢原さんの袖を掴んだこと、覚えてるかな。覚えてるだろうな。

今日は掴まなかった。掴む必要がなかった。何も起きなかったから。

 

……ちょっとだけ、掴みたかったけど。

別に何も起きてないのに掴んだら、ただの甘えだし。

 

いや、甘えでもよくない?

 

……よくないか。たぶん。

 

もう、このパターンには慣れ始めている。

GⅢでは動かない。GⅡでは動いた。オープンは動かなかったけど、素の力で勝てただけ。

 

法則はまだ見えない。でも、データは溜まっている。

絢原さんとタキオンさんが、それを精査してくれている。

 

私は、走って、結果を報告するだけ。

 

メディアは相変わらず騒いでいた。

『カレンモエ、またもGⅢで凡走! 阪神カップの激走は何だったのか』

『GⅡでは圧勝、GⅢでは惨敗。カレンモエの不可解なムラ』

『復活か迷走か? 専門家の見解は割れる』

 

落差が派手すぎるのだ。GⅡの阪神カップを五人抜きで制したウマ娘が、格下のGⅢで六着に沈む。普通に考えたら意味が分からない。

ネットでは「調子の波が激しい」「メンタルの問題」「オークスの後遺症」と好き勝手に分析されてた。

全部外れ。でも正解を知ってるのは、私と絢原さんとタキオンさんだけ。

 

GⅢでまた動かなかった。阪神カップの時は動いた。シルクロードSでは動かない。

このパターンを確認するたびに、怖いと思う。

 

でも、本当に怖いのは、パターンの方じゃない。

 

阪神カップの直線を思い出す時、体が震えるのは恐怖だけじゃない。

あの瞬間、前を走るウマ娘たちを「邪魔」だと思った。「遅い」と思った。

醜い衝動。絶対に認めちゃいけない感情。

 

なのに、あの数秒間が、オークス以降で一番「生きてる」って感じた時間だった。

 

その事実が、一番怖い。

 

シルクロードSで体が動かなかった時、失望した自分がいなかったか。

「また来なかった」と、がっかりした自分がいなかったか。

 

……いた。

ほんの一瞬。ゲートが開いて、体が冷たいままだと分かった瞬間。

「ああ、今日も来ないんだ」と思った自分が、確かにいた。

 

怖い。

あの衝動を恐れているはずの私が、あの衝動を待っている。

 

 

 

~~

 

 

 

一月下旬の休日。

 

キング先輩に買い物に誘われた。

 

『モエ、今度の日曜空いてる? 気になってるブランドの春物が出たの。付き合いなさいよ。一人で行くのは退屈だから、特別にあなたを連れてってあげるわ』

 

メッセージが来たのは三日前。

キング先輩は昔からこういう言い方をする。

素直に「一緒に行こう」って言えばいいのに、「連れてってあげる」。

これがキング先輩なりの気遣いだ。「暇なら遊んであげるわよ」の形を借りた、不器用な「元気?」。

 

オークスの前も後も、引きこもってた時も復帰した今も、態度が変わらない。

「大丈夫?」とか「無理しないでね」とか、そういう言葉は一切ない。

ただ普通に「買い物に付き合いなさい」って言ってくる。

 

それが、ありがたかった。

 

日曜日。駅前のショッピングモール。

 

キング先輩は相変わらずだった。

フロアを颯爽と渡り歩き、次から次へと服を手に取り、試着室に消え、出てきてはポーズを決める。

 

「ねえモエ、これとこれ、どっちが私に相応しいと思う?」

 

赤いニットと、紺のタートルネック。

どっちもキング先輩に似合いそう。

 

「……んー、赤の方が映えると思います。キング先輩の髪色に合うし」

 

「当然よ。私もそう思ってたわ。よし、決まり!」

 

即断即決。迷いがない。

この人はいつもそうだ。自分に似合うものを知っていて、迷わず選ぶ。

 

「モエは? 何も買わないつもり? せっかく私が連れてきてあげたのに」

 

「んー……私は見てるだけでいいかな」

 

「つまらないこと言わないの。ほら、これなんか似合いそうじゃない。試着しなさいよ」

 

白いシフォンブラウスを押しつけられた。首元に小さなリボン。走ることと何の関係もない、ただの「かわいい服」。

 

「……じゃあ、ちょっとだけ」

 

試着室に入る。鏡の前でブラウスを合わせてみる。

 

……悪くない。

リボンが、ちょっとだけ華やかで。

こういう服を「似合う」と思える日が来るなんて、一年前には想像もしなかった。

 

カーテンを開けると、キング先輩が腕を組んで待ち構えていた。

 

「ほら、やっぱりいいじゃない。……買いなさいよ。似合ってるんだから。私が保証するわ」

 

「……うん。買います」

 

レジに並ぶ。キング先輩が隣で、次に行く店の話をしている。

カフェでお茶しましょう、あそこのモンブランが絶品なのよ、最近できた雑貨屋も見たいの。

 

この人と歩いていると、レースのことも、体のことも、全部忘れていられる。それがキング先輩なりの設計なんだと思う。ファッションと食べ物とたわいもない会話で一日を埋め尽くして、私の頭からレースを追い出す。

 

カフェに向かうエスカレーターで、キング先輩がふと言った。

 

「モエ、最近ちゃんと食べてる? さっき試着した時、去年より腕が細くなってたわよ」

 

「……え、そうですか?」

 

「私の目を甘く見ないで。服のシルエットに関しては、誰よりも見る目があるの」

 

それだけ言って、キング先輩はエスカレーターを降りると「さ、カフェ行くわよ。モンブラン、あなたの分も頼んであげるから」と歩き出した。

 

……心配してるって、素直に言えばいいのに。

でも、それがキング先輩なのだ。

「腕が細い」を「服のシルエット」の話にすり替えて、「ちゃんと食べなさい」を「モンブラン奢ってあげる」に変換する。

全部、ファッションと食べ物の言葉に包んで、気遣いの形をした気遣いを消す。

 

この人は私の走りのことを一切聞かない。

阪神カップのことも、シルクロードSの凡走のことも、体のことも。

たぶん知ってる。テレビで見てるだろうし、SNSでも話題になってた。

でも、聞かない。

 

その代わりに、「ねえ、あのコート見なさいよ」「このアクセサリー、私に似合うと思わない?」と、徹底的にどうでもいい話をしてくる。

 

「あ、そうだ。バレンタイン近いじゃない。モエ、誰かにあげるの?」

 

「……は?」

 

「チョコよ。義理でも本命でも。どうせトレーナーにあげるんでしょう?」

 

「な、なんでそうなるんですか」

 

「だって顔に書いてあるもの」

 

「書いてないです! ……書いてないったら!」

 

キング先輩がケラケラ笑ってる。

私はたぶん、耳まで真っ赤になってる。

 

「あら、かわいい。……ふん、やっぱりさっきのブラウス、正解だったわ。赤くなった顔に白が映えるもの」

 

「……キング先輩!」

 

「なによ。一流の目は誤魔化せないの。表情も、体型の変化も、心の動きも、全部ね」

 

カフェのテーブルで、モンブランをつつきながら、たわいもない話を続けた。

学園のこと。最近見たドラマのこと。ウララちゃんが寝ぼけてキング先輩のベッドに潜り込んできた話。季節限定のスイーツのこと。

 

走ることの話は、一言も出なかった。

 

帰り道。

駅の改札で、キング先輩と別れる。

 

「じゃあね、モエ。また付き合わせてあげるわ」

 

「……ありがとうございます、キング先輩」

 

「何がよ。普通にお買い物しただけじゃない。……ああ、それと」

 

振り返ったキング先輩の目が、一瞬だけ鋭くなった。

 

「モンブラン、おいしかったでしょう? 来週はケーキ屋にしましょうか。新作のタルトがあるの。……一人で行くのは退屈だから」

 

翻訳:来週も会おう。ちゃんと食べてるか確認するから。

 

「……はい。付き合います」

 

「当然よ」

 

ひらひらと手を振って、キング先輩は人混みに消えていった。

 

一人になった帰り道。

紙袋を抱えて、冬の夕暮れの中を歩く。

 

……顔に書いてある、か。

 

キング先輩のあの一言が、まだ耳に残ってる。

チョコ。バレンタイン。トレーナーにあげるんでしょ。

否定した。全力で否定した。

 

でも、帰り道に、チョコレート専門店の前を通りかかった時。

足が、一瞬だけ止まった。

 

ショーウインドウに並んだ綺麗な箱。

 

……去年のこと、思い出した。

 

去年の私は、必死だった。

デパートの催事場で何時間も悩んで、惑星みたいなビターチョコを選んで、ネイビーのリボンをかけて。

「義理だから」って何回も自分に言い聞かせて、心臓バクバクさせながらトレーナー室に行って。

 

そしたら、あの引き出しが開いてて。

ママのファングッズ。ファンレターの下書き。「あなたは僕の光です」。

全部見つけちゃって、全部壊れて、チョコを足元に投げつけて、「嘘つき」って。

 

……あれ、去年の今頃だ。まだ一年も経ってない。

 

あの後、色々あって、和解して。

絢原さんがママのファンだったことも、今はもう知ってる。

それでもこの人は私を「カレンモエ」として見てくれてるって、今は分かってる。

去年の私より、ずっと多くのことを知った上で、まだこの人のそばにいる。

 

だから今年は、去年みたいに「義理だから」なんて嘘はつかない。

つかなくていい。

 

……でも。

 

ショーウインドウの中の、黒い箱に銀のリボンがかかったチョコが目に入った。

あの人の無表情に渡したら、どんな顔するかな。

去年のチョコ、結局食べてくれたんだよね。投げつけたやつ。

ぼろぼろの箱から一粒ずつ拾って、食べてくれた。

 

あの時の顔、覚えてる。

「今まで食べた、どんなチョコレートよりも」って。

 

……やめよう。

入らない。買わない。今年は、まだ。

 

まだ、ってなに。「まだ」ってことは、いつか買うつもりなの。

 

……知らない。

一瞬だけだから。

 

紙袋を抱え直して、歩き出す。

 

普通に遊んだだけ。

キング先輩はそう言った。

 

普通の休日。普通の買い物。普通の友達。

 

オークスで燃え尽きた後、私はこういう「普通」がほしくてたまらなかった。

パンケーキを食べて、服を買って、友達と笑って。

走ることから離れた、穏やかな日常。

 

今、その「普通」は手に入ってる。

キング先輩との買い物は楽しかった。モンブランは美味しかった。白いブラウスは似合ってた。

全部、ちゃんと「普通」で、「楽しくて」、「いい一日」だった。

 

……なのに。

 

帰り道、ふと空を見上げた時に感じた、あの微かな物足りなさは何だろう。

 

楽しかった。確かに楽しかった。

でも、阪神カップの第三コーナーで体が燃え上がった瞬間の、あの——

 

……やめよう。比べるのは。

 

紙袋を抱え直して、歩く速度を上げた。

寮まで、あと少し。

 

学園の正門をくぐって、寮棟への小道に入った時だった。

 

「バクシーーーーン!!」

 

背後から、爆風みたいな声が叩きつけられた。

 

地面を踏み鳴らす足音。猛烈な速度で何かが近づいてくる。

振り返る暇もなく、私の横を一陣の風が駆け抜けて——急停止。

 

「おおっ! カレンモエさん!!」

 

ジャージ姿のウマ娘が、目の前にいた。

ハチマキ。ポニーテール。弾ける笑顔。汗だくの額。

一月の夕暮れにこの汗の量って、どれだけ走ってたの。

 

サクラバクシンオーさん。

学級委員長。短距離の絶対王者。

一年前の新入生レースの日に、嵐みたいに現れて嵐みたいに去っていった人。

 

「お久しぶりです! お元気ですか! いや、お元気そうですね! よかったです!!」

 

声が、でかい。一年前と何も変わっていない。

 

「……お久しぶりです、バクシンオーさん。練習帰りですか」

 

「はいッ! 夕方のバクシンを終えてきたところです! 冬場は日が短いので、いつもより早く切り上げましたが、密度はバクシン的に完璧でした!!」

 

何を言っているのか半分くらい分からないけど、この人はいつもそうだ。

 

「あのですね! モエさん! 私、テレビ見ましたよ! 阪神カップ!!」

 

来た。阪神カップの話題。

 

「あの脚! あの切れ味! 短距離で走ってくれてるんですね! 私、ずっと待ってたんですよ! あの新入生レースの日に言いましたよね、『スプリントに来てください』って! 来てくれたんですね! バクシン的に大感激です!!」

 

……覚えてたんだ。あの日のこと。

 

「あの、私は別にスプリントに転向したわけじゃなくて——」

 

「でも1200メートル走ってますよね! GⅢも出てましたよね! それはもう立派にスプリンターです! 学級委員長が認定します!!」

 

一方的に認定されてしまった。

この人の言葉には悪意がゼロだから、否定するのも気が引ける。

 

「実は!」

 

バクシンオーさんが、ぐっと拳を握った。

 

「私、今年で引退するんです!」

 

「……え」

 

「なので!最後のレースをバクシン的に全力で駆け抜けるつもりです! 春は高松宮記念! あれが私の、最後のGⅠになります!!」

 

高松宮記念。

芝1200メートル。GⅠ。三月末。

 

……1200メートルのGⅠ。

 

「もし! もしですよ! モエさんがスプリント路線を続けてくれるなら! いつか同じ舞台で走れたら、こんなにバクシンなことはないです!!」

 

バクシンオーさんの目が、きらきらと輝いている。

一年前と同じ。あの新入生レースの日と同じ、純粋な熱量。

 

でも、一年前と一つだけ違うことがある。

あの日の私は、「短距離になんか興味ない」と冷たく突っぱねた。

今の私は——

 

「……バクシンオーさん」

 

「はいっ!」

 

「高松宮記念、応援してます」

 

それだけ言うのが精いっぱいだった。

 

「ありがとうございます!! 応援、バクシン的に力になります! ……でもですね!」

 

バクシンオーさんが、びしっと指を突き出した。

 

「応援より、対戦の方が百倍嬉しいですからね! 覚えておいてください! バクシーーン!!」

 

言うだけ言って、来た時と同じ速度で走り去っていった。

残されたのは、冬の夕暮れの風と、砂埃と、紙袋を抱えた私。

 

「…………」

 

高松宮記念。三月末。芝1200メートル。GⅠ。

あの人の、最後の舞台。

 

一年前、「いつか短距離で走りたくなったら、全力でお相手します。待ってますから」って言われた。

あの時は、他人事だと思ってた。

 

今は——

 

……今は、どうだろう。

 

分からない。まだ分からない。

でも、「他人事」とは、もう思えなかった。

 

正月の朝、マーチャンが何の気負いもなく並べた言葉が、脳の奥で繰り返し響いている。

 

「走るの楽しいですし」

 

「あの時のモエちゃん、すっごくキラキラしてたから」

 

あの一言が、今日一日、ずっと喉の奥に引っかかっていた。

 

楽しい。キラキラ。

 

私はあの阪神カップで、楽しいと思ったの?

あの傲慢な高揚の中に、「楽しい」は混じってたの?

マーチャンの目に映った「キラキラ」は、私のどの部分を切り取ったもの?

 

……分からない。

 

分からないまま、寮の玄関をくぐった。

 

「あ、おかえり。モエちゃん、いい紙袋持ってるね。見せて見せて」

 

共有スペースからフジ先輩の声。

 

「おかえりです、モエちゃん。お餅の残り、焼いて食べちゃいました。ごめんなさいです」

 

部屋のドアを開けた瞬間のマーチャンの声に、思わず笑った。

 

「……別にいいよ。ただいま」

 

普通の夜。普通の寮。

 

でも胸の奥の「ざわざわ」は、消灯した後も、布団の中で、小さく脈打ち続けていた。

 




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