アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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55話 決断

二月の第三練習場は、冬枯れの芝と乾いた空気に包まれている。

 

タキオンが指定した合同トレーニングの日。

俺は練習場の脇に設けられた簡易テントの下で、タブレットに表示されたデータを睨んでいた。

 

モエはコースの向こう側で、タキオンが組んだメニューをこなしている。

今日は1400メートルの距離走を二本。間にインターバルを挟んで、心拍数と筋出力のデータを同時に取る。タキオンが持ち込んだ小型センサーが、モエの体中に貼り付けられていた。

 

「やっぱり面白い体だね、彼女は」

 

タキオンが、モニターの前で顎に手を当てて呟く。

その目はモエを見ているようで、実際にはデータの波形しか見ていない。この人にとってモエは研究対象であり、その境界線を俺は常に意識している。

 

「何が見えた」

 

「リビルドの進行具合だよ。オークスで一度壊して組み直した筋肉の再構築が、想定以上に順調に進んでいる」

 

タキオンがモニターを指差す。

俺にはグラフの細かい意味は分からないが、タキオンの声に満足の色が混じっていることは聞き取れた。

 

「簡単に言おうか。彼女の体は、もう1200メートル専用じゃない」

 

「……どういう意味だ」

 

「スクラップ・アンド・ビルドの設計図には、もともと守備範囲の拡張を組み込んであった。1200メートルのスプリンターを壊して、1600メートルまで対応できる体に再構築する。それがリビルドの本来の目的だ」

 

俺は、タブレットから目を上げてタキオンを見た。

 

「……それを、今まで黙っていたのか」

 

「言う必要がなかったからね。データが揃うまでは仮説にすぎない。仮説の段階で騒ぎ立てるのは科学者の仕事じゃない」

 

悪びれもしない。タキオンはいつもそうだ。

必要な情報を、必要なタイミングで、必要な相手に渡す。それ以上のサービスはしない。

 

「で、今日のデータで確信が持てたということか」

 

「ああ。1400メートルのタイムと筋出力のバランスを見る限り、彼女は1600メートルを走れる。走れるだけじゃない。GⅠの水準で勝負できるだけの出力が出ている」

 

タキオンは椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。

 

「そこで、一つ提案がある」

 

「……聞こう」

 

「フェブラリーステークス。ダート1600メートル、GⅠ。来月だ」

 

俺は、一瞬言葉を失った。

 

フェブラリーステークス。

日本のダートGⅠ。距離は1600メートル。

芝ではなく、ダート。

しかも、GⅠ。

 

「……正気か」

 

「正気だとも。むしろ、これ以上の検証の場はないと思っている」

 

タキオンがモニターから視線を外し、俺の方を向いた。研究者の目。面白いものを見つけた時の、あの光。

 

「考えてみたまえ。彼女の体が1600メートルに対応しているか否かを確かめたい。だが芝の1600メートルに出せば、マイルCSの亡霊が絡んでくる。スカーレットくんとウオッカくんの因縁。桜花賞の未決着。彼女自身の心理的な重荷。データが汚染される」

 

「……それで、ダート」

 

「そう。ダートなら純粋な能力テストになる。芝の1600メートルとは全く別の条件。心理的なノイズが最小限で済む。そして何より――」

 

タキオンは口角を上げた。

 

「ダート勢は、彼女をノーマークにする。芝のスプリンターがダートのGⅠに出てきたところで、脅威とは見なさない。それは彼女にとって都合がいい。注目されずに走れる」

 

理屈は通っている。

嫌になるほど、通っている。

 

だが、俺の中には別の声がある。

 

「……タキオン。一つ聞きたい」

 

「なんだい」

 

「これは、モエのための提案か。それとも、お前のリビルドの成果を証明するための実験か」

 

タキオンの表情が、ほんの一瞬だけ固まった。

それからゆっくりと、苦笑に似た表情を浮かべる。

 

「……両方だよ。隠すつもりはない。私は科学者だ。自分の設計が正しかったことを確かめたい。それは事実だ」

 

「……」

 

「だが、それとは別に、彼女にはこのデータが必要だと思っている。自分の体が何を出来るのかを知ること。それは、彼女が今一番必要としていることだろう?」

 

否定できなかった。

 

モエは今、自分の体を理解できないまま走っている。GⅢでは動かず、GⅡでは動く。その法則すら掴めず、検査のためだけにレースに出続けている。

もし、ダートの1600メートルを走ることで「自分の体は1600メートルに対応している」と分かれば、それはモエにとって一つの手がかりになる。

 

だが。

 

GⅠだ。

 

阪神カップのGⅡですら、あの異常な走りが起きた。ゴール後の体温低下。顔色が白くなったモエ。震える手。

GⅠの舞台で、何が起きるか分からない。

 

「……少し、考えさせてくれ」

 

「もちろん。ただ、出走登録の締切は来週だ。それまでには結論を出してほしい」

 

タキオンはそれだけ言って、モニターに視線を戻した。

 

 

 

~~

 

 

 

練習が終わって、モエがテントに戻ってきた。

 

汗を拭きながら、タオルを首にかけて、俺の隣のパイプ椅子にどさりと腰を下ろす。

センサーを一つずつ剥がしながら、面倒くさそうに鼻を鳴らしていた。

 

「……タキオンさんのセンサー、剥がす時ちょっと痛いんだけど。言っといてよ」

 

「言っておく」

 

「絶対言わないでしょ」

 

「……たぶん」

 

モエが「でしょうね」と呟いて、ペットボトルの水を一口飲んだ。

二月の冷えた空気の中で、湯気のように白い息が立ち上る。

 

タキオンは少し離れた場所で機材の片付けをしている。ちょうどいい。先に俺から切り出す。

 

「モエ」

 

「ん」

 

「タキオンから、提案があった」

 

モエがペットボトルから口を離し、こちらを見た。

俺の声のトーンで、何か重い話だと察したのだろう。目の奥に警戒の色がちらつく。

 

「……なに。また変なサプリ飲まされるとか?」

 

「違う。レースの話だ」

 

「レース」

 

「フェブラリーステークス。来月。ダート1600メートルのGⅠ」

 

モエの手が止まった。

ペットボトルを握ったまま、数秒間、俺の顔をじっと見つめている。

 

「……ダート?」

 

「ああ」

 

「1600メートル?」

 

「ああ」

 

「……GⅠ?」

 

「ああ」

 

三回確認された。

モエはゆっくりとペットボトルをベンチに置き、両手を膝の上で組んだ。

 

「……なんで」

 

「タキオンの見解では、お前の体はリビルドの結果、1600メートルに対応できるようになっている。それを実戦で証明するのに、フェブラリーSが最適だと」

 

「芝じゃなくて?」

 

「芝の1600メートルには、お前にとって重い因縁がある。ダートなら、純粋に体のテストになる。……というのがタキオンの理屈だ」

 

モエは黙っている。

膝の上で組んだ指が、微かに動いている。考えている時の癖だ。

 

「……トレーナーは、どう思ってるの」

 

来た。

この質問が来ることは分かっていた。

 

俺がどう思っているか。

正直に言えば、まだ答えが出ていない。

 

「……迷っている」

 

嘘はつかない。モエの前では、いつもそうしてきた。

 

「タキオンの理屈は筋が通っている。データ上、お前の体が1600メートルに対応しているのは事実だろう。ダートなら芝のしがらみも少ない。ノーマークで走れる可能性がある」

 

「でも?」

 

「GⅠだ。阪神カップはGⅡだった。あの時ですら、ゴール後にお前の体温は急激に下がった。GⅠの熱量の中で何が起きるか、俺にも予測がつかない」

 

モエは俺の目を見つめたまま、ゆっくりと瞬きをした。

 

「……あの感覚が、また来るかもしれない、ってこと?」

 

あの感覚。

阪神カップの第三コーナーから始まった、あれ。

体が勝手に動き出し、傲慢な高揚に飲み込まれ、ゴール後にストンと体温が落ちた、あの現象。

 

「可能性はある。GⅠの方が熱量は高い。来る確率は上がるだろう」

 

「……」

 

「だから迷っている。お前を守るのが俺の仕事だ。だが、お前の可能性を閉じ込めるのは俺の仕事じゃない」

 

沈黙が落ちた。

二月の風が、テントの布地をばたばたと揺らしている。

遠くで、別の練習グループの足音がリズムを刻んでいる。

 

モエが、ぽつりと言った。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

「ん」

 

「私さ、今まで検査のつもりで走ってきたでしょ。体がどうなるか知りたいから、って」

 

「ああ」

 

「でも、阪神カップの後から、ちょっと変わったの。検査のつもりだったのに、レースの最中に、体が勝手に動いて……心まで持ってかれて。あの後、すっごく怖かった」

 

知っている。

帰りの車の中で、丸くなって震えていた彼女の姿を、俺は忘れていない。

 

「でも、怖いだけじゃなかったの」

 

モエの声が、ほんの少しだけ変わった。

いつもの気怠さが消えて、言葉を一つずつ確かめるような慎重さが混じっている。

 

「あの走りの最中、私の中から出てきたもの。あれが何なのか、まだ分かんない。体が勝手に作ったものなのか、私自身のものなのか。……でも、分かんないままでいるのが、最近ちょっとだけ、嫌になってきた」

 

「……」

 

「知りたい」と言おうとしている自分がいる。

でも、本当にそうだろうか。

 

知りたいんじゃなくて、もう一度あの感覚を味わいたいだけなんじゃないの。

阪神カップの直線で、体の主導権を奪われて、全部を持っていかれた、あの数秒間。

怖かった。怖かったはずなのに、体が覚えている。あの熱を。

 

……中毒みたいだ。

一回味わったら、体が次を求めてる。

私の意志とは関係なく。

 

だから「知りたい」は嘘じゃない。でも、全部でもない。

本当のことを言えば、もう一度あの熱の中に飛び込みたい自分がいる。

それを「知りたい」という言葉で包んでいるだけかもしれない。

 

……でも、それでもいい。

動機が不純でも、嘘混じりでも。

このまま何も分からないまま蓋をして生きていくよりは。

 

「GⅢじゃ来ない。GⅡなら来る。じゃあGⅠは? ダートは? 1600メートルは? ……条件を変えたら、あの感覚はどう変わるの? 私の体は、何に反応して、何に反応しないの?」

 

モエは膝の上の手を解いて、自分の右脚に触れた。

走った後の筋肉の余熱が残る、細い脚。

 

「知りたい。……怖いけど、知りたい。このまま分かんないまま走り続ける方が、もっと怖い」

 

その目に、決意があった。

検査のための消極的な覚悟ではない。

「自分を知りたい」という、能動的な欲求。

 

小さな変化だ。

でも、確実に、何かが変わり始めている。

 

「……走りたいから、じゃないよ。まだそこまでは行ってない」

 

モエは自嘲気味に付け足した。先回りして防御線を張るのは、この子の癖だ。

 

「ただ、知りたい。私の体がどこまで行けるのか。……それを知るのに、トレーナーが迷ってるなら、私が決めるよ」

 

俺はモエの目を見た。

 

琥珀色の瞳。カレンチャン譲りの、あの色。

でも、そこに宿っている光は、カレンチャンのそれとは全く違う。

あの人の瞳は常に輝いていた。世界を支配する側の自信に満ちた光。

モエの瞳は違う。暗闇の中で、自分の手元だけを照らそうとする、小さな、でも確かな光。

 

「……お前が決めるのか」

 

「うん。だって私の体でしょ。私のレースでしょ。トレーナーが迷うなら、私が引っ張る」

 

そう言って、モエはほんの少しだけ、いたずらっぽく笑った。

野良猫モードの笑み。甘えと挑発が半分ずつ混じった、絢原限定の顔。

 

「……それに、ダートなら注目されないんでしょ? 芝のGⅠみたいに大騒ぎにならないなら、それはそれでありがたいし」

 

「……ダートのGⅠも十分大騒ぎになるが」

 

「あ、そう。……まあ、いいや。もう慣れたし」

 

慣れた、か。

オープン特別の時はあれだけ気まずがっていたのに。

半年レースを重ねて、少なくとも「注目される自分」への耐性は、少しだけ上がったらしい。

 

俺は立ち上がり、テントの支柱に手をかけた。

 

「……タキオン」

 

離れた場所で機材を片付けていたタキオンが、顔を上げる。

 

「フェブラリーステークス、出走登録を出す。出走登録の手続きは俺の方で済ませておこう」

 

タキオンが、薄く笑った。

予想通りの回答だった、という顔。

 

「了解したよ。……ああ、それと」

 

タキオンが指を一本立てた。

 

「GⅠには出走会見がある。フェブラリーSはダートの頂上決戦だ。芝の短距離ウマ娘が殴り込んでくるとなれば、ダート勢は面白くないだろうね」

 

「……分かっている」

 

「分かっているなら結構。彼女のメンタルケアは君の仕事だ。私は体のデータだけを見る」

 

相変わらずの分業体制。

タキオンは体を見る。俺は心を見る。

この半年間、そうやって二人でモエの検査を支えてきた。

 

モエがベンチから立ち上がり、伸びをした。

冬の午後の日差しが、芦毛の髪を淡く照らしている。

 

「……ダートかあ。走ったことないんだけど」

 

「練習する時間はある。タキオンがダート用のメニューを組む」

 

「砂まみれになるのかな。体操服、汚れそう」

 

「洗えばいい」

 

「トレーナーが洗ってくれるの?」

 

「自分で洗え」

 

「えー、つめたーい」

 

間延びした声で不満を言いながら、モエはテントの外に出た。

練習場の向こうに広がる冬空を見上げて、小さく呟く。

 

「……ダートの1600メートルかあ。GⅠかあ。エスポワールシチーとか、トランセンドとかいるんでしょ。めちゃくちゃ強いダートの王様たちが」

 

「ああ。お前のことは歯牙にもかけないだろうな」

 

「あはは。それ、なんかちょっとだけ気楽かも」

 

モエは振り返って、俺に笑いかけた。

 

「だって、期待されてないなら、裏切りようもないでしょ」

 

その言葉の裏に、オークスからずっと彼女が背負ってきたものの重さが透けていた。

カレンチャンの娘。復帰のヒロイン。あの壮絶なオークスの後に帰ってきた天才少女。

世間が勝手に作り上げた物語の重圧。

期待されることの息苦しさ。

 

ダートなら、誰も「カレンチャンの娘」を求めない。

誰も「復帰のドラマ」を期待しない。

ただの場違いな芝のウマ娘として、静かに走れるかもしれない。

 

……そう上手くいくかは、分からないが。

 

「出走登録、頼んだよ。トレーナー」

 

「ああ」

 

モエは手をひらひらと振って、寮への道を歩き始めた。

その足取りは軽い。少なくとも、阪神カップの後よりは。

 

俺はテントの下に残り、タブレットの画面を見下ろした。

タキオンが残していったデータが、グラフの波形となって並んでいる。

1400メートルの出力曲線。心拍数の推移。筋出力のピークポイント。

 

このデータが正しいなら、モエの体は1600メートルを走れる。

タキオンのリビルドは成功している。

 

だが、データが教えてくれないことがある。

 

ダートのGⅠで、モエの心に何が起きるか。

エスポワールシチーやトランセンドの本気の熱量を浴びた時、あの体がどう反応するか。

阪神カップで噴き出した傲慢な衝動が、より大きな舞台で、より激しい形で現れるのか。

 

それとも。

 

ダートという未知の環境が、何か別のものを引き出すのか。

 

……分からない。

分からないが、モエは「知りたい」と言った。

怖いけど知りたい、と。

 

ならば、俺の仕事は一つだ。

 

知るための場所を用意すること。

そして、何が起きても、隣にいること。

 

タブレットの電源を落として、テントを畳んだ。

 

二月の空は高く、乾いた風が頬を撫でていく。

フェブラリーステークスまで、あと三週間。




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