二月の第三練習場は、冬枯れの芝と乾いた空気に包まれている。
タキオンが指定した合同トレーニングの日。
俺は練習場の脇に設けられた簡易テントの下で、タブレットに表示されたデータを睨んでいた。
モエはコースの向こう側で、タキオンが組んだメニューをこなしている。
今日は1400メートルの距離走を二本。間にインターバルを挟んで、心拍数と筋出力のデータを同時に取る。タキオンが持ち込んだ小型センサーが、モエの体中に貼り付けられていた。
「やっぱり面白い体だね、彼女は」
タキオンが、モニターの前で顎に手を当てて呟く。
その目はモエを見ているようで、実際にはデータの波形しか見ていない。この人にとってモエは研究対象であり、その境界線を俺は常に意識している。
「何が見えた」
「リビルドの進行具合だよ。オークスで一度壊して組み直した筋肉の再構築が、想定以上に順調に進んでいる」
タキオンがモニターを指差す。
俺にはグラフの細かい意味は分からないが、タキオンの声に満足の色が混じっていることは聞き取れた。
「簡単に言おうか。彼女の体は、もう1200メートル専用じゃない」
「……どういう意味だ」
「スクラップ・アンド・ビルドの設計図には、もともと守備範囲の拡張を組み込んであった。1200メートルのスプリンターを壊して、1600メートルまで対応できる体に再構築する。それがリビルドの本来の目的だ」
俺は、タブレットから目を上げてタキオンを見た。
「……それを、今まで黙っていたのか」
「言う必要がなかったからね。データが揃うまでは仮説にすぎない。仮説の段階で騒ぎ立てるのは科学者の仕事じゃない」
悪びれもしない。タキオンはいつもそうだ。
必要な情報を、必要なタイミングで、必要な相手に渡す。それ以上のサービスはしない。
「で、今日のデータで確信が持てたということか」
「ああ。1400メートルのタイムと筋出力のバランスを見る限り、彼女は1600メートルを走れる。走れるだけじゃない。GⅠの水準で勝負できるだけの出力が出ている」
タキオンは椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。
「そこで、一つ提案がある」
「……聞こう」
「フェブラリーステークス。ダート1600メートル、GⅠ。来月だ」
俺は、一瞬言葉を失った。
フェブラリーステークス。
日本のダートGⅠ。距離は1600メートル。
芝ではなく、ダート。
しかも、GⅠ。
「……正気か」
「正気だとも。むしろ、これ以上の検証の場はないと思っている」
タキオンがモニターから視線を外し、俺の方を向いた。研究者の目。面白いものを見つけた時の、あの光。
「考えてみたまえ。彼女の体が1600メートルに対応しているか否かを確かめたい。だが芝の1600メートルに出せば、マイルCSの亡霊が絡んでくる。スカーレットくんとウオッカくんの因縁。桜花賞の未決着。彼女自身の心理的な重荷。データが汚染される」
「……それで、ダート」
「そう。ダートなら純粋な能力テストになる。芝の1600メートルとは全く別の条件。心理的なノイズが最小限で済む。そして何より――」
タキオンは口角を上げた。
「ダート勢は、彼女をノーマークにする。芝のスプリンターがダートのGⅠに出てきたところで、脅威とは見なさない。それは彼女にとって都合がいい。注目されずに走れる」
理屈は通っている。
嫌になるほど、通っている。
だが、俺の中には別の声がある。
「……タキオン。一つ聞きたい」
「なんだい」
「これは、モエのための提案か。それとも、お前のリビルドの成果を証明するための実験か」
タキオンの表情が、ほんの一瞬だけ固まった。
それからゆっくりと、苦笑に似た表情を浮かべる。
「……両方だよ。隠すつもりはない。私は科学者だ。自分の設計が正しかったことを確かめたい。それは事実だ」
「……」
「だが、それとは別に、彼女にはこのデータが必要だと思っている。自分の体が何を出来るのかを知ること。それは、彼女が今一番必要としていることだろう?」
否定できなかった。
モエは今、自分の体を理解できないまま走っている。GⅢでは動かず、GⅡでは動く。その法則すら掴めず、検査のためだけにレースに出続けている。
もし、ダートの1600メートルを走ることで「自分の体は1600メートルに対応している」と分かれば、それはモエにとって一つの手がかりになる。
だが。
GⅠだ。
阪神カップのGⅡですら、あの異常な走りが起きた。ゴール後の体温低下。顔色が白くなったモエ。震える手。
GⅠの舞台で、何が起きるか分からない。
「……少し、考えさせてくれ」
「もちろん。ただ、出走登録の締切は来週だ。それまでには結論を出してほしい」
タキオンはそれだけ言って、モニターに視線を戻した。
~~
練習が終わって、モエがテントに戻ってきた。
汗を拭きながら、タオルを首にかけて、俺の隣のパイプ椅子にどさりと腰を下ろす。
センサーを一つずつ剥がしながら、面倒くさそうに鼻を鳴らしていた。
「……タキオンさんのセンサー、剥がす時ちょっと痛いんだけど。言っといてよ」
「言っておく」
「絶対言わないでしょ」
「……たぶん」
モエが「でしょうね」と呟いて、ペットボトルの水を一口飲んだ。
二月の冷えた空気の中で、湯気のように白い息が立ち上る。
タキオンは少し離れた場所で機材の片付けをしている。ちょうどいい。先に俺から切り出す。
「モエ」
「ん」
「タキオンから、提案があった」
モエがペットボトルから口を離し、こちらを見た。
俺の声のトーンで、何か重い話だと察したのだろう。目の奥に警戒の色がちらつく。
「……なに。また変なサプリ飲まされるとか?」
「違う。レースの話だ」
「レース」
「フェブラリーステークス。来月。ダート1600メートルのGⅠ」
モエの手が止まった。
ペットボトルを握ったまま、数秒間、俺の顔をじっと見つめている。
「……ダート?」
「ああ」
「1600メートル?」
「ああ」
「……GⅠ?」
「ああ」
三回確認された。
モエはゆっくりとペットボトルをベンチに置き、両手を膝の上で組んだ。
「……なんで」
「タキオンの見解では、お前の体はリビルドの結果、1600メートルに対応できるようになっている。それを実戦で証明するのに、フェブラリーSが最適だと」
「芝じゃなくて?」
「芝の1600メートルには、お前にとって重い因縁がある。ダートなら、純粋に体のテストになる。……というのがタキオンの理屈だ」
モエは黙っている。
膝の上で組んだ指が、微かに動いている。考えている時の癖だ。
「……トレーナーは、どう思ってるの」
来た。
この質問が来ることは分かっていた。
俺がどう思っているか。
正直に言えば、まだ答えが出ていない。
「……迷っている」
嘘はつかない。モエの前では、いつもそうしてきた。
「タキオンの理屈は筋が通っている。データ上、お前の体が1600メートルに対応しているのは事実だろう。ダートなら芝のしがらみも少ない。ノーマークで走れる可能性がある」
「でも?」
「GⅠだ。阪神カップはGⅡだった。あの時ですら、ゴール後にお前の体温は急激に下がった。GⅠの熱量の中で何が起きるか、俺にも予測がつかない」
モエは俺の目を見つめたまま、ゆっくりと瞬きをした。
「……あの感覚が、また来るかもしれない、ってこと?」
あの感覚。
阪神カップの第三コーナーから始まった、あれ。
体が勝手に動き出し、傲慢な高揚に飲み込まれ、ゴール後にストンと体温が落ちた、あの現象。
「可能性はある。GⅠの方が熱量は高い。来る確率は上がるだろう」
「……」
「だから迷っている。お前を守るのが俺の仕事だ。だが、お前の可能性を閉じ込めるのは俺の仕事じゃない」
沈黙が落ちた。
二月の風が、テントの布地をばたばたと揺らしている。
遠くで、別の練習グループの足音がリズムを刻んでいる。
モエが、ぽつりと言った。
「……ねえ、トレーナー」
「ん」
「私さ、今まで検査のつもりで走ってきたでしょ。体がどうなるか知りたいから、って」
「ああ」
「でも、阪神カップの後から、ちょっと変わったの。検査のつもりだったのに、レースの最中に、体が勝手に動いて……心まで持ってかれて。あの後、すっごく怖かった」
知っている。
帰りの車の中で、丸くなって震えていた彼女の姿を、俺は忘れていない。
「でも、怖いだけじゃなかったの」
モエの声が、ほんの少しだけ変わった。
いつもの気怠さが消えて、言葉を一つずつ確かめるような慎重さが混じっている。
「あの走りの最中、私の中から出てきたもの。あれが何なのか、まだ分かんない。体が勝手に作ったものなのか、私自身のものなのか。……でも、分かんないままでいるのが、最近ちょっとだけ、嫌になってきた」
「……」
「知りたい」と言おうとしている自分がいる。
でも、本当にそうだろうか。
知りたいんじゃなくて、もう一度あの感覚を味わいたいだけなんじゃないの。
阪神カップの直線で、体の主導権を奪われて、全部を持っていかれた、あの数秒間。
怖かった。怖かったはずなのに、体が覚えている。あの熱を。
……中毒みたいだ。
一回味わったら、体が次を求めてる。
私の意志とは関係なく。
だから「知りたい」は嘘じゃない。でも、全部でもない。
本当のことを言えば、もう一度あの熱の中に飛び込みたい自分がいる。
それを「知りたい」という言葉で包んでいるだけかもしれない。
……でも、それでもいい。
動機が不純でも、嘘混じりでも。
このまま何も分からないまま蓋をして生きていくよりは。
「GⅢじゃ来ない。GⅡなら来る。じゃあGⅠは? ダートは? 1600メートルは? ……条件を変えたら、あの感覚はどう変わるの? 私の体は、何に反応して、何に反応しないの?」
モエは膝の上の手を解いて、自分の右脚に触れた。
走った後の筋肉の余熱が残る、細い脚。
「知りたい。……怖いけど、知りたい。このまま分かんないまま走り続ける方が、もっと怖い」
その目に、決意があった。
検査のための消極的な覚悟ではない。
「自分を知りたい」という、能動的な欲求。
小さな変化だ。
でも、確実に、何かが変わり始めている。
「……走りたいから、じゃないよ。まだそこまでは行ってない」
モエは自嘲気味に付け足した。先回りして防御線を張るのは、この子の癖だ。
「ただ、知りたい。私の体がどこまで行けるのか。……それを知るのに、トレーナーが迷ってるなら、私が決めるよ」
俺はモエの目を見た。
琥珀色の瞳。カレンチャン譲りの、あの色。
でも、そこに宿っている光は、カレンチャンのそれとは全く違う。
あの人の瞳は常に輝いていた。世界を支配する側の自信に満ちた光。
モエの瞳は違う。暗闇の中で、自分の手元だけを照らそうとする、小さな、でも確かな光。
「……お前が決めるのか」
「うん。だって私の体でしょ。私のレースでしょ。トレーナーが迷うなら、私が引っ張る」
そう言って、モエはほんの少しだけ、いたずらっぽく笑った。
野良猫モードの笑み。甘えと挑発が半分ずつ混じった、絢原限定の顔。
「……それに、ダートなら注目されないんでしょ? 芝のGⅠみたいに大騒ぎにならないなら、それはそれでありがたいし」
「……ダートのGⅠも十分大騒ぎになるが」
「あ、そう。……まあ、いいや。もう慣れたし」
慣れた、か。
オープン特別の時はあれだけ気まずがっていたのに。
半年レースを重ねて、少なくとも「注目される自分」への耐性は、少しだけ上がったらしい。
俺は立ち上がり、テントの支柱に手をかけた。
「……タキオン」
離れた場所で機材を片付けていたタキオンが、顔を上げる。
「フェブラリーステークス、出走登録を出す。出走登録の手続きは俺の方で済ませておこう」
タキオンが、薄く笑った。
予想通りの回答だった、という顔。
「了解したよ。……ああ、それと」
タキオンが指を一本立てた。
「GⅠには出走会見がある。フェブラリーSはダートの頂上決戦だ。芝の短距離ウマ娘が殴り込んでくるとなれば、ダート勢は面白くないだろうね」
「……分かっている」
「分かっているなら結構。彼女のメンタルケアは君の仕事だ。私は体のデータだけを見る」
相変わらずの分業体制。
タキオンは体を見る。俺は心を見る。
この半年間、そうやって二人でモエの検査を支えてきた。
モエがベンチから立ち上がり、伸びをした。
冬の午後の日差しが、芦毛の髪を淡く照らしている。
「……ダートかあ。走ったことないんだけど」
「練習する時間はある。タキオンがダート用のメニューを組む」
「砂まみれになるのかな。体操服、汚れそう」
「洗えばいい」
「トレーナーが洗ってくれるの?」
「自分で洗え」
「えー、つめたーい」
間延びした声で不満を言いながら、モエはテントの外に出た。
練習場の向こうに広がる冬空を見上げて、小さく呟く。
「……ダートの1600メートルかあ。GⅠかあ。エスポワールシチーとか、トランセンドとかいるんでしょ。めちゃくちゃ強いダートの王様たちが」
「ああ。お前のことは歯牙にもかけないだろうな」
「あはは。それ、なんかちょっとだけ気楽かも」
モエは振り返って、俺に笑いかけた。
「だって、期待されてないなら、裏切りようもないでしょ」
その言葉の裏に、オークスからずっと彼女が背負ってきたものの重さが透けていた。
カレンチャンの娘。復帰のヒロイン。あの壮絶なオークスの後に帰ってきた天才少女。
世間が勝手に作り上げた物語の重圧。
期待されることの息苦しさ。
ダートなら、誰も「カレンチャンの娘」を求めない。
誰も「復帰のドラマ」を期待しない。
ただの場違いな芝のウマ娘として、静かに走れるかもしれない。
……そう上手くいくかは、分からないが。
「出走登録、頼んだよ。トレーナー」
「ああ」
モエは手をひらひらと振って、寮への道を歩き始めた。
その足取りは軽い。少なくとも、阪神カップの後よりは。
俺はテントの下に残り、タブレットの画面を見下ろした。
タキオンが残していったデータが、グラフの波形となって並んでいる。
1400メートルの出力曲線。心拍数の推移。筋出力のピークポイント。
このデータが正しいなら、モエの体は1600メートルを走れる。
タキオンのリビルドは成功している。
だが、データが教えてくれないことがある。
ダートのGⅠで、モエの心に何が起きるか。
エスポワールシチーやトランセンドの本気の熱量を浴びた時、あの体がどう反応するか。
阪神カップで噴き出した傲慢な衝動が、より大きな舞台で、より激しい形で現れるのか。
それとも。
ダートという未知の環境が、何か別のものを引き出すのか。
……分からない。
分からないが、モエは「知りたい」と言った。
怖いけど知りたい、と。
ならば、俺の仕事は一つだ。
知るための場所を用意すること。
そして、何が起きても、隣にいること。
タブレットの電源を落として、テントを畳んだ。
二月の空は高く、乾いた風が頬を撫でていく。
フェブラリーステークスまで、あと三週間。
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