アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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会見の日にちをフェブラリーステークスの数日前に変更しました。


56話 砂の舞台へ

フェブラリーステークス、出走会見。

 

会見場の控室。

パイプ椅子に座って、出番を待っている。

 

絢原さんが横に立って、手元の書類を確認している。会見の段取り。想定質問。回答のガイドライン。

その横顔を、なんとなく眺めてしまった。

 

「……なに」

 

気づかれた。

 

「別に。トレーナーのネクタイ、曲がってる」

 

嘘。曲がってない。

でも、手を伸ばして、ネクタイの結び目に触れた。

きゅ、と直すふりをして、少しだけ引っ張る。

 

「……曲がってないだろ」

 

「うん。知ってる」

 

絢原さんが微かに眉を寄せた。

でも、手を払いのけない。この人はいつもそう。私の小さな侵入を、黙って受け入れる。

 

その隙に、もう少しだけ引っ張って、距離を詰める。

 

「……緊張してるのか?」

 

「してない。……ちょっとだけ、トレーナーに触りたかっただけ」

 

言ってから、自分でもちょっと驚いた。

以前の私なら、こういうのは計算の上でやっていた。病室で絢原さんを繋ぎ止めるための、甘い毒。

でも今のこれは、計算じゃない。

なんか、触りたかったから触った。それだけ。

 

絢原さんが小さく息を吐いた。呆れとも諦めともつかない、いつもの吐息。

 

「……行くぞ。もう呼ばれる」

 

「はーい」

 

手を離す。ネクタイは、ほんの少しだけ緩んだまま。

……直さないんだ。ふうん。

 

GⅠの前には出走会見がある。

桜花賞の時も、オークスの前も、この席には座った。

でも、ダートのGⅠの会見に座ることになるとは、さすがに思ってなかった。

 

会見場は、レース場の中にあるプレスルーム。

長いテーブルに、出走者が横一列に並ぶ。

 

私の席は端っこ。

……なのだが、最初に渡された席順表では、もっと真ん中寄りだった。

 

「カレンモエさんのお席はこちらです」って案内されて、見たら真ん中から二番目くらいの位置。周りは全員ダートの王者。

 

いや、おかしいでしょ。

 

絢原さんと顔を見合わせた。絢原さんも同じことを思ったらしい。

 

「……端にしてもらえますか」

 

「えっ、よろしいんですか? 注目度的にはこちらの方が——」

 

「端で」

 

スタッフさんが困惑しながら席を変えてくれた。

注目度で席を寄せてくれたのかもしれないけど、こっちは芝から来た部外者だ。ダートを何年も走ってきたウマ娘たちの真ん中に座る資格なんてない。

 

端っこの方が気楽でいいし。

桜花賞の時は真ん中あたりに座らされて、左右からマイク突きつけられて窒息しそうだったし。

 

テーブルの中央寄りの席には、ダートの王者たちが並んでいる。

エスポワールシチーさん。トランセンドさん。ワンダーアキュートさん。

この路線の頂点に立ってきたウマ娘たちが、ずらりと。

 

……濃い。

桜花賞の会見は華やかで煌びやかだった。ここは、もっと剥き出し。

 

端に逃げたのに、報道陣の視線はしっかりこちらを追ってくる。カメラのフラッシュが光る。

そりゃそうだ。真ん中に案内されるくらいには注目されてるんだから、端に座ったところで同じこと。

 

「オークスのカレンモエがダートGⅠに参戦」——記者にとっては美味しすぎる見出し。

端に座ろうが真ん中に座ろうが、食いつかれるのは変わらない。

 

タキオンさんの「ノーマークで走れる」は、出走登録の段階では正しかったのかもしれない。でも出走会見ともなれば話が別だった。

絢原さんが後ろで小さくため息をついてる。分かってたんだろう、こうなるって。

 

会見が始まる。

一人ずつ、意気込みを語っていく。

 

ダート勢の面々は、みんな言葉が重い。

この距離で、この路線で、何年も戦ってきたウマ娘たちの声には、芝のGⅠとはまた違う、泥臭い誇りが詰まっている。

 

次にマイクを向けられたのは、テーブル中央のウマ娘。

 

「あらあら、ようやく始まるねぇ」

 

穏やかな声。まるで縁側でお茶を啜っているような、のんびりした口調。

ワンダーアキュートさん。ダート路線のベテラン。

小柄な体に老成した雰囲気を纏った、不思議なウマ娘。周囲のダート勢が剣呑な空気を漂わせている中で、この人だけが別の時間軸にいるみたいに穏やかだ。

 

「フェブラリーS、楽しみじゃあ。いい相手がたくさん揃ったねぇ」

 

記者から「今回のメンバーについてどう思いますか」と聞かれて、にこにこしている。

 

「まあまあ、みんな強いからねぇ。エスポンもトラちゃんも元気いっぱいで、見てるだけで嬉しくなっちゃうよぉ」

 

後輩を語るおばあちゃんみたいな口調。でも、記者たちは誰も油断していない。

このウマ娘が本気を出した時の底力を、ダート界の人間は全員知っている。

 

「あ、そうそう。芝から来てくれた子もいるんでしょう?」

 

アキュートさんがこちらを見た。テーブルの端まで距離がある。

でも、その垂れ目の奥に宿る光は、穏やかなのに深い。

 

「嬉しいねぇ。新しいお客さんが来てくれるのは、いつだって嬉しいもんじゃ」

 

歓迎されている……のか?

エスポワールシチーさんやトランセンドさんとは違う温度。

この人は、怒りもなく、値踏みもなく、ただ純粋に「来てくれた」ことを喜んでいるように見えた。

 

でも、次の言葉で空気が変わった。

 

「ただ、砂の上は優しくないよぉ。たぁんと覚悟しておいでねぇ」

 

にこにこしたまま、さらりと。

それは脅しではなく、年長者からの純粋な忠告。

だからこそ、スカウトたちの無遠慮な称賛よりも、ずっと重く響いた。

 

続いて、テーブルの中央付近で、小さな体がマイクに向かって前のめりになった。

エスポワールシチーさん。ダート路線の番長。身長は私より低い。でも存在感が段違いに重い。

赤いジャケットに派手なアイシャドウ、耳に並んだ複数のピアス。見た目は派手なのに、目つきだけが研ぎ澄まされている。

 

「今回のフェブラリーS、あーしが勝つ。それだけ。質問ある?」

 

短い。潔い。記者たちが苦笑する。

でも次の瞬間、エスポワールシチーさんは不意にこちらを見た。

テーブルの端まで、視線がまっすぐ飛んでくる。

 

「……あ、一個だけ言っとくことあったわ」

 

マイクを引き寄せる。

 

「芝から来た子がいるみたいだけどさ。ダートなめんなよ、って言っとく」

 

会見場が、しん、と静まった。

 

「あーしらはこの砂の上で血ヘド吐いて走ってきたんだ。話題作りのつもりか知んねーけど、中途半端な気持ちで来てんなら、ピヨッピヨにしてやるからな」

 

真っ直ぐ、こちらを見ている。

小さな体から放たれる圧が、テーブルの端まで、まっすぐ届いてくる。

 

悪意じゃない。怒りでもない。

これは、プライドだ。

自分たちの戦場を軽んじられることへの、正当な怒り。

 

桜花賞の会見で、スカーレットが記者たちに噛みついた時のことを思い出す。

あの時のスカーレットも、こういう目をしていた。自分の場所を、自分の走りを、守ろうとする目。

 

……嫌いじゃない、こういうの。

真っ直ぐ噛みつかれるのは、裏でひそひそ値踏みされるより、よっぽど清々しい。

 

何か返さなきゃ。

「検査のために来ました」なんて言えるわけがない。この人たちの舞台を、検査の場にしている自覚はある。

 

口を開こうとした時、別のマイクが音を拾った。

 

「まあまあ、エスポん。そう尖んなくてもいーじゃ~ん」

 

エスポワールシチーさんの二つ隣から、脱力した声。

トランセンドさん。伊達メガネの奥で、にやにやと笑っている。パーカーのフードを被ったまま会見に出席しているのは、このウマ娘くらいだろう。

 

「お客さんが来てくれたんだし、歓迎しよーぜい」

 

「テメェはいっつもそうやってフワフワしやがって……」

 

「いやいや、ウチはガチで歓迎してるよん。だってさ」

 

トランセンドさんが、メガネの奥からこちらを見た。

脱力した表情のまま、でも目だけが鋭い。

 

「カレンモエちゃんだっけ? あのオークスの大逃げの子。いやー、あの映像何回も見たよ。エグかったよね。前半1000、57秒2でしょ? ゾクゾクしたわ~」

 

褒めてるのか値踏みしてるのか分からない口調。

でも、「57秒2」という数字を正確に覚えているあたり、この人は見るべきものをちゃんと見ている。情報屋の目だ。

 

「でさ、そういう子がなんでダートに来たの? ぶっちゃけ、すっごい気になるんだよね~」

 

記者たちがざわつく。トランセンドさんの質問は、この場にいる全員が聞きたかったことだ。

 

「芝のGⅠでも暴れられるでしょ、キミの脚なら。なのにダート。しかもフェブラリーS。これ、何かあるっしょ? ウチの情報網でもこればっかりは掴めなかったんだよね~」

 

メガネを指で押し上げながら、トランセンドさんが首を傾げる。

 

「……もしかして、ウチらをナメてる? 芝のGⅠが怖いから、ダートなら楽勝だと思って来た、とか?」

 

軽い口調。でも、その奥にある問いかけは鋭い。

 

「それとも……」

 

トランセンドさんが、一瞬だけ真面目な目になった。メガネの奥の、素の目。

 

「何か、試しに来たのかな」

 

心臓が跳ねた。

見透かされてる。この人、軽いフリして全部見えてる。

 

会見場の視線が全部、私に集中している。

記者のペンが止まっている。カメラが固定されている。

桜花賞の会見でも、こうやって視線を浴びた。あの時は仮面で凌いだ。

 

……でも。

 

今日は仮面を貼る気が、あんまりしなかった。

なんでだろう。

この人たちの前で、アイドル顔を作ったら、むしろ負けた気がする。

 

マイクに手を伸ばした。指先が冷たい。

 

「……ダートをなめてるわけじゃないです」

 

声が出た。思ったより落ち着いてた。

作った声じゃない。自分の声だ。

 

「私は、自分の体が何をできるのか知りたくて来ました。芝の1200メートルで走ってきて、それだけじゃ分からないことがあったから」

 

エスポワールシチーさんが眉を寄せている。トランセンドさんがメガネの奥で目を細めている。アキュートさんは変わらずにこにこしているが、その垂れ目の奥の光が少しだけ鋭くなった気がする。

 

「ダートの1600メートルは、私にとって未知の場所です。皆さんの戦場に土足で踏み込むみたいで……正直、申し訳ないとも思ってます」

 

「……ッ」

 

エスポワールシチーさんの表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。

「なめてるのか」と問いただそうとしていたのに、先に頭を下げられた。予想外だったんだろう。

 

「でも、ここに来ると決めたからには、手は抜きません。皆さんの全力に、私の全力でぶつかります」

 

言い切った。

 

全力、なんて言い切っていいのか、自分でも分からない。

私の「全力」がどこにあるのか、今の私には見えない。

 

でも、言い切りたかった。

この人たちの前で、言い訳混じりの曖昧な答えを返す自分でいたくなかった。

……いつからだろう、こういう見栄の張り方をするようになったの。

 

「……よろしくお願いします」

 

頭を下げた。

 

沈黙。

それから、エスポワールシチーさんが鼻を鳴らした。

 

「……ふん。言うじゃねーか」

 

顎を上げて、見下ろすように――いや、身長的には見上げてるんだけど、気迫的には完全に見下ろしている。

 

「まあいい。あーしはテメェが何しに来たかなんて興味ねーし。ダートに立つ以上、手加減なんかしねーからな。ピヨッピヨにしてやるのは変わんねーし」

 

口元がほんの少し緩んでいる。怒りは残っているけど、さっきとは質が違う。「こいつ、逃げなかったな」という、微かな認識の変化。

 

「いーね~、ゾクゾクしてきた」

 

トランセンドさんがメガネを押し上げて、にやりと笑った。

 

「予測不能な展開、大好物なんだよね~。乞うご期待、ってね」

 

「ふふ、楽しくなってきたねぇ」

 

アキュートさんが、テーブルの向こうから穏やかに微笑んだ。

 

「あの子、いい目をしてるよぉ。逃げない子は、砂の上でも強いもんじゃ」

 

誰に言うでもなく、ぽつりと。

その一言が、記者たちのペンを走らせた。

ダート界の古株がルーキーを認めた、というニュアンスで記事にされるんだろう。

 

……認められたわけじゃないと思うけど。

でも、ちょっとだけ、嬉しかった。

桜花賞の会見で記者に囲まれた時には感じなかった種類の嬉しさ。

仮面じゃなくて、自分の言葉で返して、それが受け取られた、という手応え。

 

会見は、そのまま終了した。

 

席を立つ時、絢原さんが横に来て、低い声で言った。

 

「……よくやった」

 

「……別に。嘘はついてないし」

 

「ああ。だから、よくやったと言っている」

 

絢原さんにそう言われると、少しだけ肩の力が抜ける。

この人は嘘を言わない。「よくやった」は本心だ。だから、安心できる。

 

 

 

~~

 

 

 

帰りの廊下。

 

記者たちが散り始めた通路を歩いていたら、前方に小さな背中があった。

エスポワールシチーさん。

 

すれ違おうとした時、向こうから声がかかった。

こちらを見もせずに、歩きながら、ぽつりと。

 

「……砂の上は、芝とは違うぞ。覚悟しとけ」

 

「……はい」

 

「前に砂被ったら目ぇ開けてらんねーからな。あーしの後ろにいたら、たっぷり浴びせてやるし」

 

「……じゃあ、後ろにいないようにしますね」

 

自分でも驚いた。今の、ちょっと生意気だった。

以前の私なら「それは困りますね」と苦笑いで返していたはずなのに。

 

エスポワールシチーさんが、ちらりとこちらを見た。

一瞬だけ。でも、その目に浮かんだのは怒りじゃなかった。

 

「……ふん。言ってろ」

 

それだけ言って、角を曲がって消えていった。

……忠告なのか宣戦布告なのか。たぶん、両方。

 

でも、嫌な感じはしなかった。

あの人は真っ直ぐだ。口は悪いけど、裏表がない。

「ダートをなめるな」という言葉の裏に、「なめてないなら、ちゃんと来い」が透けてる。

 

それに、なんだろう。

真正面からぶつかってくる相手に、真正面から返せた。

仮面を被らずに。営業スマイルを貼らずに。

 

……ちょっとだけ、気持ちよかった。

 

「やっほー、カレンモエちゃん」

 

背後から、ひょこっとトランセンドさんが現れた。

いつの間にいたんだ、この人。気配がなさすぎる。

 

「あ、びっくりした……」

 

「ごめんごめん。で、ちょっと聞いていい? オフレコで」

 

トランセンドさんがメガネを外した。

日常モードの軽さが消えて、素の目がこちらを見ている。

 

「キミ、会見で『自分の体が何をできるのか知りたい』って言ったじゃん。あれ、ガチ?」

 

「……ガチだよ」

 

「ふーん」

 

トランセンドさんが、指でシネマフレームを作って、私の顔を覗き込んだ。

 

「嘘じゃないね。目が泳いでない。ウチ、嘘見抜くの得意なんだよね~」

 

「……信じてくれるの?」

 

「信じるとか信じないとかじゃなくて、データとして確認しただけ。ウチはそーゆータイプ」

 

メガネをかけ直して、トランセンドさんは日常モードに戻った。

 

「まあ、理由がなんであれ、フェブラリーSに出る以上は全員敵っしょ。ウチも全力で行くからよろしくね~」

 

「……うん。よろしく」

 

「あ、あとさ」

 

振り返りかけたトランセンドさんが、もう一言。

 

「エスポんの砂被りはガチでヤバいから、マジで気をつけた方がいいよ。あの子の後ろ走ると、砂の壁が来るから。……ウチは一回それで目やられたし」

 

「……えっ、それアドバイスしてくれてるの?」

 

「敵に塩送ってどーすんだって? いやー、ウチはただ面白い展開が見たいだけだよん。キミが砂で潰れたら、つまんないじゃん?」

 

「……つまんない、ね」

 

なんだかおかしくて、ふっと笑ってしまった。

作った笑顔じゃない。トランセンドさんの「面白い展開が見たい」という動機が、あまりにも正直で。

 

「あ、今笑った。いーね、そっちの顔の方がいいよ。会見の時のカチコチより断然」

 

「……うるさいな」

 

「あはは。じゃーね~」

 

にやにやしながら、トランセンドさんはパーカーのフードを深く被り直して、廊下の向こうに消えていった。

 

……この人、敵なのに敵じゃないみたいな距離感で来る。

掴みどころがない。でも、不快じゃない。

 

一人になった――と思ったら、なっていなかった。

 

「はいこれ、どうぞぉ」

 

横から、タッパーが差し出された。

 

ワンダーアキュートさん。

いつの間に隣に立っていたのか。トランセンドさんとは別の意味で気配がない。

 

「……え?」

 

「大根の漬物。ぽりぽりさん、って呼んでるんじゃけど。緊張した時にはね、塩気のあるものを食べるといいんよ」

 

タッパーの蓋の隙間から、ほんのり酸っぱい香りが漂ってくる。

手作り、だ。出走会見に手作りの漬物を持ってくるウマ娘、初めて見た。

 

「あの、これ……」

 

「遠慮しなくていいよぉ。たぁんと食べなさい」

 

にこにこしている。おばあちゃんだ。完全におばあちゃんだ。

さっきまでの会見場の剣呑な空気が嘘みたいに、穏やかな時間が流れている。

 

以前の私だったら、こういう時、もうちょっと警戒してたと思う。

初対面の相手から食べ物を渡されて、「何か裏があるんじゃ」って。

でも今は、素直に受け取れる。この人の穏やかさに、裏がないって分かるから。

 

……いつからだろう。人の好意を、そのまま受け取れるようになったの。

 

「……ありがとうございます。いただきます」

 

一切れ齧った。

しっかり漬かっていて、塩気と酸味のバランスが絶妙。これは、上手い。

 

「美味しい……」

 

「ふふ、よかったねぇ」

 

アキュートさんは嬉しそうに目を細めた。

それから、少しだけ声のトーンを変えた。穏やかなまま、でも芯がある。

 

「あの子たちね、口は悪いけど、悪い子らじゃないんよ。エスポンもトラちゃんも、自分たちの場所を大事にしてるだけでねぇ」

 

「……分かってます」

 

「うん、分かってる子だと思ったよぉ」

 

アキュートさんは私の目をじっと見つめた。垂れ目の奥に、底知れない深さがある。

 

「砂の上はね、優しくないんじゃ。芝みたいに跳ね返してくれない。全部、吸い込まれていく。力も、気持ちも」

 

「……」

 

「じゃけど、それでも前に進む子を、砂は覚えとるよぉ」

 

不思議な言い方だった。

砂が覚えている。何を。

 

「……それ、どういう意味ですか」

 

「さあねぇ。走ったら分かるかもしれんよぉ」

 

にこにこ。はぐらかされた。

でも、不快じゃなかった。この人の言葉には、不思議な温もりがある。

 

「じゃあ、本番でね。頑張ろうねぇ」

 

アキュートさんは小さく手を振って、のんびりとした足取りで去っていった。

タッパーは、私の手に残されたまま。

 

……なんだろう、この人。

エスポワールシチーさんとも、トランセンドさんとも、全然違う。

怒りもないし、好奇心でもない。

ただ、「来た子を迎える」という、それだけの優しさ。

 

でも、あの目の奥にある深さ。

あれは、長い間砂の上で戦い続けてきたウマ娘だけが持つ、静かな凄み。

 

……濃い。

ダートの人たちは、濃い。

エスポワールシチーさんの不器用なプライド。トランセンドさんの底知れない好奇心。アキュートさんの穏やかな深み。

芝のGⅠとはまた違う熱量で迫ってくる。

 

この人たちと、3日後、砂の上で走るのか。

 

脚の奥が、微かに疼いた。

まだレースは始まってもいないのに。

 

「……トレーナー」

 

廊下の端で待っていた絢原さんが、振り返る。

 

「本番のこと、なんだけど」

 

「ああ」

 

「……私、あの人たちの前で『全力でぶつかる』って言っちゃった」

 

「聞いていた」

 

「全力が何なのか、自分でも分かんないのに」

 

「……ああ」

 

「でも」

 

私は、タッパーを見下ろした。

アキュートさんの漬物。ぽりぽりさん。

砂の上で何年も戦ってきたウマ娘が、初対面の芝の子に手渡してくれたもの。

 

「嘘にはしたくないの。あの人たちに言ったこと」

 

絢原さんは黙って頷いた。

それだけで十分だった。

 

駐車場に向かう。

並んで歩く。二月の夕暮れ。空が赤い。

 

ふと、絢原さんのネクタイが目に入った。

さっき控室で緩めたまま、まだ直っていない。

 

「……トレーナー。ネクタイ、まだ緩んでるよ」

 

「お前が緩めたんだろう」

 

「直してあげよっか?」

 

「自分で直せる」

 

「じゃあ直さないでいたら? そのまま帰って、明日もそのまま来てよ。私が緩めた印、つけたまま」

 

絢原さんが足を止めて、こちらを見た。

呆れた顔。でも、怒ってはいない。

 

「……何を言ってるんだ、お前は」

 

「ふふ。冗談」

 

冗談じゃないけど。半分くらいは本気。

この人に「私の痕跡」を残しておきたいって思うのは、前からある。病室の頃からずっと。

でも、あの頃は必死だった。繋ぎ止めなきゃ、逃さなきゃ、って。

今は……なんだろう。もうちょっと軽い。軽いけど、手は離さない。

 

歩き出す。

絢原さんは結局、ネクタイを直さなかった。

気づいてないのか、面倒なのか、それとも。

 

……まあ、どれでもいいや。直ってないのが、ちょっと嬉しい。

 

3日後、フェブラリーステークス。

ダート1600メートル。GⅠ。

 

GⅠだから、勝負服を着なきゃいけない。

 

あの勝負服。

漆黒の生地に銀色の装飾。カレンチャンの影を殺すために作った、戦闘服。

オークス以来、一度も袖を通していない。

復帰してからのレースは全部GⅡ以下だったから、用意された衣装で済んでいた。

何度かケースを開けかけて、そのたびにやめた。あの服を見ると、オークスの匂いがする気がして。

 

でも今度はGⅠ。逃げられない。

 

……作り直した方がいいのかな、と思ったことがある。

あの勝負服は「ママの影を殺す」ために作った。でも、ママの影はもうオークスで燃やし尽くした。

今の私があの服を着る意味が、分からない。

 

分からないけど。

 

今日、会見であの人たちの前に立って、自分の言葉で喋って、仮面を被らずに笑えた。

それが出来た私なら、あの服にもう一度袖を通すくらい、出来るんじゃないの。

 

……なんか、ちょっとだけ、変わってきてる気がする。私。

いつからかは分かんない。

でも、以前の私は、こんなふうに「出来るんじゃないの」なんて思わなかった。

 

エスポワールシチーさんに生意気に返せた自分。

トランセンドさんに素の顔で笑えた自分。

アキュートさんの漬物を素直に美味しいと言えた自分。

全部、仮面の裏にいた私じゃなくて、なんていうか……もうちょっと、図太くて、ちょっとだけ生意気な、素の私。

 

悪くない。

 

……悪くないと思えてる自分が、一番びっくりだけど。

 

エスポワールシチーさんの砂を浴びて、トランセンドさんの視線を背中に受けて、アキュートさんの穏やかな圧の中で。

その中で、私の体が何を見せるのか。

 

怖い。

でも、知りたい。

……ちょっとだけ、楽しみかもしれない。

 

その気持ちが、今の私を前に進ませている。

 

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