フェブラリーステークス、出走会見。
会見場の控室。
パイプ椅子に座って、出番を待っている。
絢原さんが横に立って、手元の書類を確認している。会見の段取り。想定質問。回答のガイドライン。
その横顔を、なんとなく眺めてしまった。
「……なに」
気づかれた。
「別に。トレーナーのネクタイ、曲がってる」
嘘。曲がってない。
でも、手を伸ばして、ネクタイの結び目に触れた。
きゅ、と直すふりをして、少しだけ引っ張る。
「……曲がってないだろ」
「うん。知ってる」
絢原さんが微かに眉を寄せた。
でも、手を払いのけない。この人はいつもそう。私の小さな侵入を、黙って受け入れる。
その隙に、もう少しだけ引っ張って、距離を詰める。
「……緊張してるのか?」
「してない。……ちょっとだけ、トレーナーに触りたかっただけ」
言ってから、自分でもちょっと驚いた。
以前の私なら、こういうのは計算の上でやっていた。病室で絢原さんを繋ぎ止めるための、甘い毒。
でも今のこれは、計算じゃない。
なんか、触りたかったから触った。それだけ。
絢原さんが小さく息を吐いた。呆れとも諦めともつかない、いつもの吐息。
「……行くぞ。もう呼ばれる」
「はーい」
手を離す。ネクタイは、ほんの少しだけ緩んだまま。
……直さないんだ。ふうん。
GⅠの前には出走会見がある。
桜花賞の時も、オークスの前も、この席には座った。
でも、ダートのGⅠの会見に座ることになるとは、さすがに思ってなかった。
会見場は、レース場の中にあるプレスルーム。
長いテーブルに、出走者が横一列に並ぶ。
私の席は端っこ。
……なのだが、最初に渡された席順表では、もっと真ん中寄りだった。
「カレンモエさんのお席はこちらです」って案内されて、見たら真ん中から二番目くらいの位置。周りは全員ダートの王者。
いや、おかしいでしょ。
絢原さんと顔を見合わせた。絢原さんも同じことを思ったらしい。
「……端にしてもらえますか」
「えっ、よろしいんですか? 注目度的にはこちらの方が——」
「端で」
スタッフさんが困惑しながら席を変えてくれた。
注目度で席を寄せてくれたのかもしれないけど、こっちは芝から来た部外者だ。ダートを何年も走ってきたウマ娘たちの真ん中に座る資格なんてない。
端っこの方が気楽でいいし。
桜花賞の時は真ん中あたりに座らされて、左右からマイク突きつけられて窒息しそうだったし。
テーブルの中央寄りの席には、ダートの王者たちが並んでいる。
エスポワールシチーさん。トランセンドさん。ワンダーアキュートさん。
この路線の頂点に立ってきたウマ娘たちが、ずらりと。
……濃い。
桜花賞の会見は華やかで煌びやかだった。ここは、もっと剥き出し。
端に逃げたのに、報道陣の視線はしっかりこちらを追ってくる。カメラのフラッシュが光る。
そりゃそうだ。真ん中に案内されるくらいには注目されてるんだから、端に座ったところで同じこと。
「オークスのカレンモエがダートGⅠに参戦」——記者にとっては美味しすぎる見出し。
端に座ろうが真ん中に座ろうが、食いつかれるのは変わらない。
タキオンさんの「ノーマークで走れる」は、出走登録の段階では正しかったのかもしれない。でも出走会見ともなれば話が別だった。
絢原さんが後ろで小さくため息をついてる。分かってたんだろう、こうなるって。
会見が始まる。
一人ずつ、意気込みを語っていく。
ダート勢の面々は、みんな言葉が重い。
この距離で、この路線で、何年も戦ってきたウマ娘たちの声には、芝のGⅠとはまた違う、泥臭い誇りが詰まっている。
次にマイクを向けられたのは、テーブル中央のウマ娘。
「あらあら、ようやく始まるねぇ」
穏やかな声。まるで縁側でお茶を啜っているような、のんびりした口調。
ワンダーアキュートさん。ダート路線のベテラン。
小柄な体に老成した雰囲気を纏った、不思議なウマ娘。周囲のダート勢が剣呑な空気を漂わせている中で、この人だけが別の時間軸にいるみたいに穏やかだ。
「フェブラリーS、楽しみじゃあ。いい相手がたくさん揃ったねぇ」
記者から「今回のメンバーについてどう思いますか」と聞かれて、にこにこしている。
「まあまあ、みんな強いからねぇ。エスポンもトラちゃんも元気いっぱいで、見てるだけで嬉しくなっちゃうよぉ」
後輩を語るおばあちゃんみたいな口調。でも、記者たちは誰も油断していない。
このウマ娘が本気を出した時の底力を、ダート界の人間は全員知っている。
「あ、そうそう。芝から来てくれた子もいるんでしょう?」
アキュートさんがこちらを見た。テーブルの端まで距離がある。
でも、その垂れ目の奥に宿る光は、穏やかなのに深い。
「嬉しいねぇ。新しいお客さんが来てくれるのは、いつだって嬉しいもんじゃ」
歓迎されている……のか?
エスポワールシチーさんやトランセンドさんとは違う温度。
この人は、怒りもなく、値踏みもなく、ただ純粋に「来てくれた」ことを喜んでいるように見えた。
でも、次の言葉で空気が変わった。
「ただ、砂の上は優しくないよぉ。たぁんと覚悟しておいでねぇ」
にこにこしたまま、さらりと。
それは脅しではなく、年長者からの純粋な忠告。
だからこそ、スカウトたちの無遠慮な称賛よりも、ずっと重く響いた。
続いて、テーブルの中央付近で、小さな体がマイクに向かって前のめりになった。
エスポワールシチーさん。ダート路線の番長。身長は私より低い。でも存在感が段違いに重い。
赤いジャケットに派手なアイシャドウ、耳に並んだ複数のピアス。見た目は派手なのに、目つきだけが研ぎ澄まされている。
「今回のフェブラリーS、あーしが勝つ。それだけ。質問ある?」
短い。潔い。記者たちが苦笑する。
でも次の瞬間、エスポワールシチーさんは不意にこちらを見た。
テーブルの端まで、視線がまっすぐ飛んでくる。
「……あ、一個だけ言っとくことあったわ」
マイクを引き寄せる。
「芝から来た子がいるみたいだけどさ。ダートなめんなよ、って言っとく」
会見場が、しん、と静まった。
「あーしらはこの砂の上で血ヘド吐いて走ってきたんだ。話題作りのつもりか知んねーけど、中途半端な気持ちで来てんなら、ピヨッピヨにしてやるからな」
真っ直ぐ、こちらを見ている。
小さな体から放たれる圧が、テーブルの端まで、まっすぐ届いてくる。
悪意じゃない。怒りでもない。
これは、プライドだ。
自分たちの戦場を軽んじられることへの、正当な怒り。
桜花賞の会見で、スカーレットが記者たちに噛みついた時のことを思い出す。
あの時のスカーレットも、こういう目をしていた。自分の場所を、自分の走りを、守ろうとする目。
……嫌いじゃない、こういうの。
真っ直ぐ噛みつかれるのは、裏でひそひそ値踏みされるより、よっぽど清々しい。
何か返さなきゃ。
「検査のために来ました」なんて言えるわけがない。この人たちの舞台を、検査の場にしている自覚はある。
口を開こうとした時、別のマイクが音を拾った。
「まあまあ、エスポん。そう尖んなくてもいーじゃ~ん」
エスポワールシチーさんの二つ隣から、脱力した声。
トランセンドさん。伊達メガネの奥で、にやにやと笑っている。パーカーのフードを被ったまま会見に出席しているのは、このウマ娘くらいだろう。
「お客さんが来てくれたんだし、歓迎しよーぜい」
「テメェはいっつもそうやってフワフワしやがって……」
「いやいや、ウチはガチで歓迎してるよん。だってさ」
トランセンドさんが、メガネの奥からこちらを見た。
脱力した表情のまま、でも目だけが鋭い。
「カレンモエちゃんだっけ? あのオークスの大逃げの子。いやー、あの映像何回も見たよ。エグかったよね。前半1000、57秒2でしょ? ゾクゾクしたわ~」
褒めてるのか値踏みしてるのか分からない口調。
でも、「57秒2」という数字を正確に覚えているあたり、この人は見るべきものをちゃんと見ている。情報屋の目だ。
「でさ、そういう子がなんでダートに来たの? ぶっちゃけ、すっごい気になるんだよね~」
記者たちがざわつく。トランセンドさんの質問は、この場にいる全員が聞きたかったことだ。
「芝のGⅠでも暴れられるでしょ、キミの脚なら。なのにダート。しかもフェブラリーS。これ、何かあるっしょ? ウチの情報網でもこればっかりは掴めなかったんだよね~」
メガネを指で押し上げながら、トランセンドさんが首を傾げる。
「……もしかして、ウチらをナメてる? 芝のGⅠが怖いから、ダートなら楽勝だと思って来た、とか?」
軽い口調。でも、その奥にある問いかけは鋭い。
「それとも……」
トランセンドさんが、一瞬だけ真面目な目になった。メガネの奥の、素の目。
「何か、試しに来たのかな」
心臓が跳ねた。
見透かされてる。この人、軽いフリして全部見えてる。
会見場の視線が全部、私に集中している。
記者のペンが止まっている。カメラが固定されている。
桜花賞の会見でも、こうやって視線を浴びた。あの時は仮面で凌いだ。
……でも。
今日は仮面を貼る気が、あんまりしなかった。
なんでだろう。
この人たちの前で、アイドル顔を作ったら、むしろ負けた気がする。
マイクに手を伸ばした。指先が冷たい。
「……ダートをなめてるわけじゃないです」
声が出た。思ったより落ち着いてた。
作った声じゃない。自分の声だ。
「私は、自分の体が何をできるのか知りたくて来ました。芝の1200メートルで走ってきて、それだけじゃ分からないことがあったから」
エスポワールシチーさんが眉を寄せている。トランセンドさんがメガネの奥で目を細めている。アキュートさんは変わらずにこにこしているが、その垂れ目の奥の光が少しだけ鋭くなった気がする。
「ダートの1600メートルは、私にとって未知の場所です。皆さんの戦場に土足で踏み込むみたいで……正直、申し訳ないとも思ってます」
「……ッ」
エスポワールシチーさんの表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「なめてるのか」と問いただそうとしていたのに、先に頭を下げられた。予想外だったんだろう。
「でも、ここに来ると決めたからには、手は抜きません。皆さんの全力に、私の全力でぶつかります」
言い切った。
全力、なんて言い切っていいのか、自分でも分からない。
私の「全力」がどこにあるのか、今の私には見えない。
でも、言い切りたかった。
この人たちの前で、言い訳混じりの曖昧な答えを返す自分でいたくなかった。
……いつからだろう、こういう見栄の張り方をするようになったの。
「……よろしくお願いします」
頭を下げた。
沈黙。
それから、エスポワールシチーさんが鼻を鳴らした。
「……ふん。言うじゃねーか」
顎を上げて、見下ろすように――いや、身長的には見上げてるんだけど、気迫的には完全に見下ろしている。
「まあいい。あーしはテメェが何しに来たかなんて興味ねーし。ダートに立つ以上、手加減なんかしねーからな。ピヨッピヨにしてやるのは変わんねーし」
口元がほんの少し緩んでいる。怒りは残っているけど、さっきとは質が違う。「こいつ、逃げなかったな」という、微かな認識の変化。
「いーね~、ゾクゾクしてきた」
トランセンドさんがメガネを押し上げて、にやりと笑った。
「予測不能な展開、大好物なんだよね~。乞うご期待、ってね」
「ふふ、楽しくなってきたねぇ」
アキュートさんが、テーブルの向こうから穏やかに微笑んだ。
「あの子、いい目をしてるよぉ。逃げない子は、砂の上でも強いもんじゃ」
誰に言うでもなく、ぽつりと。
その一言が、記者たちのペンを走らせた。
ダート界の古株がルーキーを認めた、というニュアンスで記事にされるんだろう。
……認められたわけじゃないと思うけど。
でも、ちょっとだけ、嬉しかった。
桜花賞の会見で記者に囲まれた時には感じなかった種類の嬉しさ。
仮面じゃなくて、自分の言葉で返して、それが受け取られた、という手応え。
会見は、そのまま終了した。
席を立つ時、絢原さんが横に来て、低い声で言った。
「……よくやった」
「……別に。嘘はついてないし」
「ああ。だから、よくやったと言っている」
絢原さんにそう言われると、少しだけ肩の力が抜ける。
この人は嘘を言わない。「よくやった」は本心だ。だから、安心できる。
~~
帰りの廊下。
記者たちが散り始めた通路を歩いていたら、前方に小さな背中があった。
エスポワールシチーさん。
すれ違おうとした時、向こうから声がかかった。
こちらを見もせずに、歩きながら、ぽつりと。
「……砂の上は、芝とは違うぞ。覚悟しとけ」
「……はい」
「前に砂被ったら目ぇ開けてらんねーからな。あーしの後ろにいたら、たっぷり浴びせてやるし」
「……じゃあ、後ろにいないようにしますね」
自分でも驚いた。今の、ちょっと生意気だった。
以前の私なら「それは困りますね」と苦笑いで返していたはずなのに。
エスポワールシチーさんが、ちらりとこちらを見た。
一瞬だけ。でも、その目に浮かんだのは怒りじゃなかった。
「……ふん。言ってろ」
それだけ言って、角を曲がって消えていった。
……忠告なのか宣戦布告なのか。たぶん、両方。
でも、嫌な感じはしなかった。
あの人は真っ直ぐだ。口は悪いけど、裏表がない。
「ダートをなめるな」という言葉の裏に、「なめてないなら、ちゃんと来い」が透けてる。
それに、なんだろう。
真正面からぶつかってくる相手に、真正面から返せた。
仮面を被らずに。営業スマイルを貼らずに。
……ちょっとだけ、気持ちよかった。
「やっほー、カレンモエちゃん」
背後から、ひょこっとトランセンドさんが現れた。
いつの間にいたんだ、この人。気配がなさすぎる。
「あ、びっくりした……」
「ごめんごめん。で、ちょっと聞いていい? オフレコで」
トランセンドさんがメガネを外した。
日常モードの軽さが消えて、素の目がこちらを見ている。
「キミ、会見で『自分の体が何をできるのか知りたい』って言ったじゃん。あれ、ガチ?」
「……ガチだよ」
「ふーん」
トランセンドさんが、指でシネマフレームを作って、私の顔を覗き込んだ。
「嘘じゃないね。目が泳いでない。ウチ、嘘見抜くの得意なんだよね~」
「……信じてくれるの?」
「信じるとか信じないとかじゃなくて、データとして確認しただけ。ウチはそーゆータイプ」
メガネをかけ直して、トランセンドさんは日常モードに戻った。
「まあ、理由がなんであれ、フェブラリーSに出る以上は全員敵っしょ。ウチも全力で行くからよろしくね~」
「……うん。よろしく」
「あ、あとさ」
振り返りかけたトランセンドさんが、もう一言。
「エスポんの砂被りはガチでヤバいから、マジで気をつけた方がいいよ。あの子の後ろ走ると、砂の壁が来るから。……ウチは一回それで目やられたし」
「……えっ、それアドバイスしてくれてるの?」
「敵に塩送ってどーすんだって? いやー、ウチはただ面白い展開が見たいだけだよん。キミが砂で潰れたら、つまんないじゃん?」
「……つまんない、ね」
なんだかおかしくて、ふっと笑ってしまった。
作った笑顔じゃない。トランセンドさんの「面白い展開が見たい」という動機が、あまりにも正直で。
「あ、今笑った。いーね、そっちの顔の方がいいよ。会見の時のカチコチより断然」
「……うるさいな」
「あはは。じゃーね~」
にやにやしながら、トランセンドさんはパーカーのフードを深く被り直して、廊下の向こうに消えていった。
……この人、敵なのに敵じゃないみたいな距離感で来る。
掴みどころがない。でも、不快じゃない。
一人になった――と思ったら、なっていなかった。
「はいこれ、どうぞぉ」
横から、タッパーが差し出された。
ワンダーアキュートさん。
いつの間に隣に立っていたのか。トランセンドさんとは別の意味で気配がない。
「……え?」
「大根の漬物。ぽりぽりさん、って呼んでるんじゃけど。緊張した時にはね、塩気のあるものを食べるといいんよ」
タッパーの蓋の隙間から、ほんのり酸っぱい香りが漂ってくる。
手作り、だ。出走会見に手作りの漬物を持ってくるウマ娘、初めて見た。
「あの、これ……」
「遠慮しなくていいよぉ。たぁんと食べなさい」
にこにこしている。おばあちゃんだ。完全におばあちゃんだ。
さっきまでの会見場の剣呑な空気が嘘みたいに、穏やかな時間が流れている。
以前の私だったら、こういう時、もうちょっと警戒してたと思う。
初対面の相手から食べ物を渡されて、「何か裏があるんじゃ」って。
でも今は、素直に受け取れる。この人の穏やかさに、裏がないって分かるから。
……いつからだろう。人の好意を、そのまま受け取れるようになったの。
「……ありがとうございます。いただきます」
一切れ齧った。
しっかり漬かっていて、塩気と酸味のバランスが絶妙。これは、上手い。
「美味しい……」
「ふふ、よかったねぇ」
アキュートさんは嬉しそうに目を細めた。
それから、少しだけ声のトーンを変えた。穏やかなまま、でも芯がある。
「あの子たちね、口は悪いけど、悪い子らじゃないんよ。エスポンもトラちゃんも、自分たちの場所を大事にしてるだけでねぇ」
「……分かってます」
「うん、分かってる子だと思ったよぉ」
アキュートさんは私の目をじっと見つめた。垂れ目の奥に、底知れない深さがある。
「砂の上はね、優しくないんじゃ。芝みたいに跳ね返してくれない。全部、吸い込まれていく。力も、気持ちも」
「……」
「じゃけど、それでも前に進む子を、砂は覚えとるよぉ」
不思議な言い方だった。
砂が覚えている。何を。
「……それ、どういう意味ですか」
「さあねぇ。走ったら分かるかもしれんよぉ」
にこにこ。はぐらかされた。
でも、不快じゃなかった。この人の言葉には、不思議な温もりがある。
「じゃあ、本番でね。頑張ろうねぇ」
アキュートさんは小さく手を振って、のんびりとした足取りで去っていった。
タッパーは、私の手に残されたまま。
……なんだろう、この人。
エスポワールシチーさんとも、トランセンドさんとも、全然違う。
怒りもないし、好奇心でもない。
ただ、「来た子を迎える」という、それだけの優しさ。
でも、あの目の奥にある深さ。
あれは、長い間砂の上で戦い続けてきたウマ娘だけが持つ、静かな凄み。
……濃い。
ダートの人たちは、濃い。
エスポワールシチーさんの不器用なプライド。トランセンドさんの底知れない好奇心。アキュートさんの穏やかな深み。
芝のGⅠとはまた違う熱量で迫ってくる。
この人たちと、3日後、砂の上で走るのか。
脚の奥が、微かに疼いた。
まだレースは始まってもいないのに。
「……トレーナー」
廊下の端で待っていた絢原さんが、振り返る。
「本番のこと、なんだけど」
「ああ」
「……私、あの人たちの前で『全力でぶつかる』って言っちゃった」
「聞いていた」
「全力が何なのか、自分でも分かんないのに」
「……ああ」
「でも」
私は、タッパーを見下ろした。
アキュートさんの漬物。ぽりぽりさん。
砂の上で何年も戦ってきたウマ娘が、初対面の芝の子に手渡してくれたもの。
「嘘にはしたくないの。あの人たちに言ったこと」
絢原さんは黙って頷いた。
それだけで十分だった。
駐車場に向かう。
並んで歩く。二月の夕暮れ。空が赤い。
ふと、絢原さんのネクタイが目に入った。
さっき控室で緩めたまま、まだ直っていない。
「……トレーナー。ネクタイ、まだ緩んでるよ」
「お前が緩めたんだろう」
「直してあげよっか?」
「自分で直せる」
「じゃあ直さないでいたら? そのまま帰って、明日もそのまま来てよ。私が緩めた印、つけたまま」
絢原さんが足を止めて、こちらを見た。
呆れた顔。でも、怒ってはいない。
「……何を言ってるんだ、お前は」
「ふふ。冗談」
冗談じゃないけど。半分くらいは本気。
この人に「私の痕跡」を残しておきたいって思うのは、前からある。病室の頃からずっと。
でも、あの頃は必死だった。繋ぎ止めなきゃ、逃さなきゃ、って。
今は……なんだろう。もうちょっと軽い。軽いけど、手は離さない。
歩き出す。
絢原さんは結局、ネクタイを直さなかった。
気づいてないのか、面倒なのか、それとも。
……まあ、どれでもいいや。直ってないのが、ちょっと嬉しい。
3日後、フェブラリーステークス。
ダート1600メートル。GⅠ。
GⅠだから、勝負服を着なきゃいけない。
あの勝負服。
漆黒の生地に銀色の装飾。カレンチャンの影を殺すために作った、戦闘服。
オークス以来、一度も袖を通していない。
復帰してからのレースは全部GⅡ以下だったから、用意された衣装で済んでいた。
何度かケースを開けかけて、そのたびにやめた。あの服を見ると、オークスの匂いがする気がして。
でも今度はGⅠ。逃げられない。
……作り直した方がいいのかな、と思ったことがある。
あの勝負服は「ママの影を殺す」ために作った。でも、ママの影はもうオークスで燃やし尽くした。
今の私があの服を着る意味が、分からない。
分からないけど。
今日、会見であの人たちの前に立って、自分の言葉で喋って、仮面を被らずに笑えた。
それが出来た私なら、あの服にもう一度袖を通すくらい、出来るんじゃないの。
……なんか、ちょっとだけ、変わってきてる気がする。私。
いつからかは分かんない。
でも、以前の私は、こんなふうに「出来るんじゃないの」なんて思わなかった。
エスポワールシチーさんに生意気に返せた自分。
トランセンドさんに素の顔で笑えた自分。
アキュートさんの漬物を素直に美味しいと言えた自分。
全部、仮面の裏にいた私じゃなくて、なんていうか……もうちょっと、図太くて、ちょっとだけ生意気な、素の私。
悪くない。
……悪くないと思えてる自分が、一番びっくりだけど。
エスポワールシチーさんの砂を浴びて、トランセンドさんの視線を背中に受けて、アキュートさんの穏やかな圧の中で。
その中で、私の体が何を見せるのか。
怖い。
でも、知りたい。
……ちょっとだけ、楽しみかもしれない。
その気持ちが、今の私を前に進ませている。