アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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57話 フェブラリーS

フェブラリーステークス当日。

東京レース場。ダート1600メートル。GⅠ。

 

二月の空は低く、灰色の雲が重たく垂れ込めている。

芝のレースとは空気が違う。観客の質も、スタンドの熱気も、どこか荒々しくて泥臭い。

 

控室で勝負服に袖を通した。

漆黒の生地に、銀色の装飾。

オークス以来、約八ヶ月ぶりの勝負服。体に馴染む感覚が、懐かしくもあり、少し怖くもある。

 

鏡に映った自分を見る。

前にこれを着た時は、2400メートルの死地に挑むために、この黒を纏った。

今日は1600メートル。しかもダート。

 

あの日とは何もかも違う。

距離も、路面も、相手も、目的も。

 

……でも、この勝負服だけは同じだ。

 

 

 

~~

 

 

 

パドック。

 

GⅠのパドックは、お披露目と準備運動を兼ねた場所だ。

出走ウマ娘が一人ずつ名前を呼ばれてお立ち台に上がり、観客に姿を見せた後、同じスペースで体をほぐす。

 

名前を呼ばれて、お立ち台に上がった。

 

歓声の色が、桜花賞やオークスの時とは全然違う。

あの時は「カレンモエ!」と名前を呼ぶ黄色い声援が大半だった。ここでは、好奇と懐疑が半々。「何しに来たの」という空気と、「面白いもの見せてくれよ」という期待が入り混じっている。

ダートの常連客は、芝のアイドルに甘くない。

 

お立ち台を降りて、ストレッチを始める。

周囲には、同じようにウォームアップをしているダート勢の姿。

 

エスポさんが、十メートルほど先で入念に脚を伸ばしていた。

黒と赤の勝負服。小さな体。でもそこから放たれる圧は、準備運動の段階から異常に濃い。

一つ一つの動作に無駄がない。ルーティンを崩さず、淡々と、でも確実に体を戦闘状態に持っていっている。

 

目が合った。

 

エスポワールシチーは一瞬だけこちらを見て、それからすぐに視線を外した。

昨日の会見の時とは違う。あの時は私を真っ直ぐ睨んでいたのに、今は、見ない。

 

無視されてるわけじゃない。

優先順位の問題だ。

 

このウマ娘の頭の中には、今日のレースのプランがある。先行して、前を取って、砂を蹴り上げて、後続を封じる。そのために体をどう仕上げるか。

その計算の中に、私は入っていない。

 

当然だ。ダート初挑戦の芝のスプリンターなんか、マークする理由がない。

 

エスポワールシチーの視線が向かう先は、別のウマ娘。

トランセンド。パドックの反対側で、大きく肩を回しながら、ゆるい笑みを浮かべている。

でもその目は笑っていない。エスポワールシチーの動きを、一つ残らず視界に入れている。

 

二人の間に流れる空気が、ぴりぴりと張り詰めていた。

ダートの頂上決戦。この二人にとって、今日の本当の敵はお互いだ。

私じゃない。

 

その事実が、奇妙な安堵と、小さな寂しさを同時に連れてくる。

 

ストレッチを続けていると、隣にゆっくりと誰かが近づいてきた。

 

「いい天気じゃないけど、走るには悪くないねぇ」

 

ワンダーアキュート。

のんびりとした声で、隣で体をほぐし始めた。

勝負服姿のこの人は、日常のおばあちゃんオーラとは少し違う。背筋が伸びていて、極限まで絞り込まれた体の輪郭が、布地の下からはっきりと見える。

 

「……アキュートさん」

 

「ん?」

 

「昨日のぽりぽりさん、美味しかったです。ありがとうございました」

 

「あら、嬉しいねぇ。たぁんとお代わりあるから、レースの後にまた食べなさいな」

 

にこにこしている。でも、足元を見ると、アキュートの脚が静かに地面を踏んでいる。一歩ごとに、砂の感触を確かめるように。この人は穏やかな顔のまま、体を臨戦態勢に仕上げている。

 

「ねえ、カレンモエちゃん」

 

「はい」

 

「砂を蹴る時はね、芝と逆のことを考えるんよ。芝は蹴った分だけ返ってくるじゃろ? 砂はね、蹴った分だけ沈むの。じゃから、沈む前に次の一歩を出すんじゃ」

 

「……それ、練習で何となく感じてました」

 

「ほぉ、三週間でそこまで掴んだかい。えらいねぇ。じゃけど、本番はもう一つ違うんよ。周りの圧がある中で、それができるかどうか。そこが肝心じゃ」

 

にこりと笑って、アキュートは自分のスペースに戻っていった。

 

……練習では掴めたつもりでいた感覚が、本番では別物になる。

この人は、それを教えてくれたのか。

 

パドックの向こう側から、エスポワールシチーの声が飛んだ。

 

「オイ、アキュさん! あんま敵に情報やんなよ!」

 

「あらあら、ちょっとしたコツじゃよぉ。それくらいで負けるエスポンじゃないでしょう?」

 

「……っ、当たり前だし! あーしは最強だし!」

 

顔を赤くしているエスポワールシチーを見て、トランセンドが声を上げて笑った。

 

「ぶはっ、エスポん顔真っ赤じゃん。いーねー、青春っしょ」

 

「うっせーぞトランセンド! テメェもヘラヘラしてんじゃねーし!」

 

「はいはい、怖い怖い」

 

ダート勢の空気が、一瞬だけ柔らかくなった。

でもそれは、すぐに消える。ファンファーレが近づいているのを、全員が肌で感じている。

 

エスポワールシチーの目から、ふざけた色が消えた。

トランセンドのメガネが、光を反射して表情を隠した。

アキュートの穏やかな笑みが、静かな覚悟を帯びた。

 

空気が、変わる。

 

パドックの中で、全員が獣に戻っていく。

 

私も、ストレッチを終えて立ち上がった。

脚の奥の疼きが、少しずつ強くなっている。

まだレースは始まっていない。でも、GⅠの空気が、もう体に染み込み始めている。

 

絢原さんが、パドックの柵越しに目だけで合図をくれた。

大丈夫か、と聞いているのだと分かる。

私は小さく頷いた。

 

大丈夫。まだ、大丈夫。

 

 

 

~~~

 

 

 

ゲートイン。

1600メートル。ダート。

 

ゲートの金属が冷たい。

狭い箱の中に体を滑り込ませた瞬間、空気が変わった。金属の壁が視界を塞ぎ、世界が肩幅ほどの暗がりに縮む。

 

呼吸を整える。吸って、吐く。吸って、吐く。

タキオンさんに叩き込まれた呼吸法。これを守っていれば心拍は安定する。体は言うことを聞く。

頭では分かっている。

 

でも、指先が震えていた。

 

隣のゲートに気配がある。何度か名前を聞いたことのあるダート巧者。練習では感じなかった闘志が、金属の壁越しに体を灼く。汗ではない熱が、じわじわと肌の表面を撫でている。

 

その向こうにも。その向こうにも。

十六人分の殺気が、ゲートの列に沿って連鎖し、空気を振動させている。

 

……GⅠの圧は知っている。桜花賞もオークスも走った。

でも、ダートのそれは芝とは質が違う。

芝のGⅠは、研ぎ澄まされた刃物みたいだった。

ダートのGⅠは、重い。土の底から這い上がってくるような、泥と砂と闘志が混じった重圧が、ゲートの中にまで染み込んでくる。

 

前方のゲートに、エスポワールシチーさんがいるはずだ。内枠の好位置。

トランセンドさんは中枠。

私は十二番ゲート。外枠。

 

ざわざわが、限界まで膨れ上がっていく。

 

ファンファーレ。

歓声。

ダートの客は声が太い。腹の底から地鳴りのように響いてくる。スタンドが揺れている。数万人の期待と欲望が、大気を圧縮している。

 

静寂。

 

ガコン。

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

スタートしました! フェブラリーステークス、ダート1600メートル、GⅠ!

十六人のウマ娘が一斉にゲートを飛び出す!

まずは芝コースを約150メートル走ってからダートへ進入します!

 

先手を取ったのはエスポワールシチー! 内枠から好スタートを決めて、迷いなく先頭へ!

芝からダートへの切り替わりも一切の淀みなし! 砂を蹴り上げ、堂々の先行策! これぞダートの女番長!

 

二番手に3番ドミナントパワー、三番手には7番ブルータルラッシュ!

トランセンドは五番手、内側に潜り込んで脚を溜めています!

 

ワンダーアキュートはさらに後方、十一番手! いつも通りの後方待機!

そしてカレンモエは十二番手! 外枠から中団の後方に控えています!

 

 

 

――Gangstar: Espoir City

 

 

 

先頭。

 

あーしの場所。あーしのために空けられた、一番前の空間。

 

最初の150メートルは芝。ゲートを出た瞬間だけ、足元が軽い。芝の反発であーしの体が弾む。

けど、すぐに来る。足元の感触が変わる。芝が終わって、砂が始まる。ここからがあーしの領域だ。

 

砂を蹴る。右足、左足、右足。一歩ごとに砂の壁を背後に積み上げていく。あーしが蹴り上げた砂が、後続の視界を潰す。顔面を叩く。呼吸を奪う。これがダートの先行だ。綺麗なもんじゃねえ。泥仕合の先制攻撃。

 

風が正面からぶつかってくる。冬のダートの冷たい風。頬が痛い。けど、この痛みが心地いい。前にいる証拠だから。先頭にいるウマ娘だけが味わえる、贅沢な痛みだ。

 

チラッと後ろを確認する。

二番手との差、一身半。十分。

あーしの砂を被って、後ろの連中は目を細めている。嫌だろうな。嫌でいい。嫌なら追い抜いてみろっつーの。

 

……問題は、もっと後ろにいるアイツだ。

 

トランセンド。五番手の内側。

視界にはない。でも、気配がある。あの脱力した空気の奥に隠してる、底知れない集中力。肌がざわつく。

 

あのポジションは、あーしを見てる位置。第三コーナーから外に持ち出して、直線で差しにくる。いつものパターン。分かってんだよ、お前の手口は。何回やり合ったと思ってんだ。

 

今日のレースプランは単純だ。

トランセンドを前に行かせない。あーしが先頭を取って、アイツが仕掛けてきたら、そこで突き放す。正面からぶっ潰す。

 

アキュさんも後ろにいるはず。あの人は最後に伸びてくる。直線入り口までにリードを作っておかないとヤバい。おっとりした顔して、あの人のラストスパートはえげつねえからな。

 

他は……。

 

本当なら全員まとめてピヨッピヨにしてやりてーけど、そんな余裕はねーし。

トランセンドが一番ヤバい。アイツを抑えるのが最優先。

他に構ってる暇はねーんだよ。……悔しいけど、勝つってのはそういうことだ。

 

あーしは視線を前に戻した。

前だけ見る。あーしは先頭を走るウマ娘だ。振り返るのは、後ろにいる奴の仕事だ。

 

 

 

――The Hacker: Transcend

 

 

 

五番手。内側。

 

砂が飛んでくる。エスポんの蹴り上げた砂礫が、前のウマ娘のさらに前のウマ娘を叩いて、そこから跳ね返ったやつが頬をかすめる。

間接的な砂被り。三人分のクッションがあるから、直撃よりはマシ。この位置を選んだ理由の一つ。

 

メガネは外してある。レースの時は素の目で見る。レンズ越しの世界は日常のもの。ターフの上では、生の情報が要る。

 

エスポんの背中が、三人分前に見える。黒と金の勝負服。小さい体。でも、砂の上での存在感は異常にデカい。あの子が蹴り上げる砂の量と角度を見るだけで、今の出力が分かる。

 

……飛ばしてるね、エスポん。

入りの3ハロン、たぶん34秒台。ウチを意識してる証拠。前で潰しにくるつもりだ。ウチが差しに来ることを読んでて、その前にリードを作ろうとしてる。

 

いーよ。想定の範囲内。

第三コーナーで外に出して、直線で差す。ウチの十八番。エスポんが飛ばせば飛ばすほど、直線で脚が止まる。そこを突く。何度もやった。何度も決めた。

 

でも、エスポんも学習してくる。前回のJCダートでは、直線入り口でもう一段ギアを上げてきて、差し切れなかった。あの子の粘りはガチ。「最強」って自分で言ってるのは伊達じゃない。

 

今日は、前回より深い位置から仕掛ける。エスポんの粘りが切れるポイントを、もう0.5秒待ってから踏み込む。

 

チェックリスト、整理。

一番手エスポん。要警戒。最大の敵。正面突破。

二番手から四番手、ダートの常連。実力はあるけど、今日のメンバーならこの辺は脇役。エスポんが作ったペースに巻き込まれて、直線で脚がなくなるパターン。

後方にアキュさん。あの人は最後に来る。計算に入れておかないと痛い目見る。あの穏やかな顔して、残り200から鬼になるんだよね。

 

……あと、芝の子。カレンモエ。後ろの方にいるっぽい。

 

うーん。

会見であれだけ面白い目をしてたから、ちょっと期待してたんだけど。

十番手より後ろじゃ、さすがにキツいっしょ。ダート初挑戦で、あの辺から勝負に絡むのは無理ゲーだよね。砂を被って、ペースに巻き込まれて、直線で沈む。初ダートの典型的な負けパターン。

 

まあ、残念だけどノーマーク。

芝のスプリンターが砂の上で勝負になるほど、ダートは甘くない。

 

ウチの照準は、エスポん。一本。

あとはアキュさんのラストスパートだけ計算に入れておけばいい。

 

さて。向こう正面。

ここからが情報戦。エスポんのペースの揺らぎ、呼吸のリズム、一歩ごとの沈み込みの深さ。全部見てる。全部記録してる。

 

仕掛けどころを、一秒のズレもなく見極める。

それがウチの走り方。力でねじ伏せるエスポんとは、真逆の流儀。

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

ゲートが開いて、最初に感じたのは——芝だった。

 

足元が芝。見慣れた、いつもの感触。体が勝手に加速しようとする。ここが芝なら、私の体はいくらでも速く走れる。

 

でも、150メートル。それだけで芝は終わる。

 

足元の感触が、唐突に変わった。

 

砂を踏む。

 

練習で何度も走った感触。沈み込み、反発のなさ、蹴り上がる砂礫。三週間で体に叩き込んだはずのダートの走り方。

 

でも、本番は練習と全然違った。

 

十二番手。後方。

前を走るウマ娘たちが蹴り上げた砂が、絶え間なく飛んでくる。顔に、腕に、胸に。練習でも経験したけど、量が違う。GⅠの全力疾走で巻き上がる砂は、練習の併走の比じゃない。

目を細める。口を閉じる。鼻で呼吸しようとするけど、砂の粒子が鼻腔に入り込んで咳き込みそうになる。

 

これがエスポワールシチーさんの言ってた「砂の壁」。

あの人の後ろにいるわけじゃないのに、先頭から蹴り上げられた砂が、波のように伝わってきて、十二番手の私のところまで届いてる。

 

呼吸が浅くなる。

酸素が足りない。砂を吸い込まないように口を閉じてるせいで、肺に送れる空気の量が減ってる。胸が詰まる。苦しい。

 

芝のレースでは、こんなことなかった。

芝は蹴っても飛ばない。視界が塞がれることもない。呼吸が奪われることもない。

ダートは全部が違う。足元が沈む。視界が汚れる。空気が砂混じりになる。五感の全部が、芝とは別の仕方で削られていく。

 

——でも、一つだけ。

脚の運びだけは、なぜか芝の時より安定している気がした。砂に足を取られているはずなのに、一歩一歩の着地が、妙にしっくり来る。

たぶん気のせいだ。初めてのGⅠで感覚が麻痺しているだけ。

 

でも、周りのダート勢はこんなこと気にもしてない。

砂を被りながら、当たり前のように走っている。目も開いてる。呼吸も乱れてない。

彼女たちにとっては日常。私にとっては異世界。

 

十二番手。前にはダート巧者たちの壁。

でも、誰も私を見ていない。

前を走るウマ娘たちの意識が向いているのは、先頭のエスポワールシチーさんと、五番手から虎視眈々と構えているトランセンドさん。

ダートの頂上決戦。彼女たちの視界に、私はいない。

 

……不思議なことに、それが今は少しだけ楽だった。

 

桜花賞のゲートでは、全員が私を見ていた。「カレンチャンの娘」を値踏みする目。品定めの視線。それが肌を焼いた。

ここでは、誰も私を気にしていない。存在しないも同然。

透明人間みたいだ。

 

脚の奥に、ざわざわが溜まっていく。

阪神カップの時と同じ、あの微かな疼き。

 

でも、まだ来ない。

あの時みたいに体が勝手に動く感覚は、まだ来ない。

ざわざわはしてるのに、その先に行かない。

周りのウマ娘たちは全員まだ溜めている。仕掛け前の、息を詰めた空気。

 

私の体は、それを待っている。

何を待っているのか、自分でも分からないまま。

 

砂を踏む。沈む前に、前へ。

アキュートさんがパドックで言ってくれたこと。練習で掴んだはずのリズム。

でも、GⅠの圧の中で、そのリズムを維持するのがこんなに難しいなんて。

 

呼吸。吸って、吐く。吸って——砂が口に入った。ぺっ、と吐き出す。

 

……汚い。格好悪い。

でも、これがダートだ。

泥まみれで、砂まみれで、綺麗なものなんか何もない場所。

 

エスポワールシチーさんが「血ヘド吐いて走ってきた」と言った意味が、一周もしないうちに分かった。

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

第二コーナーを回って向こう正面!

先頭エスポワールシチー、二番手との差は一身半!

後続を引き離して我が道を行く! このペースは速い!

二番手以降は早くもエスポワールシチーの砂の壁に苦しんでいる!

 

エスポワールシチーの砂被りは、ダート界でも屈指の破壊力!

後続のウマ娘たちが顔を歪めている!

 

トランセンドは五番手の内側、じっと動かない!

砂被りを最小限に抑えるポジション取り、さすがの判断力!

しかしこの位置からの仕掛けどころが、トランセンドの真骨頂です!

 

ワンダーアキュートは十一番手、まだ動かない!

しかしこの老練なベテランの末脚は要警戒です!

 

カレンモエは十二番手で変わらず!

ダート初挑戦のカレンモエ、砂の洗礼を受けていますが、ペースは崩していない!

 

向こう正面の中盤、各ウマ娘が牽制し合っている!

エスポワールシチーのハイペースに付き合うか、溜めるか!

勝負所は第三コーナーから!

 

 

 

――Gangstar: Espoir City

 

 

 

向こう正面。半分過ぎた。

 

脚は軽い。呼吸も安定してる。砂の感触は最高。今日のダートはちょうどいい硬さで、あーしの蹴りがしっかり地面に伝わってる。

 

後ろの連中がどうしてるか、耳で拾う。

二番手との差は縮まってねーし。あーしのペースについてこれてない。砂を被って嫌がってるんだろ。当然だ。あーしの砂を被って平気でいられる奴なんかいねーし。

 

……トランセンドが、まだ動かない。

 

五番手の内側で息を潜めてやがる。あいつの呼吸が、あーしの耳に届く。規則的で、静かで、待ち伏せしてる獣の呼吸。

 

(……ムカつく)

 

いつも後ろから来やがって。いつも「見てから動く」。そのやり口が気に食わねえ。

先頭を走るあーしが道を作って、砂を浴びて、体力を削って。そこを後ろから差すだけのくせに、「ウチの戦略」だなんて偉そうに。

 

でも、そのやり口に何度もやられてる。

悔しいけど、アイツは強い。

 

だからこそ、今日はぶっ潰す。

アイツが仕掛けてきた瞬間、もう一段踏み込む。前で潰す。差させない。

あーしは先頭で勝つウマ娘だ。後ろから来る奴なんかに、先頭は渡さねえ。

 

第三コーナーが近づいてくる。

空気が変わり始めてる。後ろの連中が、そろそろ動く。

 

来い。

来いよ、トランセンド。

あーしの前に来れるもんなら来てみろ。

 

先頭は渡さない。

あーしが最強だ。

それを、今日、証明する。

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

向こう正面。

 

砂との格闘が続いている。

一歩ごとに沈む。沈む前に次の一歩を出す。その繰り返し。単純な作業。でも、その単純さの中に、芝にはない種類の疲労が蓄積されていく。

 

脚が重い。

重いというか、芝の時と使う筋肉が違う。ふくらはぎの内側、普段あまり意識しない部分が、じわじわと熱を持ち始めている。砂に沈み込む足を引き抜くために、余計な力が要る。三週間の練習で慣らしたつもりだったけど、GⅠのペースで走ると練習の時とは負荷が全然違う。

 

ただ、不思議なことがある。

重いのに、フォームが崩れない。芝の1600メートルを走った時は、後半に入ると体が勝手にバラバラになっていった。ギアが噛み合わなくて、全身がぎくしゃくした。

今は重いだけだ。重いけど、体の動きそのものは壊れていない。

 

……なんでだろう。考えている暇はない。

 

呼吸。吸って、吐く。

砂の粒子を避けながらの呼吸は、常に浅い。肺の底まで空気が届かない。酸素が足りない感覚が、じわじわと体を蝕んでいく。

 

脚の奥の疼きは、まだ微かだ。

ダートの闘志は確かに厚い。芝のGⅠとは質が違う重圧が体を包んでいる。

でも、全員がまだ溜めている。仕掛け前の、息を詰めた静寂。

 

この静寂が破られた時、何が起きるのか。

 

……考えない。今は考えない。

今はただ、砂を踏む。沈む前に、前へ。それだけ。

 

第三コーナーが近づいてくる。

前方のウマ娘たちの呼吸が変わり始めた。微かに速くなった。仕掛けの準備をしている。

空気が、ぴりぴりと帯電し始める。

 

何かが起きる。

もうすぐ。

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