フェブラリーステークス当日。
東京レース場。ダート1600メートル。GⅠ。
二月の空は低く、灰色の雲が重たく垂れ込めている。
芝のレースとは空気が違う。観客の質も、スタンドの熱気も、どこか荒々しくて泥臭い。
控室で勝負服に袖を通した。
漆黒の生地に、銀色の装飾。
オークス以来、約八ヶ月ぶりの勝負服。体に馴染む感覚が、懐かしくもあり、少し怖くもある。
鏡に映った自分を見る。
前にこれを着た時は、2400メートルの死地に挑むために、この黒を纏った。
今日は1600メートル。しかもダート。
あの日とは何もかも違う。
距離も、路面も、相手も、目的も。
……でも、この勝負服だけは同じだ。
~~
パドック。
GⅠのパドックは、お披露目と準備運動を兼ねた場所だ。
出走ウマ娘が一人ずつ名前を呼ばれてお立ち台に上がり、観客に姿を見せた後、同じスペースで体をほぐす。
名前を呼ばれて、お立ち台に上がった。
歓声の色が、桜花賞やオークスの時とは全然違う。
あの時は「カレンモエ!」と名前を呼ぶ黄色い声援が大半だった。ここでは、好奇と懐疑が半々。「何しに来たの」という空気と、「面白いもの見せてくれよ」という期待が入り混じっている。
ダートの常連客は、芝のアイドルに甘くない。
お立ち台を降りて、ストレッチを始める。
周囲には、同じようにウォームアップをしているダート勢の姿。
エスポさんが、十メートルほど先で入念に脚を伸ばしていた。
黒と赤の勝負服。小さな体。でもそこから放たれる圧は、準備運動の段階から異常に濃い。
一つ一つの動作に無駄がない。ルーティンを崩さず、淡々と、でも確実に体を戦闘状態に持っていっている。
目が合った。
エスポワールシチーは一瞬だけこちらを見て、それからすぐに視線を外した。
昨日の会見の時とは違う。あの時は私を真っ直ぐ睨んでいたのに、今は、見ない。
無視されてるわけじゃない。
優先順位の問題だ。
このウマ娘の頭の中には、今日のレースのプランがある。先行して、前を取って、砂を蹴り上げて、後続を封じる。そのために体をどう仕上げるか。
その計算の中に、私は入っていない。
当然だ。ダート初挑戦の芝のスプリンターなんか、マークする理由がない。
エスポワールシチーの視線が向かう先は、別のウマ娘。
トランセンド。パドックの反対側で、大きく肩を回しながら、ゆるい笑みを浮かべている。
でもその目は笑っていない。エスポワールシチーの動きを、一つ残らず視界に入れている。
二人の間に流れる空気が、ぴりぴりと張り詰めていた。
ダートの頂上決戦。この二人にとって、今日の本当の敵はお互いだ。
私じゃない。
その事実が、奇妙な安堵と、小さな寂しさを同時に連れてくる。
ストレッチを続けていると、隣にゆっくりと誰かが近づいてきた。
「いい天気じゃないけど、走るには悪くないねぇ」
ワンダーアキュート。
のんびりとした声で、隣で体をほぐし始めた。
勝負服姿のこの人は、日常のおばあちゃんオーラとは少し違う。背筋が伸びていて、極限まで絞り込まれた体の輪郭が、布地の下からはっきりと見える。
「……アキュートさん」
「ん?」
「昨日のぽりぽりさん、美味しかったです。ありがとうございました」
「あら、嬉しいねぇ。たぁんとお代わりあるから、レースの後にまた食べなさいな」
にこにこしている。でも、足元を見ると、アキュートの脚が静かに地面を踏んでいる。一歩ごとに、砂の感触を確かめるように。この人は穏やかな顔のまま、体を臨戦態勢に仕上げている。
「ねえ、カレンモエちゃん」
「はい」
「砂を蹴る時はね、芝と逆のことを考えるんよ。芝は蹴った分だけ返ってくるじゃろ? 砂はね、蹴った分だけ沈むの。じゃから、沈む前に次の一歩を出すんじゃ」
「……それ、練習で何となく感じてました」
「ほぉ、三週間でそこまで掴んだかい。えらいねぇ。じゃけど、本番はもう一つ違うんよ。周りの圧がある中で、それができるかどうか。そこが肝心じゃ」
にこりと笑って、アキュートは自分のスペースに戻っていった。
……練習では掴めたつもりでいた感覚が、本番では別物になる。
この人は、それを教えてくれたのか。
パドックの向こう側から、エスポワールシチーの声が飛んだ。
「オイ、アキュさん! あんま敵に情報やんなよ!」
「あらあら、ちょっとしたコツじゃよぉ。それくらいで負けるエスポンじゃないでしょう?」
「……っ、当たり前だし! あーしは最強だし!」
顔を赤くしているエスポワールシチーを見て、トランセンドが声を上げて笑った。
「ぶはっ、エスポん顔真っ赤じゃん。いーねー、青春っしょ」
「うっせーぞトランセンド! テメェもヘラヘラしてんじゃねーし!」
「はいはい、怖い怖い」
ダート勢の空気が、一瞬だけ柔らかくなった。
でもそれは、すぐに消える。ファンファーレが近づいているのを、全員が肌で感じている。
エスポワールシチーの目から、ふざけた色が消えた。
トランセンドのメガネが、光を反射して表情を隠した。
アキュートの穏やかな笑みが、静かな覚悟を帯びた。
空気が、変わる。
パドックの中で、全員が獣に戻っていく。
私も、ストレッチを終えて立ち上がった。
脚の奥の疼きが、少しずつ強くなっている。
まだレースは始まっていない。でも、GⅠの空気が、もう体に染み込み始めている。
絢原さんが、パドックの柵越しに目だけで合図をくれた。
大丈夫か、と聞いているのだと分かる。
私は小さく頷いた。
大丈夫。まだ、大丈夫。
~~~
ゲートイン。
1600メートル。ダート。
ゲートの金属が冷たい。
狭い箱の中に体を滑り込ませた瞬間、空気が変わった。金属の壁が視界を塞ぎ、世界が肩幅ほどの暗がりに縮む。
呼吸を整える。吸って、吐く。吸って、吐く。
タキオンさんに叩き込まれた呼吸法。これを守っていれば心拍は安定する。体は言うことを聞く。
頭では分かっている。
でも、指先が震えていた。
隣のゲートに気配がある。何度か名前を聞いたことのあるダート巧者。練習では感じなかった闘志が、金属の壁越しに体を灼く。汗ではない熱が、じわじわと肌の表面を撫でている。
その向こうにも。その向こうにも。
十六人分の殺気が、ゲートの列に沿って連鎖し、空気を振動させている。
……GⅠの圧は知っている。桜花賞もオークスも走った。
でも、ダートのそれは芝とは質が違う。
芝のGⅠは、研ぎ澄まされた刃物みたいだった。
ダートのGⅠは、重い。土の底から這い上がってくるような、泥と砂と闘志が混じった重圧が、ゲートの中にまで染み込んでくる。
前方のゲートに、エスポワールシチーさんがいるはずだ。内枠の好位置。
トランセンドさんは中枠。
私は十二番ゲート。外枠。
ざわざわが、限界まで膨れ上がっていく。
ファンファーレ。
歓声。
ダートの客は声が太い。腹の底から地鳴りのように響いてくる。スタンドが揺れている。数万人の期待と欲望が、大気を圧縮している。
静寂。
ガコン。
――Live: Announcer
スタートしました! フェブラリーステークス、ダート1600メートル、GⅠ!
十六人のウマ娘が一斉にゲートを飛び出す!
まずは芝コースを約150メートル走ってからダートへ進入します!
先手を取ったのはエスポワールシチー! 内枠から好スタートを決めて、迷いなく先頭へ!
芝からダートへの切り替わりも一切の淀みなし! 砂を蹴り上げ、堂々の先行策! これぞダートの女番長!
二番手に3番ドミナントパワー、三番手には7番ブルータルラッシュ!
トランセンドは五番手、内側に潜り込んで脚を溜めています!
ワンダーアキュートはさらに後方、十一番手! いつも通りの後方待機!
そしてカレンモエは十二番手! 外枠から中団の後方に控えています!
――Gangstar: Espoir City
先頭。
あーしの場所。あーしのために空けられた、一番前の空間。
最初の150メートルは芝。ゲートを出た瞬間だけ、足元が軽い。芝の反発であーしの体が弾む。
けど、すぐに来る。足元の感触が変わる。芝が終わって、砂が始まる。ここからがあーしの領域だ。
砂を蹴る。右足、左足、右足。一歩ごとに砂の壁を背後に積み上げていく。あーしが蹴り上げた砂が、後続の視界を潰す。顔面を叩く。呼吸を奪う。これがダートの先行だ。綺麗なもんじゃねえ。泥仕合の先制攻撃。
風が正面からぶつかってくる。冬のダートの冷たい風。頬が痛い。けど、この痛みが心地いい。前にいる証拠だから。先頭にいるウマ娘だけが味わえる、贅沢な痛みだ。
チラッと後ろを確認する。
二番手との差、一馬身半。十分。
あーしの砂を被って、後ろの連中は目を細めている。嫌だろうな。嫌でいい。嫌なら追い抜いてみろっつーの。
……問題は、もっと後ろにいるアイツだ。
トランセンド。五番手の内側。
視界にはない。でも、気配がある。あの脱力した空気の奥に隠してる、底知れない集中力。肌がざわつく。
あのポジションは、あーしを見てる位置。第三コーナーから外に持ち出して、直線で差しにくる。いつものパターン。分かってんだよ、お前の手口は。何回やり合ったと思ってんだ。
今日のレースプランは単純だ。
トランセンドを前に行かせない。あーしが先頭を取って、アイツが仕掛けてきたら、そこで突き放す。正面からぶっ潰す。
アキュさんも後ろにいるはず。あの人は最後に伸びてくる。直線入り口までにリードを作っておかないとヤバい。おっとりした顔して、あの人のラストスパートはえげつねえからな。
他は……。
本当なら全員まとめてピヨッピヨにしてやりてーけど、そんな余裕はねーし。
トランセンドが一番ヤバい。アイツを抑えるのが最優先。
他に構ってる暇はねーんだよ。……悔しいけど、勝つってのはそういうことだ。
あーしは視線を前に戻した。
前だけ見る。あーしは先頭を走るウマ娘だ。振り返るのは、後ろにいる奴の仕事だ。
――The Hacker: Transcend
五番手。内側。
砂が飛んでくる。エスポんの蹴り上げた砂礫が、前のウマ娘のさらに前のウマ娘を叩いて、そこから跳ね返ったやつが頬をかすめる。
間接的な砂被り。三人分のクッションがあるから、直撃よりはマシ。この位置を選んだ理由の一つ。
メガネは外してある。レースの時は素の目で見る。レンズ越しの世界は日常のもの。ターフの上では、生の情報が要る。
エスポんの背中が、三人分前に見える。黒と金の勝負服。小さい体。でも、砂の上での存在感は異常にデカい。あの子が蹴り上げる砂の量と角度を見るだけで、今の出力が分かる。
……飛ばしてるね、エスポん。
入りの3ハロン、たぶん34秒台。ウチを意識してる証拠。前で潰しにくるつもりだ。ウチが差しに来ることを読んでて、その前にリードを作ろうとしてる。
いーよ。想定の範囲内。
第三コーナーで外に出して、直線で差す。ウチの十八番。エスポんが飛ばせば飛ばすほど、直線で脚が止まる。そこを突く。何度もやった。何度も決めた。
でも、エスポんも学習してくる。前回のJCダートでは、直線入り口でもう一段ギアを上げてきて、差し切れなかった。あの子の粘りはガチ。「最強」って自分で言ってるのは伊達じゃない。
今日は、前回より深い位置から仕掛ける。エスポんの粘りが切れるポイントを、もう0.5秒待ってから踏み込む。
チェックリスト、整理。
一番手エスポん。要警戒。最大の敵。正面突破。
二番手から四番手、ダートの常連。実力はあるけど、今日のメンバーならこの辺は脇役。エスポんが作ったペースに巻き込まれて、直線で脚がなくなるパターン。
後方にアキュさん。あの人は最後に来る。計算に入れておかないと痛い目見る。あの穏やかな顔して、残り200から鬼になるんだよね。
……あと、芝の子。カレンモエ。後ろの方にいるっぽい。
うーん。
会見であれだけ面白い目をしてたから、ちょっと期待してたんだけど。
十番手より後ろじゃ、さすがにキツいっしょ。ダート初挑戦で、あの辺から勝負に絡むのは無理ゲーだよね。砂を被って、ペースに巻き込まれて、直線で沈む。初ダートの典型的な負けパターン。
まあ、残念だけどノーマーク。
芝のスプリンターが砂の上で勝負になるほど、ダートは甘くない。
ウチの照準は、エスポん。一本。
あとはアキュさんのラストスパートだけ計算に入れておけばいい。
さて。向こう正面。
ここからが情報戦。エスポんのペースの揺らぎ、呼吸のリズム、一歩ごとの沈み込みの深さ。全部見てる。全部記録してる。
仕掛けどころを、一秒のズレもなく見極める。
それがウチの走り方。力でねじ伏せるエスポんとは、真逆の流儀。
――Anti-Hero: Curren Moe
ゲートが開いて、最初に感じたのは——芝だった。
足元が芝。見慣れた、いつもの感触。体が勝手に加速しようとする。ここが芝なら、私の体はいくらでも速く走れる。
でも、150メートル。それだけで芝は終わる。
足元の感触が、唐突に変わった。
砂を踏む。
練習で何度も走った感触。沈み込み、反発のなさ、蹴り上がる砂礫。三週間で体に叩き込んだはずのダートの走り方。
でも、本番は練習と全然違った。
十二番手。後方。
前を走るウマ娘たちが蹴り上げた砂が、絶え間なく飛んでくる。顔に、腕に、胸に。練習でも経験したけど、量が違う。GⅠの全力疾走で巻き上がる砂は、練習の併走の比じゃない。
目を細める。口を閉じる。鼻で呼吸しようとするけど、砂の粒子が鼻腔に入り込んで咳き込みそうになる。
これがエスポワールシチーさんの言ってた「砂の壁」。
あの人の後ろにいるわけじゃないのに、先頭から蹴り上げられた砂が、波のように伝わってきて、十二番手の私のところまで届いてる。
呼吸が浅くなる。
酸素が足りない。砂を吸い込まないように口を閉じてるせいで、肺に送れる空気の量が減ってる。胸が詰まる。苦しい。
芝のレースでは、こんなことなかった。
芝は蹴っても飛ばない。視界が塞がれることもない。呼吸が奪われることもない。
ダートは全部が違う。足元が沈む。視界が汚れる。空気が砂混じりになる。五感の全部が、芝とは別の仕方で削られていく。
——でも、一つだけ。
脚の運びだけは、なぜか芝の時より安定している気がした。砂に足を取られているはずなのに、一歩一歩の着地が、妙にしっくり来る。
たぶん気のせいだ。初めてのGⅠで感覚が麻痺しているだけ。
でも、周りのダート勢はこんなこと気にもしてない。
砂を被りながら、当たり前のように走っている。目も開いてる。呼吸も乱れてない。
彼女たちにとっては日常。私にとっては異世界。
十二番手。前にはダート巧者たちの壁。
でも、誰も私を見ていない。
前を走るウマ娘たちの意識が向いているのは、先頭のエスポワールシチーさんと、五番手から虎視眈々と構えているトランセンドさん。
ダートの頂上決戦。彼女たちの視界に、私はいない。
……不思議なことに、それが今は少しだけ楽だった。
桜花賞のゲートでは、全員が私を見ていた。「カレンチャンの娘」を値踏みする目。品定めの視線。それが肌を焼いた。
ここでは、誰も私を気にしていない。存在しないも同然。
透明人間みたいだ。
脚の奥に、ざわざわが溜まっていく。
阪神カップの時と同じ、あの微かな疼き。
でも、まだ来ない。
あの時みたいに体が勝手に動く感覚は、まだ来ない。
ざわざわはしてるのに、その先に行かない。
周りのウマ娘たちは全員まだ溜めている。仕掛け前の、息を詰めた空気。
私の体は、それを待っている。
何を待っているのか、自分でも分からないまま。
砂を踏む。沈む前に、前へ。
アキュートさんがパドックで言ってくれたこと。練習で掴んだはずのリズム。
でも、GⅠの圧の中で、そのリズムを維持するのがこんなに難しいなんて。
呼吸。吸って、吐く。吸って——砂が口に入った。ぺっ、と吐き出す。
……汚い。格好悪い。
でも、これがダートだ。
泥まみれで、砂まみれで、綺麗なものなんか何もない場所。
エスポワールシチーさんが「血ヘド吐いて走ってきた」と言った意味が、一周もしないうちに分かった。
――Live: Announcer
第二コーナーを回って向こう正面!
先頭エスポワールシチー、二番手との差は一馬身半!
後続を引き離して我が道を行く! このペースは速い!
二番手以降は早くもエスポワールシチーの砂の壁に苦しんでいる!
エスポワールシチーの砂被りは、ダート界でも屈指の破壊力!
後続のウマ娘たちが顔を歪めている!
トランセンドは五番手の内側、じっと動かない!
砂被りを最小限に抑えるポジション取り、さすがの判断力!
しかしこの位置からの仕掛けどころが、トランセンドの真骨頂です!
ワンダーアキュートは十一番手、まだ動かない!
しかしこの老練なベテランの末脚は要警戒です!
カレンモエは十二番手で変わらず!
ダート初挑戦のカレンモエ、砂の洗礼を受けていますが、ペースは崩していない!
向こう正面の中盤、各ウマ娘が牽制し合っている!
エスポワールシチーのハイペースに付き合うか、溜めるか!
勝負所は第三コーナーから!
――Gangstar: Espoir City
向こう正面。半分過ぎた。
脚は軽い。呼吸も安定してる。砂の感触は最高。今日のダートはちょうどいい硬さで、あーしの蹴りがしっかり地面に伝わってる。
後ろの連中がどうしてるか、耳で拾う。
二番手との差は縮まってねーし。あーしのペースについてこれてない。砂を被って嫌がってるんだろ。当然だ。あーしの砂を被って平気でいられる奴なんかいねーし。
……トランセンドが、まだ動かない。
五番手の内側で息を潜めてやがる。あいつの呼吸が、あーしの耳に届く。規則的で、静かで、待ち伏せしてる獣の呼吸。
(……ムカつく)
いつも後ろから来やがって。いつも「見てから動く」。そのやり口が気に食わねえ。
先頭を走るあーしが道を作って、砂を浴びて、体力を削って。そこを後ろから差すだけのくせに、「ウチの戦略」だなんて偉そうに。
でも、そのやり口に何度もやられてる。
悔しいけど、アイツは強い。
だからこそ、今日はぶっ潰す。
アイツが仕掛けてきた瞬間、もう一段踏み込む。前で潰す。差させない。
あーしは先頭で勝つウマ娘だ。後ろから来る奴なんかに、先頭は渡さねえ。
第三コーナーが近づいてくる。
空気が変わり始めてる。後ろの連中が、そろそろ動く。
来い。
来いよ、トランセンド。
あーしの前に来れるもんなら来てみろ。
先頭は渡さない。
あーしが最強だ。
それを、今日、証明する。
――Anti-Hero: Curren Moe
向こう正面。
砂との格闘が続いている。
一歩ごとに沈む。沈む前に次の一歩を出す。その繰り返し。単純な作業。でも、その単純さの中に、芝にはない種類の疲労が蓄積されていく。
脚が重い。
重いというか、芝の時と使う筋肉が違う。ふくらはぎの内側、普段あまり意識しない部分が、じわじわと熱を持ち始めている。砂に沈み込む足を引き抜くために、余計な力が要る。三週間の練習で慣らしたつもりだったけど、GⅠのペースで走ると練習の時とは負荷が全然違う。
ただ、不思議なことがある。
重いのに、フォームが崩れない。芝の1600メートルを走った時は、後半に入ると体が勝手にバラバラになっていった。ギアが噛み合わなくて、全身がぎくしゃくした。
今は重いだけだ。重いけど、体の動きそのものは壊れていない。
……なんでだろう。考えている暇はない。
呼吸。吸って、吐く。
砂の粒子を避けながらの呼吸は、常に浅い。肺の底まで空気が届かない。酸素が足りない感覚が、じわじわと体を蝕んでいく。
脚の奥の疼きは、まだ微かだ。
ダートの闘志は確かに厚い。芝のGⅠとは質が違う重圧が体を包んでいる。
でも、全員がまだ溜めている。仕掛け前の、息を詰めた静寂。
この静寂が破られた時、何が起きるのか。
……考えない。今は考えない。
今はただ、砂を踏む。沈む前に、前へ。それだけ。
第三コーナーが近づいてくる。
前方のウマ娘たちの呼吸が変わり始めた。微かに速くなった。仕掛けの準備をしている。
空気が、ぴりぴりと帯電し始める。
何かが起きる。
もうすぐ。