アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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58話 決着、砂のG1

――Live: Announcer

 

 

 

第三コーナーに入ります!

ここからレースが動くか!

 

先頭エスポワールシチー、まだリードを保っている!

しかし後続との差が詰まり始めた! ペースが上がってきます!

 

おっと、トランセンドが動いた!

五番手の内側からスッと外に持ち出した!

四番手、三番手を一気にかわして、エスポワールシチーの背後に取りつく!

 

トランセンド、仕掛けました! ダートの頂上決戦の幕が切って落とされた!

 

 

 

――Gangstar: Espoir City

 

 

 

背中に、影が差した。

 

来やがった。

 

振り返らなくても分かる。この気配、この圧、この距離の詰め方。何十回と味わってきた、あのパターン。

 

トランセンド。

 

あーしの真後ろ。一身もない。あーしの蹴り上げた砂が、直接アイツの顔面を叩いてるはずだ。なのに、ペースが落ちない。嫌がってない。あーしの砂を、正面から食らいながら迫ってきてやがる。

 

(……根性だけは認めてやるよ、クソが)

 

第三コーナーのカーブ。遠心力が体を外に引っ張る。

あーしは内ラチ沿いを締める。ここを明け渡したら、アイツが内から来る。

それだけは許さない。先頭はあーしのもんだ。

 

脚に力を込める。ふくらはぎが焼ける。太腿の裏が軋む。

ここからペースを上げる。アイツが追いつく前に、もう一段突き放す。

 

砂を蹴る。蹴る。蹴る。

一歩ごとに、地面にあーしの意地を叩きつける。

 

 

 

――The Hacker: Transcend

 

 

 

エスポんの背中。近い。

 

砂が顔に飛んでくる。目に入る。口に入る。じゃりじゃりする。

エスポんの砂被りは本当にエグい。あの小さい体のどこにこんなパワーがあるのか。蹴り上げる砂の角度が鋭くて、避けようがない。

 

でも、ここで怯んだら差せない。

砂を食う。食って、飲み込む。それでも前を見る。

 

エスポんの呼吸が速くなってる。ペースを上げてきた。ウチが後ろについたのを感じて、突き放しにかかってる。

想定通り。ここでエスポんが脚を使えば使うほど、直線で枯れる。

でもこの子のタフさは想定以上で、前回も「もう枯れるはず」のポイントから粘りやがった。

 

だから今日は、もっと深くまで待つ。

エスポんの背中に張り付いて、張り付いて、直線に入ってから外に持ち出す。

 

ウチとエスポん。何度目の対決だ。

何度やっても飽きない。何度やっても読みきれない。

この子がいるから、ダートは面白い。

 

(……でも、今日は勝つよ。エスポん)

 

第三コーナーの出口が見えてくる。

ここから第四コーナーまでの短い直線。ここで一気に外に持ち出す。

 

行くよ。

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

第三コーナーから第四コーナーへ!

 

トランセンドがエスポワールシチーの直後につけている!

砂を被りながらも離れない! 執念の追走!

 

エスポワールシチーはペースを上げて突き放そうとする!

しかしトランセンドも食らいつく! 二人の差は一身を切っている!

 

ここでトランセンドが外に持ち出した!

エスポワールシチーの横に並びかける!

 

二人が横並び! これはもう完全にタイマン勝負です!

ダートの二強が、ここから直線まで叩き合う!

 

後方からはワンダーアキュートが動き始めた!

十一番手から八番手、七番手とポジションを上げている!

ベテランの仕掛けも始まりました!

 

各ウマ娘が一斉に動き出した!

レースが、一気に沸騰しています!

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

第三コーナー。

 

前方で空気が裂けた。

 

トランセンドさんが仕掛けた。その気配が、波のように後方まで伝わってくる。

それに呼応して、周りのウマ娘たちが一斉に動き出した。溜めていた脚を解放し始めた。

 

全員の闘志が、同時に噴き出した。

 

その瞬間——

 

体の底で、何かが弾けた。

 

ドクン。

 

心臓が、一拍だけ強く脈打った。普通の鼓動じゃない。もっと深い場所から、内臓を直接殴られたような衝撃。

 

来た。

 

阪神カップと同じだ。あの時と同じ、体の内側から火がつく感覚。

 

体温が上がる。指先の冷えが消える。視界のノイズが剥がれ落ちて、世界がクリアになっていく。砂の粒子の一つ一つまで見える。前を走るウマ娘たちの背中の筋肉の動きまで見える。

 

脚が、勝手に回転数を上げ始めた。

 

私の意志じゃない。体が、走れと言っている。

周りのウマ娘たちの本気が解き放たれた瞬間、その熱を浴びて、私の中の何かが目を覚ました。

 

阪神カップの時は怖かった。体を乗っ取られる恐怖。

でも今は——

 

(……逆らわない)

 

今日は、知りに来たんだ。この体が砂の上で何をするのか。

だから、逆らわない。好きにさせる。

 

沈む前に、前へ。

砂を踏み抜く。一歩が、さっきまでとは別物になっている。

沈み込みの底を、筋肉が捉えている。砂をグリップしている。

 

重い。でも、動く。

芝の上を飛ぶような加速じゃない。もっと泥臭い、地面と格闘しながらの加速。

一歩ごとに砂を噛んで、噛んで、その反動で体を前に押し出していく。

 

十番手。九番手。

前のウマ娘たちが仕掛け始めて、隊列が崩れている。

その隙間を縫うように、体が勝手に最適なコースを選んでいく。

 

でも、前方で起きている「本当の戦い」は、ここからずっと先にある。

エスポワールシチーさんとトランセンドさんが、並んで走っている。

その二人の熱量が、後方の私のところまで灼くように伝わってくる。

 

あの中に、飛び込みたい。

 

……飛び込みたい?

 

今、私は、そう思った?

 

 

 

――Gangstar: Espoir City

 

 

 

第四コーナー。

 

横にトランセンドがいる。

 

並ばれた。あーしのペースアップを吸収して、外からぬるっと横に来やがった。あの野郎、砂を顔面に食らいながら、涼しい顔しやがって。

 

いや——涼しい顔なんかしてねえ。

 

横目で見える。メガネの外れた素の顔。歯を食いしばってる。顔が砂で汚れてる。目が血走ってる。必死だ。あーしと同じくらい、必死の形相。

 

(……テメェも限界かよ)

 

お互い様だ。

あーしの脚も、もう余裕なんかない。ここまでのハイペースで、太腿の裏がパンパンに張ってる。ふくらはぎが灼ける。膝の裏に乳酸が溜まって、一歩ごとに錘が増えていく。

 

それでも、止まれない。止まったら負ける。

先頭はあーしのもんだ。

 

「どけぇっ……!」

 

声が出た。自分でも驚くくらい低い、獣の声。

 

内を締める。体を寄せる。トランセンドの進路を潰す。

汚い? 知るか。ダートの先行ってのは、こういうもんだ。

前にいる奴が正義。後ろから来る奴は、全部ねじ伏せる。

 

トランセンドが外に逃げる。あーしの締めを嫌がって、外に膨らんだ。

一瞬、半身分の差が開く。

 

(よし——)

 

突き放す。ここで突き放す。

残ってる脚を全部使って、もう一段——

 

トランセンドが、戻ってきた。

 

外に膨らんだのはフェイント。一瞬の間合いを作って、今度は真横から被せてくる。

あーしが内を締めた分だけ、外のスペースが空いた。その外から、もう一度。

 

(……しぶてぇッ!!)

 

並ばれる。また横並び。

二人の肩が触れそうな距離。

互いの呼吸が聞こえる。互いの足音が重なる。

 

あーしの世界は、今、トランセンドしかいない。

こいつを倒す。それだけ。

他の奴なんか知らない。アキュさんが後ろから来てるかもしれない。知ったことか。

目の前のこいつを、まず倒す。それ以外に、何も考えられない。

 

直線に入る。

 

 

 

――The Hacker: Transcend

 

 

 

直線。

 

エスポんが内にいる。ウチが外。

肩が触れる距離。互いの汗が飛んでくる距離。

 

エスポんの呼吸が荒い。でも脚は止まってない。

この子、もう限界のはずなのに。ハイペースで飛ばして、ウチの仕掛けを受けて、内を締めて、それでもまだ前を譲らない。

 

……タフすぎるだろ、エスポん。

 

ウチの脚も限界が近い。後ろから差す脚を残すために溜めてたはずなのに、エスポんの締めを外して、外から回して、そのロスで脚を使わされた。

エスポんの戦い方だ。後ろから来る奴を消耗させて、前で殺す。ウチはそれに乗せられた。

 

でも、まだ差せる。

エスポんの呼吸が、さっきより一段速くなった。限界が近い。あと200メートル、いや150。そこで脚が鈍る瞬間が来る。その瞬間を、逃さない。

 

直線。残り400。

ここからが、ウチとエスポんの本当のタイマンだ。

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

直線に入りました! 残り400メートル!

 

先頭はエスポワールシチーとトランセンド、完全に横並び!

二人の差はハナ差もない! 完全なタイマン勝負です!

 

エスポワールシチーが内から粘る!

トランセンドが外から被せる!

エスポワールシチーが押し返す!

トランセンドがまた並ぶ!

 

身! クビ差! また半身!

一歩ごとに先頭が入れ替わる! 壮絶な叩き合いです!

 

残り300!

 

この二人の死闘から目が離せません!

ダートGⅠの名に恥じない、いや、それ以上の激闘が展開されています!

 

後方からはワンダーアキュートが追い込んでいる!

六番手、五番手まで浮上!

ベテランの末脚がじわじわと前との差を詰めている!

しかし先頭の二人とはまだ距離がある!

 

残り250!

 

エスポワールシチーとトランセンドの叩き合いは続く!

どちらも折れない! どちらも引かない!

砂の上で二つの意地が、正面からぶつかり合っている!

 

ワンダーアキュートが四番手まで上がってきた!

射程圏内に入ってきたか!?

この三人で決まるのか!?

 

残り200!

 

エスポワールシチー、トランセンド、まだ並んでいる!

ワンダーアキュートが四番手まで——

 

外から一人!

 

カレンモエが来た!!

 

三コーナーまで八番手にいたはずのカレンモエが、外を回して一気にワンダーアキュートをかわした! 三番手に浮上!

 

エスポワールシチーとトランセンドの死闘の間隙を突いて、カレンモエが強襲!!

 

――Gangstar: Espoir City

 

 

 

残り200。

 

トランセンド。しぶてぇ。

 

歯が軋む。奥歯を噛みすぎて、顎が痛い。口の中に血の味がする。舌の横を噛み切ったか。

 

まだ前。あーしが前。

脚が重い。太腿が叫んでる。もう限界だって言ってる。知るか。限界なんか、あーしが決める。

 

トランセンドの肩が、あーしの肩に触れた。

近い。近すぎる。互いの汗が混じる距離。

 

もう一歩。あと一歩、前に——

 

——外。

 

何か。

 

赤と黒の視界の、さらに外。意識の外。

何かが、ある。速い。

 

黒い。

 

は?

 

 

 

――The Hacker: Transcend

 

 

 

残り200。

 

エスポん。まだ前にいる。

しぶとい。ほんっとにしぶとい。

 

脚が痛い。もう余裕なんかどこにもない。歯を食いしばりすぎて頭が痛い。視界の端がちかちかしてる。酸素が足りない。

 

ここだ。ここで差す。エスポんの呼吸が、一拍遅れた。今——

 

——外に、影。

 

速い。

 

嘘——

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

分からない。

 

いつからこんなに速く走っていたのか、分からない。

気がついたら、前にいたウマ娘たちが後ろにいた。

気がついたら、アキュートさんの横を通り過ぎていた。

気がついたら、エスポワールシチーさんとトランセンドさんの背中が、目の前にあった。

 

体が勝手に走っている。

阪神カップの時と同じ。私の意志じゃない。体が、全部やっている。

 

でも、阪神カップとは何かが違う。

 

あの時は「邪魔」と思った。前を行くウマ娘たちが「遅い」と思った。

今は、違う。

 

エスポワールシチーさんとトランセンドさんが叩き合っている。

二人の背中から放たれる闘志が、砂の上で火花を散らしている。

その熱が、直接、私の体に注がれてくる。

 

これは——

 

この二人は、本気だ。

全部を出し尽くして、互いだけを見て、全力で殴り合ってる。

この砂の上で、何年もかけて積み上げてきたものの全部を賭けて。

 

その横を、通る。

 

二人が締め合った、そのすぐ外側。一頭分の隙間。

狭い。でも、通れる。

 

体が、そこへ飛び込んだ。

 

砂が顔に叩きつけられる。二人の蹴り上げた砂が、至近距離から直撃する。目に入る。口に入る。じゃりじゃりする。何も見えない。

 

でも、脚は止まらない。

 

残り150。

 

エスポワールシチーさんの横に並んだ。

小さな体。赤と黒の勝負服が、砂と汗で汚れている。

この人の呼吸が聞こえる。荒い。限界だ。全力で先頭を守り続けてきた脚が、悲鳴を上げている。

 

それでもまだ前を譲らない。この人は最後の一歩まで折れない。

さっきまでの叩き合いで、脚はもう残っていないはずなのに。

 

すごい、と思った。

 

「邪魔」じゃない。「遅い」じゃない。

 

すごい。

 

この人と、同じ場所を走っている。その事実が、体の芯を熱くする。

 

残り100。

 

エスポワールシチーさんを、半身交わした。

 

外からトランセンドさんが追ってくる。あの人も最後の脚を振り絞っている。エスポワールシチーさんとの叩き合いで全部使い切ったはずなのに、まだ追ってくる。

 

でも、ここからは——

 

ここからの脚比べは、スプリンターの領域だ。

 

砂を蹴る。重い。一歩ごとに砂が脚を掴む。芝なら飛べる距離が、砂の上では這うように進む。

それでも、速い。自分でも分かる。今の私は速い。

 

残り50。

 

トランセンドさんの気配が、僅かに遠のいた。

身。その差が、縮まらない。

 

砂を蹴る。最後の一歩。

 

ゴール板が、視界の真ん中を通過した。

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

ゴールイン!!

 

カレンモエ一着!!

カレンモエがフェブラリーステークスを制しました!!

 

これが彼女のGⅠ初制覇!

あのオークスで燃え尽きたはずの少女が、まさかダートのGⅠで初戴冠!

芝のスプリンターが、よりによってこの砂の舞台で頂点に立つとは!

誰がこの結末を予想したでしょうか!

 

二着トランセンド、半身差!

三着エスポワールシチー! 最後まで先頭を譲りませんでしたが、直線の消耗が響きました!

四着ワンダーアキュート!

 

エスポワールシチーとトランセンドの壮絶な叩き合い、

その外を突いたカレンモエ!

展開の恩恵か、それとも実力か——議論を呼ぶことは間違いありません!

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

ゴール板を通り過ぎた。

 

呼吸が荒い。全身が砂まみれ。漆黒の勝負服が泥色に染まっている。

顔にも砂がこびりついて、たぶんひどい見た目だと思う。

 

体温は……ゆっくり下がっている。

阪神カップの後みたいにストンと落ちる急冷じゃない。波が引くように、じわじわと。

 

阪神カップの後に感じた恐怖が、今回はない。

「あの高揚は私のものだったのか」という疑問がない。

「邪魔」とか「遅い」とか、あの傲慢な衝動も出なかった。

 

代わりにあったのは。

 

砂の中で、エスポワールシチーさんやトランセンドさんの横を走っている、という感覚。

あの人たちの本気が作り出した隙間に飛び込んで、泥臭く、力ずくで、前に出た。

 

それが……嫌じゃなかった。

 

嬉しい、とまでは言えない。楽しい、とも、まだ言えない。

でも、阪神カップの後の空っぽさが、今回はない。

 

何かが、少しだけ残ってる。

胸の奥に、温かいものが。

 

減速して歩き始めた時、後ろからエスポワールシチーさんが追いついてきた。

 

三着。ダートの番長が、芝のウマ娘に負けた。

悔しいに決まっている。

 

エスポワールシチーさんは私の横に並んで、しばらく無言で歩いた。

荒い呼吸。砂を蹴り上げた脚。汗と泥で汚れた赤と黒の勝負服。

 

「……っ」

 

私は何か言おうとした。でも、何を言えばいいのか分からない。

 

エスポワールシチーさんが、こちらを見た。

怒りは……ある。当然ある。でも、それだけじゃない。

 

「……ふん。あーしとトランセンドがやり合ってる間に、いい所だけ持ってったな」

 

「……」

 

「けど」

 

鼻を鳴らした。

 

「あの砂の上で、最後にあんだけ脚使えるのは、認めてやる。……ダート初挑戦であれやるのは、正直ムカつくけどな」

 

ムカつく、と言いつつ、その目には微かな敬意があった。

「なめてなかったな」という確認。会見で交わした約束を、砂の上で果たしたことへの、不器用な承認。

 

「次はねーからな。次やったら、あーしが前で全部封殺してやるし。覚えとけ」

 

それだけ言って、先に引き揚げていった。

小さな背中が、砂の向こうに遠ざかる。三着の背中。でも、負けたウマ娘の背中じゃない。

もう「次」を見ている。この人は、いつもそうなんだろう。

 

 

「いやー、やられたわ~」

 

反対側から、トランセンドさんが歩いてきた。

メガネをかけていない。レース前に外したまま。素の目がこちらを見ている。

 

「まさかあそこに道が開くとは思わなかったよん。ウチとエスポんが潰し合ってる隙をぶち抜くなんて、予測の外だったわ~」

 

「……展開が、味方しただけだと思います」

 

「あはは、謙遜じゃん。……まあ、半分はそうだけどね」

 

にやりと笑った。

 

「でも残り半分はガチ。あの砂の上で、最後の200であれだけ伸びるのは、展開だけじゃ説明つかないっしょ。ウチは最後、全力で追ったよ。それでも届かなかった」

 

「……」

 

「ねえ、カレンモエちゃん」

 

素の目で、私を見た。

 

「キミがウチの横を通り過ぎてったの、見えたんだよね。最後の200メートル、ウチを抜いていく瞬間の走り方。それまでとは何かが違った」

 

ポケットからメガネを取り出して、くるくると指で回しながら。

 

「楽しそうだったよね、あの200メートル」

 

楽しそう。

そう見えたのか。外から見たら、そうだったのか。

 

自分では分からない。体が動いていた。それが楽しかったのかどうか、まだ整理がつかない。

 

「……分かんない。でも」

 

「でも?」

 

「……嫌じゃなかった」

 

トランセンドさんが、にやりと笑った。

 

「いーね。それ、めちゃくちゃいい答えだよん」

 

メガネをかけ直して、ウインクを一つ。

 

「また来なよ、砂の上。ウチらの遊び場、結構楽しいっしょ?」

 

ひらひらと手を振って、去っていった。

 

 

 

~~

 

 

 

ウイニングライブ。

 

ダートGⅠのセンターに立つ。

砂まみれの勝負服から衣装に着替えて、ステージに上がった。

照明が当たる。

 

アイドルのスイッチを入れる。

でも、今日は少しだけ、そのスイッチが軽かった。

 

歌って、踊って、観客の歓声を浴びる。

「カレンモエ!」「すげえ!」「ダートで勝ちやがった!」

 

ダート畑の観客は、反応がストレートだ。

芝のファンの優雅な拍手とは違う、腹の底から出てくる歓声。

 

……悪くない。

 

ライブが終わって、ステージ裏の通路。

 

壁にもたれかかって息を整えていたら、穏やかな声がした。

 

「お疲れさまじゃったねぇ」

 

ワンダーアキュートさん。

タッパーを差し出してきた。中身は、昨日と同じぽりぽりさん。

 

「レースの後は塩気が要るからねぇ。たぁんと食べなさい」

 

「……ありがとうございます」

 

一切れ齧った。汗をかいた体に、塩気が沁みる。

 

「アキュートさん。パドックで言ってくれたこと……本番の圧の中で走って、ようやく分かりました」

 

「あらあら、そうかい。よかったねぇ」

 

にこにこしている。四着。ベテランは悔しさを表に出さない。

でも、その垂れ目の奥に、静かな闘志がちらついている。この人もまた、「次」を見ている。

 

「カレンモエちゃん」

 

「はい」

 

「砂はね、覚えとるよぉ。今日走った子のこと、ちゃんと覚えとる」

 

昨日も似たようなことを言っていた。砂は覚えている。

あの時は意味が分からなかった。でも、今は少しだけ分かる気がする。

 

砂の上で走った感触が、まだ脚に残っている。

芝とは違う、重くて、泥臭くて、一歩ごとに体力を奪われる、あの感覚。

でも、その重さの中を走り抜けた記憶が、確かに体に刻まれている。

 

「……はい。覚えてます」

 

「ふふ。いい子じゃねぇ」

 

アキュートさんは小さく手を振って、のんびりとした足取りで去っていった。

 

一人になった通路で、自分の手を見た。

爪の間にまで砂が入り込んでいる。

 

GⅠを勝った。初めてのGⅠ。

でも、展開の恩恵が大きかったことは分かっている。

エスポワールシチーさんとトランセンドさんが真正面からぶつかり合ってくれたから、その外を突けた。あの二人が私をマークしていたら、結果は全然違っただろう。

 

それでも。

 

最後の200メートルで感じた、あの感覚。

トランセンドさんが「楽しそうだった」と言った、あの瞬間。

体が動かされているのか、自分で動いているのか、その境界が溶けた瞬間。

 

「嫌じゃなかった」。

 

阪神カップの後は、恐怖だった。

今回は、違うものが残っている。

まだ名前はつけられない。でも、確かに、何かが。

 

駐車場に向かう途中、絢原さんが横に来た。

 

「……お疲れ」

 

「うん。砂まみれ」

 

「見れば分かる」

 

「……ねえ、トレーナー」

 

「ん」

 

「タキオンさんに伝えといて。1600メートル、走れたよ、って」

 

「……ああ。伝える」

 

「あと、もう一つ」

 

「なんだ」

 

「……ダート、嫌じゃなかった」

 

絢原さんが、ほんの一瞬だけ足を止めた。

それから、何も言わずに歩き出した。

 

でも、その横顔が、ほんの少しだけ緩んでいたのを、私は見逃さなかった。

 

目を閉じた。

瞼の裏に、最後の200メートルの景色が蘇る。

エスポワールシチーさんの横を通過した瞬間の、あの感覚。

 

嫌じゃなかった。

 

……嘘。

嫌じゃなかった、なんて生温い言葉で蓋をしてるだけだ。

本当は、もっと正確な言葉を知っている。

 

気持ちよかった。

 

認めたくない。認めたら、あの阪神カップの夜に戻ってしまう。

「邪魔」「遅い」と思った、あの醜い自分に。

 

でも、今日のは阪神カップとは違った。

「邪魔」とは思わなかった。「遅い」とも思わなかった。

あの人たちの横を走ることが、純粋に——

 

……やめよう。

これ以上考えたら、次のレースが「検査」じゃなくなる。

そうなったら、私はもう引き返せない。

 

引き返せなくなることが怖いのか。

引き返せなくなることを望んでいる自分が怖いのか。

 

……どっちも、だ。たぶん。

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