アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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59話 サクラの乱

二月の終わり。

 

フェブラリーSから、一週間が経った。

 

あの日のことを、まだ整理できていない。

 

ダートのGⅠ。砂の上。初めての路線、初めての世界。

エスポワールシチーさんやトランセンドさんと並んで走って、体が反応して、勝った。

 

勝った後、トランセンドさんに言われた。

「楽しそうだったよね」

私は答えた。

「……嫌じゃなかった」

 

嘘だ。

 

嫌じゃなかったんじゃない。

気持ちよかった。

 

あの直線で、体が動いた瞬間。砂を蹴って、前に出て、風を切って。

阪神カップの時と同じ感覚。でも、阪神カップの時よりもっとはっきりと——「気持ちいい」と思ってしまった。

 

認めたら引き返せない。

そう思っていたのに、認めてしまった。

 

今、私の中に「気持ちよかった」がある。

消せない。消したくない。消したくないと思っている自分がいる。

 

……怖い。

 

でも、怖いのと同時に、あの感覚をもう一度味わいたいとも思っている。

それが一番怖い。

 

 

 

~~

 

 

 

第三練習場。

 

タキオンさんが、タブレットを操作しながら話している。

 

「フェブラリーSのデータ、実に面白いよ」

 

私と絢原さんが、ベンチに並んで座っている。

タキオンさんは立ったまま、画面をこちらに向けた。グラフが並んでいる。

 

「心拍数の推移だ。ここ、見たまえ」

 

指が、グラフの一点を指す。

 

「第三コーナーの手前。ここで跳ねてるだろう? 阪神カップの時と同じパターンだ。周囲のGⅠ級の出力に反応して、あの過剰同調反応が起きている」

 

「……はい」

 

「でもね、面白いのはここからさ」

 

指が、別の点を指す。ゴール後のデータ。

 

「ゴールを過ぎた後の心拍数の下がり方が、阪神カップとは全く違う。阪神カップの時はゴール後にガクンと落ちた。ストレス反応の終息だね。ところがフェブラリーSでは、ゴール後もしばらく高い数値が続いている」

 

「……それって」

 

「走り終わった後も、興奮状態が持続していた。つまり、君の体がまだ走りたがっていた、ということだよ」

 

心臓が、嫌な音を立てた。

 

走り終わった後も、まだ走りたがっていた。

それって、つまり——

 

「阪神カップではね、ゴールした瞬間に『恐怖』が来た。だから心拍数が急落した。でもフェブラリーSでは、恐怖が来なかった。代わりに来たのは……」

 

タキオンさんが、眼鏡の奥の目を細めた。

 

「……まあ、それは君自身が一番よく知っているだろう?」

 

知ってる。

「気持ちよかった」。

 

タキオンさんは、それ以上は踏み込まなかった。

この人はいつもそうだ。データを見せて、仮説を立てて、判断は本人に委ねる。

 

「で、次のレースだけど」

 

絢原さんが口を開いた。

 

「まだ決めてない。データを精査してから考える」

 

「妥当だね、トレーナーくん。急ぐ必要はないさ。フェブラリーSのデータだけでも、分析には時間がかかる」

 

タキオンさんがタブレットをしまった。

 

「一つだけ言えるのは、スクラップ・アンド・ビルドは順調だということだ。体の再構築は私の計算通りに進んでいる。壊れる心配はないよ。それは私が保証する」

 

「……壊れないのは分かってます」

 

私は小さく言った。

 

壊れるのが怖いんじゃない。

壊れないからこそ、走れてしまうことが怖い。

走れてしまうから、「気持ちいい」と感じてしまうことが怖い。

 

でも、それは口にしなかった。

タキオンさんは、たぶん分かっている。絢原さんも。

三人とも分かっていて、誰も言葉にしない。

 

 

 

~~

 

 

 

練習が終わって、第三練習場から寮に向かう道。

 

三月の風はまだ冷たい。でも、二月よりは少しだけ柔らかい。

日が長くなってきた。練習が終わっても、空がまだ明るい。

 

絢原さんと並んで歩いている。

タキオンさんは「データの海に潜るよ」と言って実験室に帰っていった。

 

二人きり。

 

練習後のこの時間が、実は一番好きだ。

タキオンさんがいると、二人の間で専門用語が飛び交って、私は置いてきぼりにされる。

でも今は、絢原さんの目が私だけを見てる。

 

歩幅を少しだけ狭めて、絢原さんの半歩後ろを歩く。

別に意味はない。……ないけど、この距離が、なんとなく心地いい。

 

「……モエ!」

 

背後から、聞き慣れた声。

振り返った。

 

ウオッカが、こっちに向かって走ってくる。

その後ろから、スカーレットが歩いてくる。走らないのがスカーレットらしい。

 

「よ、久しぶり」

 

ウオッカが、何でもないことみたいに手を挙げた。

 

「……久しぶり」

 

いつぶりだろう。

声を交わすのは——オークスの前以来? いや、入院中に来てくれたっけ。でもあの頃の記憶は曖昧だ。

退院してから、この二人とは会っていない。

 

ウオッカの隣に、スカーレットが追いついた。

腕を組んで、ちょっとだけ目を逸らしている。

 

「……別に、たまたま通りかかっただけよ。練習場がこっちだっただけ」

 

嘘。第三練習場は学園の端にある。「たまたま通りかかる」場所じゃない。

 

「……うん。たまたまね」

 

突っ込まなかった。スカーレットの嘘に付き合うのは、昔からの暗黙のルールだ。

 

三人で並んで歩く。寮に向かって。

夕暮れの校舎。部活帰りのウマ娘たちが、ちらほら歩いている。

 

しばらく、誰も何も言わなかった。

気まずいんじゃない。何から話していいか、分からないだけ。

 

「……髪、伸びたね」

 

ウオッカが言った。

 

「え? ……あ、うん。切ってなかったから」

 

「入院してた時、もっと短かったよな」

 

「来てたんだ。覚えてなかった。ごめん」

 

「いいよ別に。寝てたし」

 

ウオッカがからっと笑った。

この子はいつもこうだ。深刻なことを、深刻にしない。

 

スカーレットが、横から小さく言った。

 

「……ちゃんと食べてるの? 顔色、前より良くなったけど」

 

「食べてるよ。マーチャンが毎日食堂に引っ張っていくから」

 

「あの子、相変わらずお節介ね。……いいルームメイトじゃない」

 

「うん」

 

また、沈黙。

でも、さっきよりは軽い。

 

「……ねえ」

 

スカーレットが、前を向いたまま言った。

 

「フェブラリーS、見てたわよ」

 

レースの話。来た。

でも、構えるほどの重さはなかった。スカーレットの声が、柔らかかったから。

 

「ダートなんか走るなんて思わなかった。……でも、勝ったじゃない」

 

「……うん」

 

「すごかったぜ、あれ」

 

ウオッカが横から入ってきた。

 

「エスポワールシチーとトランセンドの間を割って出てきた時、テレビの前でオレ叫んじまったもん。スカーレットもだろ?」

 

「叫んでない! ……ちょっと声が出ただけよ」

 

「ちょっとじゃなかっただろ。『嘘でしょ!?』って」

 

「うるさいわね!」

 

二人がいつもの調子で言い合っている。

その横で、私はちょっとだけ笑った。

 

なんだろう。この感じ。

久しぶりすぎて、懐かしい。

 

桜花賞の前は、こうやって三人で歩いてた。学食で一緒にご飯食べて、くだらない話して、練習の愚痴を言い合って。

オークスの後、全部なくなった。私が壊れて、入院して、距離ができて。

 

でも、今、また三人で歩いてる。

 

レースのことは、それ以上は聞かれなかった。

「体は大丈夫なの」とも聞かれなかった。

 

代わりに、スカーレットが「最近食堂のメニュー変わったの知ってる?」と言い出して、ウオッカが「木曜の唐揚げがなくなったんだよ、信じらんねえ」と怒り出して、私は「えっ、唐揚げなくなったの?」と素で驚いた。

 

くだらない話。

レースとも、体のことも、何も関係ない、くだらない話。

 

寮の前で別れる時、ウオッカが振り返った。

 

「モエ」

 

「ん」

 

「またメシ行こうぜ。三人で」

 

「……うん」

 

スカーレットが、ひらひらと手を振った。振り返らずに。

 

「じゃあね」

 

それだけ。

 

それだけなのに、胸の奥が温かかった。

 

友達って、こういうものだったんだ。

走ることと関係ない場所で、ただ隣にいてくれる人。

走れなくなっても、走れるようになっても、同じ距離で接してくれる人。

 

……あの二人、ずっと心配してくれてたんだろうな。

連絡しようか迷って、何を言えばいいか分からなくて。

フェブラリーSで勝ったのを見て、ようやく「大丈夫だ」と思えて。

 

ありがとう、とは言えなかった。

言ったら、たぶん泣く。ここで泣いたら、色々台無しになる。

 

だから、代わりに。

 

「……唐揚げ、復活してほしいな」

 

一人で呟いて、寮の玄関をくぐった。

 

秋華賞の夜から、胸の底で転がり続けていた小石。

あの二人と普通に話せたことで、少しだけ軽くなった気がする。

消えてはいない。でも、前より痛くない。

 

……あの二人には、あの二人の戦いがある。

私には、私の。

 

でも、またご飯に行ける。三人で。

それだけで、今は十分。

 

 

 

~~

 

 

 

夜。

 

寮の共有スペース。

 

いつもなら部屋にいる時間だけど、今日は違った。

共有スペースの大画面テレビの前に、寮生たちが集まっている。

 

サクラバクシンオーさんの引退記者会見。

 

学園の学級委員長にして、短距離の絶対王者。

その引退発表は、学園中の大ニュースだった。

 

共有スペースのソファは既に埋まっていて、床に座っている子もいる。マーチャンがどこかから持ってきたクッションの上で、目を輝かせてテレビを見つめている。フジキセキ先輩が後ろの壁にもたれて、穏やかな表情で画面を見ている。

 

私は一番後ろにいた。

 

壁際に立って、紙パックのミルクティーを飲みながら、ぼんやりと画面を眺めている。

 

テレビの中のバクシンオーさんは、いつも通りだった。

ぴしっと背筋を伸ばして、記者席に向かって胸を張って。

 

『えー、本日は、大切なご報告があります! 私、サクラバクシンオーは、今年度をもちまして、現役を引退いたします!!』

 

声が、でかい。記者会見なのに。マイクが割れている。

……この人は、記者会見でもバクシンオーさんだ。

 

共有スペースがざわついた。

知ってはいたけど、改めて本人の口から聞くと、やっぱり衝撃がある。

 

「バクシンオーさん、引退かぁ……」

「学級委員長がいなくなるの、寂しいね……」

「最後のレースはどこ出るんだろう」

 

ひそひそ声が飛び交う。

 

私は壁にもたれたまま、ミルクティーを啜った。

知ってた。一月に学園内でばったり会った時、本人の口から聞いてた。「今年で引退」「高松宮記念が最後のGⅠ」。

 

あの人の最後の舞台。芝1200メートル。三月末。

 

テレビの中で、記者から質問が飛んでいる。

 

『引退を決意された理由をお聞かせください』

 

『はい! 走ることは大好きです! 今でも大好きです! でも、スプリントの世界で、私はもう十分に走りました! やりきりました! 学級委員長として、胸を張ってそう言えます!』

 

やりきった。

この人が言うと、嘘がない。本当にやりきったんだ。

 

『最後のレースは高松宮記念ということですが、意気込みをお願いします!』

 

『もちろん、全力です! 最初から最後まで、バクシン的に全力で走ります! それが、私の走り方ですから!!』

 

いつも通りの、全力宣言。

テレビの向こうの記者たちが、微笑みながら頷いている。バクシンオーさんの引退会見は、厳粛というよりは明るい空気だ。この人の周りは、いつもそうだ。

 

ミルクティーを啜る。もう半分くらい飲んだ。

 

もうすぐ終わるかな。部屋に戻ろう。

 

そう思った時だった。

 

『最後に、高松宮記念で一緒に走りたいウマ娘はいますか?』

 

記者の質問。

ありがちな質問だ。引退会見のお決まり。普通なら「出走する全てのウマ娘と全力で走りたい」とか、そういう無難な答えが返ってくる。

 

バクシンオーさんは、一拍置いた。

 

この人が一拍置くのは、珍しい。いつも即答、即行動、考える前に口が動く人なのに。

 

『…………はい、います』

 

共有スペースが、しん、と静まった。

バクシンオーさんが「特定の誰か」を名指しするなんて、前例がない。この人は誰とでも全力で走る。指名なんて、しない人だ。

 

テレビの中のバクシンオーさんが、まっすぐカメラを見た。

 

いつもの弾けるような笑顔じゃなかった。

もっと静かで、もっと真剣で。

この人にこんな表情ができるのかと、驚くほどの——

 

『カレンモエさん!』

 

「——ッ!!」

 

ミルクティーを噴き出した。

 

口の中の液体が、盛大に飛び散る。手に持っていた紙パックが傾いて、制服の袖に茶色い染みが広がった。

 

共有スペースの全員が、一斉にこっちを見た。

 

テレビから、バクシンオーさんの声が続いている。

 

『カレンモエさん! 高松宮記念で、一緒に走りましょう!! 私の最後のGⅠに、貴方に来てほしい! ずっと待っていました! バクシーーーーーン!!!!』

 

最後だけいつものテンションに戻ってる。

でも、そんなことはどうでもいい。

 

共有スペースの全員の目が、私に集まっている。

マーチャンが口を開けたまま固まっている。フジキセキ先輩が目を丸くしている。知らない後輩たちが、ひそひそと囁き合っている。

 

「カレンモエって、あのカレンモエ?」「バクシンオーさんが名指し?」「えっ、高松宮記念に出るの?」

 

ミルクティーが袖から滴っている。手がべたべたする。

 

「…………」

 

私は、制服の袖で口元を拭いながら、テレビの画面を見つめた。

 

バクシンオーさんが、カメラに向かって満面の笑みを浮かべている。

あの新入生レースの日と同じ、純粋な、嘘のない笑顔。

 

「待ってます」。

 

あの日も、そう言われた。

「いつかスプリントに来てくれたら。待ってますから」

 

あれから一年以上。

あの人は、本当に待っていた。

 

そして今、引退レースの場に、私を呼んだ。

 

公の場で。全国放送で。逃げ場のない形で。

 

「……マーチャン」

 

「は、はいです」

 

「ティッシュある?」

 

「あ、あります。はいです」

 

マーチャンから受け取ったティッシュで、手と袖を拭く。

周りの視線が痛い。でも、それどころじゃない。

 

テレビの中で、記者たちがざわめいている。

バクシンオーさんは、質疑が終わっても笑顔のまま席を立っていた。

 

私は、共有スペースを抜け出して、廊下に出た。

 

壁にもたれる。

 

心臓が、うるさい。

 

高松宮記念。芝1200メートル。GⅠ。三月末。

あの人の、最後の舞台。

 

呼ばれた。

名前を呼ばれた。全国放送で。

 

次のレースは、まだ決めていなかったはずだ。

今日の昼、タキオンさんとも絢原さんとも「未定」と話したばかり。

 

なのに。

 

バクシンオーさんが、決めてしまった。

 

「…………」

 

壁に背中をつけて、天井を見上げた。

 

出走条件は満たしている。距離は1200メートル。私の適性距離。フェブラリーSでGⅠを勝っている。

 

断る理由は、ない。

 

でも。

 

あの人の引退レースに、私なんかが立っていいのか。

GⅢで凡走して、GⅡでたまたま勝って、ダートGⅠで体が勝手に動いただけの私が。

短距離の絶対王者の、最後のステージに。

 

……でも。

 

「待ってます」って、言われたんだ。

 

ポケットの中で、ウマホが震えた。

画面を見る。

 

絢原さんからのメッセージ。一言。

 

『見た』

 

……この人も見てたんだ。

バクシンオーさんの会見を見て、私の名前が出た瞬間、すぐにメッセージを送ってきた。

学園中の全員が同じ会見を見ていたはずなのに、一番最初に連絡してきたのは、この人。

 

……ちょっとだけ、嬉しい。

 

返信を打つ。

 

『……見てた』

 

すぐに返事が来た。

 

『明日話そう』

 

それだけ。

 

それだけなのに、少しだけ、息が楽になった。

この人がいるなら、明日になれば整理がつく。

二人で話せば、答えが出る。二人で。

 

ウマホをポケットにしまう。

廊下の窓から、冬の夜空が見える。

 

高松宮記念。三月末。

 

あの人が、待っている。

 

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