二月の終わり。
フェブラリーSから、一週間が経った。
あの日のことを、まだ整理できていない。
ダートのGⅠ。砂の上。初めての路線、初めての世界。
エスポワールシチーさんやトランセンドさんと並んで走って、体が反応して、勝った。
勝った後、トランセンドさんに言われた。
「楽しそうだったよね」
私は答えた。
「……嫌じゃなかった」
嘘だ。
嫌じゃなかったんじゃない。
気持ちよかった。
あの直線で、体が動いた瞬間。砂を蹴って、前に出て、風を切って。
阪神カップの時と同じ感覚。でも、阪神カップの時よりもっとはっきりと——「気持ちいい」と思ってしまった。
認めたら引き返せない。
そう思っていたのに、認めてしまった。
今、私の中に「気持ちよかった」がある。
消せない。消したくない。消したくないと思っている自分がいる。
……怖い。
でも、怖いのと同時に、あの感覚をもう一度味わいたいとも思っている。
それが一番怖い。
~~
第三練習場。
タキオンさんが、タブレットを操作しながら話している。
「フェブラリーSのデータ、実に面白いよ」
私と絢原さんが、ベンチに並んで座っている。
タキオンさんは立ったまま、画面をこちらに向けた。グラフが並んでいる。
「心拍数の推移だ。ここ、見たまえ」
指が、グラフの一点を指す。
「第三コーナーの手前。ここで跳ねてるだろう? 阪神カップの時と同じパターンだ。周囲のGⅠ級の出力に反応して、あの過剰同調反応が起きている」
「……はい」
「でもね、面白いのはここからさ」
指が、別の点を指す。ゴール後のデータ。
「ゴールを過ぎた後の心拍数の下がり方が、阪神カップとは全く違う。阪神カップの時はゴール後にガクンと落ちた。ストレス反応の終息だね。ところがフェブラリーSでは、ゴール後もしばらく高い数値が続いている」
「……それって」
「走り終わった後も、興奮状態が持続していた。つまり、君の体がまだ走りたがっていた、ということだよ」
心臓が、嫌な音を立てた。
走り終わった後も、まだ走りたがっていた。
それって、つまり——
「阪神カップではね、ゴールした瞬間に『恐怖』が来た。だから心拍数が急落した。でもフェブラリーSでは、恐怖が来なかった。代わりに来たのは……」
タキオンさんが、眼鏡の奥の目を細めた。
「……まあ、それは君自身が一番よく知っているだろう?」
知ってる。
「気持ちよかった」。
タキオンさんは、それ以上は踏み込まなかった。
この人はいつもそうだ。データを見せて、仮説を立てて、判断は本人に委ねる。
「で、次のレースだけど」
絢原さんが口を開いた。
「まだ決めてない。データを精査してから考える」
「妥当だね、トレーナーくん。急ぐ必要はないさ。フェブラリーSのデータだけでも、分析には時間がかかる」
タキオンさんがタブレットをしまった。
「一つだけ言えるのは、スクラップ・アンド・ビルドは順調だということだ。体の再構築は私の計算通りに進んでいる。壊れる心配はないよ。それは私が保証する」
「……壊れないのは分かってます」
私は小さく言った。
壊れるのが怖いんじゃない。
壊れないからこそ、走れてしまうことが怖い。
走れてしまうから、「気持ちいい」と感じてしまうことが怖い。
でも、それは口にしなかった。
タキオンさんは、たぶん分かっている。絢原さんも。
三人とも分かっていて、誰も言葉にしない。
~~
練習が終わって、第三練習場から寮に向かう道。
三月の風はまだ冷たい。でも、二月よりは少しだけ柔らかい。
日が長くなってきた。練習が終わっても、空がまだ明るい。
絢原さんと並んで歩いている。
タキオンさんは「データの海に潜るよ」と言って実験室に帰っていった。
二人きり。
練習後のこの時間が、実は一番好きだ。
タキオンさんがいると、二人の間で専門用語が飛び交って、私は置いてきぼりにされる。
でも今は、絢原さんの目が私だけを見てる。
歩幅を少しだけ狭めて、絢原さんの半歩後ろを歩く。
別に意味はない。……ないけど、この距離が、なんとなく心地いい。
「……モエ!」
背後から、聞き慣れた声。
振り返った。
ウオッカが、こっちに向かって走ってくる。
その後ろから、スカーレットが歩いてくる。走らないのがスカーレットらしい。
「よ、久しぶり」
ウオッカが、何でもないことみたいに手を挙げた。
「……久しぶり」
いつぶりだろう。
声を交わすのは——オークスの前以来? いや、入院中に来てくれたっけ。でもあの頃の記憶は曖昧だ。
退院してから、この二人とは会っていない。
ウオッカの隣に、スカーレットが追いついた。
腕を組んで、ちょっとだけ目を逸らしている。
「……別に、たまたま通りかかっただけよ。練習場がこっちだっただけ」
嘘。第三練習場は学園の端にある。「たまたま通りかかる」場所じゃない。
「……うん。たまたまね」
突っ込まなかった。スカーレットの嘘に付き合うのは、昔からの暗黙のルールだ。
三人で並んで歩く。寮に向かって。
夕暮れの校舎。部活帰りのウマ娘たちが、ちらほら歩いている。
しばらく、誰も何も言わなかった。
気まずいんじゃない。何から話していいか、分からないだけ。
「……髪、伸びたね」
ウオッカが言った。
「え? ……あ、うん。切ってなかったから」
「入院してた時、もっと短かったよな」
「来てたんだ。覚えてなかった。ごめん」
「いいよ別に。寝てたし」
ウオッカがからっと笑った。
この子はいつもこうだ。深刻なことを、深刻にしない。
スカーレットが、横から小さく言った。
「……ちゃんと食べてるの? 顔色、前より良くなったけど」
「食べてるよ。マーチャンが毎日食堂に引っ張っていくから」
「あの子、相変わらずお節介ね。……いいルームメイトじゃない」
「うん」
また、沈黙。
でも、さっきよりは軽い。
「……ねえ」
スカーレットが、前を向いたまま言った。
「フェブラリーS、見てたわよ」
レースの話。来た。
でも、構えるほどの重さはなかった。スカーレットの声が、柔らかかったから。
「ダートなんか走るなんて思わなかった。……でも、勝ったじゃない」
「……うん」
「すごかったぜ、あれ」
ウオッカが横から入ってきた。
「エスポワールシチーとトランセンドの間を割って出てきた時、テレビの前でオレ叫んじまったもん。スカーレットもだろ?」
「叫んでない! ……ちょっと声が出ただけよ」
「ちょっとじゃなかっただろ。『嘘でしょ!?』って」
「うるさいわね!」
二人がいつもの調子で言い合っている。
その横で、私はちょっとだけ笑った。
なんだろう。この感じ。
久しぶりすぎて、懐かしい。
桜花賞の前は、こうやって三人で歩いてた。学食で一緒にご飯食べて、くだらない話して、練習の愚痴を言い合って。
オークスの後、全部なくなった。私が壊れて、入院して、距離ができて。
でも、今、また三人で歩いてる。
レースのことは、それ以上は聞かれなかった。
「体は大丈夫なの」とも聞かれなかった。
代わりに、スカーレットが「最近食堂のメニュー変わったの知ってる?」と言い出して、ウオッカが「木曜の唐揚げがなくなったんだよ、信じらんねえ」と怒り出して、私は「えっ、唐揚げなくなったの?」と素で驚いた。
くだらない話。
レースとも、体のことも、何も関係ない、くだらない話。
寮の前で別れる時、ウオッカが振り返った。
「モエ」
「ん」
「またメシ行こうぜ。三人で」
「……うん」
スカーレットが、ひらひらと手を振った。振り返らずに。
「じゃあね」
それだけ。
それだけなのに、胸の奥が温かかった。
友達って、こういうものだったんだ。
走ることと関係ない場所で、ただ隣にいてくれる人。
走れなくなっても、走れるようになっても、同じ距離で接してくれる人。
……あの二人、ずっと心配してくれてたんだろうな。
連絡しようか迷って、何を言えばいいか分からなくて。
フェブラリーSで勝ったのを見て、ようやく「大丈夫だ」と思えて。
ありがとう、とは言えなかった。
言ったら、たぶん泣く。ここで泣いたら、色々台無しになる。
だから、代わりに。
「……唐揚げ、復活してほしいな」
一人で呟いて、寮の玄関をくぐった。
秋華賞の夜から、胸の底で転がり続けていた小石。
あの二人と普通に話せたことで、少しだけ軽くなった気がする。
消えてはいない。でも、前より痛くない。
……あの二人には、あの二人の戦いがある。
私には、私の。
でも、またご飯に行ける。三人で。
それだけで、今は十分。
~~
夜。
寮の共有スペース。
いつもなら部屋にいる時間だけど、今日は違った。
共有スペースの大画面テレビの前に、寮生たちが集まっている。
サクラバクシンオーさんの引退記者会見。
学園の学級委員長にして、短距離の絶対王者。
その引退発表は、学園中の大ニュースだった。
共有スペースのソファは既に埋まっていて、床に座っている子もいる。マーチャンがどこかから持ってきたクッションの上で、目を輝かせてテレビを見つめている。フジキセキ先輩が後ろの壁にもたれて、穏やかな表情で画面を見ている。
私は一番後ろにいた。
壁際に立って、紙パックのミルクティーを飲みながら、ぼんやりと画面を眺めている。
テレビの中のバクシンオーさんは、いつも通りだった。
ぴしっと背筋を伸ばして、記者席に向かって胸を張って。
『えー、本日は、大切なご報告があります! 私、サクラバクシンオーは、今年度をもちまして、現役を引退いたします!!』
声が、でかい。記者会見なのに。マイクが割れている。
……この人は、記者会見でもバクシンオーさんだ。
共有スペースがざわついた。
知ってはいたけど、改めて本人の口から聞くと、やっぱり衝撃がある。
「バクシンオーさん、引退かぁ……」
「学級委員長がいなくなるの、寂しいね……」
「最後のレースはどこ出るんだろう」
ひそひそ声が飛び交う。
私は壁にもたれたまま、ミルクティーを啜った。
知ってた。一月に学園内でばったり会った時、本人の口から聞いてた。「今年で引退」「高松宮記念が最後のGⅠ」。
あの人の最後の舞台。芝1200メートル。三月末。
テレビの中で、記者から質問が飛んでいる。
『引退を決意された理由をお聞かせください』
『はい! 走ることは大好きです! 今でも大好きです! でも、スプリントの世界で、私はもう十分に走りました! やりきりました! 学級委員長として、胸を張ってそう言えます!』
やりきった。
この人が言うと、嘘がない。本当にやりきったんだ。
『最後のレースは高松宮記念ということですが、意気込みをお願いします!』
『もちろん、全力です! 最初から最後まで、バクシン的に全力で走ります! それが、私の走り方ですから!!』
いつも通りの、全力宣言。
テレビの向こうの記者たちが、微笑みながら頷いている。バクシンオーさんの引退会見は、厳粛というよりは明るい空気だ。この人の周りは、いつもそうだ。
ミルクティーを啜る。もう半分くらい飲んだ。
もうすぐ終わるかな。部屋に戻ろう。
そう思った時だった。
『最後に、高松宮記念で一緒に走りたいウマ娘はいますか?』
記者の質問。
ありがちな質問だ。引退会見のお決まり。普通なら「出走する全てのウマ娘と全力で走りたい」とか、そういう無難な答えが返ってくる。
バクシンオーさんは、一拍置いた。
この人が一拍置くのは、珍しい。いつも即答、即行動、考える前に口が動く人なのに。
『…………はい、います』
共有スペースが、しん、と静まった。
バクシンオーさんが「特定の誰か」を名指しするなんて、前例がない。この人は誰とでも全力で走る。指名なんて、しない人だ。
テレビの中のバクシンオーさんが、まっすぐカメラを見た。
いつもの弾けるような笑顔じゃなかった。
もっと静かで、もっと真剣で。
この人にこんな表情ができるのかと、驚くほどの——
『カレンモエさん!』
「——ッ!!」
ミルクティーを噴き出した。
口の中の液体が、盛大に飛び散る。手に持っていた紙パックが傾いて、制服の袖に茶色い染みが広がった。
共有スペースの全員が、一斉にこっちを見た。
テレビから、バクシンオーさんの声が続いている。
『カレンモエさん! 高松宮記念で、一緒に走りましょう!! 私の最後のGⅠに、貴方に来てほしい! ずっと待っていました! バクシーーーーーン!!!!』
最後だけいつものテンションに戻ってる。
でも、そんなことはどうでもいい。
共有スペースの全員の目が、私に集まっている。
マーチャンが口を開けたまま固まっている。フジキセキ先輩が目を丸くしている。知らない後輩たちが、ひそひそと囁き合っている。
「カレンモエって、あのカレンモエ?」「バクシンオーさんが名指し?」「えっ、高松宮記念に出るの?」
ミルクティーが袖から滴っている。手がべたべたする。
「…………」
私は、制服の袖で口元を拭いながら、テレビの画面を見つめた。
バクシンオーさんが、カメラに向かって満面の笑みを浮かべている。
あの新入生レースの日と同じ、純粋な、嘘のない笑顔。
「待ってます」。
あの日も、そう言われた。
「いつかスプリントに来てくれたら。待ってますから」
あれから一年以上。
あの人は、本当に待っていた。
そして今、引退レースの場に、私を呼んだ。
公の場で。全国放送で。逃げ場のない形で。
「……マーチャン」
「は、はいです」
「ティッシュある?」
「あ、あります。はいです」
マーチャンから受け取ったティッシュで、手と袖を拭く。
周りの視線が痛い。でも、それどころじゃない。
テレビの中で、記者たちがざわめいている。
バクシンオーさんは、質疑が終わっても笑顔のまま席を立っていた。
私は、共有スペースを抜け出して、廊下に出た。
壁にもたれる。
心臓が、うるさい。
高松宮記念。芝1200メートル。GⅠ。三月末。
あの人の、最後の舞台。
呼ばれた。
名前を呼ばれた。全国放送で。
次のレースは、まだ決めていなかったはずだ。
今日の昼、タキオンさんとも絢原さんとも「未定」と話したばかり。
なのに。
バクシンオーさんが、決めてしまった。
「…………」
壁に背中をつけて、天井を見上げた。
出走条件は満たしている。距離は1200メートル。私の適性距離。フェブラリーSでGⅠを勝っている。
断る理由は、ない。
でも。
あの人の引退レースに、私なんかが立っていいのか。
GⅢで凡走して、GⅡでたまたま勝って、ダートGⅠで体が勝手に動いただけの私が。
短距離の絶対王者の、最後のステージに。
……でも。
「待ってます」って、言われたんだ。
ポケットの中で、ウマホが震えた。
画面を見る。
絢原さんからのメッセージ。一言。
『見た』
……この人も見てたんだ。
バクシンオーさんの会見を見て、私の名前が出た瞬間、すぐにメッセージを送ってきた。
学園中の全員が同じ会見を見ていたはずなのに、一番最初に連絡してきたのは、この人。
……ちょっとだけ、嬉しい。
返信を打つ。
『……見てた』
すぐに返事が来た。
『明日話そう』
それだけ。
それだけなのに、少しだけ、息が楽になった。
この人がいるなら、明日になれば整理がつく。
二人で話せば、答えが出る。二人で。
ウマホをポケットにしまう。
廊下の窓から、冬の夜空が見える。
高松宮記念。三月末。
あの人が、待っている。