バクシンオーの引退会見が終わって、三十分。
学園中が、ざわついていた。
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研究室。
アグネスタキオンは、椅子の上で腹を抱えていた。
「あっはっはっはっは! ダメだ、笑いが止まらない……! あの太陽、やってくれたねぇ……!」
モニターにはバクシンオーの会見映像がリプレイされている。『カレンモエさん! 高松宮記念で、一緒に走りましょう!!』。何度聞いても笑える。
「全国放送で名指し! しかもあのバクシンオーが! あのバクシンオーが、だよ? 誰とでも全力で走る、指名なんて絶対しないあの子が……! ああ、これは……これは……っ!」
涙を拭いた。笑いすぎて涙が出ている。
「モエくん、今頃どんな顔してるんだろうねぇ。ミルクティー噴いてるんじゃないかね。ふふ、彼女のリアクションが見たかった……惜しいなぁ」
椅子をくるりと回して、天井を仰いだ。
「しかし面白い。面白すぎる。データ収集の観点から見ても最高の展開だ。バクシンオーとカレンモエの1200メートル対決。あの子の体があの太陽に反応したら——ああ、どんなデータが取れるだろうねぇ」
目が輝いている。完全に実験者の目だ。
「……絢原くんのストレスが跳ね上がるだろうねぇ。メンタルケアと出走判断を同時にやらなきゃいけない。ああ、彼の胃壁が心配だ。心配なふりをしつつ観察しよう」
笑いが、まだ止まらない。
~~
理事長室の隣、事務局。
駿川たづなは、凍りついていた。
会見の生中継を見ていた。仕事の手を止めて、理事長と並んで小さなテレビを眺めていた。バクシンオーさんらしい明るい引退会見。最後の質問。いつもの「全員と全力で」が来るだろうと思っていた。
来なかった。
『カレンモエさん! 高松宮記念で、一緒に走りましょう!! 私の最後のGⅠに、貴方に来てほしい! ずっと待っていました!! バクシーーーーーン!!!!』
たづなの手が止まった。ペンが机から転がり落ちた。
隣で、理事長が扇子を広げた。
「衝撃ッ!!」
扇子にはいつの間にか「衝撃」の二文字が書かれている。いつ用意したのだろう。
「バクシンオーが名指しとは……! 前代未聞ッ! あの子がそこまで惚れ込んだウマ娘がいたとはッ!」
理事長の目が爛々と輝いている。小柄な体から溢れ出す圧が、狭い事務局を震わせている。
「これは支援せねばなるまい! 高松宮記念の特別観覧席を増設ッ! 費用はポケットマネーから——」
「理事長」
たづなが、穏やかに微笑んだ。
「まだ出走も決まっておりません」
「む」
「ポケットマネーの残高は先月の設備投資で底をついていたかと」
「…………善処ッ」
扇子をぱたんと閉じた。
内線が鳴った。
「はい、トレセン学園事務局、駿川でございます——」
『URA広報部です。先ほどのバクシンオー選手の会見について、カレンモエ選手の高松宮記念出走の予定は——』
「現時点では未定です。担当トレーナーに確認の上、追ってご連絡いたします——」
電話を切った。
今度は外線が鳴った。
「はい、URAで——」
『○○スポーツです。カレンモエ選手の高松宮記念出走に——』
「現時点ではコメントできません。正式な発表をお待ちくださいませ——」
切った。
今度は内線が鳴った。
「駿川です——」
『チケット販売部です。高松宮記念のチケット追加販売の——』
「まだ出走も決まっておりません。先走らないでくださいね?」
切った。
鳴った。鳴った。鳴った。
理事長が、また扇子を広げた。今度は「激励」と書いてある。
「たづな! ここが正念場だ! 踏ん張りたまえ!」
「……理事長」
たづなは受話器を肩に挟みながら、穏やかに微笑んだ。
「バクシンオーさんには後ほど、一言ご相談がございます。あらかじめ根回ししていただけると、事務方はとても助かりますと……お伝えいただけますか?」
にこにこしている。にこにこしているのに、事務局の室温が二度ほど下がった気がした。
理事長が、扇子を閉じた。
「……了解ッ」
声が、さっきより小さかった。
~~
栗東寮・廊下。
「聞いた聞いた! バクシンオーさんがモエちゃんの名前出したって!」
「全国放送で!?」
「マジマジ! しかもモエちゃんミルクティー噴いたらしい!」
「うわあ、マジかあ……」
寮生たちの声が廊下を飛び交っている。
フジキセキが、共有スペースの入り口に腕を組んで立っていた。
テレビはまだ会見後の解説番組を流している。「バクシンオー選手のまさかの指名に、スプリント界に激震が——」とアナウンサーが言っている。
フジキセキは、テレビを見ていない。
共有スペースの奥を見ている。
さっきまでそこにいたモエが、ミルクティーの染みを作って、マーチャンからティッシュをもらって、無言のまま部屋に帰っていった——その残像を。
「…………」
口元が、かすかに緩んだ。
「……やるじゃない、バクシンオー」
寮長としてではなく、一人のウマ娘として、小さくそう呟いた。
~~
共有スペースの隅。
マーチャンは、ウマホの写真フォルダを開いていた。
さっき撮ったミルクティー噴出の瞬間。完璧なタイミング。口から液体が放物線を描いている。構図も露出も申し分ない。
「……記録としては一級品ですね」
満足げに頷いてから、ふと気づいた。
これ、モエちゃんに見せたら怒られるやつだ。
「……絢原さんに送っておこうかな。保険として」
送った。
三秒後、既読がついた。
返信はなかった。
「…………既読だけ。絢原さんらしい」
マーチャンはウマホをポケットにしまって、テレビに視線を戻した。
解説者が「バクシンオー選手が特定の対戦相手を名指しするのは、現役を通じて初めてのことです」と言っている。
「……マーちゃんの目は誤魔化せないのです」
小さく呟いた。
「モエちゃん、噴いた時、ちょっと嬉しそうでした」
誰にも聞こえない声で。
~~
同時刻。事務局。
二十三回目の電話を切ったたづなの机に、スタッフが新たな書類を積んだ。
「駿川さん、高松宮記念の警備計画の見直しを——」
「駿川さん、報道各社からの取材申請が——」
「駿川さん、ファンクラブから問い合わせが——」
たづなは、にっこりと微笑んだ。
「はい。順番にご対応しますね♪」
ペンを取り直す。書類に目を通す。電話を取る。切る。取る。切る。
穏やかに。丁寧に。完璧に。
理事長が、恐る恐る扇子を掲げた。「応援」と書いてある。
「たづな。何かわしにできることは——」
「理事長は、バクシンオーさんに『次からは事前にお知らせくださいね』とお伝えいただければ十分です」
にこにこ。
「……それだけでよいのか?」
「ええ。それだけで。笑顔で、穏やかに、お伝えください」
にこにこ。
理事長は、長年の勘で理解した。
あれは「穏やかに伝えろ」ではない。「穏やかに伝えないと、次は私が直接参ります」という意味だ。
「……了解ッ」
扇子を静かに閉じた。
事務局のスタッフたちは、全員が同じことを思っていた。
たづなさんの笑顔が崩れないのが、一番怖い。
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