60話 朝
朝。
目が覚めた時、最初に思い出したのは、昨夜のミルクティーの味だった。
鼻から噴き出したミルクティー。制服の袖に広がった茶色い染み。共有スペースの全員の目。マーチャンの差し出したティッシュ。
……夢じゃなかった。
向かいのベッドでは、マーチャンがまだ寝ている。
いつもなら私より先に起きているのに、今日は珍しく寝坊。寝相は相変わらず壊滅的で、片腕がベッドからはみ出している。
枕元のウマホを手に取る。
絢原さんからのメッセージ。昨夜の続き。
『9時に第三練習場。二人で話そう』
二人で。
タキオンさんは呼ばないんだ。
……ちょっとだけ、嬉しい。
着替えて、顔を洗って、寮を出る。
三月の朝。空気はまだ冷たいけど、日差しに春の気配がある。
第三練習場に向かう途中、昨夜のことを反芻する。
『カレンモエさん! 高松宮記念で、一緒に走りましょう!!』
バクシンオーさんの声が、まだ耳に残っている。
全国放送。記者の前。逃げ場のない場所で。
あの人は、私を呼んだ。
バクシンオーさんが特定の誰かを名指しするなんて、前例がないとニュースで言っていた。あの人は誰とでも全力で走る。「この子と走りたい」と指名する人じゃない。
なのに、私の名前を出した。
……なんで。
新入生レースの日に「待ってます」と言われた。
一月に学園内で偶然会った時も「高松宮記念が最後のGⅠです」と教えてくれた。
あの人は、私のことを覚えていた。
一年以上前のあの日から、ずっと。
第三練習場。
絢原さんが先に来ていた。
ベンチに座って、コーヒーの紙コップを二つ持っている。片方は私の分。
「おはよ」
「……おはよう」
隣に座る。コーヒーを受け取る。温かい。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
朝の練習場は静かだ。誰もいない。風の音と、遠くから聞こえる鳥の声だけ。
この時間が好きだ。
絢原さんと二人きりの、誰にも邪魔されない時間。
タキオンさんがいると、この人の意識の半分がデータの方に行ってしまう。
今は全部、私に向いている。
「……昨夜の会見、見た」
絢原さんが、コーヒーを啜りながら切り出した。
「うん。見てた。ミルクティー噴いた」
「知ってる。マーチャンから写真が送られてきた」
「……え、撮られてたの」
「記録者だからな、あいつは」
マーチャン。あの子の反射神経は撮影に関してだけ異常だ。
「……で」
絢原さんが、前を向いたまま言った。
「高松宮記念。どうする」
どうする、と聞いている。
「出ろ」でも「出るな」でもない。いつもそうだ。この人は、私に選ばせる。
「……出走条件は満たしてる?」
「満たしてる。芝1200メートル。お前の適性距離。収得賞金も問題ない」
「……体は」
「タキオンに確認した。今朝メッセージが来てた。『スクラップ・アンド・ビルドは順調。高松宮記念の出走に医学的な障害はない』と」
今朝。タキオンさんも昨夜の会見を見て、すぐに判断したのだろう。あの人は仕事が速い。
「……じゃあ、走れるんだ」
「走れる。体の面では」
体の面では。
つまり、問題は体じゃない。
「……トレーナーは、どう思う」
「……俺の意見を聞きたいのか」
「聞きたい」
絢原さんが、コーヒーのコップを両手で包んだ。
考えている。この人が両手でコップを包む時は、言葉を選んでいる時だ。
「……バクシンオーが、お前の名前を出した」
「うん」
「あの人は、誰かを指名する人じゃない。誰とでも全力で走る。それがあの人のスタイルだ」
「……うん」
「その人が、引退会見で、わざわざお前の名前を出した。……理由は分からない。でも、軽い気持ちじゃないことだけは確かだ」
絢原さんが、ちらりとこちらを見た。
「お前が出たいなら、出る。お前が出たくないなら、出ない。俺はどっちにでもプランを組む。……お前の体のことは、俺が守る。それは変わらない」
「…………」
お前の体のことは、俺が守る。
この人は、いつもこう言う。
オークスの前も、フェブラリーSの前も。
そして、毎回、本当に守ってくれた。
……この人がいるなら、大丈夫。
「……出たい、とは違う」
「……ん」
「出たくない、でもない。……分かんない。でも」
コーヒーを啜る。苦い。砂糖入れてほしかった。でも、今は苦い方がいい。
「バクシンオーさんが、私の名前を呼んだ」
「ああ」
「新入生レースの日に、『待ってます』って言われた。一年以上前に。あの人は、ずっと待ってくれてた。引退レースの場で、私の名前を出してまで」
「……ああ」
「……あの人の最後のレースに出ないのは、嘘だと思う」
絢原さんが、少し目を見開いた。
「嘘?」
「待ってくれてた人の前で、逃げるのは嘘。自分に嘘をつくのは……もう、やめたい」
フェブラリーSの後から、ずっと考えていた。
「気持ちよかった」を認めた。認めてしまった。
もう「検査のために走ってるだけ」なんて言い訳は、自分でも信じていない。
走ることに、何かを感じ始めている。
それが何なのかは、まだ分からない。
でも、嘘をつくのはやめる。
「……出る」
声に出した。
「高松宮記念。出る」
絢原さんが、黙って頷いた。
それから、紙コップのコーヒーを飲み干して、立ち上がった。
「分かった。プランを組む。今日中にタキオンと打ち合わせる」
「……うん」
「三月末だ。準備期間は短い。ここからは毎日走る」
「……うん」
「それと」
絢原さんが、ポケットからウマホを取り出した。
「URAに出走登録の連絡を入れる。……向こうも待ってるだろう。昨夜の会見で名前が出た以上、問い合わせが殺到してるはずだ」
「……またたづなさんに迷惑かけるのか」
「あの人は慣れてる」
絢原さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
この人にしては珍しい。笑いを堪えている顔。
「……トレーナー、今ちょっと笑った?」
「笑ってない」
「笑った。目が笑ってる」
「……事実を述べている」
絶対笑ってた。
立ち上がる。空になった紙コップをゴミ箱に入れる。
「……ねえ、トレーナー」
「ん」
「……ありがとう。いつも、聞いてくれて」
「……仕事だ」
「仕事じゃないでしょ。……仕事の人は、朝からコーヒー二つ持ってこない」
絢原さんが何も言わずに歩き出した。
背中が、ちょっとだけ照れている気がする。この人の照れは背中に出る。
追いかける。半歩後ろ。いつもの距離。
高松宮記念。三月末。芝1200メートル。GⅠ。
バクシンオーさんの最後の舞台に、私が立つ。
あの人が待っていてくれた場所に、行く。
怖い。
でも、嘘をつくよりはマシだ。
寮に戻ったら、マーチャンに報告しよう。あの子はたぶん、昨夜の時点でもう全部分かってる。「やっぱり出るんですね」って、にこにこしながら言うに決まってる。
それから、キング先輩にも連絡しないと。
「高松宮記念に出ることになりました」って言ったら、「あら、迷ってたの? バクシンオーさんの最後の舞台よ。あの人に恥ずかしくない走りをしてきなさい」
なんて言ってくるんだろうな。目に浮かんでくる。
……友達って、ありがたいな。
空を見上げた。三月の空。青くて、高くて、春の匂いがする。
あと三週間。
走ろう。