「……1200メートルに出ろ、って?」
放課後のトレーナー室。梅雨の湿った空気が窓の隙間から忍び込んでくる。カレンモエの声は氷のように冷ややかだった。
机の上に広げられた出走登録用紙。次走の予定地は新潟レース場。距離は芝1200メートル。
彼女が最も忌み嫌い、そして最も適性があるとされる距離だ。
「ああ」
俺は彼女の視線から逃げずに頷いた。
「未勝利戦を勝ち上がるための、苦肉の策だ。言い訳はしない」
「約束が違うじゃん」
低い声。怒鳴るわけでも泣くわけでもない。静かに事実を突きつけてくる。
「私は中距離で勝つためにここに来たの。ティアラ路線を行くために契約したんだよ? 短距離に逃げるなんて一度も言ってない」
「逃げるんじゃない。先へ進むための戦略的撤退だ」
俺は言葉を選んだ。
「今の君は2000メートルのペース配分に苦しんでいる。体にギアの中間がないから、全力か停止かの二択で1600メートルを走ろうとしている。だが、未勝利戦を脱出しない限り、これ以上の強化もレース経験を積むこともできない」
未勝利戦で負け続ければ、出走できるレース自体が限られてくる。「勝てないウマ娘」にチャンスは無限には与えられない。伝説の娘であっても。
「一度勝てば、ゆとりができる。精神的にも、ローテーション的にもだ。それに」
彼女の目を真っ直ぐに見た。
「君の力が、どれだけの武器なのか。それを君自身が正しく理解する必要がある」
「自分の武器くらい、分かってるし」
フン、と鼻を鳴らした。
「分かっていない。君は自分の力を邪魔なものとして扱っている。だがそれは違う。磨けば中距離でも通用する武器になるはずだ。そのためには一度、枷を外して走ってみる必要がある」
詭弁に近いロジックだとは分かっている。だが、今の彼女には「勝利」という栄養が必要だった。負け癖がつけばどんな才能も腐る。まずは一つ勝つ。どんな形であれ、ゴール板を先頭で駆け抜ける感覚を思い出させる。
モエは長い沈黙の後、ふいっと顔を背けた。窓ガラスに映る表情は苦渋に満ちている。
「……一回だけ」
吐き捨てるように言った。
「一回だけだからね。これで勝てなかったら、もう二度と短距離なんて走らないから」
「ああ。約束する」
「……どうせ勝つよ。勝っても、全然嬉しくないけどね」
乱暴に椅子を引いて立ち上がった。その背中は戦場へ向かう戦士のものではなく、処刑台へ向かう囚人のように見えた。
~~
8月、新潟レース場。
真夏の太陽が容赦なくターフを焼いている。未勝利戦、芝1200メートル。
パドックに現れたカレンモエの姿に、観客たちはどよめいた。デビューから2戦連続で2000メートルを使われ惨敗した良血ウマ娘。それがついにスプリント戦に出てきたのだ。
圧倒的な1番人気。
だが、ざわめきは期待だけではなかった。
「おい見ろよ、あれ……」
「2000の時とは雰囲気が全然違うな」
「やっぱり、スプリントのパドックに立つと隠しきれないな」
過去2戦、中距離のパドックにいた時の彼女はどこか借りてきた猫のようだった。だが今、スプリント戦のパドックに立つ彼女は水を得た魚のようにハマっている。
前を見据える表情。研ぎ澄まされた筋肉のライン。ふとした仕草。それら全てがかつての閃光と酷似していた。まるでカレンチャン本人が若返ってそこにいるかのような錯覚。
「遺伝子ってのは怖えな」
「やっぱりこっちが本職だよ」
無責任な納得と好奇の視線。それらが熱量を持った質量となって、パドックの中央に立つ彼女に降り注ぐ。
俺はフェンス越しにモエを見ていた。彼女の表情は能面のように無機質だった。緊張も興奮も闘志さえも見えない。ただ淡々と仕事をこなす職人のような冷徹さだけが漂っている。
怒っているな、と俺には分かった。短距離に戻った途端に掌を返す観客に。それを強いた俺に。そして何より、この距離を「走りやすい」と感じてしまっている自分の体に。
~~
ゲートが開いた。
「ッ……!」
俺は思わず息を呑んだ。
速い。過去2戦とは比較にならない。何の迷いもなく先頭に立った。
いや、「立った」のではない。周りが止まって見えたのだ。
他のウマ娘たちが必死に加速しようともがいている横を、モエだけが涼しい顔ですり抜けていく。無理に抑える必要はない。スタミナを気にする必要もない。ただ、あるがままに、体が求めるままに地面を叩くだけ。
それだけで、後続を3馬身、4馬身と引き離していく。
『カレンモエ、速い! 速すぎる! 圧倒的なスピードで逃げを打つ!』
実況が絶叫する。俺の隣にいたベテランの記者が、震える手でストップウォッチを握りしめていた。
「すげぇ。前半600メートル、33秒台だぞ。未勝利戦のラップじゃねえ」
蹂躙だった。レースですらなかった。カレンモエという規格外の才能による暴力。
第4コーナーを回る。直線。本来ならここから追い比べが始まるはずだ。だがモエの独走劇は終わらない。
スパートをかけてすらいない。フォームを崩すこともなく、ただ淡々と直線を滑走していく。
その時、モエの意識は奇妙なほど澄み渡っていた。
——ああ、楽だ。
風を切る音しか聞こえない。心臓の鼓動も筋肉の軋みも呼吸の苦しさも何もない。ただ足を前に出すだけで、世界が後ろに流れていく。重力から解き放たれたような全能感。
努力も工夫も戦略もいらない。ギアを選ぶ必要すらない。この距離なら、全力で踏み続けるだけで足りる。
——これが、ママが見ていた景色?
甘美で、恐ろしいほどに心地よい誘惑。思考が溶けていく。「カレンモエ」という個人の自我が、圧倒的な「才能」の奔流に飲み込まれていく。
『強い! 強すぎる! 後続を突き放す一方! カレンモエ、独走!』
歓声が最高潮に達する。「いけー!」「そのままだ!」「やっぱりお前はそっちだ!」
モエの耳にもその歓声は届いていたはずだ。だが、それは自分への称賛には聞こえなかっただろう。「カレンチャンの娘」がようやく「あるべき場所」に戻ってきたことへの安堵と納得。個人の意志を無視した、血統への賛美。
ゴール板の前。一瞬だけスタンドへ視線を向けた気がした。その目は氷のように冷たく、どこか怯えていた。
1着。2歳コースレコードを更新。2着に大差をつけての勝利。
未勝利戦としては異例の、歴史的な圧勝劇だった。
~~
控室前の通路。肩で息をしていたモエは、2000メートルを走った時のような魂まで削られる消耗はなかった。それが何よりも恐ろしかった。
「お疲れ」
タオルを渡すと無言で受け取り、顔を拭った。勝利の喜びはない。安堵すらない。あるのは底知れない虚無感だけだ。
「簡単すぎた」
ポツリと漏らした。
「何も考えなくてよかった。ペース配分も、駆け引きも、我慢も、何もいらなかった」
自分の足を見下ろした。
「ただ走ったら、終わってた。周りが勝手に消えてた」
勝者の言葉ではない。あまりにもイージーに勝ててしまったことへの絶望だった。
「この二ヶ月、私は中距離のために血の滲むような努力をした。スタミナトレーニングも、ペース配分の練習も、死ぬ気でやった」
自嘲気味に笑った。泣き顔より痛々しい。
「でも、短距離の練習なんて一度もしてない。スタート練習すらしてない。それなのに」
拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込む。
「努力した2000メートルでは惨敗して、何も練習していない1200メートルでは圧勝した。これが意味することなんて、一つしかない」
声が震えている。
「
「モエ」
「ねぇ、トレーナー。聞こえた?」
スタンドの方を指した。
「みんな、私の名前を呼んでた。でも、あれは私への歓声じゃない」
唇を噛んだ。血が滲むほどに。
「今日、私は何もしていない。ただ、ママからもらった体で走っただけ」
「だから、もし誰かに『カレンチャンのお陰だね』って言われたら……私はきっと、否定できない。それが死ぬほど悔しい」
勝利したのに。圧倒的な才能を見せつけたのに。その結果が証明したのは「カレンモエの努力は無価値である」という残酷な事実だけだった。
「行くよ。ウイニングライブ」
タオルを押し付けてきた。
「センターなんでしょ? 歌って踊って愛想振りまいてくる。勝ったウマ娘の義務だから」
背筋を伸ばし、ステージへ向かう通路に消えていった。その背中は敗北した時よりずっと小さく見えた。
~~
ウイニングライブは盛況だった。
センターに立つカレンモエは完璧だった。ダンスのキレもカメラへのアピールも母譲りの愛らしさで観客を魅了した。「カレンチャンの再来」を期待するファンにとって、これ以上ない回答。
だが俺だけは知っている。スポットライトを浴びる彼女の瞳が死んでいることを。
ライブが終わり、夕暮れの帰り道。
「すごかったな、今日の走り」
沈黙に耐えかねて口を開くと、冷ややかな声が返ってきた。
「お世辞はいらないよ」
「お世辞じゃない。君の力は間違いなく才能だ。誇っていい」
「誇る? 努力も工夫もいらない、ただ生まれ持っただけの力で勝って、それを誇れって?」
「モエ」
「私は私の力で勝ちたかった。ママから貰ったものじゃなくて、私が積み上げたもので勝ちたかったのに」
声が茜色の空に響く。
贅沢な悩みだ。勝ちたくても勝てないウマ娘はごまんといる。才能に苦しむなんて傲慢かもしれない。
だが彼女にとっての「勝利」はゴール板を先頭で通過することではない。「自分自身」を確立することだ。
「でも、勝ったことは事実だ」
俺はあえて厳しい言葉を選んだ。
「これで未勝利戦は脱出した。次は、君の望む場所へ行ける」
「……」
「1200メートルで勝てた。なら、その力をもっと長い距離で活かす方法だってあるはずだ。諦めるな」
モエはしばらく俺を睨んでいたが、やがて視線を逸らした。
「分かってる。諦めるなんて言ってないし」
歩き出した。
「ただ……少しだけ、吐き気がするだけ」
~~
寮に帰り着いたのは日が落ちてからだった。モエは疲れ切った様子で部屋のドアを開けた。
「ただいま」
部屋の中は静かだった。同室のアストンマーチャンは机に向かい、モニターに映る今日のレース映像を食い入るように見つめている。
振り返った。
「あ。おかえりなさい、モエちゃん」
いつもと変わらない、おっとりとした独特な敬語。
「起きてたんだ」
「ええ。伝説の目撃者として、貴女の帰りを待っていましたから」
マーチャンは椅子から立ち上がり、モエに近づいた。静かだが、熱っぽい瞳。
「見ましたよ、今日のレース。……圧巻でしたね」
「嫌味?」
「いいえ。純粋な感想です」
首を傾げた。
「貴女が中距離という茨の道を選んだ時……マーちゃんは、少しだけ寂しかったんです」
「え?」
「貴女の輝く場所はそこではないと、知っていましたから。世界が貴女という存在を誤解したまま記憶してしまうのが、悲しかった」
一歩、歩み寄る。
「でも、今日の走りで確信しました。やっぱり、貴女はこちら側の住人です」
モニターのリプレイ映像を指した。ゴール直後、独走状態で駆け抜けるカレンモエの姿。
「誰も前にいない、絶対的な孤独と全能感。それを噛み締めている顔です」
「……」
「マーちゃんには分かります。貴女はレース中、何も考えていなかったでしょう? ただ気持ちよく走っていた。それが本能です。生き物が輝く瞬間なんです」
モエは言葉を失った。反論しようとした口が動かない。図星だったからだ。あの全能感を「心地よい」と感じてしまった自分を、否定しきれなかったからだ。
「キラキラしていましたよ、モエちゃん。貴女には、そうやってキラキラした記録をたくさん残してほしい」
慈しむような、それでいて逃がさないような瞳で微笑んだ。
「
帰宅の挨拶ではなかった。本来あるべき
モエはギリ、と奥歯を噛んだ。
「ただいまは、言わないから」
「おや?」
「勘違いしないで。帰ってきたんじゃない」
マーチャンとモニターの中の自分を交互に見て、吐き捨てた。
「ただの寄り道。忘れ物を取りに来ただけ」
「……」
「私は必ず
自分自身への警告でもあった。
「そうですか」
マーチャンは残念そうに、けれどどこか嬉しそうに目を細めた。
「でも、マーちゃんは待っていますよ。貴女と競い合える日を」
「待ちくたびれても知らないからね」
モエは逃げるようにシャワー室へ駆け込んだ。冷たい水を頭から被り、鏡を見る。
マーチャンの言う通りだ。レース中の高揚感。誰にも追いつかれない絶対的な自信。麻薬みたいに体に残っている。
練習なんてしていないのに。ただ、生まれ持ったものだけで。
——あんなの、私じゃない。
何度も言い聞かせた。あれはママの影だ。私はもっと苦しくて重い場所で戦いたい。もっと泥臭くて、必死にならなきゃ勝てない場所で。
湯水と一緒に「勝利の味」を洗い流そうとする。だがその甘美な感覚は、容易には消えてくれそうになかった。
屈辱の圧勝。それはカレンモエにとって、敗北以上に心を蝕む猛毒だった。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。
モエがあっさり2歳コースレコードを取れたのは、モエと駆け引き出来るレベルのウマ娘のいない『未勝利戦』だったからです。
重賞になってくると、駆け引きや戦略のぶつかり合いで消耗させられますからね。