「……1200mに出ろ、って?」
モエは机の上の紙を見たまま、聞き返した。
窓の外では蝉が鳴いていた。開けておいた窓から熱い風が入り、紙の端が浮く。俺が手で押さえると、モエの視線がその指へ動いた。
8月、新潟レース場。芝1200mの未勝利戦。
「次は、このレースを考えている」
「これが、考え直した作戦?」
「ああ」
モエは椅子の背へ身体を預けた。膝に置いていた鞄を抱え直し、それきり紙を見なくなった。
「約束が違うじゃん。私は中距離で勝ちたくて、トレーナーに頼んだんだよ」
「ティアラを目指すつもりは変わっていない。そのためにも、まず1勝して、未勝利を抜けたい」
「その1勝を、1200で取るってこと?」
「そうだ。勝ち上がれば、出られるレースが増える。未勝利戦の中から次を探すだけでなく、距離や時期を選べる幅を広げられる。ティアラへ向かう日程を組むためにも、先にその1勝を取りたいんだ」
俺は福島の記録を手元へ引いた。向こう正面の動きについて書いたところで目が止まったが、今日はそれを一から読み上げるつもりはなかった。
「今のまま2000に出ても、直線に脚を残せる見込みは立っていない。だが、1200なら、無理に抑えず、前に出たまま勝ち切れる可能性があると思っている。そこで1つ勝って、長い距離をどう走るかは、その後も考える」
モエは顔を上げた。
「それ、勝ってからも考えるって言ってるだけでしょ。今は、どうすればいいか分かんないんだよね」
「……そうだ」
「じゃあ、2000の練習をすればいいじゃん。私、やるよ。きつくても、文句言っても、ちゃんと来てたでしょ」
「ああ。来ていた」
「もう嫌だって、やめたことないでしょ」
俺は頷いた。モエは返事を待つようにこちらを見ていたが、俺が出走予定の紙を引っ込めないと分かると、視線を落とした。
「……トレーナーの方が、嫌になった?」
「君と練習するのが嫌になったわけじゃない」
答えが早くなった。俺は一度息を整えてから、言葉を続けた。
「分からないまま、同じ練習を増やすのはやめたい。君が必死に続けてくれた分、これで次は持つと言いたかった。だが、福島でも、道中で疲れ切っていた」
彼女は唇を噛み、鞄の上へ目を落とした。
「2000を走る課題は残る。それでも、勝つ見込みのあるレースで1勝しておくことは、先につながる。今回は1200で勝ち上がることを優先したい。君が嫌がる距離なのは承知で、頼んでいる」
モエは長い間、何も言わなかった。
紙を見せる前に、何から話すか考えた。勝ち上がる意味も、今の走りの課題も、自分なりに順番を決めておいた。だが、モエが何を言うかまで決められるはずもなかった。
「……昼にさ」
ようやく口を開いた彼女の声は、少し掠れていた。
「ウオッカとスカーレットに、勝ったところ見せるって言ったんだよ。ティアラで一緒に走るって」
「そうか」
「それで、次が1200って。私、何て言えばいいの」
俺は答えられなかった。彼女は鞄の持ち手を握り直し、もう一度、机の上へ目を向けた。
「1勝しないと出られないレースがあるのは、分かってるよ。……でも、私が勝ちたかったのは、ここじゃない」
モエは1200の数字を見つめたまま黙り、少しして顔を上げた。
「勝ったら、やっぱりここにしようって言わない?」
「短距離を走り続けることに、勝手に変えたりはしない。ティアラへ行くための1戦として提案している」
「……私、まだ仮のつもりだからね」
「ああ」
「これで勝ったからって、何でも言うこと聞くようにはならないよ」
「分かっている」
モエは紙を手元へ引き寄せた。日程と距離を順に読み、最後に1200の数字を見つめた。
「1回だけ」
俺を見る。
「勝っても、ここに残らないから。ウオッカたちのところへ行く。そのために走るだけ」
「ああ。そのつもりで準備する」
モエは紙を折り、鞄へ入れた。椅子を引く音が大きく響いたが、立ち上がった後は静かだった。
「……どうせ勝つよ。これで負けたら、何も残んないじゃん」
返事をする前に、彼女は扉へ向かった。俺はその背中を見送り、机に残った福島の記録を閉じた。
~~
新潟のパドックは、日陰まで暑かった。
前の子に続いて歩きながら、私は柵の向こうを見ないようにしていた。顔を上げるとカメラを向けられる。下げていれば、緊張しているのかと声が飛んでくる。
「やっと1200に来たな」
聞こえた方へ耳が動き、すぐに前へ向け直した。
「最初からここに出してりゃよかったんだよ」
「今度は勝つだろ。あのスピードなら」
好きに言えばいいと思った。今日は、走って勝てば済む。誰かの後ろへ入る必要も、追いつきそうになって止める必要もない。トレーナーも、無理に控えなくていいと言っていた。
1番人気だった。
前に同じ順位の期待を受けた時には、16着になった。あの時と同じ顔が客席にあったとしても、私には分からない。分かるのは、今日の距離を見ただけで、安心したように笑っている人がいることだった。
柵の向こうにトレーナーを見つけた。こちらを見ていたので一度だけ頷くと、あの人も頷いた。
来る前に、もう1度だけ確かめた。
勝ったら、長いところへ戻るんだよね。
トレーナーは、戻るために考えると答えた。今の私には、それを聞いておくことしかできなかった。
コースへ出ると、緑の芝が陽射しを返していた。ゲートの向こうへ目をやり、これから走る道を確かめる。準備の間にも、後ろの方から歓声が聞こえた。
自分の枠へ入り、足を置いた。
前へ出ていい。
そう考えただけで、身体が少し前へ傾いた。いつもなら、その姿勢を戻していた。隣が出るのを待って、腕を小さくして、追いつかないようにしなければいけなかった。
今日は、目の前の扉を見ていた。
~~
ゲートが開いた。
俺が時計を押した途端、白い髪が出走者たちの列から抜け出した。
モエの隣にいた子も、出遅れたわけではない。深く身体を倒し、腕を引いて加速している。その肩が、モエの背中より後ろへ落ちた。次の一歩で間が空き、さらに次の踏み込みで、追いつくために埋めなければならない距離ができた。
『カレンモエ、好スタート! 先手を奪います!』
外から1人、並びかけようと脚を伸ばした。モエは顔さえ向けずに走っている。相手が内へ寄せる前に抜け出し、空いたコースへ一直線に出た。
「速い……!」
声が漏れた。俺が双眼鏡を上げる間にも差は広がり、追走する先頭との間に、3馬身、4馬身と芝が見えた。
モエの腕が大きく振られている。身体を前へ投げ出すような踏み込みを、次の脚が受け止め、そのまま送り出す。抑えようとして上体を起こす動きが、一度も入らなかった。
『速い! カレンモエ、後続を引き離して第3コーナーへ!』
追っていた子がさらに腕を振った。背後の走者も外へ持ち出し、前を追い始める。モエは曲線に沿って身体を傾け、長い歩幅をほとんど変えずにコーナーへ飛び込んだ。
その背中を、誰も捉えられない。
周りで椅子の跳ね上がる音がした。隣の客が立ち上がり、コースを指して何か叫んだが、後ろから重なった歓声に消された。
俺はモエの肩を見ていた。あそこが揺れ始めると、脚が詰まった。東京では、そこから瞬く間に後続へ呑まれた。双眼鏡の中の白い髪を追いながら、握った時計が掌へ食い込んでいることに気づいた。
第4コーナーを回る。
モエが直線へ向いた。後ろの集団が横へ広がり、外から追い出した子が大きなストライドで伸びてくる。
俺は息を詰めた。
モエも伸びた。
コーナーを抜けた勢いのまま、白い髪が後ろへ流れる。追う子の腕が激しく振られ、顔が前へ突き出た。その全力の追走を、モエの一歩が引き離した。もう一歩で、さらに開く。
『カレンモエ先頭! 後続が追う! しかし差が縮まらない――まだ広がる!』
双眼鏡を下ろした。モニターの画面が引かれ、先頭と2番手が小さくなる。その間に空いた芝の広さを見て、背筋が粟立った。
勝ち切れるのではないかと思っていた。だが、こんな差まで考えてはいなかった。
「行け、モエ!」
喉が痛むほど声を出した。目の前を駆け抜けていくモエの脚は、まだ大きく伸びていた。接地のたびに身体が弾み、後ろへ蹴り上げた芝が散る。顔は前を向いたまま、隣へ来る相手を探しもしなかった。
『残り200! カレンモエ、独走! 強い、これは強い!』
観客が柵へ身を寄せ、腕を振り上げた。名前を呼ぶ声も、行けと叫ぶ声も、モエが通り過ぎた後ろで重なっていく。先頭を追っていた子の肩が上下に揺れ始めても、モエの背中は遠ざかり続けた。
ゴール板が迫る。
俺は時計を持つ手を上げた。最後の数歩まで腕を振り切り、モエが先頭で駆け抜ける。指を押し込んだ時には、客席の叫びが一つの轟音になっていた。
『カレンモエ、今1着でゴールイン! 圧勝です! 2着に大差をつけて、初勝利を挙げました!』
まだ後続が来ない。
俺はゴール板から目を離せずにいた。ようやく2着の子が通過し、その後ろから走者が続いてくる。モエはすでに速度を落とし、コースの先で白い髪を揺らしていた。
手元の時計を見た。掲示板を見上げ、もう一度、数字を確かめた。
レコードだった。
『ジュニア級のコースレコードを更新! カレンモエ、新潟の1200mで、圧倒的なスピードを見せつけました!』
隣から肩を叩かれた。誰かが、すごいものを見た、と繰り返している。俺は頷いたが、すぐには言葉を返せなかった。
コースの先で、モエがスタンドへ顔を向けた。
~~
速度を落としても、まだ身体が前へ行こうとしていた。
私は歩きながら後ろを振り返った。ゴールを過ぎた子たちが足を緩め、膝へ手をついている。誰にも並ばれなかった。直線へ向いてからも、足音が近づいてこなかった。
風に頬を叩かれながら、もっと脚を伸ばせると思った。実際に踏めば、身体は前へ出た。止めなくていい。それが気持ちよくて、ゴールが迫る頃には、口元まで緩みそうになっていた。
私は、勝った。
掲示板の一番上に、自分の番号があった。
数字を見ている間も、胸が高鳴っていた。もっと走れそうな気がしたのは、興奮していたせいだと思う。息は苦しいし、汗も流れている。それでも、すぐにはこの場を離れたくなかった。
スタンドへ顔を向けると、両手を振ってくれる人がいた。
「モエー! 強かったぞ!」
私も手を上げかけた。
「やっぱりカレンチャンの娘だな!」
肘が曲がったところで止まった。
隣の客も笑って頷き、こちらへ手を振っていた。
私はゆっくり手を下ろした。
勝てば分かると思っていた。どれだけ苦労しても、先頭でゴールへ入れば、自分のことを誇れると思っていた。
でも、今日の私は、一度も抑えなかった。
毎朝あんなに繰り返したことを、今日はやらなくてよかった。それで、誰も追いつけなかった。
戻るように促され、コースの出口へ向かった。歩いても膝が折れそうにはならない。そのことにほっとした自分が、どうしようもなく嫌だった。
~~
戻ってきたモエへ、タオルを差し出した。
「おめでとう。よく走った」
彼女は受け取ったが、顔へ当てずに手元で広げた。汗が顎から落ち、タオルの上に小さな染みを作った。
「……勝ったね」
「ああ。大差だった」
「簡単すぎた」
俺は続けようとしていた言葉を止めた。
モエはタオルを額へ押し当て、しばらくそのままでいた。呼吸はまだ速かったが、2000mを走った後のように、座る場所を探してはいなかった。
「前へ出て、そのまま走ったら、終わってた。誰も来なかった。最後に頑張ろうって思う前に、もう勝ってた」
「直線でも脚は伸びていた。君が走って、離したんだ」
「……うん。私が走ったよ」
タオルを下げ、こちらを見る。
「私が走ったのに、全然、欲しかった勝ち方じゃなかった」
通路の向こうで、スタッフがこちらへ会釈した。俺も返し、モエを壁際へ誘った。彼女は数歩ついてきて、人気の少ないところで足を止めた。
「ずっと2000の練習をしてたじゃん。あんなに苦しくても、毎日やってたじゃん」
「ああ」
「ここで勝つためにやってたんじゃない。1200で勝つための練習なんて、してない。それなのに、こっちに来たら、こんなに簡単に勝てちゃった」
モエは下を向いた。タオルの端が、握った手の間で細くなった。
「今までの練習も、今日につながっていると思う。泳いだことも、走り続けたことも」
「それで勝ったって、分かるの?」
彼女が顔を上げた。
「私には分かんないよ。毎日やってた抑え方も、後ろのつき方も、今日は何にも使わなかった。ただ走っただけで、あんなに離れたんだよ」
俺は、開きかけた口を閉じた。距離を短くすれば、今の力で走り切れるのではないかと考えた。その見込みが当たり、初めて勝ち上がれた。
だが、モエはその結果を前に、今までの自分を疑っていた。
「誰かに、ママ譲りの才能だねって言われたら、私、何て返せばいいの」
彼女の目が俺を捉えた。
「そんなことないって、言いたいよ。私が頑張ったから勝ったって。でも、頑張ってた2000じゃ勝てなくて、ここに来たら勝っちゃった。……これじゃ、みんなの言ってたとおりじゃん」
声の終わりが掠れた。モエはタオルへ顔を伏せ、強く押しつけた。
「走ってる時は、気持ちよかったの」
低い声だった。
「もう止めなくていいんだって。どんどん離れるし、ゴールがすぐ来て……。ママも、こんなふうに走ってたのかなって思った」
彼女はそこで黙った。
俺は、勝った時のために用意していた言葉を、何も使えなかった。走る姿を見て嬉しかった。先頭のまま直線へ入り、最後まで伸びた時には、自分でも分かるほど大きな声を出していた。
同じレースを走った彼女が、今は顔を隠している。
少しして、モエはタオルを下ろした。
「ライブ、行かなきゃ」
「まだ時間はある」
「準備する。真ん中なんでしょ、今日は」
俺は頷いた。彼女は、わずかに口元を上げた。
「立ちたいって言ったもんね。……ちゃんと、やってくるよ」
タオルを俺へ返し、控室へ向かった。呼び止めようとして名前を口にすると、彼女は足を止めたが、振り返らなかった。
「次は、長いところへ戻るための話をしよう」
「……忘れないでよ」
扉が開き、彼女の姿が見えなくなった。
~~
ステージの中央へモエが立つと、客席から名前が上がった。
大差勝ちを見た興奮が、まだ客席に残っていた。モエは正面を見渡し、ゆっくり口元を緩めた。それだけで名前を呼ぶ声が増えたが、すぐには手を振らず、客席を見つめたまま片手を耳の横へ上げた。
もっと聞かせて、と促す仕草だった。
歓声が一段大きくなると、満足したように笑った。小さく頷いてみせた彼女へ、前列の客がさらに腕を振る。その様子に目を留め、今度は指先で軽く手招きした。
「後ろのみんなも、ありがと。最後まで、モエのこと見ててね?」
甘い声に、後方からも名前が上がった。隣の客が思わず立ち上がり、俺の前でもペンライトが一斉に振られた。
曲が始まる。
モエは音の立ち上がりに合わせて踏み出した。腕を広げ、軽く身を翻すと、照明を受けた白い髪が弧を描く。大きく動いた後の足運びにも淀みがなく、両隣と振りを揃えながら、歌い出す寸前には正面のカメラを見据えていた。
モニターに顔が大きく映った。少しだけ顎を引き、こちらを覗き込むように歌う。目を合わせていると思わせたところで片目を閉じ、指先で作ったハートを差し出す。声が上がった時には、もう手をほどき、次のステップへ移っていた。
俺の前に座っていた客まで、隣の連れを叩いてモニターを指していた。
「ライブまで、こんなにすごいのかよ」
モエが腕を上げると、客席にも腕が上がった。歌の合間にマイクを向ければ、待っていたように声が返る。彼女はそれを聞き、まだ足りないとでもいうように首を傾けた。次に返った声は、最初のものを呑み込むほど大きかった。
モエは楽しそうに笑い、マイクを唇へ戻した。
誰もが彼女を見ていた。俺も、目を離せずにいた。
俺は膝に置いていたタオルへ目を落とした。通路で返されたものを、畳んで持ってきていた。モエはこれへ顔を押しつけて、しばらく上げられずにいた。
『誰かに、ママ譲りの才能だねって言われたら、私、何て返せばいいの』
通路で、俺を見ていた目を思い出した。そう言われたら否定できないと苦しんでいた彼女が、今はあの笑顔で客席を見渡している。
サビに入ると、モエが一歩前へ出た。伸ばした腕を大きく開き、客席へ向けて歌い上げる。声にも、動きにも、遠慮がなかった。こちらを真っ直ぐに見る目と、余裕を残した笑顔に、歓声がまた膨らんだ。
「モエー!」
モエがこちらの一角へ手を伸ばす。隣の客はその指先を追い、呼ばれたかのように身を乗り出した。俺も顔を上げてしまったが、モエの視線はすでに次の方へ向いていた。
「そっくりだなあ。あの笑い方まで」
すぐ後ろで、誰かがしみじみと言った。
ステージでは、モエが頬の横へ指を添え、甘えるように首を傾けていた。母とよく似た顔で、カメラの向こうを覗き込む。歌い終わりの唇に笑みを残し、次の振りへ移る寸前まで視線を離さなかった。
歓声が上がった。後ろの客は連れと頷き合い、懐かしむように目を細めてモニターを見ていた。
モエにも、それは分かっているはずだった。
『……ちゃんと、やってくるよ』
控室へ向かう時の言葉を思い出した。何を見せれば喜ばれるのか、彼女は知っている。今日は、その期待に一つ残らず応えてみせていた。
胸が痛かった。
母から受け継いだものだけで勝ったと思われたくなくて、あれほど苦しんでいた。そのモエが、自分の手で「カレンチャンの娘」にふさわしい姿を仕上げていく。
膝のタオルを鞄へしまい、ステージを見上げた。モエが歌い、踊り、客席へ視線を送るたびに、拍手も歓声も大きくなる。もう十分だと言いたかったが、モエはその声に応え、また可愛らしく笑った。
モエは最後の音に合わせて姿勢を決めた。弾んだ息を整えながら、両隣の子と手を繋いで頭を下げる。顔を上げれば、また笑顔だった。
客席が拍手に包まれ、俺も手を叩いた。モエはその音の中で、名残惜しそうにもう一度振り返った。小さく手を振り、最後にカメラへ笑いかける。姿が袖へ消えても、客席ではまだ彼女の名前が呼ばれていた。
レース場を出た後、駅へ向かう道で、俺から口を開いた。
「ライブ、見事だった」
「……あれくらい、できるよ」
モエは前を向いたまま、事もなげに答えた。
それで話が途切れた。前を歩いていた客がこちらに気づき、おめでとうと声を掛ける。モエはありがとうございますと答え、軽く頭を下げた。
客が先へ行ってから、鞄の紐を肩へ掛け直した。
「みんな、嬉しそうだったね」
「強いところを見たからだろう」
「うん。見たかったんだろうね、ああいうの」
横顔を見たが、彼女は前を向いたままだった。
駅が近づくにつれ、歩いている人が増えた。俺たちは道の端へ寄り、少し速度を落とした。モエは鞄へ手を入れたが、スマホを出さずに手を戻した。
「……連絡、いっぱい来てると思う」
「今すぐ返さなくてもいいだろう」
「ママにも、あとで電話しなきゃ」
俺は何も言わずに歩いた。モエは少し間を置いてから、こちらを見た。
「私が嬉しくないって、言わないでね。ママには」
「ああ。君のいないところで、その話はしない」
「せっかく勝ったのに、困らせたくないから」
頷くと、彼女は目を伏せた。歩くたびに髪の先が頬へ触れ、それを指で払ってから、声を落とした。
「でも、嬉しいふりするのも、ちょっと疲れた」
駅へ続く階段の手前で、モエが足を止めた。上を見て、ゆっくり息を吐く。
「少し、気持ち悪い。休んでいい?」
「ああ。あっちに座れる場所がある」
人の流れから離れ、ベンチへ向かった。モエが腰を下ろすと、俺は水のボトルを渡した。受け取った彼女は蓋を開けたが、すぐには飲まず、膝の上へ置いた。
隣へ座り、帰りの時刻を確かめた。予定の列車までは、まだ時間があった。
「……ティアラ、諦めたわけじゃないから」
「ああ」
「今日、走りやすかったけど。だからって、ここでいいとは思ってない」
「分かっている。今日はもう、次のことを決めなくていい」
モエは少し水を飲み、ボトルを両手で持った。
俺が時刻表の画面を閉じると、彼女も何も言わなくなった。立ち上がれるようになるまで、しばらくそこで休んだ。
~~
寮の部屋の前で、私は鞄から鍵を取り出した。
帰る途中で何度かスマホを見たが、ママには、勝ったよと短く送るのが精一杯だった。すぐに返ってきた、おめでとうの文字を読んで、今日は疲れたから電話は明日にすると打った。
嘘ではない。早くシャワーを浴びて、寝てしまいたかった。
扉を開けると、マーチャンが机に向かっていた。短く揃った髪の向こうで、モニターが明るく光っている。画面を見なくても、聞こえてくる実況で何を再生しているのか分かった。
私の名前が呼ばれていた。
「……帰ったよ」
「あ。おかえりなさい、モエちゃん」
マーチャンが振り向いた。寝間着姿で椅子に座り、机の隅には小さなマーチャン人形が置いてある。いつもと同じ部屋なのに、画面から流れる歓声が大きすぎた。
「まだ見てるの、それ」
「はい。もう1回だけ、と思っていたところです」
少し音を落としてから、マーチャンは私へ向き直った。
「初勝利、おめでとうございます。すごかったですね。誰も追いつけませんでした」
私は鞄をベッドの脇へ置いた。上着を脱ぎ、ハンガーへ掛ける。その間も、モニターの中では私が走っていた。
「……ありがと」
「直線に入ったところ、何度も見てしまいました。あそこから、まだ離せるんですね」
声が弾んでいた。
マーチャンは椅子から立ち上がり、画面へ顔を向けた。ちょうど私がコーナーを回ってきたところだった。後ろの子たちも映っている。走っていた時には知らなかった差が、今は横から見えた。
私は上着から手を離せないまま、そこを見ていた。
「この時、気持ちよかったでしょう」
答える前に、マーチャンが私を見た。
「すごく楽しそうに見えました。ゴールの少し前で、顔が上がるところ」
「……そんなところまで見てたの」
「ええ。マーちゃんには、とても大事なところですから」
彼女は微笑んだ。
「モエちゃんが中距離へ行くと言った時、少し寂しかったんです。同じレースで走れる機会は、あまりないのかなと思って」
私はようやくハンガーから手を離し、彼女へ身体を向けた。
「今日は、勝ち上がるために出ただけだよ」
「聞いていました。でも、実際に見てしまうと、やっぱり一緒に走りたくなります」
モニターの中の私が、ゴールへ向かっていた。
マーチャンはそれを最後まで見届けると、再生を止めた。歓声が消えた部屋で、こちらへ向き直る。
「今日のモエちゃんを、追いかけてみたいです。隣まで行ったら、どんなふうに走るんでしょう。もっと速くなるでしょうか」
私は言葉に詰まった。
自分でも分からなかった。今日は、誰も隣へ来なかったから。来ていたら、きっと離そうとした。前へ出られたら、追いかけた。あのまま、もう少し速く走れたかもしれない。
そう考えてしまい、私は画面から目を逸らした。
「私、次は長いところに戻るよ」
「そう言うと思っていました」
マーチャンは静かに答えたが、笑顔は変わらなかった。
「でも、今日は嬉しかったです。モエちゃんも、こちら側に来てくれたんだなって」
「こっち側って、何」
「マーちゃんと同じ、あの距離を走る方へ」
彼女は胸元で両手を合わせた。短い髪が頬の横で揺れ、わずかに首が傾く。
「やっぱり、モエちゃんはこちら側の住人だったんですね」
そんなふうに言われたくなかった。
ただ勝ち上がるために出ただけだと、もう一度言おうとした。ところが、さっきまで画面に映っていた走りを思い出すと、声が出なくなった。
抑えなくてよかった。前は空いていて、思い切り脚を伸ばせた。苦しいほど息をしていたのに、もう少し走っていたかった。
マーチャンは、あの時の私を見ていた。
「おかえりなさい、モエちゃん」
柔らかな声だった。
部屋に帰ってきたことを言っているのではないと、今度ははっきり分かった。ここが私の走る場所で、ようやくそこへ戻ってきたのだと、彼女は喜んでいた。
私は、マーチャンの笑顔を見つめ返した。
「……ただいまは、言わないから」
彼女が目を瞬かせた。
「帰ってきたんじゃない。寄り道しただけ。1回ここで勝って、それからティアラへ行くって決めたの」
自分の声が大きくなり、隣の部屋を思い出して少し落とした。それでも、最後までは言わなければいけなかった。
「走りやすかったからって、ここに残るなんて言ってない。勝手に決めないでよ」
「……はい」
マーチャンは私を見て、それから、止めていた画面へ目を向けた。
「ごめんなさい。嬉しくて、先走りました」
私は何も返せなかった。彼女がもう1度こちらを見るまで、制服の裾を掴んでいた。
「でも、マーちゃんは覚えておきます。今日のモエちゃん、とても速かったですから。いつか一緒に走れる時のために」
その言い方には、困った。
やめてとも言えないし、待っていてとも言えなかった。マーチャンにとっては、私と走りたいという話なのだろう。そのことまで、怒りたくはなかった。
「……待ちくたびれても、知らないよ」
「はい。マーちゃんも、走って待っています」
マーチャンはそう言って、モニターを消した。
私は着替えを取り出し、シャワーへ行ってくると伝えた。部屋を出る前に振り返ると、マーチャンは机へ戻り、ノートを開いていた。
廊下へ出て扉を閉め、着替えを抱えてシャワー室へ向かった。
レースの間に考えていたのは、足を前へ出すことばかりだった。教わった抑え方も、毎朝の時計も、一度も思い浮かべなかった。あれほど欲しかった1着が、そうやって取れてしまった。
シャワーの湯を頭から浴び、目を閉じた。
今日の走りを、もう一度してみたいと思う自分がいた。あのまま誰にも追いつかれずに走れるなら、それで十分じゃないかと、一瞬でも考えてしまった。
首を振ると、顔に張りついた髪から水が散った。
私はティアラで勝ちたい。
ウオッカにもスカーレットにも、そう言った。トレーナーにも約束してもらった。今日1回勝ったくらいで変えるつもりはない。
湯を止め、濡れた顔をタオルへ押しつけた。
部屋へ戻ったら、マーチャンに、あの動画はもう流さないでと頼もうと思った。消してほしいとまでは、言えなかった。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。
モエがあっさり2歳コースレコードを取れたのは、モエと駆け引き出来るレベルのウマ娘のいない『未勝利戦』だったからです。
重賞になってくると、駆け引きや戦略のぶつかり合いで消耗させられますからね。