アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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アストンマーチャン持ってないので、かなりエアプマーチャンになってそうな感じある。


7話 「おかえりなさい」

 

「……1200mに出ろ、って?」

 

モエは机の上の紙を見たまま、聞き返した。

 

窓の外では蝉が鳴いていた。開けておいた窓から熱い風が入り、紙の端が浮く。俺が手で押さえると、モエの視線がその指へ動いた。

 

8月、新潟レース場。芝1200mの未勝利戦。

 

「次は、このレースを考えている」

 

「これが、考え直した作戦?」

 

「ああ」

 

モエは椅子の背へ身体を預けた。膝に置いていた鞄を抱え直し、それきり紙を見なくなった。

 

「約束が違うじゃん。私は中距離で勝ちたくて、トレーナーに頼んだんだよ」

 

「ティアラを目指すつもりは変わっていない。そのためにも、まず1勝して、未勝利を抜けたい」

 

「その1勝を、1200で取るってこと?」

 

「そうだ。勝ち上がれば、出られるレースが増える。未勝利戦の中から次を探すだけでなく、距離や時期を選べる幅を広げられる。ティアラへ向かう日程を組むためにも、先にその1勝を取りたいんだ」

 

俺は福島の記録を手元へ引いた。向こう正面の動きについて書いたところで目が止まったが、今日はそれを一から読み上げるつもりはなかった。

 

「今のまま2000に出ても、直線に脚を残せる見込みは立っていない。だが、1200なら、無理に抑えず、前に出たまま勝ち切れる可能性があると思っている。そこで1つ勝って、長い距離をどう走るかは、その後も考える」

 

モエは顔を上げた。

 

「それ、勝ってからも考えるって言ってるだけでしょ。今は、どうすればいいか分かんないんだよね」

 

「……そうだ」

 

「じゃあ、2000の練習をすればいいじゃん。私、やるよ。きつくても、文句言っても、ちゃんと来てたでしょ」

 

「ああ。来ていた」

 

「もう嫌だって、やめたことないでしょ」

 

俺は頷いた。モエは返事を待つようにこちらを見ていたが、俺が出走予定の紙を引っ込めないと分かると、視線を落とした。

 

「……トレーナーの方が、嫌になった?」

 

「君と練習するのが嫌になったわけじゃない」

 

答えが早くなった。俺は一度息を整えてから、言葉を続けた。

 

「分からないまま、同じ練習を増やすのはやめたい。君が必死に続けてくれた分、これで次は持つと言いたかった。だが、福島でも、道中で疲れ切っていた」

 

彼女は唇を噛み、鞄の上へ目を落とした。

 

「2000を走る課題は残る。それでも、勝つ見込みのあるレースで1勝しておくことは、先につながる。今回は1200で勝ち上がることを優先したい。君が嫌がる距離なのは承知で、頼んでいる」

 

モエは長い間、何も言わなかった。

 

紙を見せる前に、何から話すか考えた。勝ち上がる意味も、今の走りの課題も、自分なりに順番を決めておいた。だが、モエが何を言うかまで決められるはずもなかった。

 

「……昼にさ」

 

ようやく口を開いた彼女の声は、少し掠れていた。

 

「ウオッカとスカーレットに、勝ったところ見せるって言ったんだよ。ティアラで一緒に走るって」

 

「そうか」

 

「それで、次が1200って。私、何て言えばいいの」

 

俺は答えられなかった。彼女は鞄の持ち手を握り直し、もう一度、机の上へ目を向けた。

 

「1勝しないと出られないレースがあるのは、分かってるよ。……でも、私が勝ちたかったのは、ここじゃない」

 

モエは1200の数字を見つめたまま黙り、少しして顔を上げた。

 

「勝ったら、やっぱりここにしようって言わない?」

 

「短距離を走り続けることに、勝手に変えたりはしない。ティアラへ行くための1戦として提案している」

 

「……私、まだ仮のつもりだからね」

 

「ああ」

 

「これで勝ったからって、何でも言うこと聞くようにはならないよ」

 

「分かっている」

 

モエは紙を手元へ引き寄せた。日程と距離を順に読み、最後に1200の数字を見つめた。

 

「1回だけ」

 

俺を見る。

 

「勝っても、ここに残らないから。ウオッカたちのところへ行く。そのために走るだけ」

 

「ああ。そのつもりで準備する」

 

モエは紙を折り、鞄へ入れた。椅子を引く音が大きく響いたが、立ち上がった後は静かだった。

 

「……どうせ勝つよ。これで負けたら、何も残んないじゃん」

 

返事をする前に、彼女は扉へ向かった。俺はその背中を見送り、机に残った福島の記録を閉じた。

 

~~

 

新潟のパドックは、日陰まで暑かった。

 

前の子に続いて歩きながら、私は柵の向こうを見ないようにしていた。顔を上げるとカメラを向けられる。下げていれば、緊張しているのかと声が飛んでくる。

 

「やっと1200に来たな」

 

聞こえた方へ耳が動き、すぐに前へ向け直した。

 

「最初からここに出してりゃよかったんだよ」

 

「今度は勝つだろ。あのスピードなら」

 

好きに言えばいいと思った。今日は、走って勝てば済む。誰かの後ろへ入る必要も、追いつきそうになって止める必要もない。トレーナーも、無理に控えなくていいと言っていた。

 

1番人気だった。

 

前に同じ順位の期待を受けた時には、16着になった。あの時と同じ顔が客席にあったとしても、私には分からない。分かるのは、今日の距離を見ただけで、安心したように笑っている人がいることだった。

 

柵の向こうにトレーナーを見つけた。こちらを見ていたので一度だけ頷くと、あの人も頷いた。

 

来る前に、もう1度だけ確かめた。

 

勝ったら、長いところへ戻るんだよね。

 

トレーナーは、戻るために考えると答えた。今の私には、それを聞いておくことしかできなかった。

 

コースへ出ると、緑の芝が陽射しを返していた。ゲートの向こうへ目をやり、これから走る道を確かめる。準備の間にも、後ろの方から歓声が聞こえた。

 

自分の枠へ入り、足を置いた。

 

前へ出ていい。

 

そう考えただけで、身体が少し前へ傾いた。いつもなら、その姿勢を戻していた。隣が出るのを待って、腕を小さくして、追いつかないようにしなければいけなかった。

 

今日は、目の前の扉を見ていた。

 

~~

 

ゲートが開いた。

 

俺が時計を押した途端、白い髪が出走者たちの列から抜け出した。

 

モエの隣にいた子も、出遅れたわけではない。深く身体を倒し、腕を引いて加速している。その肩が、モエの背中より後ろへ落ちた。次の一歩で間が空き、さらに次の踏み込みで、追いつくために埋めなければならない距離ができた。

 

『カレンモエ、好スタート! 先手を奪います!』

 

外から1人、並びかけようと脚を伸ばした。モエは顔さえ向けずに走っている。相手が内へ寄せる前に抜け出し、空いたコースへ一直線に出た。

 

「速い……!」

 

声が漏れた。俺が双眼鏡を上げる間にも差は広がり、追走する先頭との間に、3身、4身と芝が見えた。

 

モエの腕が大きく振られている。身体を前へ投げ出すような踏み込みを、次の脚が受け止め、そのまま送り出す。抑えようとして上体を起こす動きが、一度も入らなかった。

 

『速い! カレンモエ、後続を引き離して第3コーナーへ!』

 

追っていた子がさらに腕を振った。背後の走者も外へ持ち出し、前を追い始める。モエは曲線に沿って身体を傾け、長い歩幅をほとんど変えずにコーナーへ飛び込んだ。

 

その背中を、誰も捉えられない。

 

周りで椅子の跳ね上がる音がした。隣の客が立ち上がり、コースを指して何か叫んだが、後ろから重なった歓声に消された。

 

俺はモエの肩を見ていた。あそこが揺れ始めると、脚が詰まった。東京では、そこから瞬く間に後続へ呑まれた。双眼鏡の中の白い髪を追いながら、握った時計が掌へ食い込んでいることに気づいた。

 

第4コーナーを回る。

 

モエが直線へ向いた。後ろの集団が横へ広がり、外から追い出した子が大きなストライドで伸びてくる。

 

俺は息を詰めた。

 

モエも伸びた。

 

コーナーを抜けた勢いのまま、白い髪が後ろへ流れる。追う子の腕が激しく振られ、顔が前へ突き出た。その全力の追走を、モエの一歩が引き離した。もう一歩で、さらに開く。

 

『カレンモエ先頭! 後続が追う! しかし差が縮まらない――まだ広がる!』

 

双眼鏡を下ろした。モニターの画面が引かれ、先頭と2番手が小さくなる。その間に空いた芝の広さを見て、背筋が粟立った。

 

勝ち切れるのではないかと思っていた。だが、こんな差まで考えてはいなかった。

 

「行け、モエ!」

 

喉が痛むほど声を出した。目の前を駆け抜けていくモエの脚は、まだ大きく伸びていた。接地のたびに身体が弾み、後ろへ蹴り上げた芝が散る。顔は前を向いたまま、隣へ来る相手を探しもしなかった。

 

『残り200! カレンモエ、独走! 強い、これは強い!』

 

観客が柵へ身を寄せ、腕を振り上げた。名前を呼ぶ声も、行けと叫ぶ声も、モエが通り過ぎた後ろで重なっていく。先頭を追っていた子の肩が上下に揺れ始めても、モエの背中は遠ざかり続けた。

 

ゴール板が迫る。

 

俺は時計を持つ手を上げた。最後の数歩まで腕を振り切り、モエが先頭で駆け抜ける。指を押し込んだ時には、客席の叫びが一つの轟音になっていた。

 

『カレンモエ、今1着でゴールイン! 圧勝です! 2着に大差をつけて、初勝利を挙げました!』

 

まだ後続が来ない。

 

俺はゴール板から目を離せずにいた。ようやく2着の子が通過し、その後ろから走者が続いてくる。モエはすでに速度を落とし、コースの先で白い髪を揺らしていた。

 

手元の時計を見た。掲示板を見上げ、もう一度、数字を確かめた。

 

レコードだった。

 

『ジュニア級のコースレコードを更新! カレンモエ、新潟の1200mで、圧倒的なスピードを見せつけました!』

 

隣から肩を叩かれた。誰かが、すごいものを見た、と繰り返している。俺は頷いたが、すぐには言葉を返せなかった。

 

コースの先で、モエがスタンドへ顔を向けた。

 

~~

 

速度を落としても、まだ身体が前へ行こうとしていた。

 

私は歩きながら後ろを振り返った。ゴールを過ぎた子たちが足を緩め、膝へ手をついている。誰にも並ばれなかった。直線へ向いてからも、足音が近づいてこなかった。

 

風に頬を叩かれながら、もっと脚を伸ばせると思った。実際に踏めば、身体は前へ出た。止めなくていい。それが気持ちよくて、ゴールが迫る頃には、口元まで緩みそうになっていた。

 

私は、勝った。

 

掲示板の一番上に、自分の番号があった。

 

数字を見ている間も、胸が高鳴っていた。もっと走れそうな気がしたのは、興奮していたせいだと思う。息は苦しいし、汗も流れている。それでも、すぐにはこの場を離れたくなかった。

 

スタンドへ顔を向けると、両手を振ってくれる人がいた。

 

「モエー! 強かったぞ!」

 

私も手を上げかけた。

 

「やっぱりカレンチャンの娘だな!」

 

肘が曲がったところで止まった。

 

隣の客も笑って頷き、こちらへ手を振っていた。

 

私はゆっくり手を下ろした。

 

勝てば分かると思っていた。どれだけ苦労しても、先頭でゴールへ入れば、自分のことを誇れると思っていた。

 

でも、今日の私は、一度も抑えなかった。

 

毎朝あんなに繰り返したことを、今日はやらなくてよかった。それで、誰も追いつけなかった。

 

戻るように促され、コースの出口へ向かった。歩いても膝が折れそうにはならない。そのことにほっとした自分が、どうしようもなく嫌だった。

 

~~

 

戻ってきたモエへ、タオルを差し出した。

 

「おめでとう。よく走った」

 

彼女は受け取ったが、顔へ当てずに手元で広げた。汗が顎から落ち、タオルの上に小さな染みを作った。

 

「……勝ったね」

 

「ああ。大差だった」

 

「簡単すぎた」

 

俺は続けようとしていた言葉を止めた。

 

モエはタオルを額へ押し当て、しばらくそのままでいた。呼吸はまだ速かったが、2000mを走った後のように、座る場所を探してはいなかった。

 

「前へ出て、そのまま走ったら、終わってた。誰も来なかった。最後に頑張ろうって思う前に、もう勝ってた」

 

「直線でも脚は伸びていた。君が走って、離したんだ」

 

「……うん。私が走ったよ」

 

タオルを下げ、こちらを見る。

 

「私が走ったのに、全然、欲しかった勝ち方じゃなかった」

 

通路の向こうで、スタッフがこちらへ会釈した。俺も返し、モエを壁際へ誘った。彼女は数歩ついてきて、人気の少ないところで足を止めた。

 

「ずっと2000の練習をしてたじゃん。あんなに苦しくても、毎日やってたじゃん」

 

「ああ」

 

「ここで勝つためにやってたんじゃない。1200で勝つための練習なんて、してない。それなのに、こっちに来たら、こんなに簡単に勝てちゃった」

 

モエは下を向いた。タオルの端が、握った手の間で細くなった。

 

「今までの練習も、今日につながっていると思う。泳いだことも、走り続けたことも」

 

「それで勝ったって、分かるの?」

 

彼女が顔を上げた。

 

「私には分かんないよ。毎日やってた抑え方も、後ろのつき方も、今日は何にも使わなかった。ただ走っただけで、あんなに離れたんだよ」

 

俺は、開きかけた口を閉じた。距離を短くすれば、今の力で走り切れるのではないかと考えた。その見込みが当たり、初めて勝ち上がれた。

 

だが、モエはその結果を前に、今までの自分を疑っていた。

 

「誰かに、ママ譲りの才能だねって言われたら、私、何て返せばいいの」

 

彼女の目が俺を捉えた。

 

「そんなことないって、言いたいよ。私が頑張ったから勝ったって。でも、頑張ってた2000じゃ勝てなくて、ここに来たら勝っちゃった。……これじゃ、みんなの言ってたとおりじゃん」

 

声の終わりが掠れた。モエはタオルへ顔を伏せ、強く押しつけた。

 

「走ってる時は、気持ちよかったの」

 

低い声だった。

 

「もう止めなくていいんだって。どんどん離れるし、ゴールがすぐ来て……。ママも、こんなふうに走ってたのかなって思った」

 

彼女はそこで黙った。

 

俺は、勝った時のために用意していた言葉を、何も使えなかった。走る姿を見て嬉しかった。先頭のまま直線へ入り、最後まで伸びた時には、自分でも分かるほど大きな声を出していた。

 

同じレースを走った彼女が、今は顔を隠している。

 

少しして、モエはタオルを下ろした。

 

「ライブ、行かなきゃ」

 

「まだ時間はある」

 

「準備する。真ん中なんでしょ、今日は」

 

俺は頷いた。彼女は、わずかに口元を上げた。

 

「立ちたいって言ったもんね。……ちゃんと、やってくるよ」

 

タオルを俺へ返し、控室へ向かった。呼び止めようとして名前を口にすると、彼女は足を止めたが、振り返らなかった。

 

「次は、長いところへ戻るための話をしよう」

 

「……忘れないでよ」

 

扉が開き、彼女の姿が見えなくなった。

 

~~

 

ステージの中央へモエが立つと、客席から名前が上がった。

 

大差勝ちを見た興奮が、まだ客席に残っていた。モエは正面を見渡し、ゆっくり口元を緩めた。それだけで名前を呼ぶ声が増えたが、すぐには手を振らず、客席を見つめたまま片手を耳の横へ上げた。

 

もっと聞かせて、と促す仕草だった。

 

歓声が一段大きくなると、満足したように笑った。小さく頷いてみせた彼女へ、前列の客がさらに腕を振る。その様子に目を留め、今度は指先で軽く手招きした。

 

「後ろのみんなも、ありがと。最後まで、モエのこと見ててね?」

 

甘い声に、後方からも名前が上がった。隣の客が思わず立ち上がり、俺の前でもペンライトが一斉に振られた。

 

曲が始まる。

 

モエは音の立ち上がりに合わせて踏み出した。腕を広げ、軽く身を翻すと、照明を受けた白い髪が弧を描く。大きく動いた後の足運びにも淀みがなく、両隣と振りを揃えながら、歌い出す寸前には正面のカメラを見据えていた。

 

モニターに顔が大きく映った。少しだけ顎を引き、こちらを覗き込むように歌う。目を合わせていると思わせたところで片目を閉じ、指先で作ったハートを差し出す。声が上がった時には、もう手をほどき、次のステップへ移っていた。

 

俺の前に座っていた客まで、隣の連れを叩いてモニターを指していた。

 

「ライブまで、こんなにすごいのかよ」

 

モエが腕を上げると、客席にも腕が上がった。歌の合間にマイクを向ければ、待っていたように声が返る。彼女はそれを聞き、まだ足りないとでもいうように首を傾けた。次に返った声は、最初のものを呑み込むほど大きかった。

 

モエは楽しそうに笑い、マイクを唇へ戻した。

 

誰もが彼女を見ていた。俺も、目を離せずにいた。

 

俺は膝に置いていたタオルへ目を落とした。通路で返されたものを、畳んで持ってきていた。モエはこれへ顔を押しつけて、しばらく上げられずにいた。

 

『誰かに、ママ譲りの才能だねって言われたら、私、何て返せばいいの』

 

通路で、俺を見ていた目を思い出した。そう言われたら否定できないと苦しんでいた彼女が、今はあの笑顔で客席を見渡している。

 

サビに入ると、モエが一歩前へ出た。伸ばした腕を大きく開き、客席へ向けて歌い上げる。声にも、動きにも、遠慮がなかった。こちらを真っ直ぐに見る目と、余裕を残した笑顔に、歓声がまた膨らんだ。

 

「モエー!」

 

モエがこちらの一角へ手を伸ばす。隣の客はその指先を追い、呼ばれたかのように身を乗り出した。俺も顔を上げてしまったが、モエの視線はすでに次の方へ向いていた。

 

「そっくりだなあ。あの笑い方まで」

 

すぐ後ろで、誰かがしみじみと言った。

 

ステージでは、モエが頬の横へ指を添え、甘えるように首を傾けていた。母とよく似た顔で、カメラの向こうを覗き込む。歌い終わりの唇に笑みを残し、次の振りへ移る寸前まで視線を離さなかった。

 

歓声が上がった。後ろの客は連れと頷き合い、懐かしむように目を細めてモニターを見ていた。

 

モエにも、それは分かっているはずだった。

 

『……ちゃんと、やってくるよ』

 

控室へ向かう時の言葉を思い出した。何を見せれば喜ばれるのか、彼女は知っている。今日は、その期待に一つ残らず応えてみせていた。

 

胸が痛かった。

 

母から受け継いだものだけで勝ったと思われたくなくて、あれほど苦しんでいた。そのモエが、自分の手で「カレンチャンの娘」にふさわしい姿を仕上げていく。

 

膝のタオルを鞄へしまい、ステージを見上げた。モエが歌い、踊り、客席へ視線を送るたびに、拍手も歓声も大きくなる。もう十分だと言いたかったが、モエはその声に応え、また可愛らしく笑った。

 

モエは最後の音に合わせて姿勢を決めた。弾んだ息を整えながら、両隣の子と手を繋いで頭を下げる。顔を上げれば、また笑顔だった。

 

客席が拍手に包まれ、俺も手を叩いた。モエはその音の中で、名残惜しそうにもう一度振り返った。小さく手を振り、最後にカメラへ笑いかける。姿が袖へ消えても、客席ではまだ彼女の名前が呼ばれていた。

 

レース場を出た後、駅へ向かう道で、俺から口を開いた。

 

「ライブ、見事だった」

 

「……あれくらい、できるよ」

 

モエは前を向いたまま、事もなげに答えた。

 

それで話が途切れた。前を歩いていた客がこちらに気づき、おめでとうと声を掛ける。モエはありがとうございますと答え、軽く頭を下げた。

 

客が先へ行ってから、鞄の紐を肩へ掛け直した。

 

「みんな、嬉しそうだったね」

 

「強いところを見たからだろう」

 

「うん。見たかったんだろうね、ああいうの」

 

横顔を見たが、彼女は前を向いたままだった。

 

駅が近づくにつれ、歩いている人が増えた。俺たちは道の端へ寄り、少し速度を落とした。モエは鞄へ手を入れたが、スマホを出さずに手を戻した。

 

「……連絡、いっぱい来てると思う」

 

「今すぐ返さなくてもいいだろう」

 

「ママにも、あとで電話しなきゃ」

 

俺は何も言わずに歩いた。モエは少し間を置いてから、こちらを見た。

 

「私が嬉しくないって、言わないでね。ママには」

 

「ああ。君のいないところで、その話はしない」

 

「せっかく勝ったのに、困らせたくないから」

 

頷くと、彼女は目を伏せた。歩くたびに髪の先が頬へ触れ、それを指で払ってから、声を落とした。

 

「でも、嬉しいふりするのも、ちょっと疲れた」

 

駅へ続く階段の手前で、モエが足を止めた。上を見て、ゆっくり息を吐く。

 

「少し、気持ち悪い。休んでいい?」

 

「ああ。あっちに座れる場所がある」

 

人の流れから離れ、ベンチへ向かった。モエが腰を下ろすと、俺は水のボトルを渡した。受け取った彼女は蓋を開けたが、すぐには飲まず、膝の上へ置いた。

 

隣へ座り、帰りの時刻を確かめた。予定の列車までは、まだ時間があった。

 

「……ティアラ、諦めたわけじゃないから」

 

「ああ」

 

「今日、走りやすかったけど。だからって、ここでいいとは思ってない」

 

「分かっている。今日はもう、次のことを決めなくていい」

 

モエは少し水を飲み、ボトルを両手で持った。

 

俺が時刻表の画面を閉じると、彼女も何も言わなくなった。立ち上がれるようになるまで、しばらくそこで休んだ。

 

~~

 

寮の部屋の前で、私は鞄から鍵を取り出した。

 

帰る途中で何度かスマホを見たが、ママには、勝ったよと短く送るのが精一杯だった。すぐに返ってきた、おめでとうの文字を読んで、今日は疲れたから電話は明日にすると打った。

 

嘘ではない。早くシャワーを浴びて、寝てしまいたかった。

 

扉を開けると、マーチャンが机に向かっていた。短く揃った髪の向こうで、モニターが明るく光っている。画面を見なくても、聞こえてくる実況で何を再生しているのか分かった。

 

私の名前が呼ばれていた。

 

「……帰ったよ」

 

「あ。おかえりなさい、モエちゃん」

 

マーチャンが振り向いた。寝間着姿で椅子に座り、机の隅には小さなマーチャン人形が置いてある。いつもと同じ部屋なのに、画面から流れる歓声が大きすぎた。

 

「まだ見てるの、それ」

 

「はい。もう1回だけ、と思っていたところです」

 

少し音を落としてから、マーチャンは私へ向き直った。

 

「初勝利、おめでとうございます。すごかったですね。誰も追いつけませんでした」

 

私は鞄をベッドの脇へ置いた。上着を脱ぎ、ハンガーへ掛ける。その間も、モニターの中では私が走っていた。

 

「……ありがと」

 

「直線に入ったところ、何度も見てしまいました。あそこから、まだ離せるんですね」

 

声が弾んでいた。

 

マーチャンは椅子から立ち上がり、画面へ顔を向けた。ちょうど私がコーナーを回ってきたところだった。後ろの子たちも映っている。走っていた時には知らなかった差が、今は横から見えた。

 

私は上着から手を離せないまま、そこを見ていた。

 

「この時、気持ちよかったでしょう」

 

答える前に、マーチャンが私を見た。

 

「すごく楽しそうに見えました。ゴールの少し前で、顔が上がるところ」

 

「……そんなところまで見てたの」

 

「ええ。マーちゃんには、とても大事なところですから」

 

彼女は微笑んだ。

 

「モエちゃんが中距離へ行くと言った時、少し寂しかったんです。同じレースで走れる機会は、あまりないのかなと思って」

 

私はようやくハンガーから手を離し、彼女へ身体を向けた。

 

「今日は、勝ち上がるために出ただけだよ」

 

「聞いていました。でも、実際に見てしまうと、やっぱり一緒に走りたくなります」

 

モニターの中の私が、ゴールへ向かっていた。

 

マーチャンはそれを最後まで見届けると、再生を止めた。歓声が消えた部屋で、こちらへ向き直る。

 

「今日のモエちゃんを、追いかけてみたいです。隣まで行ったら、どんなふうに走るんでしょう。もっと速くなるでしょうか」

 

私は言葉に詰まった。

 

自分でも分からなかった。今日は、誰も隣へ来なかったから。来ていたら、きっと離そうとした。前へ出られたら、追いかけた。あのまま、もう少し速く走れたかもしれない。

 

そう考えてしまい、私は画面から目を逸らした。

 

「私、次は長いところに戻るよ」

 

「そう言うと思っていました」

 

マーチャンは静かに答えたが、笑顔は変わらなかった。

 

「でも、今日は嬉しかったです。モエちゃんも、こちら側に来てくれたんだなって」

 

「こっち側って、何」

 

「マーちゃんと同じ、あの距離を走る方へ」

 

彼女は胸元で両手を合わせた。短い髪が頬の横で揺れ、わずかに首が傾く。

 

「やっぱり、モエちゃんはこちら側の住人だったんですね」

 

そんなふうに言われたくなかった。

 

ただ勝ち上がるために出ただけだと、もう一度言おうとした。ところが、さっきまで画面に映っていた走りを思い出すと、声が出なくなった。

 

抑えなくてよかった。前は空いていて、思い切り脚を伸ばせた。苦しいほど息をしていたのに、もう少し走っていたかった。

 

マーチャンは、あの時の私を見ていた。

 

「おかえりなさい、モエちゃん」

 

柔らかな声だった。

 

部屋に帰ってきたことを言っているのではないと、今度ははっきり分かった。ここが私の走る場所で、ようやくそこへ戻ってきたのだと、彼女は喜んでいた。

 

私は、マーチャンの笑顔を見つめ返した。

 

「……ただいまは、言わないから」

 

彼女が目を瞬かせた。

 

「帰ってきたんじゃない。寄り道しただけ。1回ここで勝って、それからティアラへ行くって決めたの」

 

自分の声が大きくなり、隣の部屋を思い出して少し落とした。それでも、最後までは言わなければいけなかった。

 

「走りやすかったからって、ここに残るなんて言ってない。勝手に決めないでよ」

 

「……はい」

 

マーチャンは私を見て、それから、止めていた画面へ目を向けた。

 

「ごめんなさい。嬉しくて、先走りました」

 

私は何も返せなかった。彼女がもう1度こちらを見るまで、制服の裾を掴んでいた。

 

「でも、マーちゃんは覚えておきます。今日のモエちゃん、とても速かったですから。いつか一緒に走れる時のために」

 

その言い方には、困った。

 

やめてとも言えないし、待っていてとも言えなかった。マーチャンにとっては、私と走りたいという話なのだろう。そのことまで、怒りたくはなかった。

 

「……待ちくたびれても、知らないよ」

 

「はい。マーちゃんも、走って待っています」

 

マーチャンはそう言って、モニターを消した。

 

私は着替えを取り出し、シャワーへ行ってくると伝えた。部屋を出る前に振り返ると、マーチャンは机へ戻り、ノートを開いていた。

 

廊下へ出て扉を閉め、着替えを抱えてシャワー室へ向かった。

 

レースの間に考えていたのは、足を前へ出すことばかりだった。教わった抑え方も、毎朝の時計も、一度も思い浮かべなかった。あれほど欲しかった1着が、そうやって取れてしまった。

 

シャワーの湯を頭から浴び、目を閉じた。

 

今日の走りを、もう一度してみたいと思う自分がいた。あのまま誰にも追いつかれずに走れるなら、それで十分じゃないかと、一瞬でも考えてしまった。

 

首を振ると、顔に張りついた髪から水が散った。

 

私はティアラで勝ちたい。

 

ウオッカにもスカーレットにも、そう言った。トレーナーにも約束してもらった。今日1回勝ったくらいで変えるつもりはない。

 

湯を止め、濡れた顔をタオルへ押しつけた。

 

部屋へ戻ったら、マーチャンに、あの動画はもう流さないでと頼もうと思った。消してほしいとまでは、言えなかった。

 




誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。

モエがあっさり2歳コースレコードを取れたのは、モエと駆け引き出来るレベルのウマ娘のいない『未勝利戦』だったからです。
重賞になってくると、駆け引きや戦略のぶつかり合いで消耗させられますからね。
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