アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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61話 待ち人

――Sun: Sakura Bakushin'O

 

 

 

三月。

 

引退会見から、数日が経った。

 

学園の練習場。夕方のバクシンを終えて、ストレッチをしている。

体は軽い。いつも通り。引退を決めたからといって、体が重くなったりはしない。

私の体は、走ることだけを知っている。悲しみで鈍くなるような器用さは、持ち合わせていない。

 

ストレッチを終えて、練習場のフェンスにもたれかかる。

夕焼けの空。春の風。ウマ耳が風を受けて、ぴくりと動く。

 

……静かだ。

 

この時間、この練習場には、いつも私しかいない。

トレーナーさんに「今日のメニューは終わりです」と言われた後も、もう少しだけ走って、一人でストレッチして、一人で帰る。

 

別に寂しいわけじゃないですよ。

学級委員長は忙しいのです。みんなが帰った後に自主練をするのは、模範的な行動ですから。

 

でも。

 

フェンスの向こうに広がるコースを、ぼんやりと眺める。

誰もいない直線。夕焼けの影が長く伸びている。

 

この景色を、何百回と見てきた。

練習場でも、レースでも。

私の前には、いつも誰もいない。

 

速すぎるから。

 

嫌味じゃないですよ。事実です。

私は速い。誰よりも速い。学級委員長として、胸を張ってそう言えます。

 

でも、速すぎると、景色が寂しくなる。

 

振り返ると、みんなが後ろにいる。

頑張って走ってくれている。全力で追いかけてくれている。

でも、届かない。私の隣に来れるウマ娘が、いない。

 

一人で走る直線は、風が冷たい。

 

 

 

~~

 

 

 

あの子のことを最初に見たのは、一年以上前だ。

 

新入生の模擬レース。東京レース場。芝1600メートル。

 

学級委員長として、新入生のレースは必ずチェックする。

未来のトレセン学園を担う後輩たちの走りを見届けるのは、委員長の務めだ。

 

その日、私は観客席の最前列に座っていた。

メモ帳を持って。新入生たちの特徴を書き留めるために。

 

ゲートが開いた瞬間、メモ帳を落とした。

 

大外枠から飛び出したウマ娘。芦毛。黒い勝負服。

その加速が、異常だった。

 

思考より速く筋肉が反応する、あの弾け方。

地面を蹴る力の伝達効率。脚の回転の鋭さ。

一歩で進む距離が、周りの子たちと全然違う。

 

……速い。

 

メモ帳のことなんか忘れて、その子だけを見ていた。

前半の600メートル。ぶっちぎりの先頭。誰も追いつけない。

 

知ってる。この速さを、知っている。

スプリンターの速さだ。

1200メートルの世界に生きるべき体が出す速度。

 

なのに、この子は1600メートルを走っている。

なんで。

 

第3コーナーを過ぎた辺りから、脚が止まり始めた。

当たり前だ。1200メートルの脚で1600メートルを走れば、必ずこうなる。

体内のエネルギーが枯渇して、筋肉が言うことを聞かなくなる。

委員長として断言する。あの脚では、残りの400メートルはもたない。

 

でも。

 

あの子は、止まらなかった。

 

脚が悲鳴を上げている。体が限界を告げている。

なのに、前に出ようとした。

沈みかけた体を、意志の力だけで押し上げようとした。

 

あれは、脚の力じゃなかった。

 

私は、自分の胸に手を当てた。

 

ここの力だ。

 

心臓。意志。名前はなんでもいい。

あの子の中に、脚とは別の「走る力」がある。

体が止まっても、ここが止まらない。

 

結果は、16着。惨敗。

でも、私の目には、あの子が誰よりも輝いて見えた。

 

レースが終わった後、気がついたら走っていた。

あの子のところに。

何を言うか考える前に、体が動いていた。

 

「カレンモエさぁん!!」

 

……いや、もうちょっと静かに行けばよかったなと、後から思いましたけど。

 

あの子の脚の速さと、ここの力。

その両方を持っているウマ娘が、1200メートルを走ったら。

 

私の隣に来れるかもしれない。

 

「待ってますから!!」

 

そう言った。本気だった。

 

 

 

~~

 

 

 

その後、あの子のレースを全部見た。

 

阪神ジュベナイルフィリーズ。テレビの前で立ち上がった。

第4コーナーからの加速。1200メートルの脚が、1600メートルの直線で爆発している。

 

「すごい……!」

 

寮の自室で一人、声が出た。

 

でも、残り200メートルで止まった。

急坂で脚が死んで、ウオッカさんとマーチャンに抜かれて、3着。

 

やっぱり。1200メートルの体だ。

あの脚は、1600メートルを走るようにはできていない。

 

悔しかった。自分のレースでもないのに。

 

チューリップ賞は勝った。作戦が良かった。

桜花賞は16着。

 

テレビの前で、拳を握りしめていた。

あの子が苦しんでいるのが、画面越しに分かった。

1600メートルの壁と、カレンチャンの影と、両方に押し潰されている。

 

声をかけたかった。

でも、何て言えばいいか分からなかった。

「スプリントに来なさい」? そんなの、あの子が一番言われたくない言葉だ。

あの子は自分の意志でマイルを選んでいる。その選択を否定する権利は、誰にもない。

 

だから、黙って見ていた。

 

オークスの日。

 

テレビの前に正座していた。

2400メートル。あの子の体で走れる距離じゃない。誰が見ても分かる。

 

でも、あの子は出走した。

 

レース中、あの子の体が限界を超えていくのが、分かった。

普通のバテ方じゃない。もっと根本的な、体の芯が燃え尽きていくような。

 

最下位でゴールした瞬間。

あの子がターフの上で崩れ落ちた瞬間。

 

立ち上がっていた。

いつ立ったのか、分からない。テーブルの上のお茶が倒れていた。

 

声が出なかった。

 

私は、声が出ないことなんてないウマ娘だ。

いつだって、何かあれば「バクシン!」と叫ぶ。それが私。

なのに、あの瞬間だけは、何も出てこなかった。

 

画面の中で、トレーナーさんが柵を越えてターフに入っていった。あの子を背負って、退場していった。

 

テレビの前に立ったまま、しばらく動けなかった。

 

入院したと聞いた。

 

お見舞いに行こうかと思った。

でも、行かなかった。

 

あの子は今、誰にも会いたくないだろう。

スプリントを勧めてきた人間に、一番会いたくないはずだ。

 

「ほら、やっぱりマイルは無理だったでしょう」

 

そう言いに来たと思われたくなかった。

思ってもいない。でも、あの子がそう受け取る可能性がある限り、行けなかった。

 

だから、待った。

 

いつも通りの日々を過ごしながら。

あの子が戻ってくるのを、待った。

 

 

 

~~

 

 

 

退院したと聞いた時は、ほっとした。

 

しばらくレースに出てこなかった。

実家にいると聞いた。練習もしていないと。

 

待つしかない。

あの子のペースで、あの子のタイミングで。

急かすのは、一番やってはいけない。

 

秋。

 

復帰戦の出走表に、あの子の名前があった。

練習中だったのに、思わず声が出た。

隣にいた後輩が驚いて転んだ。ごめんなさい。

 

結果、1着。

テレビの前で拍手した。

 

でも、あの子の表情は空っぽだった。

勝っても、嬉しそうじゃなかった。

 

……まだ、戻ってきていない。

体は動いているけど、ここが——胸の奥が、まだ灰色のままだ。

 

京阪杯。芝1200メートル。

 

テレビの前で、思わず前のめりになった。

1200メートルに出てきた。あの子が。短距離に。

 

結果、7着。凡走。

 

でも、来てくれた。

1200メートルの世界に、足を踏み入れてくれた。

 

阪神カップ。芝1200メートル。

 

この日のことは、忘れない。

 

第3コーナーからの加速。あの子の体が、別物になった。

画面越しでも分かった。あの脚。あの速度。あの切れ味。

 

5人を一気に抜き去って、先頭でゴール。

 

テレビの前で、涙が出ていた。

なんで泣いているのか、自分でも分からなかった。

 

嬉しかったのだと思う。

あの速さが、ようやく正しい距離で発揮されたことが。

あの子が持っている本当の力が、1200メートルの世界で目を覚ましたことが。

 

……あの子と走りたい。

 

初めて、はっきりとそう思った。

 

1話の時は「待ってます」だった。来てくれたら嬉しいな、くらいの気持ち。

今は違う。

 

走りたい。あの子と。あの速さの隣で。

テレビの画面越しじゃなく、同じ風を浴びて。

 

でも。

 

私は、今年で引退する。

 

引退を決めたのは、阪神カップの前だった。

理由は——隣に誰もいないから。

 

速すぎて、誰も追いつけない。

それは誇りだ。でも、誇りだけでは直線の風は温まらない。

一人で走る景色に、もう慣れることができなくなった。

 

だから引退する。やりきった。後悔はない。

 

トレーナーさんには、もう伝えた。

あの人は静かに頷いて、「最後まで、全力で走りましょう」と言ってくれた。いい人だ。最初から最後まで、私のバクシンに付き合ってくれた人。

 

後悔は、なかった。阪神カップを見るまでは。

 

あの日以降、胸の奥がざわざわする。

引退を決めたはずなのに。やりきったはずなのに。

 

もし。

あの子が、もう少し早くスプリントに来てくれていたら。

私は、引退を決めなかったかもしれない。

 

でも、「もし」を言っても仕方がない。

引退は決めた。撤回はしない。

学級委員長は、一度決めたことを覆さない。

 

ならば。

 

最後のレースに、あの子を呼ぼう。

 

フェブラリーステークスで、あの子がダートのGⅠを勝ったのを見て、決めた。

あの子はもう大丈夫だ。壊れていない。走れている。

 

引退会見。隣にトレーナーさんが座っている。記者に聞かれた。

「高松宮記念で一緒に走りたいウマ娘はいますか」。

 

一拍置いた。

私らしくない。私は迷わないウマ娘だ。考える前に体が動く。

なのに、この一言だけは、重かった。

 

「……カレンモエさん」

 

言った。

 

「高松宮記念で、一緒に走りましょう!!」

 

これが、私の最後の「待ってます」。

一年前の「待ってます」よりもずっと重い。

あの子が来てくれたら、私は最後の直線を、一人じゃなく走れる。

 

 

 

~~

 

 

 

練習場のフェンスにもたれたまま、空を見上げている。

夕焼けが、紫に変わりつつある。

 

出走登録の情報が入ってきた。

 

カレンモエ。高松宮記念。出走登録完了。

 

来てくれた。

 

フェンスから背中を離した。

ストレッチは終わったばかりだ。もう帰る時間。

 

でも、脚が勝手にスタートラインに向いていた。

 

もう一本、走ろう。

 

理由はない。

ただ、走りたい。

今この瞬間、走らないと、この気持ちが体の中に収まりきらない。

 

位置について。

 

誰もいないコース。誰もいない直線。

いつもの景色。

 

でも、今日は違う。

 

三週間後、この直線に、あの子がいる。

 

「……待っててよかった」

 

呟いて。

 

走った。

 

全力で。誰もいない練習場を。夕暮れの中を。

 

速かった。

たぶん、今日一番速かった。

 

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