――Sun: Sakura Bakushin'O
三月。
引退会見から、数日が経った。
学園の練習場。夕方のバクシンを終えて、ストレッチをしている。
体は軽い。いつも通り。引退を決めたからといって、体が重くなったりはしない。
私の体は、走ることだけを知っている。悲しみで鈍くなるような器用さは、持ち合わせていない。
ストレッチを終えて、練習場のフェンスにもたれかかる。
夕焼けの空。春の風。ウマ耳が風を受けて、ぴくりと動く。
……静かだ。
この時間、この練習場には、いつも私しかいない。
トレーナーさんに「今日のメニューは終わりです」と言われた後も、もう少しだけ走って、一人でストレッチして、一人で帰る。
別に寂しいわけじゃないですよ。
学級委員長は忙しいのです。みんなが帰った後に自主練をするのは、模範的な行動ですから。
でも。
フェンスの向こうに広がるコースを、ぼんやりと眺める。
誰もいない直線。夕焼けの影が長く伸びている。
この景色を、何百回と見てきた。
練習場でも、レースでも。
私の前には、いつも誰もいない。
速すぎるから。
嫌味じゃないですよ。事実です。
私は速い。誰よりも速い。学級委員長として、胸を張ってそう言えます。
でも、速すぎると、景色が寂しくなる。
振り返ると、みんなが後ろにいる。
頑張って走ってくれている。全力で追いかけてくれている。
でも、届かない。私の隣に来れるウマ娘が、いない。
一人で走る直線は、風が冷たい。
~~
あの子のことを最初に見たのは、一年以上前だ。
新入生の模擬レース。東京レース場。芝1600メートル。
学級委員長として、新入生のレースは必ずチェックする。
未来のトレセン学園を担う後輩たちの走りを見届けるのは、委員長の務めだ。
その日、私は観客席の最前列に座っていた。
メモ帳を持って。新入生たちの特徴を書き留めるために。
ゲートが開いた瞬間、メモ帳を落とした。
大外枠から飛び出したウマ娘。芦毛。黒い勝負服。
その加速が、異常だった。
思考より速く筋肉が反応する、あの弾け方。
地面を蹴る力の伝達効率。脚の回転の鋭さ。
一歩で進む距離が、周りの子たちと全然違う。
……速い。
メモ帳のことなんか忘れて、その子だけを見ていた。
前半の600メートル。ぶっちぎりの先頭。誰も追いつけない。
知ってる。この速さを、知っている。
スプリンターの速さだ。
1200メートルの世界に生きるべき体が出す速度。
なのに、この子は1600メートルを走っている。
なんで。
第3コーナーを過ぎた辺りから、脚が止まり始めた。
当たり前だ。1200メートルの脚で1600メートルを走れば、必ずこうなる。
体内のエネルギーが枯渇して、筋肉が言うことを聞かなくなる。
委員長として断言する。あの脚では、残りの400メートルはもたない。
でも。
あの子は、止まらなかった。
脚が悲鳴を上げている。体が限界を告げている。
なのに、前に出ようとした。
沈みかけた体を、意志の力だけで押し上げようとした。
あれは、脚の力じゃなかった。
私は、自分の胸に手を当てた。
ここの力だ。
心臓。意志。名前はなんでもいい。
あの子の中に、脚とは別の「走る力」がある。
体が止まっても、ここが止まらない。
結果は、16着。惨敗。
でも、私の目には、あの子が誰よりも輝いて見えた。
レースが終わった後、気がついたら走っていた。
あの子のところに。
何を言うか考える前に、体が動いていた。
「カレンモエさぁん!!」
……いや、もうちょっと静かに行けばよかったなと、後から思いましたけど。
あの子の脚の速さと、ここの力。
その両方を持っているウマ娘が、1200メートルを走ったら。
私の隣に来れるかもしれない。
「待ってますから!!」
そう言った。本気だった。
~~
その後、あの子のレースを全部見た。
阪神ジュベナイルフィリーズ。テレビの前で立ち上がった。
第4コーナーからの加速。1200メートルの脚が、1600メートルの直線で爆発している。
「すごい……!」
寮の自室で一人、声が出た。
でも、残り200メートルで止まった。
急坂で脚が死んで、ウオッカさんとマーチャンに抜かれて、3着。
やっぱり。1200メートルの体だ。
あの脚は、1600メートルを走るようにはできていない。
悔しかった。自分のレースでもないのに。
チューリップ賞は勝った。作戦が良かった。
桜花賞は16着。
テレビの前で、拳を握りしめていた。
あの子が苦しんでいるのが、画面越しに分かった。
1600メートルの壁と、カレンチャンの影と、両方に押し潰されている。
声をかけたかった。
でも、何て言えばいいか分からなかった。
「スプリントに来なさい」? そんなの、あの子が一番言われたくない言葉だ。
あの子は自分の意志でマイルを選んでいる。その選択を否定する権利は、誰にもない。
だから、黙って見ていた。
オークスの日。
テレビの前に正座していた。
2400メートル。あの子の体で走れる距離じゃない。誰が見ても分かる。
でも、あの子は出走した。
レース中、あの子の体が限界を超えていくのが、分かった。
普通のバテ方じゃない。もっと根本的な、体の芯が燃え尽きていくような。
最下位でゴールした瞬間。
あの子がターフの上で崩れ落ちた瞬間。
立ち上がっていた。
いつ立ったのか、分からない。テーブルの上のお茶が倒れていた。
声が出なかった。
私は、声が出ないことなんてないウマ娘だ。
いつだって、何かあれば「バクシン!」と叫ぶ。それが私。
なのに、あの瞬間だけは、何も出てこなかった。
画面の中で、トレーナーさんが柵を越えてターフに入っていった。あの子を背負って、退場していった。
テレビの前に立ったまま、しばらく動けなかった。
入院したと聞いた。
お見舞いに行こうかと思った。
でも、行かなかった。
あの子は今、誰にも会いたくないだろう。
スプリントを勧めてきた人間に、一番会いたくないはずだ。
「ほら、やっぱりマイルは無理だったでしょう」
そう言いに来たと思われたくなかった。
思ってもいない。でも、あの子がそう受け取る可能性がある限り、行けなかった。
だから、待った。
いつも通りの日々を過ごしながら。
あの子が戻ってくるのを、待った。
~~
退院したと聞いた時は、ほっとした。
しばらくレースに出てこなかった。
実家にいると聞いた。練習もしていないと。
待つしかない。
あの子のペースで、あの子のタイミングで。
急かすのは、一番やってはいけない。
秋。
復帰戦の出走表に、あの子の名前があった。
練習中だったのに、思わず声が出た。
隣にいた後輩が驚いて転んだ。ごめんなさい。
結果、1着。
テレビの前で拍手した。
でも、あの子の表情は空っぽだった。
勝っても、嬉しそうじゃなかった。
……まだ、戻ってきていない。
体は動いているけど、ここが——胸の奥が、まだ灰色のままだ。
京阪杯。芝1200メートル。
テレビの前で、思わず前のめりになった。
1200メートルに出てきた。あの子が。短距離に。
結果、7着。凡走。
でも、来てくれた。
1200メートルの世界に、足を踏み入れてくれた。
阪神カップ。芝1200メートル。
この日のことは、忘れない。
第3コーナーからの加速。あの子の体が、別物になった。
画面越しでも分かった。あの脚。あの速度。あの切れ味。
5人を一気に抜き去って、先頭でゴール。
テレビの前で、涙が出ていた。
なんで泣いているのか、自分でも分からなかった。
嬉しかったのだと思う。
あの速さが、ようやく正しい距離で発揮されたことが。
あの子が持っている本当の力が、1200メートルの世界で目を覚ましたことが。
……あの子と走りたい。
初めて、はっきりとそう思った。
1話の時は「待ってます」だった。来てくれたら嬉しいな、くらいの気持ち。
今は違う。
走りたい。あの子と。あの速さの隣で。
テレビの画面越しじゃなく、同じ風を浴びて。
でも。
私は、今年で引退する。
引退を決めたのは、阪神カップの前だった。
理由は——隣に誰もいないから。
速すぎて、誰も追いつけない。
それは誇りだ。でも、誇りだけでは直線の風は温まらない。
一人で走る景色に、もう慣れることができなくなった。
だから引退する。やりきった。後悔はない。
トレーナーさんには、もう伝えた。
あの人は静かに頷いて、「最後まで、全力で走りましょう」と言ってくれた。いい人だ。最初から最後まで、私のバクシンに付き合ってくれた人。
後悔は、なかった。阪神カップを見るまでは。
あの日以降、胸の奥がざわざわする。
引退を決めたはずなのに。やりきったはずなのに。
もし。
あの子が、もう少し早くスプリントに来てくれていたら。
私は、引退を決めなかったかもしれない。
でも、「もし」を言っても仕方がない。
引退は決めた。撤回はしない。
学級委員長は、一度決めたことを覆さない。
ならば。
最後のレースに、あの子を呼ぼう。
フェブラリーステークスで、あの子がダートのGⅠを勝ったのを見て、決めた。
あの子はもう大丈夫だ。壊れていない。走れている。
引退会見。隣にトレーナーさんが座っている。記者に聞かれた。
「高松宮記念で一緒に走りたいウマ娘はいますか」。
一拍置いた。
私らしくない。私は迷わないウマ娘だ。考える前に体が動く。
なのに、この一言だけは、重かった。
「……カレンモエさん」
言った。
「高松宮記念で、一緒に走りましょう!!」
これが、私の最後の「待ってます」。
一年前の「待ってます」よりもずっと重い。
あの子が来てくれたら、私は最後の直線を、一人じゃなく走れる。
~~
練習場のフェンスにもたれたまま、空を見上げている。
夕焼けが、紫に変わりつつある。
出走登録の情報が入ってきた。
カレンモエ。高松宮記念。出走登録完了。
来てくれた。
フェンスから背中を離した。
ストレッチは終わったばかりだ。もう帰る時間。
でも、脚が勝手にスタートラインに向いていた。
もう一本、走ろう。
理由はない。
ただ、走りたい。
今この瞬間、走らないと、この気持ちが体の中に収まりきらない。
位置について。
誰もいないコース。誰もいない直線。
いつもの景色。
でも、今日は違う。
三週間後、この直線に、あの子がいる。
「……待っててよかった」
呟いて。
走った。
全力で。誰もいない練習場を。夕暮れの中を。
速かった。
たぶん、今日一番速かった。