アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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62話 青いバラ

朝。

 

部屋に戻ったら、マーチャンが起きていた。

 

向かいのベッドの上で体育座りをして、ウマホをいじっている。部屋着のまま、髪の毛がぼさぼさだ。

 

「おかえりです、モエちゃん」

 

「ただいま。練習は?」

 

「今日はオフです。……で、どうでした?」

 

昨日の今日だ。絢原さんとのことを、もう全部分かった顔で聞いている。

 

「……出走登録した。今朝」

 

「やっぱり」

 

マーチャンが、ウマホをそっと置いた。

 

「よかったです」

 

「よかった、って」

 

「だって、モエちゃんは出たかったんですよね。最初からずっと」

 

否定しなかった。否定できなかった。

 

「……マーチャンは、出ないの」

 

「出ません」

 

即答だった。でも、少しだけ間があった。

 

「……どうして」

 

マーチャンが、膝を抱え直した。

 

「バクシンオーさんの最後のGⅠじゃないですか。走りながらじゃ、ちゃんと見られないから。ちゃんとカメラで残そうと思って、最初から決めてたんですよ」

 

「……そっか」

 

「そっかじゃないですよ」

 

マーチャンが、ベッドに倒れ込んだ。仰向けになって、天井を見上げる。

 

「今ちょっと後悔してるんです。出ればよかったかなって」

 

「……さっき、最初から決めてたって言ったじゃん」

 

「決めてました。ちゃんと決めてました。でもモエちゃんが出るって聞いたら、なんかすごく悔しくなってきて」

 

「……」

 

「記録したいのは本当なんですよ。バクシンオーさんの最後、絶対に残したいと思ってる。でも……一緒に走りたかったな、っていうのも、なんか、あって」

 

天井に向かって、独り言のように続ける。

 

「バクシンオーさんが名前を呼んだのはモエちゃんだったし、それは全然おかしくないんですけど。私はモエちゃんのレースもちゃんと記録する、それが私の役割だって分かってるんですけど」

 

「……マーチャン」

 

「ぐぬぬ、です」

 

「ぐぬぬって。……そんなに走りたいなら、トレーナーさんに相談してみればよかったじゃん」

 

マーチャンが、頭だけ起こしてこちらを見た。

 

「相談したんです。トレーナーに」

 

「……え、じゃあ」

 

「『出たい、でも記録もしたい、どっちもしたい』って言ったら、『走るのと撮るのを両方やろうとして両方中途半端になるより、どっちかに絞りなさい』って言われて」

 

「……それで、記録を選んだの」

 

「記録を選びました。正しい判断だと思います。今も思ってます」

 

また天井を向いて、ため息をついた。

 

「でも悔しいんですよね。なんかすごく。おかしいですよね」

 

おかしくない、と言おうとして、やめた。

おかしくないよ、と言ってしまうと慰めになる。マーチャンは慰められたいんじゃない気がした。

 

「……うん、悔しいね」

 

「悔しいですよ」

 

「出てくれた方が、私は嬉しかったかな」

 

「それ、今言いますか」

 

「ごめん」

 

マーチャンが、枕に顔をうずめた。くぐもった声が聞こえた。

 

「モエちゃんのこと、撮りますからね。ちゃんと撮りますから。バクシンオーさんのことも、モエちゃんのことも、全部残しますから」

 

「……うん」

 

「だから、悔しがるのは今だけです。あとはもうぐぬぬしません」

 

「うん」

 

「でも今だけ、もう三十秒だけぐぬぬさせてください」

 

「……どうぞ」

 

枕に顔をうずめたまま、マーチャンが小さく唸っている。

 

三十秒。数えなかったけど、それくらいで、枕から顔を上げた。

 

「はい。終わりです」

 

「終わったの」

 

「終わりました」

 

ぱちんと手を打って、ウマホを拾い上げる。切り替えが早い。

 

「朝ごはん食べましたか? 食堂行きましょう。今日は卵スープの日のはずです」

 

「……うん。行こっか」

 

立ち上がる。マーチャンが先にドアを開ける。

廊下に出ると、朝の光が窓から差し込んでいた。

 

 

 

~~

 

 

 

翌日。昼の食堂。

 

食堂はいつも通り混んでいる。マーチャンと二人でトレーを持って、空いている席を探していた。

 

「あ、モエちゃん、あそこ空いてます」

 

マーチャンが指差した先。窓際のテーブル。二人分の空き。

 

座った。マーチャンはカレーうどん。私は鮭定食。

 

「高松宮記念、楽しみですねぇ」

 

マーチャンがうどんをすすりながら言った。昨日のぐぬぬが嘘みたいに、もう完全に「記録する側」の顔になっている。

 

鮭の身をほぐしていたら、視界の端に影が落ちた。

 

「……あの、ごめんなさい。ここ、座ってもいい……?」

 

小さな声。消え入りそうな響き。

 

顔を上げた。

 

長い黒髪。右目にかかる前髪。大きなウマ耳が、少しだけ伏せている。

トレーに乗っているのは、きつねうどんと小さなサラダとおにぎり二個。

 

「……ライスさん」

 

ライスシャワーさん。

 

「久しぶり……だね、モエちゃん」

 

おずおずと、向かいの空いている椅子を引く。マーチャンの隣。椅子に座ると、テーブルから顔がちょっとしか出ない。私より小さい。145センチ。

 

「マーちゃんはお隣失礼しますね、ライスシャワーさん」

 

「あ、うん。よろしくね……えっと、アストンマーチャンさん……だよね?」

 

「はいです。マーちゃんって呼んでください」

 

「マーちゃん……うん。よろしくね、マーちゃん」

 

ライスさんがそっと笑った。ほんの少し、緊張が解けたように。

 

最後に話したのは——一年以上前だ。

 

泥だらけの練習場。体が言うことを聞かなくて、座り込んでいた私のところに来てくれた。

 

「青いバラ」の話をしてくれた。

 

「不可能」と言われる花。その痛みを知っている子だけが咲かせられる花。

 

あの時の私は、2000メートルに挑んで、体に裏切られて、泣きそうで。ライスさんの手は温かかった。泥だらけの私の手を、両手で包んでくれた。

 

「ヒーローさん」と、呼んでくれた。

 

「……モエちゃん」

 

ライスさんが、きつねうどんの湯気越しに、こちらを見ていた。右目は前髪で隠れたまま。見えている左目だけが、真っ直ぐに私を捉えている。

 

「高松宮記念、出るんだね」

 

「……はい」

 

「バクシンオーさんの引退レース。……すごいね」

 

「……すごくないですよ。呼ばれただけで」

 

「ううん」

 

ライスさんが、静かに首を振った。

 

「呼ばれて、行くって決めたのは、モエちゃんだよ」

 

その声は、普段のライスさんよりほんの少しだけ通っていた。

 

「……ライスね、あの会見見てたの。テレビで」

 

うどんの箸を止めて、ライスさんが少しだけ笑った。

 

「バクシンオーさんが、モエちゃんの名前を呼んだ時……ライス、ちょっと泣いちゃった」

 

「……え?」

 

「だって……嬉しかったの。モエちゃんのこと、ちゃんと見てくれてる人がいるんだなって」

 

ライスさんの声が、少し揺れた。

 

「ライスもね、昔、そういう人がいたから。……自分が『悪役』って呼ばれてた時に、それでも『あなたはヒーローだ』って言ってくれた人が」

 

「…………」

 

ブルボンさん。名前は出さなかったけど、たぶんそうだ。

 

「ねえ、モエちゃん」

 

「はい」

 

「青いバラ、覚えてる?」

 

心臓が、どくん、と鳴った。

 

「……覚えてます」

 

「あの時と今と、何か変わった……?」

 

変わったか。

一年前の自分と、今の自分。

 

あの時は、体が言うことを聞かないのが怖かった。

2000メートルを走りたいのに、1200メートルの体が拒絶する。自分の意志と体のミスマッチが、たまらなく怖かった。

 

今は——

 

「……前は、体が言うことを聞かないのが怖かった」

 

ライスさんが、静かに聞いている。

 

「今は……体が勝手に動くのが怖い」

 

言ってしまった。

誰にも言っていなかった。絢原さんにもタキオンさんにも、こういう言い方ではしていなかった。

 

ライスさんが、少しだけ目を見開いた。

それから、きつねうどんの箸を置いて、小さく頷いた。

 

「……怖いものが変わったなら、モエちゃんも変わったんだよ」

 

「…………」

 

「前は止まってた。体が動かなくて。今は動いてる。……動きすぎて怖い、っていうのは、走ってる子の怖さだよ。立ち止まってる子の怖さじゃない」

 

ライスさんの声は小さい。消え入りそう。でも、一言一言に、芯がある。

この人は普段、おどおどしている。「ごめんなさい」が先に出る人。でも、こうやって誰かの痛みについて語る時だけ、声が変わる。

 

自分の中に同じ痛みがあるから。

 

「……ライスは、偉そうなこと言えないけど」

 

ライスさんがおにぎりを一つ取って、両手で包んだ。丸い。小さい手。

 

「怖いまま走れるなら、それでいいと思うの。……ライスも、ずっと怖かったから」

 

菊花賞の時も。天皇賞の時も。

勝ったら誰かの夢を壊す。走れば走るほど、ヒールになる。

怖くて、逃げ出しそうになった。

 

でも、走った。

 

「走らないのも怖いし、走るのも怖いなら……走った方がいい、って。ライスはそう思ったの」

 

「…………」

 

「だって、走った先には何かあるかもしれないけど、止まった先には何もないから」

 

しばらく、二人とも黙っていた。

マーチャンがカレーうどんの汁を静かにすすっている。この子は空気を読む。読んだ上で、ちゃんとうどんを食べ切る。

 

ライスさんがおにぎりを食べ終わって、もう一つに手を伸ばした。……この人、小柄なのによく食べる。

 

「……ライスさん」

 

「ん?」

 

「あの時、ありがとうございました。青いバラの話。……ずっと覚えてました」

 

ライスさんが、一瞬だけ目を見開いて、それからふわっと笑った。

右目の前髪が揺れて、一瞬だけ両方の瞳が見えた。綺麗な色。

 

「……頑張ってね、ヒーローさん」

 

同じ言葉。一年前と、同じ言葉。

 

でも、聞こえ方が全然違う。

 

あの時の「ヒーローさん」は、泥の中でもがく私への励まし。

今の「ヒーローさん」は、立ち上がって走り出した私への、祝福。

 

——祝福。

ライスシャワー。祝福の名前を持つ人が、私に祝福をくれた。

 

ライスさんが去っていった。小さな背中。長い黒髪と、大きなウマ耳。トレーを持つ手が少し震えている。人混みが怖いのかもしれない。それでもちゃんと歩いていく。

 

「……いい人ですねぇ、ライスシャワーさん」

 

マーチャンがぽつりと言った。

 

「……うん」

 

「モエちゃん、ちょっと泣きそうな顔してます」

 

「……してない」

 

「してます」

 

「……してない。鮭が辛かっただけ」

 

「鮭は辛くないのです」

 

……ばれてる。

 

食堂を出る。午後の日差しが、廊下に差し込んでいる。

 

ヒーローさん。

 

あの頃の私は、その呼び方の意味が分からなかった。

自分のことをヒーローだなんて、思ったことがなかった。

 

今も分からない。でも、ライスさんがそう呼んでくれるなら、そうありたいと思う。

 

……高松宮記念。あと少し。

 

 

 

~~

 

 

 

放課後。第三練習場。

 

高松宮記念まで、あと十日。

 

「1200メートルを三本。インターバルは三分。ペースは——」

 

「本番想定で」

 

絢原さんの言葉を遮った。

 

「……本番想定だと、かなりキツいぞ」

 

「キツくていい。本番はもっとキツい」

 

絢原さんが一瞬黙って、それから頷いた。

 

「分かった。タイムは俺が計る。タキオンのセンサーもつけろ」

 

手首と足首にセンサーを巻く。タキオンさんは今日は来ていない。「データはリモートで見るよ。実験室から出るのが面倒でね」と言っていた。相変わらずだ。

 

ダートのコース。400メートルの楕円。短い直線と、きついカーブ。

本番の中京の芝1200メートルとは全然違うけど、スピードの感覚を体に叩き込むには十分。

 

一本目。

 

スタートの瞬間、体が弾けた。

 

速い。自分でも分かる。

退院直後とは比べものにならない。阪神カップの時よりも、フェブラリーSの時よりも、体が軽い。

タキオンさんのスクラップ・アンド・ビルドが完成に近づいている。

 

400メートル走り終わる。呼吸を整える。

 

「タイム」

 

絢原さんがストップウォッチを見ている。

 

「……速い。本番ペースを上回ってる」

 

「もう一本」

 

「インターバル三分って言っただろ。あと二分ある」

 

「……じゃあ二分で」

 

「三分」

 

「……はい」

 

待っている間、絢原さんの横に座った。ベンチ。二人分のスペース。

 

三月の夕方。日が傾き始めている。

練習場には私たちしかいない。タキオンさんもいない。マーチャンもいない。

 

……この時間、好きだな。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

「ん」

 

「タキオンさん、本番は来るの?」

 

「データ取りに来ると言ってた。スタンドの上の方で機材を広げるらしい」

 

「……ふーん」

 

「何か気になるか」

 

「別に。……ただ、レース前の控室には来なくていいから」

 

「なんでだ」

 

「…………」

 

なんでだろう。

分かってる。分かってるけど、言葉にすると恥ずかしい。

 

レース前の控室には、絢原さんだけでいい。

あの人が私の勝負服の袖を直して、「行ってこい」って背中を叩いてくれる。それだけでいい。

 

他の誰かがいたら、あの瞬間が薄まる。

 

「……トレーナーだけでいい。控室は」

 

「……分かった。タキオンには伝える」

 

それ以上聞かなかった。この人は、理由を追及しない。私が「こうしたい」と言えば、そうする。いつもそう。

 

二本目。

 

さっきより、さらに体が動いた。

カーブで重心を落として、直線で一気に加速する。風が顔を叩く。ダートの砂が弾ける。

 

あの反応は、来ない。

当たり前だ。練習場には、GⅠ級の闘気を持つウマ娘はいない。絢原さんのストップウォッチの音しかない。

 

でも、体は速い。

素の力が、確実に上がっている。

 

三本目。

 

最後の一本。

 

走りながら、考えた。

 

高松宮記念。本番。1200メートル。

バクシンオーさんがいる。あの人の隣に行くと約束した。

 

あの人は速い。短距離の絶対王者。

私の全力が、あの人に届くかどうかすら分からない。

 

でも、行く。

追いかける。最後まで。

 

400メートル走り終わる。膝に手をついて、息を整える。

 

「タイム」

 

絢原さんがストップウォッチを見て、少しだけ目を見開いた。

 

「……自己ベスト」

 

「……マジ?」

 

「マジだ」

 

絢原さんがウマホでタキオンさんにデータを送っている。すぐに返事が来たらしい。画面を見て、眉を上げた。

 

「タキオンが『面白い数字が出てるね』と」

 

「……それ、いい意味?」

 

「あの人が面白いと言う時は、大体いい意味だ」

 

大体。百パーセントとは言わないところが、タキオンさんらしい。

 

練習が終わった。

着替えて、荷物をまとめる。

 

駐車場に向かう道。絢原さんと並んで歩く。

いつもの帰り道。いつもの距離。

 

「……トレーナー」

 

「ん」

 

「あと十日。……足りる?」

 

「足りる。お前の体はもう出来上がってる。あとは微調整だけだ」

 

「……そっか」

 

「不安か」

 

「…………ちょっとだけ」

 

「ちょっとだけなら、大丈夫だ」

 

「……なんでそう言い切れるの」

 

「お前を毎日見てるからだ」

 

何でもないことのように言う。

でも、その一言が、胸の奥にすとんと落ちた。

 

毎日見てる。

この人は、毎日、私を見てくれている。

練習の時も、レースの時も、ミルクティーを噴いた時も。

 

……ずるい。そういうことをさらっと言う。

 

「……トレーナー」

 

「ん」

 

「高松宮記念、終わったら、ご飯行こう」

 

「……どこに」

 

「どこでもいい。トレーナーが選んで。……二人で」

 

「…………ああ」

 

約束した。

レースが終わったら。勝っても負けても。二人で。

 

駐車場に着いた。車に乗る。

 

助手席の窓に額をつける。三月の夕焼けが、オレンジ色に染まっている。

 

あと十日。

 

体は出来上がっている。あとは走るだけ。

バクシンオーさんが待っている。

絢原さんが見てくれている。

 

……大丈夫。たぶん。

 

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