朝。
部屋に戻ったら、マーチャンが起きていた。
向かいのベッドの上で体育座りをして、ウマホをいじっている。部屋着のまま、髪の毛がぼさぼさだ。
「おかえりです、モエちゃん」
「ただいま。練習は?」
「今日はオフです。……で、どうでした?」
昨日の今日だ。絢原さんとのことを、もう全部分かった顔で聞いている。
「……出走登録した。今朝」
「やっぱり」
マーチャンが、ウマホをそっと置いた。
「よかったです」
「よかった、って」
「だって、モエちゃんは出たかったんですよね。最初からずっと」
否定しなかった。否定できなかった。
「……マーチャンは、出ないの」
「出ません」
即答だった。でも、少しだけ間があった。
「……どうして」
マーチャンが、膝を抱え直した。
「バクシンオーさんの最後のGⅠじゃないですか。走りながらじゃ、ちゃんと見られないから。ちゃんとカメラで残そうと思って、最初から決めてたんですよ」
「……そっか」
「そっかじゃないですよ」
マーチャンが、ベッドに倒れ込んだ。仰向けになって、天井を見上げる。
「今ちょっと後悔してるんです。出ればよかったかなって」
「……さっき、最初から決めてたって言ったじゃん」
「決めてました。ちゃんと決めてました。でもモエちゃんが出るって聞いたら、なんかすごく悔しくなってきて」
「……」
「記録したいのは本当なんですよ。バクシンオーさんの最後、絶対に残したいと思ってる。でも……一緒に走りたかったな、っていうのも、なんか、あって」
天井に向かって、独り言のように続ける。
「バクシンオーさんが名前を呼んだのはモエちゃんだったし、それは全然おかしくないんですけど。私はモエちゃんのレースもちゃんと記録する、それが私の役割だって分かってるんですけど」
「……マーチャン」
「ぐぬぬ、です」
「ぐぬぬって。……そんなに走りたいなら、トレーナーさんに相談してみればよかったじゃん」
マーチャンが、頭だけ起こしてこちらを見た。
「相談したんです。トレーナーに」
「……え、じゃあ」
「『出たい、でも記録もしたい、どっちもしたい』って言ったら、『走るのと撮るのを両方やろうとして両方中途半端になるより、どっちかに絞りなさい』って言われて」
「……それで、記録を選んだの」
「記録を選びました。正しい判断だと思います。今も思ってます」
また天井を向いて、ため息をついた。
「でも悔しいんですよね。なんかすごく。おかしいですよね」
おかしくない、と言おうとして、やめた。
おかしくないよ、と言ってしまうと慰めになる。マーチャンは慰められたいんじゃない気がした。
「……うん、悔しいね」
「悔しいですよ」
「出てくれた方が、私は嬉しかったかな」
「それ、今言いますか」
「ごめん」
マーチャンが、枕に顔をうずめた。くぐもった声が聞こえた。
「モエちゃんのこと、撮りますからね。ちゃんと撮りますから。バクシンオーさんのことも、モエちゃんのことも、全部残しますから」
「……うん」
「だから、悔しがるのは今だけです。あとはもうぐぬぬしません」
「うん」
「でも今だけ、もう三十秒だけぐぬぬさせてください」
「……どうぞ」
枕に顔をうずめたまま、マーチャンが小さく唸っている。
三十秒。数えなかったけど、それくらいで、枕から顔を上げた。
「はい。終わりです」
「終わったの」
「終わりました」
ぱちんと手を打って、ウマホを拾い上げる。切り替えが早い。
「朝ごはん食べましたか? 食堂行きましょう。今日は卵スープの日のはずです」
「……うん。行こっか」
立ち上がる。マーチャンが先にドアを開ける。
廊下に出ると、朝の光が窓から差し込んでいた。
~~
翌日。昼の食堂。
食堂はいつも通り混んでいる。マーチャンと二人でトレーを持って、空いている席を探していた。
「あ、モエちゃん、あそこ空いてます」
マーチャンが指差した先。窓際のテーブル。二人分の空き。
座った。マーチャンはカレーうどん。私は鮭定食。
「高松宮記念、楽しみですねぇ」
マーチャンがうどんをすすりながら言った。昨日のぐぬぬが嘘みたいに、もう完全に「記録する側」の顔になっている。
鮭の身をほぐしていたら、視界の端に影が落ちた。
「……あの、ごめんなさい。ここ、座ってもいい……?」
小さな声。消え入りそうな響き。
顔を上げた。
長い黒髪。右目にかかる前髪。大きなウマ耳が、少しだけ伏せている。
トレーに乗っているのは、きつねうどんと小さなサラダとおにぎり二個。
「……ライスさん」
ライスシャワーさん。
「久しぶり……だね、モエちゃん」
おずおずと、向かいの空いている椅子を引く。マーチャンの隣。椅子に座ると、テーブルから顔がちょっとしか出ない。私より小さい。145センチ。
「マーちゃんはお隣失礼しますね、ライスシャワーさん」
「あ、うん。よろしくね……えっと、アストンマーチャンさん……だよね?」
「はいです。マーちゃんって呼んでください」
「マーちゃん……うん。よろしくね、マーちゃん」
ライスさんがそっと笑った。ほんの少し、緊張が解けたように。
最後に話したのは——一年以上前だ。
泥だらけの練習場。体が言うことを聞かなくて、座り込んでいた私のところに来てくれた。
「青いバラ」の話をしてくれた。
「不可能」と言われる花。その痛みを知っている子だけが咲かせられる花。
あの時の私は、2000メートルに挑んで、体に裏切られて、泣きそうで。ライスさんの手は温かかった。泥だらけの私の手を、両手で包んでくれた。
「ヒーローさん」と、呼んでくれた。
「……モエちゃん」
ライスさんが、きつねうどんの湯気越しに、こちらを見ていた。右目は前髪で隠れたまま。見えている左目だけが、真っ直ぐに私を捉えている。
「高松宮記念、出るんだね」
「……はい」
「バクシンオーさんの引退レース。……すごいね」
「……すごくないですよ。呼ばれただけで」
「ううん」
ライスさんが、静かに首を振った。
「呼ばれて、行くって決めたのは、モエちゃんだよ」
その声は、普段のライスさんよりほんの少しだけ通っていた。
「……ライスね、あの会見見てたの。テレビで」
うどんの箸を止めて、ライスさんが少しだけ笑った。
「バクシンオーさんが、モエちゃんの名前を呼んだ時……ライス、ちょっと泣いちゃった」
「……え?」
「だって……嬉しかったの。モエちゃんのこと、ちゃんと見てくれてる人がいるんだなって」
ライスさんの声が、少し揺れた。
「ライスもね、昔、そういう人がいたから。……自分が『悪役』って呼ばれてた時に、それでも『あなたはヒーローだ』って言ってくれた人が」
「…………」
ブルボンさん。名前は出さなかったけど、たぶんそうだ。
「ねえ、モエちゃん」
「はい」
「青いバラ、覚えてる?」
心臓が、どくん、と鳴った。
「……覚えてます」
「あの時と今と、何か変わった……?」
変わったか。
一年前の自分と、今の自分。
あの時は、体が言うことを聞かないのが怖かった。
2000メートルを走りたいのに、1200メートルの体が拒絶する。自分の意志と体のミスマッチが、たまらなく怖かった。
今は——
「……前は、体が言うことを聞かないのが怖かった」
ライスさんが、静かに聞いている。
「今は……体が勝手に動くのが怖い」
言ってしまった。
誰にも言っていなかった。絢原さんにもタキオンさんにも、こういう言い方ではしていなかった。
ライスさんが、少しだけ目を見開いた。
それから、きつねうどんの箸を置いて、小さく頷いた。
「……怖いものが変わったなら、モエちゃんも変わったんだよ」
「…………」
「前は止まってた。体が動かなくて。今は動いてる。……動きすぎて怖い、っていうのは、走ってる子の怖さだよ。立ち止まってる子の怖さじゃない」
ライスさんの声は小さい。消え入りそう。でも、一言一言に、芯がある。
この人は普段、おどおどしている。「ごめんなさい」が先に出る人。でも、こうやって誰かの痛みについて語る時だけ、声が変わる。
自分の中に同じ痛みがあるから。
「……ライスは、偉そうなこと言えないけど」
ライスさんがおにぎりを一つ取って、両手で包んだ。丸い。小さい手。
「怖いまま走れるなら、それでいいと思うの。……ライスも、ずっと怖かったから」
菊花賞の時も。天皇賞の時も。
勝ったら誰かの夢を壊す。走れば走るほど、ヒールになる。
怖くて、逃げ出しそうになった。
でも、走った。
「走らないのも怖いし、走るのも怖いなら……走った方がいい、って。ライスはそう思ったの」
「…………」
「だって、走った先には何かあるかもしれないけど、止まった先には何もないから」
しばらく、二人とも黙っていた。
マーチャンがカレーうどんの汁を静かにすすっている。この子は空気を読む。読んだ上で、ちゃんとうどんを食べ切る。
ライスさんがおにぎりを食べ終わって、もう一つに手を伸ばした。……この人、小柄なのによく食べる。
「……ライスさん」
「ん?」
「あの時、ありがとうございました。青いバラの話。……ずっと覚えてました」
ライスさんが、一瞬だけ目を見開いて、それからふわっと笑った。
右目の前髪が揺れて、一瞬だけ両方の瞳が見えた。綺麗な色。
「……頑張ってね、ヒーローさん」
同じ言葉。一年前と、同じ言葉。
でも、聞こえ方が全然違う。
あの時の「ヒーローさん」は、泥の中でもがく私への励まし。
今の「ヒーローさん」は、立ち上がって走り出した私への、祝福。
——祝福。
ライスシャワー。祝福の名前を持つ人が、私に祝福をくれた。
ライスさんが去っていった。小さな背中。長い黒髪と、大きなウマ耳。トレーを持つ手が少し震えている。人混みが怖いのかもしれない。それでもちゃんと歩いていく。
「……いい人ですねぇ、ライスシャワーさん」
マーチャンがぽつりと言った。
「……うん」
「モエちゃん、ちょっと泣きそうな顔してます」
「……してない」
「してます」
「……してない。鮭が辛かっただけ」
「鮭は辛くないのです」
……ばれてる。
食堂を出る。午後の日差しが、廊下に差し込んでいる。
ヒーローさん。
あの頃の私は、その呼び方の意味が分からなかった。
自分のことをヒーローだなんて、思ったことがなかった。
今も分からない。でも、ライスさんがそう呼んでくれるなら、そうありたいと思う。
……高松宮記念。あと少し。
~~
放課後。第三練習場。
高松宮記念まで、あと十日。
「1200メートルを三本。インターバルは三分。ペースは——」
「本番想定で」
絢原さんの言葉を遮った。
「……本番想定だと、かなりキツいぞ」
「キツくていい。本番はもっとキツい」
絢原さんが一瞬黙って、それから頷いた。
「分かった。タイムは俺が計る。タキオンのセンサーもつけろ」
手首と足首にセンサーを巻く。タキオンさんは今日は来ていない。「データはリモートで見るよ。実験室から出るのが面倒でね」と言っていた。相変わらずだ。
ダートのコース。400メートルの楕円。短い直線と、きついカーブ。
本番の中京の芝1200メートルとは全然違うけど、スピードの感覚を体に叩き込むには十分。
一本目。
スタートの瞬間、体が弾けた。
速い。自分でも分かる。
退院直後とは比べものにならない。阪神カップの時よりも、フェブラリーSの時よりも、体が軽い。
タキオンさんのスクラップ・アンド・ビルドが完成に近づいている。
400メートル走り終わる。呼吸を整える。
「タイム」
絢原さんがストップウォッチを見ている。
「……速い。本番ペースを上回ってる」
「もう一本」
「インターバル三分って言っただろ。あと二分ある」
「……じゃあ二分で」
「三分」
「……はい」
待っている間、絢原さんの横に座った。ベンチ。二人分のスペース。
三月の夕方。日が傾き始めている。
練習場には私たちしかいない。タキオンさんもいない。マーチャンもいない。
……この時間、好きだな。
「……ねえ、トレーナー」
「ん」
「タキオンさん、本番は来るの?」
「データ取りに来ると言ってた。スタンドの上の方で機材を広げるらしい」
「……ふーん」
「何か気になるか」
「別に。……ただ、レース前の控室には来なくていいから」
「なんでだ」
「…………」
なんでだろう。
分かってる。分かってるけど、言葉にすると恥ずかしい。
レース前の控室には、絢原さんだけでいい。
あの人が私の勝負服の袖を直して、「行ってこい」って背中を叩いてくれる。それだけでいい。
他の誰かがいたら、あの瞬間が薄まる。
「……トレーナーだけでいい。控室は」
「……分かった。タキオンには伝える」
それ以上聞かなかった。この人は、理由を追及しない。私が「こうしたい」と言えば、そうする。いつもそう。
二本目。
さっきより、さらに体が動いた。
カーブで重心を落として、直線で一気に加速する。風が顔を叩く。ダートの砂が弾ける。
あの反応は、来ない。
当たり前だ。練習場には、GⅠ級の闘気を持つウマ娘はいない。絢原さんのストップウォッチの音しかない。
でも、体は速い。
素の力が、確実に上がっている。
三本目。
最後の一本。
走りながら、考えた。
高松宮記念。本番。1200メートル。
バクシンオーさんがいる。あの人の隣に行くと約束した。
あの人は速い。短距離の絶対王者。
私の全力が、あの人に届くかどうかすら分からない。
でも、行く。
追いかける。最後まで。
400メートル走り終わる。膝に手をついて、息を整える。
「タイム」
絢原さんがストップウォッチを見て、少しだけ目を見開いた。
「……自己ベスト」
「……マジ?」
「マジだ」
絢原さんがウマホでタキオンさんにデータを送っている。すぐに返事が来たらしい。画面を見て、眉を上げた。
「タキオンが『面白い数字が出てるね』と」
「……それ、いい意味?」
「あの人が面白いと言う時は、大体いい意味だ」
大体。百パーセントとは言わないところが、タキオンさんらしい。
練習が終わった。
着替えて、荷物をまとめる。
駐車場に向かう道。絢原さんと並んで歩く。
いつもの帰り道。いつもの距離。
「……トレーナー」
「ん」
「あと十日。……足りる?」
「足りる。お前の体はもう出来上がってる。あとは微調整だけだ」
「……そっか」
「不安か」
「…………ちょっとだけ」
「ちょっとだけなら、大丈夫だ」
「……なんでそう言い切れるの」
「お前を毎日見てるからだ」
何でもないことのように言う。
でも、その一言が、胸の奥にすとんと落ちた。
毎日見てる。
この人は、毎日、私を見てくれている。
練習の時も、レースの時も、ミルクティーを噴いた時も。
……ずるい。そういうことをさらっと言う。
「……トレーナー」
「ん」
「高松宮記念、終わったら、ご飯行こう」
「……どこに」
「どこでもいい。トレーナーが選んで。……二人で」
「…………ああ」
約束した。
レースが終わったら。勝っても負けても。二人で。
駐車場に着いた。車に乗る。
助手席の窓に額をつける。三月の夕焼けが、オレンジ色に染まっている。
あと十日。
体は出来上がっている。あとは走るだけ。
バクシンオーさんが待っている。
絢原さんが見てくれている。
……大丈夫。たぶん。