アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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63話 最後の約束

高松宮記念、五日前。

 

出走会見。中京レース場の記者会見室。

 

フェブラリーSの時と同じ、長テーブルとマイクとフラッシュの列。でも、空気が全然違う。

 

あの時はダートの世界に芝のウマ娘が紛れ込んだ異物感があった。エスポワールシチーさんたちの「何しに来た」という視線を浴びながら座っていた。

 

今日は、違う。

今日は私が「ここにいるべきウマ娘」だ。

 

芝1200メートル。私の適性距離。私の世界。

 

……なのに、緊張している。

 

長テーブルの中央寄りに座っている。

バクシンオーさんの引退レースで、その人に名指しされた出走者。注目度で並べたら、当然こうなる。

分かってる。分かってて来た。でも、フラッシュの量が多い。

 

マイクの前に名前のプレート。「カレンモエ」。

 

隣の席には——バクシンオーさん。

 

桜色の勝負服。桜の意匠が照明を受けて輝いている。座っているだけで空気が明るい。この人の周囲半径三メートルは、常にバクシンオーさんの空間になる。

 

テーブルの反対側にも、勝負服姿のウマ娘たちが並んでいる。十八人。

スプリントGⅠの常連たち。この距離で何度もしのぎを削ってきた人たちだ。

記者の質問がバクシンオーさんと私にばかり集中しているのが、申し訳なくなる。この人たちにだって、このレースに懸ける想いがあるはずなのに。

 

絢原さんは会場の隅にいる。壁際。見えないけど、気配で分かる。いつもの無表情で、腕を組んで立っているはず。バクシンオーさんのトレーナーさんもどこかにいるのだろう。壇上にはウマ娘だけ。

 

記者からの質問が飛ぶ。

 

「カレンモエ選手、バクシンオー選手の引退会見での指名を受けての出走ですが、意気込みは」

 

「……全力で走ります」

 

短い。素っ気ない。でも、それしか言えない。

気の利いたコメントなんか出てこない。大体、「意気込み」って何だ。バクシンオーさんの最後のレースに呼ばれて、「検査のために走ります」なんて言えるわけがない。

 

「バクシンオー選手は、なぜカレンモエ選手を指名されたのですか?」

 

記者がバクシンオーさんに向けた質問。

 

私も、聞きたかった。

 

バクシンオーさんが、マイクに向かって姿勢を正した。

 

「それは!」

 

声がでかい。会見場なのに。

 

「新入生レースの時に、あの子の走りを見たからです! あのスピード! あの心臓! 1200メートルに来たら、とんでもないことになると確信しました! 学級委員長の目に、狂いはありません!」

 

まっすぐだ。嘘がない。

 

「そして! 阪神カップの走りを見て! 確信が確信になりました! 二重の確信です! バクシン的に、あの走りはもう一度見たいと思いました! いえ、見たいだけじゃない! 隣で体感したいと思いました!!」

 

記者たちがペンを走らせている。

私は、マイクの前で固まっていた。

 

隣で体感したい。

 

……バクシンオーさん。

 

あの人は会見場でもバクシンオーさんだ。全力。嘘なし。計算なし。思ったことが全部口から出る。

 

「カレンモエさん!」

 

突然、バクシンオーさんがこっちを向いた。会見中に。マイクを通して。

 

「当日は全力で走りましょう!! 私の最後のGⅠを、最高のレースにしましょう!! バクシーン!!」

 

会見場で叫ぶな。

 

記者たちが苦笑している。カメラのフラッシュが光る。

 

「……はい。全力で」

 

それだけ答えるのが精一杯だった。

 

質問が次のウマ娘に移る。昨年の二着、アンタゴニストさん。

 

「今年こそ頂点を、という思いでしょうか」

 

「当然です。バクシンオーさんのラストランだろうと、カレンモエさんが指名されようと、私のやることは変わりません。去年の借りを返しに来ました」

 

冷静な声。テーブルの向こうから、一瞬だけこちらを見た目が鋭かった。

昨年の雪辱を期す人の目。この人も、このレースに全てを懸けて来ている。

 

バクシンオーさんと私の話ばかりが取り上げられるけど——この人を含めて、十八人全員がそれぞれの理由でここにいる。それを忘れちゃいけない。

 

会見が終わって、廊下に出る。

絢原さんが後ろからついてくる。

 

「……緊張してたな」

 

「……してた」

 

「珍しい」

 

「珍しいよ。自分でもびっくりしてる」

 

フェブラリーSの会見では、こんなに緊張しなかった。あの時はダート勢に挑戦状を叩きつけられる側だった。受ける側の緊張。

 

今回は違う。バクシンオーさんの引退レース。あの人の最後の舞台に呼ばれた。その重みが、肩にのしかかっている。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

「ん」

 

「私、あの人の最後のレースに出ていいのかな」

 

「いいに決まってるだろう。呼ばれたんだ」

 

「……うん」

 

「それに、お前は出たいと言った。自分で決めた」

 

「…………うん」

 

絢原さんが、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。私に合わせてくれている。

 

「……ここからの五日間、調整は俺に任せろ。タキオンのデータでは、今のお前の体は最高の状態にある」

 

「……うん」

 

「あとは、走るだけだ」

 

あとは、走るだけ。

 

シンプルだ。この人の言葉は、いつもシンプルで、いつも正しい。

 

 

 

~~

 

 

 

高松宮記念、当日。

 

中京レース場。三月末の晴天。

 

朝から空気が違った。

GⅠの日の空気は、他のレースとは質が違う。スタンドを埋め尽くす観衆の熱気が、入場門の外まで漏れ出している。

 

しかも今日は、バクシンオーさんの引退レース。

そしてカレンモエが出走する。

 

チケットは発売開始三分で完売したと聞いた。URAの広報のお姉さんが電話口で泣いていたらしい。申し訳ない。

 

控室で、勝負服に着替えた。

漆黒と銀。鏡の前で袖を通す。

 

この勝負服は、ママの影を殺すために作った服だ。カレンチャンの白と赤を全部否定した、私だけの戦闘服。

 

でも、今日はママのことなんか考えていない。

 

今日は、バクシンオーさんのレース。

 

鏡の中の自分を見る。

顔色はいい。目の下にクマもない。体調は万全。タキオンさんのお墨付き。

 

「……行くか」

 

控室を出る。

廊下を歩く。地下道へ向かう。

 

その途中で。

 

「モエさん!!」

 

背後から、台風。

 

振り返る暇もなく、桜色の勝負服が視界に飛び込んできた。

 

サクラバクシンオーさん。

 

勝負服姿。最後のGⅠの、最後の勝負服。

桜の意匠が、照明に映えている。

 

「おはようございます!! 今日は最高にバクシンな日ですね!!」

 

声がでかい。廊下なのに。他の出走者が振り返っている。

 

「……おはようございます、バクシンオーさん」

 

「天気もバクシン! コンディションもバクシン! 全てがバクシン的に完璧です!!」

 

何を言ってるのか半分くらい分からないけど、この人はいつもそうだ。

 

バクシンオーさんが、ぐっと拳を握った。

 

「モエさん! 来てくれて、嬉しいです!」

 

「……え?」

 

「出走登録を見た日からずっと楽しみでした! でも、実際にこうして勝負服で並ぶと、やっぱり全然違います! 画面越しじゃない! 本物のモエさんが、ここにいます!!」

 

……この人は、テレビでずっと見てくれてたんだ。

 

バクシンオーさんが、一歩近づいた。

 

さっきまでの爆発的なテンションが、ほんの少しだけ——ほんの少しだけ、静かになった。

 

「今日は、私の最後のレースです」

 

「……はい」

 

「全力で走ります。最初から最後まで。手を抜いたことなんか、一度もないし、今日も抜きません」

 

「……はい」

 

「だから、モエさんも全力で来てください」

 

バクシンオーさんの目が、まっすぐ私を見ている。

きらきらしている。いつもと同じだ。天然で、無邪気で、嘘がない。

 

でも、その奥に——今まで見たことのない、静かな熱がある。

 

「私を、追いかけてきてください」

 

「…………」

 

「最終直線で、私の隣に来てください」

 

「…………」

 

「お願いします」

 

両手を掴む。笑わずにまっすぐ見る。

——直接的、身体的、全力。バクシンオーそのもの

 

バクシンオーさんが、笑わずに何かを言うのは、ほとんど見たことがない。あの新入生レースの日以来かもしれない。

 

胸の奥が、きゅっとなった。

 

「……バクシンオーさん」

 

「はいっ」

 

顔を上げた。目が潤んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。

 

「……追いかけます」

 

言った。

 

「全力で。最後まで」

 

バクシンオーさんの顔が、ぱっと晴れた。

太陽みたいな笑顔。満開の桜。

 

「ありがとうございます!! バクシーーーーン!!」

 

叫んで、走り去っていった。来た時と同じ速度で。嵐のように。

 

残されたのは、廊下の静寂と、私の心臓の音。

 

……追いかけます、って言っちゃった。

 

追いかける。あの背中を。

短距離の絶対王者の背中を、全力で。

 

怖い。

 

怖いけど——

 

「モエ」

 

廊下の先に、絢原さんが立っていた。

控室から出てきたらしい。そりゃそうだ。あの声量は壁を貫通する。

 

「……聞いてたなら出てきてよ」

 

「邪魔するような空気じゃなかった」

 

……まあ、そうか。

 

絢原さんが、一歩近づいた。いつもの無表情。でも、目だけが——私を見ている。

 

「走ってこい。俺はスタンドにいる」

 

短い。いつも通り。でも、それだけでいい。

 

この人が見てくれているなら、大丈夫。

 

「……うん」

 

絢原さんが小さく頷いて、控室の方へ戻っていった。

 

深呼吸。

 

地下道へ向かう。

薄暗い通路。その先に、ターフの光が見える。

 

歓声が、地面を通して伝わってくる。

 

高松宮記念。芝1200メートル。GⅠ。

 

バクシンオーさんの最後の舞台。

 

私が呼ばれた場所。

 

行こう。

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