高松宮記念、五日前。
出走会見。中京レース場の記者会見室。
フェブラリーSの時と同じ、長テーブルとマイクとフラッシュの列。でも、空気が全然違う。
あの時はダートの世界に芝のウマ娘が紛れ込んだ異物感があった。エスポワールシチーさんたちの「何しに来た」という視線を浴びながら座っていた。
今日は、違う。
今日は私が「ここにいるべきウマ娘」だ。
芝1200メートル。私の適性距離。私の世界。
……なのに、緊張している。
長テーブルの中央寄りに座っている。
バクシンオーさんの引退レースで、その人に名指しされた出走者。注目度で並べたら、当然こうなる。
分かってる。分かってて来た。でも、フラッシュの量が多い。
マイクの前に名前のプレート。「カレンモエ」。
隣の席には——バクシンオーさん。
桜色の勝負服。桜の意匠が照明を受けて輝いている。座っているだけで空気が明るい。この人の周囲半径三メートルは、常にバクシンオーさんの空間になる。
テーブルの反対側にも、勝負服姿のウマ娘たちが並んでいる。十八人。
スプリントGⅠの常連たち。この距離で何度もしのぎを削ってきた人たちだ。
記者の質問がバクシンオーさんと私にばかり集中しているのが、申し訳なくなる。この人たちにだって、このレースに懸ける想いがあるはずなのに。
絢原さんは会場の隅にいる。壁際。見えないけど、気配で分かる。いつもの無表情で、腕を組んで立っているはず。バクシンオーさんのトレーナーさんもどこかにいるのだろう。壇上にはウマ娘だけ。
記者からの質問が飛ぶ。
「カレンモエ選手、バクシンオー選手の引退会見での指名を受けての出走ですが、意気込みは」
「……全力で走ります」
短い。素っ気ない。でも、それしか言えない。
気の利いたコメントなんか出てこない。大体、「意気込み」って何だ。バクシンオーさんの最後のレースに呼ばれて、「検査のために走ります」なんて言えるわけがない。
「バクシンオー選手は、なぜカレンモエ選手を指名されたのですか?」
記者がバクシンオーさんに向けた質問。
私も、聞きたかった。
バクシンオーさんが、マイクに向かって姿勢を正した。
「それは!」
声がでかい。会見場なのに。
「新入生レースの時に、あの子の走りを見たからです! あのスピード! あの心臓! 1200メートルに来たら、とんでもないことになると確信しました! 学級委員長の目に、狂いはありません!」
まっすぐだ。嘘がない。
「そして! 阪神カップの走りを見て! 確信が確信になりました! 二重の確信です! バクシン的に、あの走りはもう一度見たいと思いました! いえ、見たいだけじゃない! 隣で体感したいと思いました!!」
記者たちがペンを走らせている。
私は、マイクの前で固まっていた。
隣で体感したい。
……バクシンオーさん。
あの人は会見場でもバクシンオーさんだ。全力。嘘なし。計算なし。思ったことが全部口から出る。
「カレンモエさん!」
突然、バクシンオーさんがこっちを向いた。会見中に。マイクを通して。
「当日は全力で走りましょう!! 私の最後のGⅠを、最高のレースにしましょう!! バクシーン!!」
会見場で叫ぶな。
記者たちが苦笑している。カメラのフラッシュが光る。
「……はい。全力で」
それだけ答えるのが精一杯だった。
質問が次のウマ娘に移る。昨年の二着、アンタゴニストさん。
「今年こそ頂点を、という思いでしょうか」
「当然です。バクシンオーさんのラストランだろうと、カレンモエさんが指名されようと、私のやることは変わりません。去年の借りを返しに来ました」
冷静な声。テーブルの向こうから、一瞬だけこちらを見た目が鋭かった。
昨年の雪辱を期す人の目。この人も、このレースに全てを懸けて来ている。
バクシンオーさんと私の話ばかりが取り上げられるけど——この人を含めて、十八人全員がそれぞれの理由でここにいる。それを忘れちゃいけない。
会見が終わって、廊下に出る。
絢原さんが後ろからついてくる。
「……緊張してたな」
「……してた」
「珍しい」
「珍しいよ。自分でもびっくりしてる」
フェブラリーSの会見では、こんなに緊張しなかった。あの時はダート勢に挑戦状を叩きつけられる側だった。受ける側の緊張。
今回は違う。バクシンオーさんの引退レース。あの人の最後の舞台に呼ばれた。その重みが、肩にのしかかっている。
「……ねえ、トレーナー」
「ん」
「私、あの人の最後のレースに出ていいのかな」
「いいに決まってるだろう。呼ばれたんだ」
「……うん」
「それに、お前は出たいと言った。自分で決めた」
「…………うん」
絢原さんが、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。私に合わせてくれている。
「……ここからの五日間、調整は俺に任せろ。タキオンのデータでは、今のお前の体は最高の状態にある」
「……うん」
「あとは、走るだけだ」
あとは、走るだけ。
シンプルだ。この人の言葉は、いつもシンプルで、いつも正しい。
~~
高松宮記念、当日。
中京レース場。三月末の晴天。
朝から空気が違った。
GⅠの日の空気は、他のレースとは質が違う。スタンドを埋め尽くす観衆の熱気が、入場門の外まで漏れ出している。
しかも今日は、バクシンオーさんの引退レース。
そしてカレンモエが出走する。
チケットは発売開始三分で完売したと聞いた。URAの広報のお姉さんが電話口で泣いていたらしい。申し訳ない。
控室で、勝負服に着替えた。
漆黒と銀。鏡の前で袖を通す。
この勝負服は、ママの影を殺すために作った服だ。カレンチャンの白と赤を全部否定した、私だけの戦闘服。
でも、今日はママのことなんか考えていない。
今日は、バクシンオーさんのレース。
鏡の中の自分を見る。
顔色はいい。目の下にクマもない。体調は万全。タキオンさんのお墨付き。
「……行くか」
控室を出る。
廊下を歩く。地下馬道へ向かう。
その途中で。
「モエさん!!」
背後から、台風。
振り返る暇もなく、桜色の勝負服が視界に飛び込んできた。
サクラバクシンオーさん。
勝負服姿。最後のGⅠの、最後の勝負服。
桜の意匠が、照明に映えている。
「おはようございます!! 今日は最高にバクシンな日ですね!!」
声がでかい。廊下なのに。他の出走者が振り返っている。
「……おはようございます、バクシンオーさん」
「天気もバクシン! コンディションもバクシン! 全てがバクシン的に完璧です!!」
何を言ってるのか半分くらい分からないけど、この人はいつもそうだ。
バクシンオーさんが、ぐっと拳を握った。
「モエさん! 来てくれて、嬉しいです!」
「……え?」
「出走登録を見た日からずっと楽しみでした! でも、実際にこうして勝負服で並ぶと、やっぱり全然違います! 画面越しじゃない! 本物のモエさんが、ここにいます!!」
……この人は、テレビでずっと見てくれてたんだ。
バクシンオーさんが、一歩近づいた。
さっきまでの爆発的なテンションが、ほんの少しだけ——ほんの少しだけ、静かになった。
「今日は、私の最後のレースです」
「……はい」
「全力で走ります。最初から最後まで。手を抜いたことなんか、一度もないし、今日も抜きません」
「……はい」
「だから、モエさんも全力で来てください」
バクシンオーさんの目が、まっすぐ私を見ている。
きらきらしている。いつもと同じだ。天然で、無邪気で、嘘がない。
でも、その奥に——今まで見たことのない、静かな熱がある。
「私を、追いかけてきてください」
「…………」
「最終直線で、私の隣に来てください」
「…………」
「お願いします」
両手を掴む。笑わずにまっすぐ見る。
——直接的、身体的、全力。バクシンオーそのもの
バクシンオーさんが、笑わずに何かを言うのは、ほとんど見たことがない。あの新入生レースの日以来かもしれない。
胸の奥が、きゅっとなった。
「……バクシンオーさん」
「はいっ」
顔を上げた。目が潤んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
「……追いかけます」
言った。
「全力で。最後まで」
バクシンオーさんの顔が、ぱっと晴れた。
太陽みたいな笑顔。満開の桜。
「ありがとうございます!! バクシーーーーン!!」
叫んで、走り去っていった。来た時と同じ速度で。嵐のように。
残されたのは、廊下の静寂と、私の心臓の音。
……追いかけます、って言っちゃった。
追いかける。あの背中を。
短距離の絶対王者の背中を、全力で。
怖い。
怖いけど——
「モエ」
廊下の先に、絢原さんが立っていた。
控室から出てきたらしい。そりゃそうだ。あの声量は壁を貫通する。
「……聞いてたなら出てきてよ」
「邪魔するような空気じゃなかった」
……まあ、そうか。
絢原さんが、一歩近づいた。いつもの無表情。でも、目だけが——私を見ている。
「走ってこい。俺はスタンドにいる」
短い。いつも通り。でも、それだけでいい。
この人が見てくれているなら、大丈夫。
「……うん」
絢原さんが小さく頷いて、控室の方へ戻っていった。
深呼吸。
地下馬道へ向かう。
薄暗い通路。その先に、ターフの光が見える。
歓声が、地面を通して伝わってくる。
高松宮記念。芝1200メートル。GⅠ。
バクシンオーさんの最後の舞台。
私が呼ばれた場所。
行こう。