アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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64話 桜色の背中

ゲート裏。

 

十八人。

 

ゲートの鉄枠が、冷たい。手袋越しでも分かる。三月末の中京。晴天。芝は良。風はほぼない。

 

1200メートル。

 

JFの1600メートルより、400メートル短い。

オークスの2400メートルの半分。

数字だけ見たら、すぐ終わる距離。

 

でも、この距離で戦うウマ娘たちの密度は、他のどのレースとも違う。

 

7枠14番。外寄りの枠。

 

漆黒と銀の勝負服。鏡の中で見た時より、体に馴染んでいる気がする。

この服を着るのも、何度目だろう。オークス以来、ずっと着続けてきた。ママの影を殺すための戦闘服。

 

今日は——誰の影も、関係ない。

 

ゲートの隙間から、内側を見る。

 

バクシンオーさんは3枠5番。九つも離れている。間にたくさんの背中があって、桜色の勝負服は鉄枠の隙間からちらちら見え隠れするだけ。

 

遠い。

 

さっき、廊下で交わした言葉が耳に残っている。

 

「最終直線で、私の隣に来てください」

 

「追いかけます。全力で。最後まで」

 

追いかける。

あの背中を。

 

ゲートの中で、呼吸を整える。

 

心臓の音が聞こえる。速い。でも、嫌な速さじゃない。

阪神カップの時みたいに体が震えているわけでもない。フェブラリーSの時みたいに砂の感触に怯えているわけでもない。

 

ただ、速い。

 

走りたい、からかもしれない。

 

……走りたい?

 

自分の中から出てきた言葉に、少し驚いた。

 

考える暇はなかった。

 

 

 

――Sun: Sakura Bakushin'O

 

 

 

最後のゲート。

 

鉄枠の冷たさが、手のひらに伝わる。

何回も入ったゲート。何回も聞いたファンファーレ。何回も感じた、スタート直前の静寂。

 

今日が、最後。

 

寂しくはない。

やりきった。トレーナーさんにも、そう伝えた。

「最後まで全力で走りましょう」と、あの人は笑って言ってくれた。

最初から最後まで、私のバクシンに付き合ってくれた人。

 

だから、怖くない。寂しくない。

 

最高にバクシンだ。

 

ゲートの隙間から、外の方を見る。

 

ずっと向こう。外枠の方に、漆黒と銀の勝負服が小さく見える。

あの子が、いる。

 

カレンモエさん。

 

来てくれた。ここまで来てくれた。

出走登録を見た日に叫んだ。ゲート裏で「追いかけます」と言ってくれた。

 

あの子が、本当にここにいる。

 

……嬉しい。

 

ものすごく嬉しい。声に出したいくらい嬉しい。

でも、ゲートの中で叫んだら怒られる。我慢。学級委員長は我慢も一流。

 

拳を握った。

 

今日のレースの結果は分からない。

あの子が私の隣まで来れるかも、分からない。

 

でも、一つだけ分かっていることがある。

 

今日の私は、一人じゃない。

 

後ろに、あの子がいる。

同じゲートに、同じ時間に、同じ芝の上に。

 

それだけで、いい。

それだけで、走る理由になる。

 

最後のレース。最後の1200メートル。

 

全力で走る。

バクシンオーにしかできない走りを、最後まで。

 

あの子が追いつけるかどうかは、あの子が決めること。

私は、ただ全力で——

 

 

 

——ゲートが、開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

1200メートルは、最初の一歩で決まる。

 

スタートの瞬間、十八人が同時に弾けた。

視界が一気に開ける。ゲートの鉄枠が後ろに消える。芝の匂い。歓声の壁。

 

速い。

 

JFのスタートとは質が違う。あの時は1600メートルの呼吸で、最初の200メートルはまだ余裕があった。

ここにはそれがない。最初の一歩から、全員が全力。

 

1200メートルのGⅠ。

助走区間なんて存在しない。

 

内の方で、ジップライナーさんがすっとハナに立った。内枠から無理なく、自然に。

 

大外18番のレイナーディンさんは——行かなかった。外枠の不利を嫌ったのか、控えている。

 

競りかける子が、誰もいない。

 

単騎逃げ。ペースを握ったのは、一人だけ。

 

前方に、桜色が見えた。

 

バクシンオーさん。

 

ジップライナーさんのすぐ後ろ、二番手につけている。三歩で好位に取りついた。内枠からの自然な流れ。

あの人の加速は、他の誰よりも滑らかで、他の誰よりも速い。力んでいない。体が「速く走ること」を当たり前のこととして受け入れている。

 

速さに、嘘がない。

 

私は後方。十二番手あたり。

外枠の14番だったから、内に入るのに数歩使った。前半は捨てるつもりで後ろに下げた。

 

周りを走っているのは、この距離で何年も戦い続けてきた人たちだ。

息遣い一つ、腕の振り一つに無駄がない。1200メートルの呼吸を体に刻み込んでいる人たち。

私なんかよりずっとこの距離を知っている。

 

これでいい。絢原さんと話した作戦通り。

「前半は無理に上げるな。バクシンオーの背中だけ見ていろ」

 

背中だけ見ている。

 

桜色の勝負服が、ジップライナーさんの直後で揺れている。その外にアンタゴニストさん。ブリッツエクレールさんが四番手の内。シャインプレイズさんが五番手。

 

先行グループが、固まっている。

 

……静かだ。

 

逃げ争いがない。前が落ち着いている。先行勢が楽な呼吸で走っている。誰一人、苦しそうな顔をしていない。

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

スタートしました、高松宮記念!

 

ハナを切ったのは2枠3番ジップライナー! 内枠からすんなりと先頭に立ちました!

大外18番レイナーディンは控える形! 逃げ争いにはなりません!

 

二番手にサクラバクシンオー! 3枠5番の好枠から、逃げるジップライナーを見る絶好のポジション!

三番手にアンタゴニスト、四番手のインにブリッツエクレール!

五番手にシャインプレイズ、六番手にスウィフトアクセル! 先行グループが手厚い構成です!

 

カレンモエは後方の外目、十二番手付近! じっくり脚を溜める形!

 

前半600メートル通過——34秒1!

 

落ち着いたペースです! ジップライナーの単騎逃げで、先行勢にとっては楽な流れ!

スローペース。後方からの追い込みには厳しい展開です!

 

 

 

――Sun: Sakura Bakushin'O

 

 

 

二番手。

 

逃げているジップライナーさんの背中が、すぐ前にある。

手を伸ばせば届きそうなくらい近い。でも、まだ行かない。

 

ペースが落ち着いている。楽だ。脚が溜まる。

いつもならもう先頭に立っているところだけど、今日はこのまま二番手でいい。

ジップライナーさんが作ってくれた、ちょうどいいペース。風よけにもなる。

 

600メートル通過。レースの半分。

 

後ろに、気配がある。

十六人が追いかけてきている。全員、全力で。GⅠの舞台に立つウマ娘たちだ。弱い子は一人もいない。

 

でも——今日のペースなら、みんな脚が残っている。

直線に入っても前が崩れない。

 

あの子は——来れるだろうか。

 

このペースだと、後ろからでは厳しいかもしれない。前が楽をしている分、差し込む隙がない。

 

でも。

 

あの子なら。

 

阪神カップの、あの走り。あの速さ。あの切れ味。

 

画面越しじゃなく、隣で。

 

……来てくれる。

 

信じている。あの子は来る。

 

一年以上、待った。

テレビに手を伸ばした日もあった。声をかけられなかった日もあった。

全部、今日のためだったと思いたい。

 

だから、走る。

全力で。いつも通り。最後まで。

 

あの子が追いつけるように——私は、誰よりも速く走る。

 

矛盾している。

速く走ったら追いつけないじゃないか、と思うかもしれない。

 

でも、手を抜いた背中を追いかけて、あの子は嬉しいだろうか。

私の全力に追いつくから意味がある。だから私は、全力で逃げる。

 

追いかけてきてください、モエさん!

 

第一コーナー。ジップライナーさんを交わして先頭に立つ。

最後のGⅠ。最後の直線。

 

その先に、あの子が来てくれることを信じて。

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

速い。

 

JFの前半とは比較にならない。

あの時は1600メートルの呼吸で、序盤はまだ余裕があった。

今は、呼吸が二回できるかできないかの間に、200メートルが過ぎる。

 

これが1200メートル。

考える時間がない。息をする暇がない。体が判断して、体が動いて、気づいた時にはもう次のコーナーに入っている。

 

第一コーナー。

 

バクシンオーさんがジップライナーさんを抜いて先頭に立った。

内ラチ沿いを、桜色が駆けている。

 

後続は——崩れていない。

 

二番手にアンタゴニストさんが上がった。その外にブリッツエクレールさん。五番手のインにシャインプレイズさん。スウィフトアクセルさんも六番手にいる。

全員、まだ余裕のある走りをしている。腕の振りに力みがない。ストライドも乱れていない。

 

……前が楽をしている。

 

ペースが遅かったから、先行勢がエネルギーを温存している。脚を残したまま直線に入れる展開。

 

……あの人、楽しんでる。

 

バクシンオーさんの走り方で分かる。

フォームに力みがない。肩が柔らかい。首が前に出すぎていない。

全力なのに、全力に見えない。速く走ることが、あの人にとっては呼吸するのと同じくらい自然な行為なのだ。

 

短距離の絶対王者。

 

あの人の背中を、みんなが追いかけている。

でも、誰も並べない。いつもそうなんだろう。ずっとそうだったんだろう。

 

引退会見で、私の名前を呼んだ人。

「ずっと待っていました」と言った人。

 

何を待っていたのか、今なら少しだけ分かる気がする。

 

今日が、あの人の最後のレース。

 

第二コーナー。

 

後方から、前方を見る。

 

バクシンオーさんの桜色が、コーナーの向こうで揺れている。

 

遠い。

 

そして——前を走っている人たちが、まだ元気だ。

 

アンタゴニストさん。ブリッツエクレールさん。シャインプレイズさん。スウィフトアクセルさん。

誰一人、脚色が衰えていない。ストライドは伸びたまま。腕の振りも力強いまま。

 

ペースが緩かったから、みんな脚が残っている。

 

前の人たちが、壁になっている。

 

直線に入っても、あの人たちは止まらない。バクシンオーさんの後ろを固めたまま、道を塞ぐ。

後ろから差し込む隙間が、どこにもない。

 

展開は——向いていない。

 

体に問いかける。

 

来るか。

 

あの反応。

体が勝手に動き出す、あの感覚。

阪神カップで来た。フェブラリーSで来た。

 

今日は——

 

……来ない。

 

残り400メートル。

 

来ない。

 

GⅠ。十八人の全力。バクシンオーさんがいる。なのに。

 

体が、冷たいまま。

 

第三コーナーに入る。

 

来ない。来ない。来ない。

 

前方でバクシンオーさんが加速した。先頭。その後ろにアンタゴニストさんが食らいつく。ブリッツエクレールさんも、シャインプレイズさんも、まだ脚がある。

 

先行勢が、崩れない。

 

展開が向いていない。火も来ない。前は壁。脚はあるけど、届く道がない。

 

何もかもが、私に味方していない。

 

このまま終わるのか。

 

このまま、何も起きないまま、あの人の最後のレースが終わるのか。

 

私は後方のまま。前には六人も七人もいる。直線は400メートルしかない。この人数を捌いて、先頭のバクシンオーさんまで届くなんて、普通に考えたらありえない。

 

……ダメだ。

 

待っても来ない。

展開も向いていない。

 

でも——

 

来ないなら。

向いてないなら。

 

関係ない。

 

自分で、行く。

 

あの反応なんか、待たない。

展開が向くのも、待たない。

体が勝手に動いてくれるのを待ってるだけの私は、もう終わりにする。

 

バクシンオーさんの背中を見る。

桜色が、コーナーの先で揺れている。

 

あの人が、待っている。

一年以上、待っていてくれた人が、あそこにいる。

 

追いかける。

 

自分の脚で。自分の意志で。

 

展開なんか、知らない。

前が壁なら、こじ開ける。

 

桜色の背中が、揺れている。




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