――Anti-Hero: Curren Moe
ずくん。
……あれ。
脚じゃない。お腹の奥。
もっと深い場所。内臓の底。ずっと留守にしていた場所。
何かが、目を覚ましかけている。
待っていたあの反応じゃない。
阪神カップの時の、あれじゃない。フェブラリーSの時の、あれでもない。
あれは外から来た。体が勝手に動いて、心を引き摺り込もうとした。怖かった。
これは、違う。
中から来てる。
私の中の、何かが。
ずくん。
もう一回、鳴った。心臓じゃない。心臓よりもっと下。
胃の裏側。みぞおちの奥。名前のない場所。
温かい。
腹の底から、温かいものが這い上がってくる。
ゆっくり。
血が温まるみたいに、ゆっくり。
ふくらはぎに降りた。
足の裏が芝を噛む感触が、急に鮮明になった。今まで靴底越しだった芝が、素足で踏んでるみたいに一本一本感じる。
太ももに届いた。
筋肉の繊維が一本ずつ起き上がっていく感覚。寝ていたものが目を開ける感覚。
腰の芯が、熱い。
体が勝手に動いてるんじゃない。
私が、動かしてる。私の意志で。
前を見た。
馬群。背中の壁。勝負服の色が十何人分、視界を埋めている。
その向こうに、桜色がちらりと見えた。先頭。遠い。
あの背中に、追いつきたい。
追いつきたい。
自分の口から出た言葉じゃなくて、腹の底から這い上がってきたものが、そのまま形になった。
言葉ですらない。衝動。でも、阪神カップの時の衝動とは手触りが違う。
あの時は、操られた。
今は、私が操ってる。
脚が回り始めた。
第三コーナーの出口。
十二番手。後方。
前に十人。
スローペース。前が詰まっている。先行勢が脚を溜めたまま固まっている。後ろから行く子にとっては最悪の展開だ。前が止まらない。差しが届かない。
普通なら、ここから仕掛けない。
第四コーナーまで待って、直線に賭ける。それがセオリー。
脚が、待てなかった。
待てなかった、じゃない。待たなかった。
私が、待たないと決めた。
外に持ち出す。大外。距離のロスなんか知らない。
脚があるうちに前に出る。このペースに付き合って末脚を残しても、あの桜色には届かない。
風が変わった。
後方の澱んだ空気から、前方の流れている空気に出た。一人分抜けるだけで、風の密度が違う。
十一番手。
外を回す。内ラチ沿いの子たちの、さらに外。
一番長い距離を走って、それでも速い方が勝つ。
十番手。九番手。
二人まとめて外から抜いた。
内で脚を溜めている子たちが視界の隅を流れていく。あの子たちは直線まで待つ判断をした。正しい。正しいけど、私はもう待てない。
八番手。
脚が回っている。一歩ごとに芝を蹴る感触が返ってくる。膝から下が軽い。嘘みたいに軽い。
重力が減ったんじゃない。脚が思い出している。この回転数を、この歩幅を、体が知っている。
七番手。
息が荒い。肺が酸素を求めている。もう第三コーナーから踏んでいる。普通ならスタミナが保たない距離。
保つ。
保たせる。
六番手。
第四コーナー。
コーナーに入った。遠心力。体が外に振られる。
大外を回り続けている。距離のロスが嵩む。コーナーの外は内より何メートルも長い。
それでも脚を緩めない。
前に、バクシンオーさん。
間に、まだ四人。
先行勢が固まっている。このペースで脚を溜めてきた人たち。まだ余裕が残っている人たち。
コーナーの中で隊列を組んで、直線に備えている。壁みたいに見える。
外からでは間に合わない。コーナーの外を回り続けたら、直線に入るまでに脚が残らない。
内に進路を取った。
すぐには入れない。
先行勢の外を併走しながら、隙間が開くのを待つ。コーナーの遠心力で外に膨らむ子がいれば、内が空く。
——見えた。
三人目と四人目の間。コーナーの途中で外の子が僅かに膨らんだ。半身分。
空いた。今しかない。
滑り込んだ。
体を倒して、最短距離を突く。開いた瞬間に通り抜ける。
考えて動いたんじゃない。隙間が見えた時には、もう体が入っていた。
五番手。
もう一つ。
前の子が直線に備えてペースを上げた。その外に半身分の空間ができた。
通った。
四番手。
コーナーの出口が近い。直線が見えてきた。
あと二人。
内ラチ沿いに空間があった。一人分。前の子が外目に構えている。
内を掬う。肩一つ分の隙間を、最短距離で通り抜けた。
三番手。
最後の一人。この子を抜けたら、前にはバクシンオーさんしかいない。
コーナーの出口。
外に出した。膨らむのではなく、直線に向けて外に進路を取る。
この子の外を、直線の入口で追い越す。
脚が、まだ回る。まだ止まらない。まだ止めたくない。
抜けた。
前に、バクシンオーさんだけが残った。
桜色の背中。
遠い。まだ三馬身ある。
でも、さっきまで十二番手から見ていた桜色とは、距離が全然違う。
手が届くかもしれない距離に、あの背中がある。
――Live: Announcer
第四コーナーを回って最後の直線!
先頭サクラバクシンオー! 後方には厳しいスローの展開ですが——
おっと、ここでカレンモエ! 上がってきた!
第三コーナーから四番手、三番手、二番手! 先行勢の間をこじ開けてきた!
カレンモエだ、カレンモエ! 物凄い脚だ! 高松宮記念に閃光が蘇る!
サクラバクシンオーとカレンモエ、二人だけの世界になりつつあります!
――Anti-Hero: Curren Moe
直線。
桜色の背中。
速い。遠い。あと三馬身。
残り400メートル。
脚を回す。腕を振る。
一歩ごとに、差が詰まる。
速い。
この人、本当に速い。
引退レースなのに、手を抜かない。全力。
この人は、いつだって全力だ。
三馬身。二馬身半。二馬身。
追いかけてる。
全力で、追いかけてる。
残り300メートル。
一馬身半。一馬身。
差が詰まる。確実に詰まってる。
脚が回る。まだ回る。止まらない。
あれ。
何だろう、これ。
怖くない。
阪神カップの時は怖かった。体が勝手に動くのが怖くて、心まで持っていかれるのが怖くて。
フェブラリーSも、怖かった。また来た、と思った。
今日は、怖くない。
体が勝手に動いてるんじゃない。
私が走ってる。私の脚で。私の意志で。
あの背中を追いかけたいから、走ってる。
そしてそれが——
――Sun: Sakura Bakushin'O
残り200メートル。
風が、気持ちいい。
最後のGⅠ。最後の直線。最後の1200メートル。
全部、最後。
でも、悲しくない。
だって、こんなに風が気持ちいいんですから。
先頭。私の前には誰もいない。
いつもと同じ。
いつもと同じ、この景色。
私は、速い。
誰よりも速い。
学級委員長として、胸を張ってそう言えます。
でも。
この景色には、いつも一つだけ足りないものがあった。
隣。
隣に、誰もいない。
私の横に並んで、一緒に風を浴びてくれるウマ娘が、いなかった。
いつも、振り返ると、みんな後ろにいる。
追いかけてきてくれない。
私の速さについてこれるウマ娘が、いなかった。
だから、引退を決めた。
走ることは大好きです。今でも。
でも、一人で走る景色にだけは、どうしても慣れることができなかった。
足音が聞こえる。
後ろから。
一つだけ、明らかに他と違うリズムの足音が。
速い。
振り返らない。振り返る必要はない。
でも、分かる。
ウマ耳が拾っている。空気の振動が。地面から伝わってくる衝撃が。
誰かが、来ている。
残り150メートル。
足音が、近い。
一歩ごとに、差が詰まっている。
風が、変わった。
左から、風圧が来た。
視界の端に、芦毛の髪が見えた。
——カレンモエさん。
あの子。
ゲート裏で、「追いかけます」と言った、あの子。
来た。
来てくれた。
並んでいる。
私の隣に、ウマ娘がいる。
腕を振る。脚を回す。一歩。もう一歩。
全力。最初からずっと全力。手を抜いたことなんか、一度もない。
でも、今、もう一段ある。
モエさんが隣にいる。
同じ速度で、同じ風を浴びて、同じ直線を走っている。
この景色。
これが見たかった。
ずっと、これが見たかった。
――Anti-Hero: Curren Moe
並んだ。
バクシンオーさんの隣。
風が、速い。
先頭の風。遮るものが何もない、剥き出しの風。
あの人の顔が見えた。
笑ってる。
……笑ってる。
引退レースの最後の直線で、隣から追いつかれかけてるのに。
この人、笑ってる。
嬉しそうに。楽しそうに。
全力で走って、全力で笑って。
その顔を見た瞬間。
腹の底で、何かが弾けた。
ああ——
隣に誰かがいる。
一人じゃない。風が冷たくない。
誰かと一緒に走っている。
それだけで、こんなに楽しい。
私が2番手。
桜色の姿が、まだ私よりも前にいる。
許せない。捕まえたい。食い殺したい。
脚が回る。まだ回る。止まらない。
バクシンオーさんと走るのが楽しい。
バクシンオーさんを食い殺したい。
全部ごちゃまぜで、区別がつかない。
区別がつかないまま、脚が回ってる。
残り100メートル。
あと少し。
あと一歩で前に出る。
この脚なら——
出ない。
脚が限界。
第三コーナーからのスパートの代償が、ここで来る。
仕掛けが遅すぎた?外を回しすぎた?
ゴール板が来る。
バクシンオーさんの身体が、クビひとつ分、前にある。
あと一歩。あと一歩だけ——
来た。
届かなかった。
――Live: Announcer
サクラバクシンオー、一着!! タイム1分8秒2!!
引退レースを見事に勝利で飾りました!!
そして二着にカレンモエ!! クビ差!! 1分8秒3!!
最後の最後、あと一歩で届くかというところでゴール板が来てしまいました!!
三着にはアンタゴニスト、四着ブリッツエクレール、五着スウィフトアクセル!
前半34秒1のスローペース、先行有利の展開を上位二人が完全に支配したレースでした!
いやこれは——驚きです!
スローで先行勢が脚を残す展開です! 後方から差し込むのはほぼ不可能な流れ!
そこを十二番手から! 第三コーナーで動き出して、先行勢の間を縫ってここまで持ってきた!
カレンモエの上がり3ハロン、出ました、32秒5!!
メンバー中最速! バクシンオーの上がり34秒1を2秒近く上回っています!!
1200メートルのGⅠで上がり32秒5——これは記録的な数字です!!
それでもクビ差届かなかった!
仕掛けがあと少し早ければ、結果は逆だったかもしれない!
しかし勝者はサクラバクシンオー!
短距離の絶対王者、前半から先頭を譲らず、最後まで先頭でゴール板を駆け抜けました!
有終の美! バクシンオー、引退レース勝利です!!
――Sun: Sakura Bakushin'O
勝った。
先頭でゴールを駆け抜けた。
私は最後まで、一番速かった。
嬉しい。
嬉しいに決まっている。
でも。
いつもと違う。
嬉しさの中に、別の何かが混じっている。
レースに勝った喜びとは違う、もっと温かくて、もっと深いもの。
振り返った。
すぐ後ろに、芦毛のウマ娘がいた。
漆黒と銀の勝負服。肩で息をしている。
クビ差。あと一歩。
「バクシーーーーン!!」
声が出た。勝手に出た。
減速しながら、モエさんの方に駆け寄る。
「すごかったです!! すっっごかったです!! あの脚! あのスパート! 学級委員長として、いえ、一人のスプリンターとして、心の底から感服しました!!」
モエさんが、呆然とした顔でこちらを見ている。
息が荒い。目が潤んでいる。
「……バクシンオー、さん」
「はいっ!」
「……届かなかった」
「届きました!! 私の隣まで届きました!! 最後の直線で、私の横に並んだウマ娘は、貴方が初めてです!!」
「……っ」
「だから! もう一回!!」
言ってから、気づいた。
もう一回は、ない。
今日が、最後。
引退レース。
もう、ない。
「もう一回、走りましょう! 今度は最初から全力で! 最初から並んで、一緒に風を浴びて、1200メートル全部、二人で!」
声が震えている。
自分の声が震えていることに、今、初めて気づいた。
もう一回走りたい。
この子と、もう一回走りたい。
最初から隣にいてほしい。
一人じゃない直線を、もう一回。
でも、もう一回は、ない。
「……バクシンオーさん」
モエさんが、息を整えながら、まっすぐ私を見た。
「……遅くなって、すみません」
「え?」
「ずっと……ずっと待ってくれてたのに。私が来るのが、遅すぎました」
「…………」
この子は、分かっている。
私がずっと、隣に誰かが来てくれるのを待っていたことを。
そして、そこに来るのが遅すぎたことを。
泣きそうになった。
でも、泣かない。学級委員長は、みんなの前では泣かない。
だから、笑った。
いつもと同じ、バクシンスマイル。
「遅くなんかありません! 間に合いました! ちゃんと、私のラストランに間に合ってくれたじゃないですか!」
胸を張る。拳を握る。
笑顔で。全力の笑顔で。
「ありがとうございました! カレンモエさん! 最高の引退レースでした! バクシーーーン!!」
モエさんが、何か言おうとして、言葉にならないまま、唇を噛んだ。
スタンドから、地鳴りのような歓声が降り注いでくる。
二人並んだ最終直線を見ていた何万人が、声を震わせている。
私は、最後に、最高の景色を見られた。
隣に誰かがいる直線。
もう一回は、ない。
でも、一回だけで十分。
だって、こんなにバクシンだったのだから。
……十分、です。
……もう一回、走りたかったなあ。
――Anti-Hero: Curren Moe
バクシンオーさんが笑いながら走り去っていった。
引退セレモニーの準備があるのだろう。
桜色の勝負服の背中が、スタンドの歓声の中に消えていく。
私は、まだターフの上に立ったまま。
春の風が、汗を乾かしていく。
悔しい。
クビ差。あと一歩。
悔しい。
この感情は、レースで初めてだ。
桜花賞の16着でも感じなかった。オークスの最下位でも感じなかった。
阪神JFでも泣いたっけ。でも、あの涙とは意味が違う。温度が違う。
悔しい。
「悔しい」と思えるためには、「勝ちたかった」と思えなきゃいけない。
「勝ちたかった」と思えるためには、走ることが——
楽しかった。
認める。
楽しかった。
あの直線。バクシンオーさんを追いかけた、あの直線。
速い人を全力で追って、並んで、それでもまだ前にいて。
あの数秒間が、楽しかった。
阪神カップの時は、怖かった。
体が勝手に動いて、「邪魔」「遅い」が溢れ出して、自分が自分じゃなくなるようで。
今日は、全部自分だった。
バクシンオーさんと走るのが楽しかった。
バクシンオーさんを食い殺したかった。
その二つが同時に、同じ場所から出てきて、同じ脚で走っていた。
走っている間は区別がつかなかった。
今、止まってみて、並べてみて——やっぱり区別がつかない。
楽しいの中に、食い殺したいが混じっている。
食い殺したいの中に、楽しいが混じっている。
どっちがどっちか分からない。分けられない。
醜い。
ウララちゃんの「走ってる間はずっと楽しい」とは、たぶん全然違う。
あれは綺麗な楽しさだ。純粋で、透明で、誰も傷つけない。
私のは違う。
もっと歪んでて、もっと獰猛で、もっと傲慢。
さっきまで「さん」付けで呼んでた人を食い殺したいと思って、それが楽しかった。
気持ち悪い、と思えたらまだ良かった。
でも、気持ち悪くない。
それが一番、たちが悪い。
全部、私だ。
追いかけたのも。食い殺そうとしたのも。楽しかったのも。
全部、私。
歓迎はしない。
こんな醜いもの、帰ってこなくてよかったのに。
でも、否定もできない。
だって、楽しかったから。
目が、熱い。
風のせいじゃない。
ずっと留守にしていた場所から、何かが帰ってきた。
桜花賞で心を壊された時にいなくなって、オークスの灰の底に沈んで、ずっと行方不明だった。
でも、消えてなかった。
灰の底で、ずっとくすぶっていた。
今日、出てきた。
速い人を見つけて、追いかけたくなって、自分の意志で手綱を握ったら——動いた。
体が壊れて、心が壊れて、検査のためだけに走って。
走ることに何かを感じること自体が、怖かった。
感じたら、また壊れると思ってた。
壊れなかった。
壊れなかったけど、出てきたものが綺麗じゃなかった。
おかえり。
……おかえり。
スタンドの向こうから、引退セレモニーの歓声が聞こえてくる。
バクシンオーさんの声が、風に乗って届いた。遠い。でも、聞こえる。あの人の声はいつだって、どこにいても聞こえる。
「バクシーーーン!!」
……もう一回は、ない。
でも。
「もう一回!」って叫んだあの人の顔が、まだ目の裏に焼きついている。
笑ってた。泣きそうな顔で、笑ってた。
……バクシンオーさん。
私も、もう一回走りたかった。