――Anti-Hero: Curren Moe
控室。
体が、まだ熱い。
シャワーを浴びた。汗を流した。髪を乾かした。
それでも体の芯に、あの直線の余韻が残っている。脚の奥、腹の底、ずっと留守にしていた場所に帰ってきたあの熱が、まだ冷めない。
鏡の前。
勝負服を着なきゃいけない。GⅠのウイニングライブ。着るものに選択肢はない。
ハンガーから、黒い勝負服を取った。
黒一色。「カレンチャンと同じ色は絶対に嫌だ」と言って、選んだ色。ママの反対色。反抗の鎧。
シャワー前に脱いで、また着る。ついさっきまで、この服であの直線を走っていた。
汗を吸った生地が、まだ少しだけ湿っている。
GⅠに出る子は、レース用とライブ用で勝負服を二着持つことが多いらしい。ライブ用は生地が軽くて、動きやすくて、汗染みが目立たない。
私は一着しか作らなかった。あの頃の私に、ライブのことまで考える余裕なんてなかった。勝負服を仕立てる時、頭にあったのは「ママと違う色」、それだけだ。
袖を通す。ファスナーを上げる。ブーツを履く。
体に馴染む。当たり前だ。私のために仕立てた服だから。
でも、鏡に映った自分を見て、少しだけ息が詰まった。
噛み合わない。
さっきの直線で感じたことと、この黒が、噛み合わない。
あの直線で体から溢れ出たものは醜かった。獰猛だった。でも、少なくとも嘘じゃなかった。
この黒は嘘だ。ママを否定するためだけに選んだ色。中身は空っぽだった。
……作り直した方がいいのかもしれない。
ふと、そう思った。縁起が悪いとか、そういう話じゃない。
この服を仕立てた時の自分と、今の自分が、もう同じじゃない気がする。
でも、今日はこれしかない。
ノックの音。
「カレンモエさん、五分前です」
「はい」
鏡の中の自分をもう一度見た。黒い勝負服。芦毛の髪。目が赤い。泣いたから。
行こう。
ステージ袖。
通路の向こうから歓声が壁越しに響いてくる。引退セレモニーを終えたバクシンオーさんの声が、まだ会場に残っている。あの人の声はどこにいても聞こえる。
「バクシーーーン!!」
……元気だな。
引退レースを走って、セレモニーをやって、まだそのテンション。
二着の私は袖で待機している。三着のアンタゴニストさんが隣にいる。
目が合った。「お疲れ様です」と頭を下げられた。
「お疲れ様でした」
返す。声が掠れていた。
ステージの照明が切り替わる。曲のイントロが流れ始める。
スタッフが合図を送った。
出番だ。
ステージに出た。
照明が眩しい。スタンドが揺れている。数万人の歓声。引退ライブだからか、普段のGⅠより声量が大きい気がする。
センターにバクシンオーさんがいた。
桜色の勝負服。さっきまで私が追いかけていた背中。
あの人はもう、ターフの上には立たない。
これが最後のステージ。
曲が始まった。
体が動く。振り付けを拾う。リズムに乗る。
ママ譲りの本能。見られる側のスイッチ。ステージに立てば勝手に入る。
でも、脚が変なことを言っている。
走りたい、と。
ライブの最中だ。踊ってる最中だ。なのに脚が、あの直線の続きを求めている。
振り付けのステップを踏むたびに、芝の感触が蘇る。左足を踏み込んだ時の、あの弾力。
まだ熱い。まだ冷めてない。
バクシンオーさんがセンターで踊っている。
後ろ姿が見える。二着の位置から。
さっきまでと、違う。
あの直線では隣にいた。クビ差。手を伸ばせば届く距離で、横顔が見えていた。
なのにステージに上がったら、また後ろに下がっている。
勝てなかったから。
あと一歩届かなかったから、私はまたこの人の背中を見ている。
でも。
あの人が笑ってる。
踊りながら、笑ってる。汗をかいて、息を切らして、それでも笑ってる。
レースの最終直線と同じ顔。全力で、楽しそうに。
……この人は、全部同じなんだ。
走っても、踊っても、同じ顔をする。
私はどんな顔をしているんだろう。
鏡がないから分からない。でも、口角が上がっている自覚はあった。
楽しいからじゃない。
営業スマイルでもない。
あの直線の熱が、まだ顔に残ってるだけだ。
たぶん。
――Sun: Sakura Bakushin'O
最後のステージ。
照明が眩しくて、スタンドの奥までは見えない。でも、声は聞こえる。何万人分の声が、ステージの床を震わせている。
センター。私の場所。
ここに立つのは何度目だろう。数えていない。学級委員長は、数を気にするよりも一回一回全力を出す方が大事だと思うので。
曲が始まった。
体が動く。踊る。腕を振る。脚を踏む。
レースとは違う。走ってるわけじゃない。
でも、全力なのは同じです。
隣に、気配がある。
左後ろ。二着の位置。
カレンモエさんが踊っている。
さっき、あの直線で私の隣に来てくれた子。
ステージの上でも、近くにいる。
レースでは残り100メートルだけだった。ほんの数秒。
ステージでは一曲分、ずっと近くにいてくれる。
嬉しい。
嬉しくて、ちょっとだけ困る。
だって、一曲はあっという間に終わってしまう。
レースの数秒よりは長い。でも、永遠じゃない。
サビに入った。
振り付けが激しくなる。体を回す。腕を振り上げる。
目の端に、モエさんが映った。
踊っている。ちゃんと踊れている。さすがカレンチャンさんの娘——いや、違う。
この子自身のステージングだ。体の使い方が綺麗。走りとは全然違う動き方なのに、芯が通っている。
でも、顔が気になった。
笑ってる。でも、あの直線の時の顔じゃない。
あの直線で、私の隣に並んだ時の顔——あれは、もっと生々しかった。もっと必死で、もっと楽しそうで、もっと怖かった。
今のこの笑顔は、綺麗すぎる。
……まあ、ステージですからね。レースとは違います。
ライブにはライブの全力があるのです。学級委員長は、それぞれの場にふさわしい全力を認めます。
曲の後半。
あと少しで、終わる。
この曲が終わったら、この子とはステージを降りる。控室に戻る。着替える。帰る。それで、おしまい。
もう一回は、ない。
レースも、ステージも。
……。
一度、断った。
引退を発表した後に届いた封筒。丁寧にお断りの返事を書いて、送った。
それで終わったはずだった。
なのに。
レースが終わってから、もう一回はないんだ、と思うたびに——あの封筒のことが頭をよぎる。
あそこに行けば、もう一回がある。
断ったのに。終わったことなのに。
……今は考えない。
泣かない。
学級委員長は泣かない。みんなの前では、絶対に。
笑う。
最後まで、笑う。
全力で、笑う。
それが、私にできる最後のバクシンです。
ラスト。最後のポーズ。
胸の前で両手を広げて、止まった。
歓声が、雪崩みたいに降ってきた。
笑ってる。
私は笑ってる。ちゃんと笑えてる。
目が、ちょっとだけ熱い。
風のせいです。ステージの風が強いので。
学級委員長としては、照明の調整を提案したいところです。
――Anti-Hero: Curren Moe
ステージ裏の通路。
ライブが終わった。出演者がステージ袖に戻ってくる。
三着のアンタゴニストさんが「お疲れ様でした」と声をかけてくれた。「お疲れ様でした」と返す。
バクシンオーさんの姿を探した。
通路の奥にいた。スタッフに囲まれて花束を受け取っている。取材、挨拶、事務手続き。山ほどあるはずだ。忙しい人。最後の最後まで。
目が合った。
バクシンオーさんがスタッフの間を抜けてこちらに来た。速い。歩くのも速い。花びらが一枚、花束からこぼれた。
「カレンモエさん!」
声が大きい。通路のコンクリートに反響する。
「ありがとうございました!」
深く頭を下げられた。学級委員長の礼。背筋が伸びて、角度が正確で、でも堅苦しくない。
「……こちらこそ」
「来てくれて、嬉しかったです。私の最後のレースに、貴方がいてくれて」
声が少し静かになった。通路にはスタッフも他の出走者もいるのに、この人の声だけが耳に届く。飾りがない。計算がない。
「……ずっと、待っていてくださったんですよね」
「はい。ずっと待ってました」
恥ずかしげもなく言い切る。
「……遅くなって、すみません」
「遅くないです! 間に合いました! バクシン的にはギリギリセーフです!」
声量が戻った。花束が揺れる。
何を言えばいいか分からなかった。
この人はもう走らない。この通路を出たら、引退の挨拶回り。もうトゥインクル・シリーズにはいない。
これが最後の会話になるかもしれない。
「……バクシンオーさん」
「はい」
「私、もっと速くなります」
何を言ってるんだろう。引退する人に向かって。もう一回走ることはないのに。
でも、他に言葉が見つからなかった。
バクシンオーさんが、きょとんとした。
長かった。三秒。この人にしては永遠みたいな時間。
笑顔が来ると思った。太陽みたいな、いつもの。来なかった。
目が変わっていた。引退会見で私の名前を出す前に一拍置いた、あの目。真剣で、強くて、でもどこか寂しい。
「……モエさん」
呼び方が変わった。カレンモエさん、じゃなくて。
「一つだけ、聞いてもらえますか」
声が小さい。この人の声が小さいのを、初めて聞いた。
「引退を発表した後に、ドリームトロフィーリーグから招待が届きました」
ドリームトロフィーリーグ。
トゥインクル・シリーズの上にある、もう一つの舞台。実績を残したウマ娘だけが招待される場所。
——引退を発表した、後に。
ドリームトロフィーリーグの招待は、全盛期を過ぎたウマ娘に届くものだと聞いたことがある。次のステージへ送り出すための招待状。引退を発表してから届いたということは、それまでは届いていなかった。この人が自分で辞めると言わなければ、届かなかった。
この人は、まだ全盛期を超えていなかった。
もしかしたら、全盛期にすら達していなかったのかもしれない。
あの直線で並んだ時、分かっていた。この人が寂しかったことは。一人で先頭を走り続けて、誰も隣に来てくれなくて。でも、全盛期のまま辞めるつもりだったとは思わなかった。まだ速くなれる人が、速くなることを諦めていた。
「一度、お断りしました」
花束を胸に引き寄せた。声が小さいまま。
「場所を変えても同じだと思ったんです。トゥインクル・シリーズでも、ドリームトロフィーリーグでも、私の隣には誰も来てくれない。だったら、ここで終わりにしようって」
こんな声で言うのを聞くのは初めてだった。引退会見では笑ってた。この人は、笑顔の裏にこれを隠していたのか。
「……それで、終わったはずだったんです。迷いはなかった」
小さく笑った。困ったように。
「でも、レースが終わってから——もう一回はないんだ、って思うたびに、断ったはずの封筒が頭に浮かんでしまって」
「……」
「あそこに行けば、もう一回がある、って。学級委員長のくせに、往生際が悪いですよね」
笑ったまま、こちらを真っ直ぐ見た。
「モエさん」
「はい」
「走ってもらえますか。私と、もう一回」
命令じゃなかった。
お願いだった。短距離の絶対王者が、花束を胸に抱えて、私に聞いている。迷ったまま、答えを委ねている。
まだ半分、対岸にいるつもりだった。この人はあちら側の人だ。ドリームトロフィーリーグに招待されるような人で、歴史に名前が刻まれている人。私とは違う世界の人。
嬉しいです。ありがとうございます。そういう社交辞令が喉の手前まで来ていた。
口を開いた。
「……次は、勝ちます」
社交辞令より先に、それが出た。
嬉しいですと言うつもりだった。ありがとうございますと言うつもりだった。なのに出てきたのは勝負の宣言。クビ差。あと一歩。あの直線で食い殺せなかった本能が、社交辞令を押しのけて飛び出した。
バクシンオーさんが目を丸くした。
一秒。二秒。
来た。太陽。
「——それでこそです!!」
背筋が伸びた。胸を張った。学級委員長の姿勢。
さっきまでの小さな声が嘘みたいに、この人本来の声量が通路を震わせた。
「——心が決まりました!」
「お断りを撤回します! ドリームトロフィーリーグに行きます! トゥインクル・シリーズは引退しますけど——走ることは、やめません!」
指を突きつけてきた。
「ただし! 簡単には来れませんよ! ドリームトロフィーリーグに招待されるには、トゥインクル・シリーズで歴史に残るような成績を出さなきゃいけません! GⅠを勝って、記録を作って、誰もが認めるウマ娘にならなきゃ!」
もう一歩、こちらに踏み出す。
「——待ってますから!!」
三度目の「待ってます」。
デビュー戦の後、練習場で。「スプリントに来てください。待ってます」。あれは軽かった。あの人の日常の延長みたいなもの。
引退会見で、全国放送の前で。「カレンモエさん。高松宮記念で、一緒に走りましょう」。あれは重かった。一年分の重さがあった。
そして今。
この「待ってます」は、一番遠い。
でも、一番本気だった。迷って、断って、それでも忘れられなくて——私の言葉を聞いて、ようやく決めた人の声だった。
花束を振り上げて、バクシンオーさんはスタッフの方へ走っていった。
桜色の背中。今日何度目だろう、あの背中を見送るのは。
でも、今までと違う。あの背中は消えない。トゥインクル・シリーズからはいなくなる。でも、もっと先にいる。
通路に一人残された。
壁にもたれた。
……次は勝ちます、って言った。
嬉しいです、でよかったのに。ありがとうございます、でよかったのに。あの人がこんなに真剣に聞いてくれたのに、私の口から真っ先に出たのは「勝ちます」。
醜い。あの直線の「食い殺したい」が、まだ体の中に残っている。レースが終わっても消えない。言葉の形に変わって、こんな場面で飛び出してくる。
……でも、嘘じゃなかった。
膝が笑っている。レースの疲労じゃない。
黒い勝負服の袖に目を落とした。
この服であの人の隣に立った。この服であの人を追いかけた。
この黒は、ママの反対色。反抗の鎧。でも今日、この鎧の中に入っていたのは反抗じゃなかった。もっと醜くて、もっと熱くて、もっと——楽しかったもの。
この服は、もう合わない。
変えたい。次に勝負服を着る時は、この黒じゃない色がいい。でも、勝負服はURAの管轄だ。変えたいですって言って、はいどうぞ、とはいかないだろう。手続きがあるのか、条件があるのか、前例があるのかすら分からない。
……絢原さんに相談しよう。明日。
目が熱い。今度は風のせいじゃない。
……バクシンオーさん。
次は、勝つから。
通路を歩き出した。控室に向かう。着替えて、絢原さんと合流して、帰る。
黒い勝負服の襟元に指を添えた。
今日だけは、この黒のままでよかった。
この黒で、あの人の隣に立てたのだから。