アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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66話 うん。楽しかった。

翌朝。

 

体が重い。

 

目を開けた時、最初に感じたのはそれだった。全身の筋肉が軋んでいる。腿の裏、ふくらはぎ、肩甲骨の周り。昨日の1200メートルが、一晩経っても体の中に残っている。

 

天井を見上げる。見慣れた寮の天井。向かいのベッドは——空っぽだった。

 

マーチャンはもう起きている。

 

枕元のスマホを手に取る。画面が光る。

 

絢原さんからのメッセージ。今朝の6時。

 

「昨日のレースの数字が出た。後で見せる。今日は休め。練習なし」

 

練習なし。この人にしては珍しい。

よっぽど昨日の走りが体に来ていると思われたのだろう。実際来てるけど。

 

もう一件。タキオンさん。

 

「面白いデータが取れたよ。解析には少しかかる。楽しみにしていてくれたまえ」

 

楽しみにしていてくれたまえ。あの人はいつもこうだ。

 

スマホを置いて、もう一度天井を見た。

 

昨日のことを思い出す。

 

桜色の背中。追いかけた直線。並んだ一瞬。届かなかったゴール板。

 

バクシンオーさんの笑顔。「もう一回!」と叫んだ、あの声。

 

悔しかった。楽しかった。

 

その二つが、まだ胸の中で並んでいる。喧嘩していない。不思議なくらい静かに共存している。

 

……起きよう。

 

体を起こす。筋肉が悲鳴を上げる。洗面所で顔を洗って着替える。

 

部屋を出ると、廊下にマーチャンがいた。壁に背を預けてスマホを覗き込んでいる。

 

「あ、モエちゃん。おはようございます」

 

「おはよ。何見てるの」

 

「昨日の映像です。確認してました」

 

マーチャンがスマホをこちらに向けた。画面にはレースのゴール直前の映像。スタンドからの撮影。手ブレがひどい。

 

「ここ、マーちゃんの手が震えちゃってて。ぶれぶれです」

 

「なんで震えてるの」

 

「なんでって。モエちゃんがバクシンオーさんに並びかけたところですよ。震えるに決まってるじゃないですか」

 

マーチャンが少しだけ膨れた。

 

「記録する側を選んだのに、一番大事なところでカメラ持つ手が震えるなんて。マーちゃんのプロ意識が足りませんでした」

 

「プロじゃないでしょ」

 

「プロの心意気で臨んでたんです」

 

マーチャンがスマホをしまって、廊下を歩き出した。食堂に向かう。

 

「でも、ブレてるのもいいかなって、ちょっと思いました」

 

「なんで」

 

「だって、あの瞬間のマーちゃんの気持ちが映ってるから。手ブレごと記録、です」

 

この子は時々、すごいことを言う。

 

 

 

~~

 

 

 

食堂。朝の時間帯。そこそこ混んでいる。

 

トレーを受け取って席を探す。マーチャンはきつねうどん。私はトーストと卵スープ。

 

席について食べ始める。

 

マーチャンがうどんをすすりながらスマホで何かを検索している。

 

「あ、出てますよ。昨日のレースの詳細」

 

「何が」

 

「数字です。スポーツニュースに」

 

マーチャンがスマホをテーブルの真ん中に置いた。画面を覗き込む。

 

「【高松宮記念】サクラバクシンオー有終V! 引退レースを勝利で飾る」

 

その下にレースの詳細データ。各出走者の上がりタイム。

 

バクシンオーさん。上がり3ハロン、33秒9。

 

カレンモエ。上がり3ハロン、32秒5。

 

メンバー中最速。バクシンオーさんを1秒以上上回っている。

 

その下にもう一つの数字。

 

ラスト1ハロン。

 

カレンモエ。10秒9。

 

10秒9。

 

1ハロンは200メートル。最後の200メートルを、10秒9で走った。

 

記事にはこう書いてあった。

 

「カレンモエのラスト1ハロン10秒9は、今年の全GⅠを通じても最速クラスの数字。バクシンオーのラスト1ハロン11秒4を大きく上回っており、仕掛けのタイミング次第では逆転が十分にあり得たことを示している。」

 

仕掛けのタイミング次第。

 

つまり、あと少し早く動いていれば。第三コーナーじゃなくて第二コーナーの出口で踏み込んでいれば。

 

届いていた。

 

「……そっか」

 

口から出たのは、それだけだった。

 

「あと少しだったんだ」

 

マーチャンがスマホの画面から目を上げて、私を見た。

 

「モエちゃん、すっきりした顔してますね」

 

「してる?」

 

「してます。昨日の夜よりずっと」

 

そうかもしれない。

 

悔しかった。今も悔しい。

でも数字を見て分かった。届かなかったのは才能の差じゃない。判断の差だ。

あと200メートル早く仕掛ける判断ができていれば、私の脚はバクシンオーさんの前に出ていた。

 

つまり——次は、きっと。

 

次。

 

次がある。

 

バクシンオーさんとの「もう一回」は、すぐには叶わない。あの人はドリームトロフィーリーグに行く。

でも「次のレース」はある。私はまだ走れる。

 

「マーチャン」

 

「はい」

 

「ありがとね。映像」

 

「手ブレ込みですけど」

 

「手ブレ込みでいい」

 

マーチャンが、にこっと笑った。

 

トーストを齧る。卵スープを飲む。朝の食堂の喧騒が心地いい。

 

——どすん。

 

背中に衝撃が来た。

 

「モエちゃーーーん!!」

 

この体当たり。この声。この温度。

 

「ウララちゃん」

 

振り返ると、ピンク髪の小さなウマ娘が満面の笑みでこちらを見上げていた。練習着姿。額に汗。この子はいつも走っている。

 

「昨日のレース見たよ!! テレビで!! すっっっごかった!!」

 

「見てたんだ」

 

「見た見た! バクシンオーさんもすっごかったけど、モエちゃんもすっごかった! 最後のびゅーんってやつ!」

 

びゅーん。

あの直線が、この子にはそう見えるのか。

 

「あのね、あのね!」

 

ウララちゃんが向かいの椅子にすとんと座った。マーチャンの隣。マーチャンが「はじめまして、マーちゃんです」と言って、ウララちゃんが「ウララだよ! よろしくね!」と即座に返した。この子は人見知りをしない。

 

「モエちゃん」

 

ウララちゃんがテーブルに身を乗り出した。目がきらきらしている。

 

あの時と同じだ。

11月の食堂。オープン特別の後。カレーをつついていた時に飛びついてきた、あの時と同じ目。

 

「走るの、楽しかった?」

 

心臓が跳ねた。

 

同じ質問。あの時と同じ質問。

 

あの日、この子は聞いた。「走るの、まだ好き?」と。

私は答えられなかった。好きかどうか分からなかった。走ってる間に「楽しい」と思ったことが一度もなかった。

 

今は。

 

昨日の直線を思い出す。

バクシンオーさんの隣。全力で追いかけたあの数秒間。

怖くなくて、楽しくて、もっと走りたくて。

 

「……うん」

 

声が出た。

 

「楽しかった」

 

言った。声に出して言った。

 

ウララちゃんの顔がぱあっと輝いた。太陽みたいに。

 

「やったー!! モエちゃんも楽しかったんだ!! じゃあじゃあ、走ってる間どのへんが一番楽しかった? 風がびゅーってなるところ? それとも足がバタバタってなるところ?」

 

「最後の直線かな。バクシンオーさんの隣に並んだ時」

 

「おおー! 隣に並んだのが楽しいの! わかるー! 私も隣に誰かいると楽しいもん!」

 

ウララちゃんは分からない。

私の「楽しい」がこの子の「楽しい」とは全然違うことを。もっと歪んでて、もっと獰猛で、もっと傲慢な楽しさだってことを。

 

でも、それでいい。

 

ウララちゃんが「楽しかった?」と聞いてくれて、私が「うん」と答えられた。それだけで十分だ。

 

「モエちゃん、今度一緒に走ろ!」

 

あの時と同じ台詞。11月の食堂でも言ってくれた。

 

あの日の私は「うん。また」と曖昧に返した。

 

「うん。走ろう」

 

今日はちゃんと言えた。

 

ウララちゃんが「やったー!」と叫んで、マーチャンに「マーちゃんも一緒に走ろ!」と巻き込んでいる。マーチャンが「いいですよ、走りましょう。マーちゃんはカメラ持って走りますけど」と答えている。

 

騒がしい。騒がしくて、眩しくて、温かい。

 

 

 

~~

 

 

 

食堂を出た。

 

廊下に朝の光が差し込んでいる。春の光。三月の終わり。

 

スマホが震えた。絢原さんからのメッセージ。

 

「約束のメシ、いつにする」

 

覚えててくれた。高松宮記念の前に交わした約束。終わったら二人でご飯に行く。勝っても負けても。

 

「明日。トレーナーが選んで」

 

送った。すぐに返事が来た。

 

「分かった」

 

それだけ。それだけでいい。

 

廊下の窓から空が見えた。青くて高くて、春の匂いがする。

 

高松宮記念は終わった。

 

バクシンオーさんはトゥインクル・シリーズを去った。ドリームトロフィーリーグに行く。

 

「もう一回」は、今のままでは叶わない。あの人がいる場所は、選ばれた者だけが立てる舞台だ。

 

でも——いつか。

 

いつか、あの人と同じレーンに立てる日が来るかもしれない。そのためには、まず目の前のレースを走らなきゃいけない。

 

私はまだ走れる。次がある。

 

体はまだ痛い。筋肉は軋んでいる。昨日の1200メートルがまだ骨の奥に残っている。

 

でもその痛みが、嫌じゃなかった。

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