新潟から戻って数日が過ぎても、モエの名前はよく目に入った。
レコードでの大差勝ち。その後のウイニングライブまで記事になり、写真にはカメラへ笑いかける彼女が選ばれていた。『蘇る閃光』という見出しの下には、今後の短距離路線での活躍を期待する文章が続いている。
俺は記事を閉じ、机に広げた日程表へ目を戻した。
勝ち上がったことで候補は増えた。だが、どこへ出るかを決める前に、距離を延ばすために何ができるのかを考えなければならない。福島の記録と新潟の記録を並べても、短い方で走り切れた理由の先へ、まだ進めずにいた。
モエは練習へ来ていた。
疲れの残り方を聞けば答えるし、決めたメニューもこなす。ただ、以前のように、もう1本と食い下がることは減った。終わりだと伝えると時計を見て、次は何をするのか聞いた。
昨日、靴紐を解きながら言われた。
「レースのこと、決まったら教えて。記事で知るとか、嫌だからね」
君に話す前に発表するつもりはないと答えたが、それだけで安心した様子でもなかった。
次走について尋ねてくる相手は増えていた。取材の話もある。自分が何を答えたかだけでなく、どんなふうに伝わるのかも、気に掛けなければならなくなった。
ひとまず、情報を見るためのアカウントを作ろうと思った。他のトレーナーが何を発信しているのか、レースの情報をどこから拾っているのか。仕事で使うなら、誰が使っているか分かる形がいいだろうと、プロフィールへ入力していた。
絢原朔也。トレセン学園、トレーナー。
その下に、担当としてカレンモエの名前を入れた。
~~
午後の約束の時間に、モエがトレーナー室へ来た。
白い髪を肩の後ろへ払い、鞄をソファへ置く。俺がスマホを手にしているのを見ると、机の前まで来て足を止めた。
「なに見てるの」
「SNSの設定をしていた。仕事用に作ろうと思ってな。こういうプロフィールでいいか、見てもらえるか」
「SNS?」
声が少し硬くなった。
「レースの情報や、他のトレーナーの発信を見るのに使いたい。モエは使っているか」
「……やってないよ。前はウマスタに写真を載せたこともあるけど、すぐやめた」
そうかと答え、スマホを差し出した。モエは受け取り、編集画面へ目を落とした。
すぐに俺を見た。
「これ、もう保存した?」
「まだだ。君の名前も入っているから、先に見てもらおうと思っていた」
モエは画面へ視線を戻した。何かを確かめるように下まで送り、それから机の上へスマホを置いた。
「……どこから直せばいいんだろ」
俺も身を寄せて画面を見た。本名と所属、担当の名前。それから、顔の分かる写真をプロフィール画像に選んでいた。
「分かりにくいか」
「分かりすぎるの。これ、挨拶回りに使う名刺じゃないんだよ」
モエが表示名を指した。
「名前も顔も学校も私の名前も出して、何がしたいの。ファンに見つけてほしいの?」
「そういうつもりではない。素性が分からない相手では、他のトレーナーも話しにくいかと思った」
「必要になったら、その相手に伝えればいいじゃん。今は見るために作るんでしょ?」
「ああ」
「だったら、私の名前を看板にする必要ないよね」
俺は入力していた紹介文を見た。
担当を明らかにすれば、同業者にも分かりやすい。その程度に考えていた。だが、この画面を見る相手が同業者だけとは限らない。記事を読んだ客も、レース場で声を上げていた客も、同じ名前を検索してここへ来る。
「……そうだな。見るためのものと、仕事の紹介を混ぜていた」
「うん。混ざってる」
モエは椅子を1脚引き寄せ、机の横に座った。スマホを俺の方へ向け、表示名の欄を開く。
「ここ、変えて。『新人トレーナーA』くらいでいいから」
「Aでいいのか」
「Bでもいいけど。そこ、悩むところ?」
指を止めていた俺を見る目が冷たかった。Aと入力すると、モエは頷いて次の欄を指した。
学校名と担当の名前を消す。顔写真も外し、最初から入っていた模様の画像へ戻した。画面から文字が減るたびに、モエの口数も少しずつ増えた。
「それと、これも切って」
「連絡先から探す設定か」
「うん。知り合いに見つけてもらいたいならいいけど。今、名前を消した意味なくなるでしょ」
俺が設定を変えると、彼女はもう一度プロフィールを見た。
「何か投稿するつもりもあった?」
「初めてだから、挨拶くらいはと思っていた。写真も1枚選んである」
「……見せて」
下書きを開いた。昼に撮った、乾かしているトレーニングシューズの写真だった。添えてあるのは、今日も練習を終えたという短い文章だけだ。
モエは写真を大きくし、端の方へ指を置いた。
「これ、うちのグラウンドだって分かるよ。奥に看板が写ってる」
拡大すると、普段見慣れた文字が読めた。主役のつもりで撮った靴ばかり見ていて、背景はほとんど気にしていなかった。
「本当だ」
「この靴も、私のでしょ」
「ああ」
「新潟で履いてたのと同じ。レースの写真を見た人なら、分かるかもしれないよ」
俺は下書きへ戻り、写真を外した。
「顔が写っていなければいいと思っていた」
「そういうところからでも、分かるんだよ。だから怖いの」
最後の言葉だけ、少し声が落ちた。
俺が顔を向けると、モエはスマホの縁へ目を落としていた。少ししてから、自分で画面を戻した。
「あと、次のレースのことも、練習の細かい話も、勝手に書かないでね」
「書く前に君へ話す。写真も、載せる前に見てもらう」
「私が写ってない写真でもだよ」
「ああ。今のは、俺が分かっていなかった。見てくれて助かった」
モエは小さく息を吐き、背もたれへ身体を預けた。
「……ほんとに、しっかりして。トレーナーが何か言うと、私が言ったみたいに広まることもあるんだから」
「ああ」
「真面目に全部書けばいいってもんじゃないの。トレーナー、自分が思ってるより目立つところにいるんだよ」
返す言葉がなかった。
モエは、俺が編集を保存するところまで見ていた。何も書かれていない投稿欄が現れると、ようやく机から少し離れた。
「これでいい。最初は見るだけにしとけば」
「そうする。ずいぶん詳しいんだな」
「……まあね」
彼女はソファの鞄へ手を伸ばし、自分のスマホを取り出した。
~~
少しして、俺の画面に通知が出た。
新しいフォロワーが1人。名前は「黒い猫」で、丸い画像の中に、小さな星が描かれていた。
「もう誰か来たな」
俺が画面を開くと、横から声がした。
「それ、私」
モエは自分のスマホを持ったまま、こちらを見ていた。
「モエのアカウントか」
「うん」
名前の横に鍵の印がある。投稿を見るには、フォローの申請が必要だと表示された。
「やっていないと言ってなかったか」
「表ではね。今は鍵をかけて、教える相手も絞ってる」
俺は画面から顔を上げた。モエはスマホを机へ伏せ、少し迷うように視線を動かしてから、また口を開いた。
「さっきの、ウマスタの話だけど」
「ああ」
「やめたの、合わなかったからだけじゃないの。見つかったから」
窓の外で、誰かが練習の終わりを告げていた。モエはそちらを見て、声が遠ざかってから続きを話した。
「食べたものとか、出かけた時に撮った写真とか、載せてみたかっただけなんだよ。ママもやってたし、私もちょっとやってみようかなって。顔も名前も出してなかった」
彼女の指が、伏せたスマホの角に触れた。
「始めてすぐ、ママのアカウントと結びつけられたの。この子、娘だって広まって、1日で何十万もフォローが来た。通知が止まらなくて、開くたびに知らない人が増えてた」
「それで消したのか」
「うん。すぐ消した。私、そんな大勢に向けて何かするつもりじゃなかったから」
ステージに立っていた彼女を思い出した。客席から呼ばれる名前を、当然のように受け止めていた。だが、あの場に立つための準備をしていた時と、寮でスマホを開いた時では違う。
俺は机の上の自分のスマホを見た。もう本名も担当名も表示されていない。
「何か、言われたのか」
「ひどいことばっかりじゃなかったよ。可愛いって言ってくれた人もいたし、ママに似てるねって。そういうのの方が多かったと思う」
モエは少し笑おうとして、やめた。
「ただのご飯の写真なのにね。ママもこれ好きなのって聞かれたり、私より先にママの写真を見つけてきて、同じお皿だって喜んでたり」
指がスマホから離れた。
「私が載せたのに、私の話じゃなくなっちゃうの。何を載せてもこうなるんだって思ったら、もう続ける気になれなかった」
俺は黙って聞いていた。軽く、詳しいんだなと口にしたことを、少し後悔した。
「だから、本名でやってる相手がみんな駄目って言いたいんじゃないよ。ママはそれで仕事をしてるし。でも、トレーナーまであんなふうに全部載せたら、私のことを知りたい人が、そっちへ行くでしょ」
「君から聞けないことを、俺に聞こうとするかもしれないな」
「うん。悪気なくても、何か答えちゃいそうだし」
それは、否定できなかった。
モエは机からスマホを取り、画面を起こした。
「今のアカウントは、最初から鍵をかけてる。本当に仲のいい友達にしか教えてないの。ママにも内緒」
「俺に教えてよかったのか」
「見張っとくため。さっきみたいなの、またやられたら困るから」
少し早口になり、こちらへ目を向けた。
「私のアカウントだって、誰にも言わないでね。知ってそうな相手にも、わざわざ確かめないで」
「言わない」
「あと、こっちに書いてあることを、記事みたいに他で話したりしないで。勝手に見せるのも嫌」
「ああ」
頷くと、彼女は俺のスマホへ目をやった。
「……申請、送っていいよ」
ボタンを押した。モエが自分の画面を触ると、しばらくして、見えなかった投稿が並んだ。
一番上には、食堂のパスタの話があった。
『今日のパスタ、茹ですぎ。フォークで巻いたら切れた』
読み終える前に、横から声がした。
「いちいち、感想は言わなくていいから」
「まだ何も言っていないだろう」
「言いそうだった」
俺は画面を伏せた。モエはそれを見て、ようやくスマホを鞄へ戻した。
「大したこと書いてないし。愚痴とか、そういうのばっかりだから」
「分かった」
椅子から立ち上がった彼女へ、もう一度礼を言った。モエは首だけでこちらを向き、机のスマホを見た。
「登録するだけで、こんなに疲れると思わなかった」
「すまない。練習の話をする時間が減ったな」
「それは、ちゃんとやるよ。……次のレース、考えてるんでしょ」
「ああ。日程を見ていた。あとで話そうと思っていたこともある」
モエは椅子へ戻り、座り直した。
俺は日程表を間に置き、どこが候補になるかを話した。モエは頷いたり、まだそこまでは走れないと言ったりしながら、紙に並んだ距離を見ていた。
走り方の答えが出たわけではない。それでも、聞かれたことには分かる範囲で答え、決められないところはそのまま伝えた。
スマホは、2人とも伏せたままだった。
~~
その夜、自室へ戻ってから、もう一度SNSを開いた。
教えてもらったアカウントには、新しい投稿が1つ増えていた。
『トレーナー、名刺をそのままネットに貼るところだった』
俺のことだった。
反論の余地はなく、少し笑ってから、いいねの印を押した。読み返すと、名前も所属も書かれていない。知らない相手が見ても、俺だと分かる材料はなかった。
少し前の投稿へ目を通した。
『今日も走った。足が痛い。でも止まりたくない』
その次は、唐揚げの話だった。
『カロリー高い。でも美味しかった。ウオッカのバカ』
日付は、モエがウオッカたちと昼を食べた日だった。あの後で俺のところへ来て、次も2000を走るつもりで話を聞いていたのだろう。
指を動かすと、もっと前の短い投稿が見えた。
『ママから電話。元気そうでよかった』
その下に、少し時間を置いて書かれたらしい言葉があった。
『声を聞くと、やっぱり苦しくなる』
そこで指が止まった。
どちらも、母親に電話をかけてもらった日の言葉だった。新潟の帰り、嬉しくないことはママに言わないでほしいと頼まれたのを思い出した。
もう少し下には、1行だけの投稿があった。
『私は私になりたい』
俺はしばらく、その文字を見ていた。
今日、本人から聞いたことよりも短い。誰かに説明するための前置きも、言い返すための棘もなかった。その下に食事や天気の話が並んでいるのを見ていると、練習が終わった後にも続いていた彼女の時間を、少しだけ覗いた気がした。
画面を戻し、投稿欄を開いた。
今日のことを書こうとして、最初に打った「担当に教えてもらった」という文字を消した。始めたばかりのアカウントで、わざわざ関係を説明しなくていい。
『設定を教えてもらった。自分だけでは気づかないところが多かった』
読み返して送ると、ほどなく通知が来た。
黒い猫が、いいねをしていた。
続いて返信が表示された。
『次からは、分かんないまま押さないでね』
『気をつける。ありがとう』
そう返したところで、もう1つ届いた。
『あと、古いのまで全部読んだ感想とか、本当にいらないから』
俺は投稿欄を閉じ、LANEを開いた。
『分かった。明日は予定どおりでいいか』
少し待つと、返事が来た。
『うん。行く』
それから、もう1行。
『アカウント、変なこと書いてないか見てるからね』
俺は、分かったとだけ返してスマホを置いた。
机に残っていた日程表を畳み、明日持っていく鞄へ入れた。寝る前にスマホを手に取ると、モエからもう1つだけ返信が来ていた。
『おやすみ』
俺も返して、灯りを消した。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。