アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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第五章 迷い猫編
67話 約束のメシ


四月。

 

高松宮記念から、五日。

 

体はまだ少しだるい。全力で走った後の残響が、筋肉の奥に残っている。でも不快じゃない。ちゃんと走った証拠だ。バクシンオーさんの隣で走った証拠。

 

練習は軽めのメニューだけ。回復期間。絢原さんがそう決めた。

タキオンさんは「素晴らしいデータが取れた。次はもっと面白いことになるだろうねぇ」と目を輝かせていたけど、具体的な話はまだない。

 

今日は練習は休み。

 

代わりに、約束のメシ。

 

 

 

~~

 

 

 

「ここ?」

 

絢原さんが車を停めた。学園からは少し離れた場所。住宅街の中にある、こぢんまりしたイタリアン。

外観は地味だ。看板も小さい。通りすがりだったら絶対に気づかない。

 

「よく見つけたね、こんな店」

 

「前に通りかかって気になってた。……静かな方がいいかと思って」

 

嘘だ。たぶん調べてきた。絢原さんは「たまたま」のふりをするのが下手で、準備してきた時ほど淡白なことを言う。でも「静かな方がいい」は本心だろう。この人は、私が人目を気にするのを知っている。

 

店に入る。テーブルは五つしかない。ランチ時なのに客は二組だけ。静かだ。

壁にワインの棚。天井から小さなペンダントライトが下がっている。BGMはジャズ。音量が小さくて、会話の邪魔にならない。

 

こういう店を選んでくるあたり、本当に調べてきたんだろう。絢原さんの「たまたま」は信用できない。

 

窓際の席に案内された。春の日差しが白いテーブルクロスに落ちている。向かい合って座る。テーブルが小さいから、手を伸ばせば届く距離。

 

メニューを開く。手書き。品数は少ない。

 

「パスタとメインだけでいい?」

 

「お前が食べたいものを頼め。今日はそういう日だ」

 

「……そういう日って何よ」

 

「約束のメシだ。好きに食え」

 

この人にしては言葉が多い。やっぱり準備してきたな。

 

前菜が来た。カプレーゼ。トマトとモッツァレラ。バジルの緑が鮮やかだ。

 

一口食べて、あ、と思った。美味しい。普通に美味しい。トマトが甘い。モッツァレラが柔らかい。オリーブオイルの香りが鼻に抜ける。

 

「当たりだね」

 

「ああ。悪くない」

 

絢原さんも食べている。眉が少し上がった。やっぱり。この人は美味しい時だけほんの少し眉が動く。それを見つけるのが、ちょっと楽しい。毎日見ているから分かる。他の人には分からないと思う。私だけが知っている表情。

 

パスタが来た。ボンゴレ。あさりの出汁が効いていて、しっかり塩気がある。

 

食べながら、ぽつぽつと話す。

 

「マーチャンがさ、高松宮記念の写真まとめてくれたんだけど」

 

「ああ、俺にも送ってきた。あの子、枚数が凄まじいな」

 

「でしょ。どれが一番よかった?」

 

絢原さんがフォークの手を止めた。少し考えている。

 

「……ゴール前の、横顔」

 

「どんなの?」

 

「……笑ってた」

 

手が止まった。

 

「笑ってたの、私」

 

「ああ。バクシンオーの隣で、全力で走ってる時の顔だ。……自分で気づいてなかったのか」

 

知らなかった。レース中に笑ってたなんて。

 

「変な顔してなかった?」

 

「してない」

 

「……ほんとに?」

 

「してない。いい顔だった」

 

絢原さんが窓の外を見た。こっちを見ない。でも、声が少し柔らかくなった。

 

「あの一枚だけは、俺のスマホに残してある」

 

……ふうん。

 

この人、自覚あるのかな。今のセリフがどれだけ破壊力あるか。

 

「見せて」

 

「何を」

 

「その写真。私の笑ってる顔」

 

「……今じゃなくていいだろう」

 

「今がいい」

 

絢原さんが少し眉を寄せたけど、ポケットからスマホを出した。画面を操作して、こちらに向ける。

 

高松宮記念の直線。バクシンオーさんの隣。芦毛の髪が風で流れている。

確かに——笑ってた。歯を見せて、目を見開いて、獣みたいな顔で。綺麗な笑顔じゃない。でも、嘘がない顔。

 

「……ほんとだ。すごい顔してる」

 

「ああ」

 

「これ、私に送って」

 

「自分の顔を自分に送るのか」

 

「トレーナーのスマホに私の写真が入ってるの、なんか嫌」

 

嘘だ。嫌じゃない。むしろ嬉しい。でもそう言ったら負けだ。

 

「……送った」

 

「ありがと」

 

スマホを確認する。届いていた。自分の笑顔。高松宮記念の直線の私。

 

「ねえ、トレーナー」

 

「ん」

 

「この写真、トレーナーのスマホからは消さないでね」

 

「……さっき嫌だと言ったばかりだろう」

 

「気が変わった。女心は秋の空なの」

 

「四月だが」

 

「季節は関係ないの」

 

絢原さんが黙った。黙って、パスタを巻いている。でも口元が少しだけ緩んでいるのが見えた。

 

勝った。今日の小さな勝利。

 

メインが来た。鶏のグリル。ローズマリーの香りがいい。

 

「ねえ、トレーナー」

 

「ん」

 

「高松宮記念、楽しかった」

 

「……ああ」

 

「もう一回言う。楽しかった」

 

「……」

 

「言わせて。何回でも。今まで言えなかったから」

 

絢原さんがフォークを置いた。こっちを見た。

 

「何回でも言え」

 

その声が少し低くて、少し優しくて。

 

目を逸らした。逸らしたのは私の方だった。

 

鶏のグリルを切る。ナイフの音が、静かな店内に響いた。

 

 

 

~~

 

 

 

食後のコーヒー。

 

深煎り。苦味がしっかりある。悪くない。

絢原さんはブラック。私はミルクを入れた。この人はコーヒーにも何も足さない。そういうところが、この人らしい。

 

「ねえ、トレーナー」

 

「ん」

 

「勝負服の話、していい?」

 

「勝負服?」

 

「うん。作り直したい」

 

絢原さんがコーヒーカップを持ったまま、少し目を細めた。驚いてはいない。予感はあったのかもしれない。

 

今の勝負服は黒一色。

 

入学して最初に作った。母さんの勝負服の色を全部排除して、真っ黒にした。「カレンチャンの娘」じゃなくて「カレンモエ」として走るための反抗の勝負服。

 

桜花賞も、オークスも、阪神カップも、フェブラリーSも、高松宮記念も、全部あの黒で走った。

 

嫌いじゃない。あの服は私を守ってくれた。「私は私だ」と叫ぶための鎧だった。

でもそれは裏を返せば、鎧がなければ立てなかったということだ。素の自分では怖くて、黒い布で全身を覆って、その中に隠れていた。

 

でも。

 

「もう、鎧はいらないかなって」

 

絢原さんが黙っている。聞いている。でも、いつもの「仕事として聞いている」沈黙じゃない。もっと静かな、受け止めようとしている沈黙。

 

「あの黒は、『カレンチャンの色じゃない色』だった。母さんへの反抗で選んだ色。でもさ、それって結局、母さんを意識して選んでるんだよね。母さんの『じゃない方』って」

 

コーヒーを一口。苦い。

 

「高松宮記念で走ってる時、勝負服のことなんて一秒も考えなかった。バクシンオーさんの背中を追いかけることしか頭になかった。あの時の私は反抗なんてしてなかった。ただ走ってた」

 

「…………」

 

「だから次の勝負服は、誰かに対する何かじゃなくて、私が着たい色にしたい」

 

言った。言えた。

 

絢原さんがコーヒーを置いた。

 

「いいと思う」

 

短い言葉だったけど、いつもの「ああ」とは違った。肯定の重みがあった。

 

「どんな色にする」

 

「まだ決めてない。でも、真っ黒じゃないのは確か」

 

「そうか。……楽しみにしてる」

 

少し間を置いて、絢原さんがトレーナーの顔に戻った。

 

「勝負服はURAの管轄だ。変更の手続きは俺が調べておく」

 

「うん。急がなくていいよ。色が決まってからでいいから」

 

この人はずっとあの黒い勝負服を見てきた。「カレンチャンの娘」と呼ばれるたびに私が強張るのも、「反抗」で自分を縛り上げてるのも、全部見てきた。

 

何も言わなかった。ずっと。

 

勝負服の色を変えろなんて一度も言わなかった。

きっと、自分で言い出すのを待ってた。、

 

「トレーナーさ」

 

「ん」

 

「勝負服の相談、乗ってくれる?」

 

「俺にセンスがあると思うか」

 

「ない。ネクタイの曲がりすら自分で気づかない人に」

 

「…………」

 

「でも、最初に着た時に見てほしいのは、トレーナーがいい」

 

絢原さんが窓の外を見た。少し間があった。

 

「……分かった。見届ける」

 

「考えなくていい。決まり」

 

「もう決まってるじゃないか」

 

「うん。決まり」

 

ほんの少しだけ、絢原さんの口元が緩んだ気がした。

 

コーヒーを飲み干した。

 

 

 

~~

 

 

 

会計は絢原さんが払った。

 

「奢りだ。約束のメシだから」

 

「ありがと」

 

素直に言えた。以前の私なら「いいよ、自分で払う」と言い張ってた。甘えることを許せなかった。今は許せる。この人の前でなら。

 

店を出ると四月の風が吹いた。暖かい。桜はもう散りかけている。

 

駐車場に向かって歩く。並んで。

 

風が吹いた。絢原さんのネクタイが曲がった。いつものことだ。この人はネクタイが真っ直ぐだった試しがない。

 

手を伸ばした。

 

「……何してる」

 

「ネクタイ。曲がってる」

 

結び目を直す。指先が、絢原さんの胸元に触れる。シャツの布地の下に、この人の体温がある。

 

「……直った」

 

手を離さなかった。ネクタイの端を軽く引っ張った。

 

「……モエ」

 

「なに」

 

「直ったなら離せ」

 

「やだ」

 

二秒。三秒。

 

離した。絢原さんの耳が少し赤い。勝った。今日二回目。

 

「次のレース、どうする」

 

絢原さんが歩きながら聞いた。仕事の顔に戻りかけている。でも、耳がまだ赤い。仕事の顔に戻ろうとして、戻りきれていない。

 

「まだ決めてない。でも1200は続ける。スプリンターズSには出たい」

 

「秋か。……半年ある。やれることは多い」

 

「うん。それまでにやることがある」

 

勝負服の作り直し。それから、1200の先のこと。まだ言葉にはできないけど、胸の奥で何かが芽を出し始めている。

 

「トレーナー」

 

「ん」

 

「今日、楽しかった」

 

「……メシの話か?」

 

「メシも。全部」

 

絢原さんがほんの少しだけ歩幅を緩めた。

 

私もつられて少しだけゆっくり歩いた。

 

駐車場はすぐそこだけど、もう少しだけこの速度でいい。

桜の花びらが風に乗って、アスファルトの上を転がっていく。散りかけの桜。来年もまた咲く。

 

ポケットの中で、スマホが温かい。さっき送ってもらった写真が入っている。高松宮記念の直線で笑っている私。

 

あの写真を撮ったのはマーチャンで、保存しているのは絢原さんで、走っているのは私。

 

三人分の視線が一枚の写真に重なっている。

 

悪くない一日だった。ほんとに。

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