それに伴い、ウオッカのロールを変更しています。
話の展開に影響はありません。よろしくお願いします。
スケッチブックを買った。
学園近くの画材店で、一番安いやつ。鉛筆は2Bと4B。消しゴムはプラスチック製。それから、12色の色鉛筆セット。
レジのおばさんに「絵の宿題?」と聞かれて、「まあ、そんな感じです」と返した。嘘ではない。自分に出した宿題。
部屋に戻って、ベッドの上に広げた。
「モエちゃん、お絵描きですか?」
マーチャンが向かいのベッドから身を乗り出している。手にはカメラ。反射的にレンズがこちらを向いた。いつものこと。
「……勝負服」
「あっ。作り直すって言ってたやつですね!」
カメラのシャッター音。撮った。今の撮った。スケッチブックを開く前の、何も始まってない状態を撮った。
「マーちゃんも見ていいですか?」
「……出来てからね」
「ぶー」
そう言いながらもカメラは下ろさない。この子はそういう子だ。NHKマイルCを勝った脚で駆け回りながら、レンズ越しに世界を記録することを選んだ子。記録者の目は、いつだってこちらを見ている。
スケッチブックを開く。真っ白な紙。
何も浮かばない。
……当たり前か。デザインなんてやったことない。前の勝負服は、「黒にしてください」と言って、あとはデザイナーさんに丸投げした。「全部黒で」「装飾なし」「シンプルに」。三つ注文すれば完成した。反抗は、デザインが簡単でいい。
今は違う。「黒じゃない」しか決まってない。
鉛筆を持った。とりあえず、人の形を描いてみる。
……下手だ。脚が長すぎる。左右の腕の長さが違う。顔は描けないから丸にした。
消して、描き直す。今度は腕を短くしすぎた。T-レックスみたいになってる。
消す。描く。消す。消しゴムのかすがベッドの上に散る。
「あのー、モエちゃん」
「見ないで」
「見てないです。でも消しゴムのかすが飛んできてます」
払った。
三回目。なんとか人の形になった。……たぶん。首から上は相変わらず丸で、手足の先端はぼやかした。ごまかし。
形が描けたところで、服のラインを入れてみる。
ジャケット型。前の黒い勝負服がそうだったから、なんとなく同じ形を描こうとする。
手が止まった。
同じ形でいいのか。中身が変わったのに、外側だけ前と同じって、それは何なんだ。
消す。
今度はスカート型を描いた。ママの勝負服がスカート寄りだったから——
手が止まった。
ママの服を参考にしようとしてる。ダメだ。それじゃ前と同じだ。「ママの色」と「ママじゃない色」の二択から、一歩も動けてない。
消す。
白紙に戻った。四回目の白紙。消しゴムがもう一回り小さくなっている。
「……はぁ」
「モエちゃん、休憩しませんか? マーちゃん、ミルクティー入れますよ」
「……うん。ありがと」
マーチャンが備え付けの電気ケトルでお湯を沸かし始めた。ティーバッグを二つ。牛乳を冷蔵庫から出す。
この子のミルクティーは、牛乳の量がちょっとだけ多い。甘くて、ぬるめで、疲れた時にちょうどいい。
マグカップを受け取って、啜りながら、スケッチブックの白紙を眺める。
色を考えよう。形は後でいい。まず色だ。
黒じゃない。白? 眩しすぎる。汚れも目立つ。赤? 派手すぎる。青? 悪くないけど、ピンとこない。
スカーレットの青と白。ウオッカの黒と黄色。バクシンオーさんのピンクと白。
みんな自分の色を持っている。迷わず選べたのか、それとも迷った末にたどり着いたのか。聞いたことがない。聞ける関係ではあるけど、聞くのは何か違う。
私の色って、何だろう。
鉛筆を置いて、天井を見上げた。
スマホが鳴った。
画面を見る。
ママ。
「…………」
出るか、出ないか。三秒迷って、出た。
「もしもーし♪ モエ? 元気? カレン、今ね、すっごくカワイイカフェにいるの♪ 窓際の席がね、光の入り方が最高でね、セルフィーがもう盛れる盛れる♪」
「……うん。で、何?」
「えー、つめたーい♪ ママに用事がないと電話しちゃダメなのー?」
「ダメじゃないけど、今ちょっと忙しい」
「忙しい? 何してるのー?」
「……勝負服の、デザイン」
電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。
ほんの一瞬。でも、分かった。ママの空白には、いつも意味がある。
「——えっ、作り直すの!? いいじゃん♪ カレン的にはずっと思ってたんだよねー、モエの勝負服、ちょっとこう、ダークすぎないかなって♪ もっとこう、パッと華やかな感じにしたらカワイイのに!」
来た。
「黒もかっこいいけどさー、モエの髪の色だったら、もっと映える色あるでしょー? 例えばね、淡いラベンダーとか! シルバーのラインを入れて、スカートはふわっとしたAラインで——」
「ママ」
「あ、でもタイトなシルエットの方がモエのスタイルには合うかなー? 脚のライン活かした方がいいもんね♪ あとね、アクセサリーは絶対に入れた方がいい。カレンの勝負服のここのリボンあるでしょ? あれはね、実はすっごくこだわってて——」
「ママ」
「背中を開けるのもアリだと思うのー♪ 振り向いた時にはっとさせる感じ? レースで走ってる時って基本後ろ姿が映るでしょ? だったら背中のデザインにこだわるのがカレン的にはおすすめで——」
「ママうるさい!」
言ってしまった。
電話の向こうが、また静かになった。
「…………えへへ♪」
笑ってる。なんで笑ってるの。
「いいねー、モエ。『うるさい』って言われたの久しぶり♪ 前はさ、何言っても『別に』とか『好きにすれば』とか、そればっかりだったもんねー」
「……それは……」
「モエがちゃんと自分の勝負服を考えてるってことでしょ? 口出しされて怒れるってことは、自分の中にイメージがあるってことだよ♪」
……悔しいけど、正しい。
「でもね」
ママの声に、ほんの少しだけ真面目な色が帯びた。
「一個だけ、言っていい?」
「…………なに」
「色を選ぶ時、『似合う色』と『着たい色』は別物だからね」
声のトーンが一段低い。カフェのBGMも、食器の音も、遠くなった。
「似合う色はカレンが教えてあげられる。でも着たい色は、モエにしか分からない」
「…………」
「だから、まず着たい色を決めなさい♪ 似合うかどうかは、カレンがあとから何とかしてあげるから♪」
何とかしてあげるって何。
でも——
「……分かった」
「うんうん♪ あ、決まったら写真送ってね? スケッチでいいから♪ カレンがアドバイスしてあげる♪ '#モエの新勝負服 #楽しみ #母娘コーデ'……っと♪」
「投稿しないで」
「してないしてない♪ 下書き保存♪」
「消して」
「えー♪」
電話を切った。
着たい色。
着たい色か。
スケッチブックに向き直った。白紙のまま、相変わらず何も描けてない。
でも、さっきとは少し違う。「何を描くか」じゃなくて「何色で描くか」が先だと分かった。
ママ、たまにまともなこと言う。たまに。
~~
部屋のドアをノックする音がした。
マーチャンが開けると、キング先輩が立っていた。
私服姿。白いブラウスにタイトスカート。髪はいつも通り完璧にまとまっている。夕方なのに一筋も崩れない。どうなっているんだあの髪は。
「ちょっと通りかかったんだけど……何をしているの? さっきからベッドの上で唸り声が聞こえるんだけど」
通りかかったのか聞き耳を立てていたのか。たぶん後者だけど、突っ込まない。
「……勝負服のデザインを考えてて」
キング先輩の目が、一瞬だけ鋭くなった。ファッションの話題を前にした時だけ見せる、品定めの目。
「見せなさい」
「え、いや、まだ何も——」
「見せなさい」
二回目は命令だった。
スケッチブックを渡す。キング先輩がぱらぱらとめくった。四ページ分の消し跡と、かろうじて残っている人型の残骸を、無言で眺めている。
「……何これ」
「……人です」
「どこが?」
マーチャンが横から覗き込んで、小さく「あっ」と言った。余計なリアクションしないでほしい。
キング先輩がスケッチブックをベッドに戻して、腕を組んだ。椅子を引き寄せて、仕方なくない顔で腰を下ろす。
「デザインは自分で考えたいの?」
「……うん。形はまだ全然だけど、色だけでも自分で決めたくて」
「色ね」
少し考え込む仕草。目を伏せて、自分の記憶を辿っているような。
「……私が勝負服を作った時のことを教えてあげるわ。仕方ないから」
仕方なくないでしょう、と思ったけど黙っていた。
「私は最初から迷わなかったわ。緑よ。気品があって、力強くて、それでいて華がある。キングヘイローの名に相応しい色は、それしかないの」
「……迷わなかったんだ」
「ええ。でもね、あなたは私とは違う」
キング先輩がこちらを真っ直ぐ見た。
「あなたは今まで、『何かに対する自分』で色を選んできたでしょう。母親への反抗とか、そういうの」
一呼吸、間を置いて。
「それは勝負服じゃなくて鎧よ」
……見抜かれてる。
「だから迷うのよ。鎧を脱いだら、下に何があるか自分でも分からないんだもの」
きつい。きついけど、正しい。この人はいつもそうだ。ファッションの言葉で核心を突く。
「でもね」
キング先輩が、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「鎧の下が空っぽだったウマ娘なんて、いないわ。あなたも同じ。高松宮記念で見せた走り、あれが空っぽのウマ娘にできると思う?」
「……」
「色は、自分で選びなさい。形は——まあ、その絵ではデザイナーさんに何も伝わらないでしょうけど」
「……うるさい」
「ふふ。仕方ないわね、私が少し手伝ってあげてもいいわよ。あくまで形だけ。色はあなたの仕事」
立ち上がって、ドアに向かう。振り返らずに。
「人体のバランスが壊滅的ね。今度、デッサンの本を貸してあげるわ。……甘く見ないでよ、私の目を誤魔化せるようなスケッチを描いてきなさい」
ドアが閉まった。
マーチャンが、ぽつりと言った。
「……キング先輩って、厳しいのに優しいですね」
「……いつもあんな感じ」
声が少し掠れた。鎧の下が空っぽじゃない、って言ってもらえたのが、思った以上に効いていた。
~~
夜。
マーチャンがシャワーを浴びている間に、もう一度スケッチブックを開いた。
五回目の白紙。
今度は人の形を描かない。色だけ考える。
黒い鉛筆を置いて、色鉛筆のケースを開けた。12色が並んでいる。
赤。黄色。緑。青。水色。紫。桃色。橙色。茶色。黒。灰色。白。
手が伸びたのは——
「…………」
一本、抜き取った。
部屋のドアが、軽くノックされた。
「やあ、まだ起きてるかい?」
フジキセキ先輩。寮長の見回り。
ドアの隙間から顔を覗かせて、こちらの手元に目を留めた。
「おや、色鉛筆? 何かのデザインかな」
「……勝負服の、色を考えてて」
「ほう」
フジキセキ先輩が、ドアの枠にもたれかかった。部屋には入ってこない。距離を保ったまま、穏やかに耳を傾けている。
「もう決まったのかい?」
「……一本だけ、抜いた。でも、まだ分からない。これでいいのか」
「ふふ。それは私には答えられないな」
少し考えるように目を伏せた。それから、静かに。
「……私はね、自分の勝負服を作る時、別の色を入れようかどうか迷ったことがあるんだ」
「お母さんの?」
「ああ。母は舞台俳優でね。子どもの頃からずっと憧れだった。だから最初は、母の舞台衣装の色を勝負服に入れようとした」
「……入れたの?」
「入れなかった。母に言われたんだよ。『私を追うばかりではいけない。自分にしか辿り着けない場所を目指しなさい』って」
フジキセキ先輩が、少しだけ笑った。誰かの台詞を大事に抱えている時の、柔らかい笑い方。
「だからね、私は自分の色を選んだ。黒にしたのは、夜空の色だよ。星が一番輝ける、背景の色。そういう意味で選んだ」
「…………」
「色には理由があった方がいい。でもそれは、誰かに対する理由じゃなくて、自分にとっての理由がね」
フジキセキ先輩はそれ以上何も言わなかった。
「……おやすみ、ポニーちゃん。いい夢が見られるといいね」
ドアが静かに閉まった。
一人になった。
色鉛筆を見下ろす。さっき抜いた一本が、机の上に転がっている。
紙の上に、短い線を引いた。淡い。
ぱたん、とスケッチブックを閉じた。
マーチャンがシャワーから戻ってきた。タオルで髪を拭きながら、こちらをちらりと見る。
「モエちゃん、決まりました?」
「……まだ。でも、ちょっとだけ」
「何色です?」
「……ナイショ」
マーチャンが「ぶー」と言った。いつもの「ぶー」。それがなんだか心地よかった。
電気を消して、ベッドに潜り込んだ。
暗闇の中で、色鉛筆のことを考える。
あの色が浮かんだ理由は、分かっている。
高松宮記念の最終直線。バクシンオーさんの背中を追いかけた時の、空の色。
四月の午後。高い空。
あの瞬間、一番「自分」だった時に見えていた色。
誰かへの反抗でも、誰かの真似でもない。
あの直線で、私の目に映っていた色だ。
フジキセキ先輩が言っていた。色には、自分にとっての理由があった方がいい。
理由なら、ある。
あの空の下で、私は走っていた。全部、私で。
もう少しだけ、考えよう。
でも、もう迷ってはいない。
……たぶん。
~~
翌朝。
マーチャンが朝練に出た後、一人で机に向かった。
スケッチブックを開く。今度は色を塗るだけでいい。人の形は描かない。キング先輩にデッサンの本を借りてからでいい。
色鉛筆のケースから、昨夜抜いた一本を取り出した。
紙の真ん中に、小さな四角を塗る。
淡い空色。
それだけで、白紙が別のものになった。
そこにもう一色、入れたくなった。
黒の色鉛筆で、四角の周りに細い線を引いた。
黒。
前の勝負服の色。反抗の色。
でも、もうあの色を恨んでない。
あの黒は私を守ってくれた。「私は私だ」って叫ぶための鎧だった。キング先輩の言う通り、鎧だった。でも、捨てるんじゃない。鎧は脱ぐけど、あの時間は消えない。
だから、一本だけ残す。ラインとして。
淡い空色の中に、黒い一本のライン。
スケッチブックを少し離して見た。
12色セットの、たった二色。それだけなのに、ちゃんと「何か」に見える。
——全部、私。
スケッチブックを閉じた。
明日、絢原さんに見せよう。
「……直さなくていい」って言った人が、この色を見て何て言うか。
楽しみだ。
……あれ。
楽しみだ、って思ってる。
次のレースじゃなくて、勝負服のことで。走ること以外のことで。
こういうの、久しぶりだな。
いや——初めてかもしれない。