アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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68話 黒と空色

スケッチブックを買った。

 

学園近くの画材店で、一番安いやつ。鉛筆は2Bと4B。消しゴムはプラスチック製。それから、12色の色鉛筆セット。

レジのおばさんに「絵の宿題?」と聞かれて、「まあ、そんな感じです」と返した。嘘ではない。自分に出した宿題。

 

部屋に戻って、ベッドの上に広げた。

 

「モエちゃん、お絵描きですか?」

 

マーチャンが向かいのベッドから身を乗り出している。手にはカメラ。反射的にレンズがこちらを向いた。いつものこと。

 

「……勝負服」

 

「あっ。作り直すって言ってたやつですね!」

 

カメラのシャッター音。撮った。今の撮った。スケッチブックを開く前の、何も始まってない状態を撮った。

 

「マーちゃんも見ていいですか?」

 

「……出来てからね」

 

「ぶー」

 

そう言いながらもカメラは下ろさない。この子はそういう子だ。NHKマイルCを勝った脚で駆け回りながら、レンズ越しに世界を記録することを選んだ子。記録者の目は、いつだってこちらを見ている。

 

スケッチブックを開く。真っ白な紙。

 

何も浮かばない。

 

……当たり前か。デザインなんてやったことない。前の勝負服は、「黒にしてください」と言って、あとはデザイナーさんに丸投げした。「全部黒で」「装飾なし」「シンプルに」。三つ注文すれば完成した。反抗は、デザインが簡単でいい。

 

今は違う。「黒じゃない」しか決まってない。

 

鉛筆を持った。とりあえず、人の形を描いてみる。

 

……下手だ。脚が長すぎる。左右の腕の長さが違う。顔は描けないから丸にした。

 

消して、描き直す。今度は腕を短くしすぎた。T-レックスみたいになってる。

消す。描く。消す。消しゴムのかすがベッドの上に散る。

 

「あのー、モエちゃん」

 

「見ないで」

 

「見てないです。でも消しゴムのかすが飛んできてます」

 

払った。

 

三回目。なんとか人の形になった。……たぶん。首から上は相変わらず丸で、手足の先端はぼやかした。ごまかし。

 

形が描けたところで、服のラインを入れてみる。

 

ジャケット型。前の黒い勝負服がそうだったから、なんとなく同じ形を描こうとする。

手が止まった。

同じ形でいいのか。中身が変わったのに、外側だけ前と同じって、それは何なんだ。

 

消す。

 

今度はスカート型を描いた。ママの勝負服がスカート寄りだったから——

 

手が止まった。

 

ママの服を参考にしようとしてる。ダメだ。それじゃ前と同じだ。「ママの色」と「ママじゃない色」の二択から、一歩も動けてない。

 

消す。

 

白紙に戻った。四回目の白紙。消しゴムがもう一回り小さくなっている。

 

「……はぁ」

 

「モエちゃん、休憩しませんか? マーちゃん、ミルクティー入れますよ」

 

「……うん。ありがと」

 

マーチャンが備え付けの電気ケトルでお湯を沸かし始めた。ティーバッグを二つ。牛乳を冷蔵庫から出す。

この子のミルクティーは、牛乳の量がちょっとだけ多い。甘くて、ぬるめで、疲れた時にちょうどいい。

 

マグカップを受け取って、啜りながら、スケッチブックの白紙を眺める。

 

色を考えよう。形は後でいい。まず色だ。

 

黒じゃない。白? 眩しすぎる。汚れも目立つ。赤? 派手すぎる。青? 悪くないけど、ピンとこない。

 

スカーレットの青と白。ウオッカの黒と黄色。バクシンオーさんのピンクと白。

 

みんな自分の色を持っている。迷わず選べたのか、それとも迷った末にたどり着いたのか。聞いたことがない。聞ける関係ではあるけど、聞くのは何か違う。

 

私の色って、何だろう。

 

鉛筆を置いて、天井を見上げた。

 

スマホが鳴った。

 

画面を見る。

 

ママ。

 

「…………」

 

出るか、出ないか。三秒迷って、出た。

 

「もしもーし♪ モエ? 元気? カレン、今ね、すっごくカワイイカフェにいるの♪ 窓際の席がね、光の入り方が最高でね、セルフィーがもう盛れる盛れる♪」

 

「……うん。で、何?」

 

「えー、つめたーい♪ ママに用事がないと電話しちゃダメなのー?」

 

「ダメじゃないけど、今ちょっと忙しい」

 

「忙しい? 何してるのー?」

 

「……勝負服の、デザイン」

 

電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。

 

ほんの一瞬。でも、分かった。ママの空白には、いつも意味がある。

 

「——えっ、作り直すの!? いいじゃん♪ カレン的にはずっと思ってたんだよねー、モエの勝負服、ちょっとこう、ダークすぎないかなって♪ もっとこう、パッと華やかな感じにしたらカワイイのに!」

 

来た。

 

「黒もかっこいいけどさー、モエの髪の色だったら、もっと映える色あるでしょー? 例えばね、淡いラベンダーとか! シルバーのラインを入れて、スカートはふわっとしたAラインで——」

 

「ママ」

 

「あ、でもタイトなシルエットの方がモエのスタイルには合うかなー? 脚のライン活かした方がいいもんね♪ あとね、アクセサリーは絶対に入れた方がいい。カレンの勝負服のここのリボンあるでしょ? あれはね、実はすっごくこだわってて——」

 

「ママ」

 

「背中を開けるのもアリだと思うのー♪ 振り向いた時にはっとさせる感じ? レースで走ってる時って基本後ろ姿が映るでしょ? だったら背中のデザインにこだわるのがカレン的にはおすすめで——」

 

「ママうるさい!」

 

言ってしまった。

 

電話の向こうが、また静かになった。

 

「…………えへへ♪」

 

笑ってる。なんで笑ってるの。

 

「いいねー、モエ。『うるさい』って言われたの久しぶり♪ 前はさ、何言っても『別に』とか『好きにすれば』とか、そればっかりだったもんねー」

 

「……それは……」

 

「モエがちゃんと自分の勝負服を考えてるってことでしょ? 口出しされて怒れるってことは、自分の中にイメージがあるってことだよ♪」

 

……悔しいけど、正しい。

 

「でもね」

 

ママの声に、ほんの少しだけ真面目な色が帯びた。

 

「一個だけ、言っていい?」

 

「…………なに」

 

「色を選ぶ時、『似合う色』と『着たい色』は別物だからね」

 

声のトーンが一段低い。カフェのBGMも、食器の音も、遠くなった。

 

「似合う色はカレンが教えてあげられる。でも着たい色は、モエにしか分からない」

 

「…………」

 

「だから、まず着たい色を決めなさい♪ 似合うかどうかは、カレンがあとから何とかしてあげるから♪」

 

何とかしてあげるって何。

 

でも——

 

「……分かった」

 

「うんうん♪ あ、決まったら写真送ってね? スケッチでいいから♪ カレンがアドバイスしてあげる♪ '#モエの新勝負服 #楽しみ #母娘コーデ'……っと♪」

 

「投稿しないで」

 

「してないしてない♪ 下書き保存♪」

 

「消して」

 

「えー♪」

 

電話を切った。

 

着たい色。

 

着たい色か。

 

スケッチブックに向き直った。白紙のまま、相変わらず何も描けてない。

 

でも、さっきとは少し違う。「何を描くか」じゃなくて「何色で描くか」が先だと分かった。

ママ、たまにまともなこと言う。たまに。

 

 

 

~~

 

 

 

部屋のドアをノックする音がした。

 

マーチャンが開けると、キング先輩が立っていた。

私服姿。白いブラウスにタイトスカート。髪はいつも通り完璧にまとまっている。夕方なのに一筋も崩れない。どうなっているんだあの髪は。

 

「ちょっと通りかかったんだけど……何をしているの? さっきからベッドの上で唸り声が聞こえるんだけど」

 

通りかかったのか聞き耳を立てていたのか。たぶん後者だけど、突っ込まない。

 

「……勝負服のデザインを考えてて」

 

キング先輩の目が、一瞬だけ鋭くなった。ファッションの話題を前にした時だけ見せる、品定めの目。

 

「見せなさい」

 

「え、いや、まだ何も——」

 

「見せなさい」

 

二回目は命令だった。

 

スケッチブックを渡す。キング先輩がぱらぱらとめくった。四ページ分の消し跡と、かろうじて残っている人型の残骸を、無言で眺めている。

 

「……何これ」

 

「……人です」

 

「どこが?」

 

マーチャンが横から覗き込んで、小さく「あっ」と言った。余計なリアクションしないでほしい。

 

キング先輩がスケッチブックをベッドに戻して、腕を組んだ。椅子を引き寄せて、仕方なくない顔で腰を下ろす。

 

「デザインは自分で考えたいの?」

 

「……うん。形はまだ全然だけど、色だけでも自分で決めたくて」

 

「色ね」

 

少し考え込む仕草。目を伏せて、自分の記憶を辿っているような。

 

「……私が勝負服を作った時のことを教えてあげるわ。仕方ないから」

 

仕方なくないでしょう、と思ったけど黙っていた。

 

「私は最初から迷わなかったわ。緑よ。気品があって、力強くて、それでいて華がある。キングヘイローの名に相応しい色は、それしかないの」

 

「……迷わなかったんだ」

 

「ええ。でもね、あなたは私とは違う」

 

キング先輩がこちらを真っ直ぐ見た。

 

「あなたは今まで、『何かに対する自分』で色を選んできたでしょう。母親への反抗とか、そういうの」

 

一呼吸、間を置いて。

 

「それは勝負服じゃなくて鎧よ」

 

……見抜かれてる。

 

「だから迷うのよ。鎧を脱いだら、下に何があるか自分でも分からないんだもの」

 

きつい。きついけど、正しい。この人はいつもそうだ。ファッションの言葉で核心を突く。

 

「でもね」

 

キング先輩が、ほんの少しだけ声を柔らかくした。

 

「鎧の下が空っぽだったウマ娘なんて、いないわ。あなたも同じ。高松宮記念で見せた走り、あれが空っぽのウマ娘にできると思う?」

 

「……」

 

「色は、自分で選びなさい。形は——まあ、その絵ではデザイナーさんに何も伝わらないでしょうけど」

 

「……うるさい」

 

「ふふ。仕方ないわね、私が少し手伝ってあげてもいいわよ。あくまで形だけ。色はあなたの仕事」

 

立ち上がって、ドアに向かう。振り返らずに。

 

「人体のバランスが壊滅的ね。今度、デッサンの本を貸してあげるわ。……甘く見ないでよ、私の目を誤魔化せるようなスケッチを描いてきなさい」

 

ドアが閉まった。

 

マーチャンが、ぽつりと言った。

 

「……キング先輩って、厳しいのに優しいですね」

 

「……いつもあんな感じ」

 

声が少し掠れた。鎧の下が空っぽじゃない、って言ってもらえたのが、思った以上に効いていた。

 

 

 

~~

 

 

 

夜。

 

マーチャンがシャワーを浴びている間に、もう一度スケッチブックを開いた。

 

五回目の白紙。

 

今度は人の形を描かない。色だけ考える。

 

黒い鉛筆を置いて、色鉛筆のケースを開けた。12色が並んでいる。

 

赤。黄色。緑。青。水色。紫。桃色。橙色。茶色。黒。灰色。白。

 

手が伸びたのは——

 

「…………」

 

一本、抜き取った。

 

部屋のドアが、軽くノックされた。

 

「やあ、まだ起きてるかい?」

 

フジキセキ先輩。寮長の見回り。

 

ドアの隙間から顔を覗かせて、こちらの手元に目を留めた。

 

「おや、色鉛筆? 何かのデザインかな」

 

「……勝負服の、色を考えてて」

 

「ほう」

 

フジキセキ先輩が、ドアの枠にもたれかかった。部屋には入ってこない。距離を保ったまま、穏やかに耳を傾けている。

 

「もう決まったのかい?」

 

「……一本だけ、抜いた。でも、まだ分からない。これでいいのか」

 

「ふふ。それは私には答えられないな」

 

少し考えるように目を伏せた。それから、静かに。

 

「……私はね、自分の勝負服を作る時、別の色を入れようかどうか迷ったことがあるんだ」

 

「お母さんの?」

 

「ああ。母は舞台俳優でね。子どもの頃からずっと憧れだった。だから最初は、母の舞台衣装の色を勝負服に入れようとした」

 

「……入れたの?」

 

「入れなかった。母に言われたんだよ。『私を追うばかりではいけない。自分にしか辿り着けない場所を目指しなさい』って」

 

フジキセキ先輩が、少しだけ笑った。誰かの台詞を大事に抱えている時の、柔らかい笑い方。

 

「だからね、私は自分の色を選んだ。黒にしたのは、夜空の色だよ。星が一番輝ける、背景の色。そういう意味で選んだ」

 

「…………」

 

「色には理由があった方がいい。でもそれは、誰かに対する理由じゃなくて、自分にとっての理由がね」

 

フジキセキ先輩はそれ以上何も言わなかった。

 

「……おやすみ、ポニーちゃん。いい夢が見られるといいね」

 

ドアが静かに閉まった。

 

一人になった。

 

色鉛筆を見下ろす。さっき抜いた一本が、机の上に転がっている。

 

紙の上に、短い線を引いた。淡い。

 

ぱたん、とスケッチブックを閉じた。

 

マーチャンがシャワーから戻ってきた。タオルで髪を拭きながら、こちらをちらりと見る。

 

「モエちゃん、決まりました?」

 

「……まだ。でも、ちょっとだけ」

 

「何色です?」

 

「……ナイショ」

 

マーチャンが「ぶー」と言った。いつもの「ぶー」。それがなんだか心地よかった。

 

電気を消して、ベッドに潜り込んだ。

 

暗闇の中で、色鉛筆のことを考える。

 

あの色が浮かんだ理由は、分かっている。

 

高松宮記念の最終直線。バクシンオーさんの背中を追いかけた時の、空の色。

 

四月の午後。高い空。

あの瞬間、一番「自分」だった時に見えていた色。

 

誰かへの反抗でも、誰かの真似でもない。

あの直線で、私の目に映っていた色だ。

 

フジキセキ先輩が言っていた。色には、自分にとっての理由があった方がいい。

 

理由なら、ある。

 

あの空の下で、私は走っていた。全部、私で。

 

もう少しだけ、考えよう。

でも、もう迷ってはいない。

 

……たぶん。

 

 

 

~~

 

 

 

翌朝。

 

マーチャンが朝練に出た後、一人で机に向かった。

 

スケッチブックを開く。今度は色を塗るだけでいい。人の形は描かない。キング先輩にデッサンの本を借りてからでいい。

 

色鉛筆のケースから、昨夜抜いた一本を取り出した。

 

紙の真ん中に、小さな四角を塗る。

 

淡い空色。

 

それだけで、白紙が別のものになった。

 

そこにもう一色、入れたくなった。

 

黒の色鉛筆で、四角の周りに細い線を引いた。

 

黒。

 

前の勝負服の色。反抗の色。

 

でも、もうあの色を恨んでない。

 

あの黒は私を守ってくれた。「私は私だ」って叫ぶための鎧だった。キング先輩の言う通り、鎧だった。でも、捨てるんじゃない。鎧は脱ぐけど、あの時間は消えない。

 

だから、一本だけ残す。ラインとして。

 

淡い空色の中に、黒い一本のライン。

 

スケッチブックを少し離して見た。

 

12色セットの、たった二色。それだけなのに、ちゃんと「何か」に見える。

 

——全部、私。

 

スケッチブックを閉じた。

 

明日、絢原さんに見せよう。

 

「……直さなくていい」って言った人が、この色を見て何て言うか。

 

楽しみだ。

 

……あれ。

 

楽しみだ、って思ってる。

 

次のレースじゃなくて、勝負服のことで。走ること以外のことで。

 

こういうの、久しぶりだな。

 

いや——初めてかもしれない。

 




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