六月。
梅雨に入って、毎日のように雨が降る。練習は室内トレーニングが増えた。
朝。スマホのアラームで目を覚ます。六時半。
向かいのベッドはもう空っぽだった。マーチャンは今日も先に起きている。布団はきれいに畳まれていて、枕元のマーちゃん人形だけがにこにこ笑ってこちらを見ていた。
この子は朝が早い。私がまだ布団の中で死んでいる時間に、静かに着替えて、静かにストレッチして、静かに出ていく。起こされたら私は不機嫌の塊になる。マーチャンはそれを一年目で学習済みだ。
洗面所で顔を洗う。冷たい水が気持ちいい。梅雨のじめじめした空気を、少しだけ追い払ってくれる。鏡に映る自分の顔が、半年前とは少し違う。目の下のクマが薄くなった。頬の肉が戻った。普通の顔をしている。
普通。
半年前の私は、普通の顔ができなかった。鏡を見るのが嫌だった。映っているのが「カレンチャンの娘」にしか見えなくて。
今は、ちゃんと私が映っている。
~~
食堂。朝の時間帯。
廊下を歩いて食堂に入ると、朝特有の匂いがした。味噌汁と、焼き魚と、トーストが焼ける匂い。全部混ざって、食堂の匂いになっている。入院中はこの匂いが恋しかった。今は毎朝当たり前に嗅いでいる。当たり前が戻ってきたことに、まだ少しだけ驚く。
マーチャンが先に席を取ってくれていた。きつねうどんと、おにぎり二つ。この子の朝食はいつも和食だ。
「おはようです、モエちゃん」
「おはよ」
トレーを置いて座る。トーストと卵スープとサラダ。最近、朝からちゃんと食べられるようになった。入院直後は朝食を半分残すのが当たり前だったのに。
「今日、午後から雨止むらしいですよ」
「ほんと?」
「マーちゃん調べです。気象庁のサイト確認済み」
「調査範囲、天気にまで及ぶの」
「マーちゃんは、モエちゃんに関わる全ての情報を網羅するのです」
「天気は私に関わる情報なの?」
「雨だとモエちゃんの機嫌が三割減になるので、重要情報です」
「そこまで分かりやすいかな」
「分かりやすいですよ。雨の日は朝ごはんのトーストを齧る速度が遅くなります。データで確認済みです」
「……そんなとこまで見てるの」
「マーちゃんですから」
にこにこ。反論できない。
トーストを齧りながら、食堂を見回す。朝の食堂はそこそこ混んでいる。練習着姿の子、制服の子、寝癖を直す気がない子。ウマ娘の朝は基本的に早い。体を動かす仕事だから、朝に弱い子でも六時台には起きる。私は遅い方だ。
ふと、視線がいつもの場所で止まった。
食堂の入り口近く。壁際の席。
あそこに座っていた人が、もういない。
バクシンオーさん。
あの人はいつも朝一番に食堂に来て、壁際の席で山盛りのご飯を食べていた。白米三杯、焼き鮭、納豆、味噌汁、漬物。「朝はバクシン的にしっかり食べるのが委員長の務めです!」と、誰に言うでもなく宣言しながら。声がでかいので食堂の半分くらいに聞こえていた。
ドリームトロフィーリーグに行ってから、あの席は空いたままだ。誰も座らない。別に禁止されているわけじゃない。椅子も机もそのまま。でもなんとなく、みんな避けている。隣の席には座る子がいるのに、あの一席だけが、ぽっかりと空いている。
「マーチャン」
「はい」
「バクシンオーさんの席、誰も座んないね」
マーチャンがそっちを見て、少し考えてから、小さく頷いた。
「ですね。マーちゃんも座れないです、あそこは」
「だよね」
「……でも、いつか誰かが座る日が来ますよ。そういうものですから」
卵スープを飲んだ。少し冷めていた。
いなくなった人の場所は、しばらく空いたままになる。それはたぶん、寂しいのとは少し違う。あの人が座っていた事実を、みんなが覚えているということだ。
マーチャンなら「記録」と呼ぶだろう。空席という記録。
~~
午前の練習。第二練習場。
雨なので屋内。絢原さんが用意したメニューは、体幹トレーニングとプール。
プールは好きじゃない。水の中では走れないから。全力で踏み込んでも水が受け止めてしまう。あの地面を叩く感触がない。でもタキオンさんに「水中トレーニングは君の体幹を鍛える最良の方法だ」と言われて以来、週に二回は入ることにしている。
水の中を歩く。腰まで浸かってゆっくり前へ。水の抵抗が体全体にかかる。地面を踏んでいる時とは全然違う負荷。重くて、遅くて、もどかしい。
「フォームが安定してきたな」
プールサイドから絢原さんの声。ストップウォッチを首から下げて、クリップボードに何か書いている。
「トレーナー、見てるだけじゃなくて一緒に入ったら?」
「俺は指導する側だ。濡れたら書類が」
「書類、持ってきてるの? プールに?」
「勝負服の変更申請だ。URAの返事がまだ来ない」
「あ」
勝負服。四月に色を決めてから、二ヶ月経つ。淡い空色と、黒のライン。あの日、絢原さんと二人で選んだ色。
「URA、遅くない?」
「前例が少ないらしい。勝負服の変更自体は規定にあるが、実際に変更した事例が限られている。確認に時間がかかっている」
「めんどくさいね」
「手続きとはそういうものだ。焦るな」
「焦ってないよ。ただ、早く着たいなって」
口から出た。自分の言葉に少し驚いた。
絢原さんが少しだけ口元を緩めた気がした。プールサイドの蒸気で表情がよく見えない。でも、あの人の「少し緩んだ口元」は、もう見間違えない。毎日見ているから。
水中トレーニングを続ける。腿を上げて、下ろして、また上げて。地味だけど効く。三十分もやると腹筋が悲鳴を上げ始める。
水の中にいると、自分の体の重さがよく分かる。
陸では気にならない筋肉の一つ一つが、水の抵抗でくっきりと浮き上がる。腿の裏。ふくらはぎ。体幹。普段は全力で踏んでいるだけだから意識しない場所が、水の中だと主張してくる。
タキオンさんが「君の体は見た目より重い。筋肉の密度が高い」と言っていたのを思い出す。華奢に見えるのに、体重は同じ身長の子より重い。パワーがある、と絢原さんは言う。自分ではよく分からないけど。
……パワーがある、ならいい。問題は絢原さんがそれを「お前、見た目より重いな」と言ったことだ。食堂で。普通の顔で。女の子に向かって。
お返しに翌日、練習場に向かう廊下で腕にぶら下がってやった。人がいっぱいいる時間帯を狙って。「重いんでしょ? じゃあ支えてよ」と言ったら、絢原さんは三秒固まってから「……歩きにくい」とだけ言った。振りほどかなかった。勝った。
「そういえば、来月のレース、決まった?」
「函館スプリントSを考えている。七月。芝1200、GⅢ」
「函館。行ったことない」
「北海道だ。涼しいぞ」
「涼しいのはいいね。梅雨から逃げられる」
「逃げるために行くんじゃない」
「分かってるよ。レースのついでに逃げるの」
水を蹴って前に進む。足の裏で水底を踏む感触。軽い。地面を踏んでいる時とは違う浮遊感のある軽さ。
「函館の芝は普段と違うらしいから、少し早めに現地入りする」
「違うの?」
「洋芝だ。他のレース場より重い。事前に感触を確かめておいた方がいい」
「ふーん」
あんまり興味が湧かなかった。芝が違うと言われても、1200メートルを走ることには変わりない。
「で、GⅢか」
「ああ」
「……あの反応、来るかな」
絢原さんが少し黙った。
「分からない。だが、来なくても勝てるだけの力はある。高松宮記念で証明済みだ」
「証明済みってほどでもないでしょ。あれはバクシンオーさんがいたから」
「バクシンオーがいなくても、お前はお前だ」
短い。でも、この人の短い言葉には嘘がない。
「ありがと」
「礼を言われることじゃない」
プールから上がった。タオルで体を拭く。髪の毛から水が滴る。絢原さんが勝負服の書類をファイルに戻しているのが見えた。
あの書類の中に、私が選んだ色が書いてある。空の色。
まだ形にはなっていない。でも、確かに動き始めている。
~~
午後。雨が止んだ。マーチャンの予報通り。
寮に戻る途中の廊下で、キング先輩に会った。
「あら、モエ。ちょうどよかったわ」
「キング先輩。何ですか?」
キング先輩は私服だった。白いブラウスに、膝丈のスカート。午後から外出するつもりらしい。この人は練習がない日でも身だしなみが完璧だ。寝起きのまま廊下をうろつく私とは大違い。
「来週の日曜、空いてない? 新しいカフェができたのよ、駅前に。パンケーキが絶品だって噂で」
「パンケーキ」
「アンタ、最近ちゃんと食べてるんでしょうね? 顔色は良くなってるけど、まだ細いわよ。トレーニングで消耗した分、甘いもので補填しなさい」
補填。キング先輩はこういう時、わざと事務的な言葉を使う。「心配してるから一緒に食べよう」とは絶対に言わない。全部、合理的な理由をつけてくる。
「行きます」
「決まりね。マーチャンも誘いなさい。あの子、甘いもの好きでしょ」
「はい。キング先輩も好きですよね、甘いもの」
「べ、別にアタシが食べたいわけじゃないわよ! アンタたちの栄養管理の一環よ。トレーナーが甘いもの食べさせてくれないでしょうから、先輩として」
「はいはい」
キング先輩が少し頬を赤くして、髪をかき上げた。このポーズ、照れた時の癖だ。
「それと」
キング先輩が声のトーンを少し落とした。
「高松宮記念の後、アンタ変わったわね」
「……変わった?」
「表情が違うわよ。前は笑ってても目が笑ってなかった。今は、ちゃんと笑ってる。……まあ、相変わらず朝は不機嫌そうだけど」
「……朝は仕方ないでしょ」
「ふん。まあいいわ。来週、パンケーキ楽しみにしてなさい。アタシが選んだ店なんだから、ハズレはないわよ」
キング先輩が颯爽と廊下を歩いていった。
角を曲がる直前、一瞬だけ振り返って「遅刻したら置いてくわよ」と言い残して消えた。
走りのことは一言も聞かなかった。いつもそう。
この人の気遣いは、全部食べ物と服に変換される。「大丈夫?」とは聞かない。代わりにパンケーキに誘う。不器用で、回りくどくて、でも確実に届く。
廊下を歩きながら、ふと思った。
こういう日常が、ちゃんとある。
半年前の私には、なかった。
悪くないな、と思った。
~~
部屋に戻ると、マーチャンがベッドの上でスマホをいじっていた。足をぱたぱたさせている。何か面白いものを見ているらしい。
「マーチャン、来週の日曜、キング先輩とパンケーキ食べに行くんだけど、来る?」
「行きます!」
即答。スマホを放り出して起き上がった。
「マーちゃん、パンケーキは生クリーム増し増しが好きです! あとフルーツも全部載せたいです!」
「全部って。メニュー見てからにしなよ」
「メニューに関わらず、マーちゃんの意志は全部載せです」
「意志が強い」
「甘いものに迷う理由がないですから」
マーチャンがスマホを拾い上げて、何か打ち込んでいる。
「何してるの」
「マーちゃんのスケジュール帳に登録してます。『日曜・パンケーキ・キング先輩・モエちゃん・要全部載せ確認』」
「最後のはスケジュールじゃないでしょ」
「備考欄です」
窓の外で、雲の切れ間から夕日が覗いていた。梅雨の合間の、束の間の晴れ間。空がオレンジ色に染まっている。
マーチャンが窓の方を見て、スマホを構えた。
「夕焼け、きれいですね。撮ります」
パシャ。
「マーチャン、何でも撮るね」
「きれいなものは残すのです。マーちゃんの仕事ですから」
この子にとって、記録することは呼吸と同じだ。カメラを構える。シャッターを切る。残す。忘れない。それがマーチャンの一番大事な価値観。
「ねえ、マーチャン」
「はい」
「次のレース、函館なんだって。七月」
「函館! 北海道ですか。いいですねぇ。涼しそう」
「トレーナーも同じこと言ってた」
「マーちゃんも夏は函館で走りたいです。いつか」
「いつか、じゃなくて出ればいいのに」
「マーちゃんの次のレースはまだ決まってないんですよ。トレーナーと相談中です」
「そっか。決まったら教えて」
「もちろんです。モエちゃんに一番に報告しますから」
マーチャンがマーちゃん人形を一つ持ち上げて、窓の方に向けた。人形にも夕焼けを見せているらしい。この子はいつもこうだ。自分が見たものを、全部誰かと共有したがる。人形にも、カメラにも、私にも。
来月は函館。七月。北海道。涼しいらしい。
その前に、パンケーキ。
悪くない順番だと思った。
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