七月。函館。
本州とは空気が違う。梅雨がない。湿度が低い。風に乗ってくる匂いが、京都とも阪神とも東京とも違っていた。海が近いせいだろうか。肌に触れる風がどこか乾いていて、肺の奥まですっと入ってくる。
函館スプリントステークス。芝1200メートル、GⅢ。
高松宮記念以来、約三ヶ月ぶりのレース。久々の実戦。
パドックに立って思ったことがある。
——静かだな。
高松宮記念のあの轟音を知ってしまうと、GⅢのパドックはどうしても物足りない。観客はそこそこ入っている。「カレンモエが出る」という話題性で、GⅢにしては多い方だと思う。でも空気の密度が薄い。中京の、あの地鳴りのような歓声と比べると、まるで別の競技を見ているようだった。
お立ち台から降りる。、歩くたびに、足元から芝の匂いがした。ここの芝は、阪神や京都とは違う匂いがする。少し青くて、少し土っぽい。
周りの出走ウマ娘たちを見る。知っている顔はほとんどいない。GⅠの常連ではなく、地方の実力者や、重賞初挑戦の子たち。緊張している子が多い。拳を握りしめている子、目を閉じて何かを唱えている子。GⅢが、この子たちにとっての晴れ舞台なのだと思うと、少しだけ申し訳ない気持ちになった。
私にとっては、肩慣らし。その温度差が。
「調子はどうだ」
フェンス越しに絢原さんの声。
「悪くないよ。体は軽い」
嘘じゃない。体は本当に軽い。高松宮記念前の張り詰めた緊張もない。GⅢだから当然かもしれないけど、それにしても楽だ。気負いがない。
「今日はシンプルに走れ。自分の走りを確認するレースだ」
「肩慣らしね」
「そうは言ってない。勝ちに行け。ただし無理はするな」
「はいはい」
函館入りしたのは三日前だった。絢原さんが「函館の芝は普段の芝と種類が違う。重くて深いから、本番前に感触を確かめておけ」と言って、コースでの軽い調整を組んでくれた。
走ってみた。確かに足元の感触が阪神や京都とは違う。重い。沈む。
でもそれだけで、別に走りにくくなかった。
絢原さんは「足を取られやすいから注意しろ」と言っていたのに、全然取られない。むしろ普段より踏み込みが安定している気がした。
「どうだ」と聞かれて「特に問題ないよ」と答えたら、絢原さんは少し意外そうな顔をして、「なら、今日はこれでいい。脚を残しておけ」と切り上げた。
レース当日。ゲートに向かう。
函館のターフを踏みながら、ゲートまで歩く。空が広い。本州のレース場より空が近い気がする。雲が少なくて、青がどこまでも続いている。
スタンドから歓声が聞こえる。GⅢの規模にしてはやっぱり多い。私の名前を呼ぶ声がちらほら混じっている。高松宮記念の後、「カレンモエ」として覚えてくれる人が増えた。ママの名前じゃなく、私の名前で。
ゲートに入った。狭い鉄の箱。呼吸を整える。
隣の枠の子が緊張で体を震わせている。分かる。GⅢでも、ゲートの中は怖い場所だ。
深呼吸。
~~
ガコン。
飛び出した。
いつも通り、体が勝手にトップスピードに乗る。1200メートル。全力で踏み続けるだけでいい距離。ギアを選ぶ必要がない。
五番手。中団の外。悪くない位置。
……来ない。
走り出して数秒で分かった。あの黒い猫が起きない。
高松宮記念の直線で、バクシンオーさんの隣で感じた、全身を焦がすような衝動。体の奥底から湧き上がる獰猛な渇望。
何も来ない。脚の奥は静かだ。水面みたいに凪いでいる。
京阪杯でも来なかった。シルクロードSでも来なかった。GⅢでは、いつも来ない。なぜかは分からない。分からないけど、もう驚かない。こういうものだと思い始めている。
でも、走れる。
高松宮記念で掴んだ感覚。自分の意志で手綱を握って、自分の判断で脚を動かす。体に乗せられるのではなく、私が体を動かしている。あの反応がなくても、ちゃんと走れる。
黒い猫がいなくても、私は私だ。その確認ができただけでも、今日走る意味はある。
第二コーナーを回った。向こう正面。
——今日、なんかスタミナを使ってない。
全力で踏んでいるのに、いつもの消耗感がない。阪神や京都で1200メートルを走ると、後半に入る頃には脚の奥にじわじわと疲労が溜まっていく。全力でしか走れない体だから、燃費は最悪だ。
なのに今日は、燃料が減っていく感覚が薄い。いつもの1200メートルなら、後半600メートルに入った辺りで「あとこのくらい」と残量が分かるのに、今日はまだたっぷり残っている気がする。
調子がいい。高松宮記念から三ヶ月、じっくり休んだからかもしれない。
第三コーナー。
前の子たちの背中が近い。手を伸ばせば届きそうな距離。高松宮記念の先行勢とは、一歩の重さが明らかに違う。失礼だけど、そう感じてしまう。
高松宮記念の先行勢は、背中越しにでも闘気が伝わってきた。追い抜こうとすると壁みたいに立ちはだかってくる圧があった。
この子たちにはそれがない。一生懸命走っているのは分かる。全力なのも分かる。でも、私の中の何かを揺さぶるものがない。
位置を上げた。外に持ち出して、三番手の横に並ぶ。自分の判断。自分の脚。体が勝手に動いたんじゃない。
三番手の子がちらりとこちらを見た。目が合った。驚いた顔をしていた。こんなタイミングで上がってくるとは思っていなかったのだろう。
GⅢで相手が弱いから楽なだけだろう。そういうことにしておく。
第四コーナー。直線。
踏み込んだ。地面を叩く。感触がいい。踏んだ分だけ返ってくる。
先頭の子を抜く。並ぶ間もなく、すっと前に出た。抵抗がなかった。あっけないくらい簡単に先頭に立てた。
あとは誰もいない直線。独走。
風が顔に当たる。函館の風。本州の七月とは違う、乾いた、どこか北の匂いがする風。その中を、一人で走っている。
耳を澄ませた。後ろの足音。
……遠い。
高松宮記念の直線では、バクシンオーさんの呼吸が真横に聞こえていた。一歩ごとに肩が触れそうな距離で、全身の毛が逆立つような緊張感があった。
今、背後にいる子たちの足音は、三馬身以上離れている。近づいてくる気配もない。確信できる。誰も来ない。
……余裕がある。
高松宮記念の直線とは別物だ。あの時は隣にバクシンオーさんがいて、全身が燃えていた。今は何も燃えていない。黒い猫は眠ったままで、私の通常出力だけで走っている。
それだけで、こんなにも差がつく。
ゴール板が近づいてくる。脚を緩めた。流した。全力で踏む必要がもうない。
ゴール板を通過して、振り返った。
二番手の子が、まだ走っていた。必死に腕を振っている。でも、届く距離ではなかった。
その子の顔が見えた。悔しそうだった。歯を食いしばっている。あの子にとっては、今日のGⅢが全力の舞台だったのだ。
~~
――Live: Announcer
ゴールイン!
一着カレンモエ! 圧勝です!
最後は流してのゴール! それでも後続に三馬身以上の差!
GⅠウマ娘の格の違いを見せつけました!
上がり3ハロン、33秒8! 流してこの時計!
終始余裕のある走りで、最後は振り返る余裕すらありました!
衝撃の高松宮から初の一戦、圧巻の白星です!
~~
――Anti-Hero: Curren Moe
控室前の通路。
汗を拭いた。息はもう整っている。1200メートルを走った後なのに、最後は流してゴールした。流せるだけの余裕があった。
勝負服を着ていない。GⅢだから体操服だ。汗で張り付いた布地が気持ち悪い。早くシャワーを浴びたい。でも、その前に絢原さんと話さなきゃいけないことがある。
普通なら、GⅢとはいえ1200メートルを全力で走り切ったら、多少は脚にくる。未勝利戦の圧勝でも、ゴール直後は肩で息をしていた。
今日は流してなお三馬身差。スタミナがほとんど減っていない。
……なんでだろう。
「お疲れ」
絢原さんがタオルを持って来た。
タオルを受け取る。手が触れた。この人の手、いつも冷たい。私が走っている間、ずっとスタンドで風に当たっていたんだろう。
「ありがと。……楽だった。すっごく走りやすかった。スタミナ全然使わなかった気がする」
「お前はパワーがあるからな」
「なにそれ。か弱い乙女なんですけど」
「か弱い乙女は流してゴールして振り返ったりしない」
「……うるさい」
ちょっと笑った。絢原さんも口元が緩んでいた。こういう軽口が言い合えるようになったのは、高松宮記念の後からだ。
以前の私だったら「か弱い乙女」なんて冗談は言えなかった。自分のことを笑い話にする余裕がなかった。今は違う。走った後に笑える。それだけで、半年前とは全然違う場所に立っている。
絢原さんがタオルで自分の額を拭いた。この人は私のレースになると自分も汗をかく。走っていないのに。
「……ねえ、トレーナー」
タオルで顔を拭きながら、上目遣いで見た。
「勝ったんだから、ご褒美くらいあってもよくない?」
「ご褒美」
「函館で美味しいもの食べたい。二人で」
「……約束のメシは先月やっただろう」
「あれはあれ。これはこれ。勝つたびに一回」
「勝つたびにか。お前の財布で行けるところにしてくれ」
「トレーナーの奢りに決まってるでしょ」
絢原さんが眉を寄せた。でも断らなかった。この人はいつもそうだ。眉を寄せて、文句を言って、結局やってくれる。
「……帰りに調べておく」
「やったぁ。じゃあ海鮮ね。函館なんだから」
勝った後は気分がいい。気分がいいと、この人にちょっかいを出したくなる。黒い猫が帰ってきてから、この衝動が前より強くなった気がする。走ることに対する貪欲さと、この人に対する貪欲さが、たぶん同じ場所から来ている。
「……ねえ、トレーナー」
「ん」
「今日、黒猫が来なかった」
絢原さんの表情が少し変わった。軽口の温度が消えて、トレーナーの顔に戻る。
「高松宮記念では来た。阪神カップでも来た。フェブラリーSでも来た。でもGⅢでは来ない。オープン特別でも京阪杯でもシルクロードSでも来なかった」
「……ああ」
「GⅠとGⅡでは来て、GⅢでは来ない。なんでだろう」
絢原さんが腕を組んだ。考えている顔。
「……俺も、薄々気づいてはいる。お前のあの反応に、何か条件があることは」
「気づいてたの?」
「阪神カップで初めて出て、京阪杯で出なくて、フェブラリーSで出た。格の高いレースでだけ起きている。それは分かっている。だが」
絢原さんが眉を寄せた。
「今日みたいに、あの反応がなくても圧勝できるなら……あの反応が何のためにあるのか、正直分からなくなってきた」
「……」
「GⅢの相手には素の実力で十分勝てる。GⅠの相手にはあの反応が加わって勝負になる。辻褄は合っている。だが、今日の勝ち方は素の実力だけにしては楽すぎた。流して三馬身差はGⅢでも異常だ」
「……相手が弱かっただけじゃなくて?」
「分からない。だからタキオンにデータを見せる」
「うん」
分からないことだらけだ。黒猫の条件も、今日の楽すぎる勝利も。
でも、一つだけ。うっすらと感じ始めていたことがある。
高松宮記念で黒い猫が目覚めたのは、直線でバクシンオーさんの背中が近づいた時だった。阪神カップで「邪魔」「遅い」と思ったのは、GⅡの闘気の中だった。
GⅢでは来ない。オープン特別でも来ない。
……もしかして、相手の問題なんじゃないかって、思い始めてた。あの子が目を覚ますのは、本気でぶつかってくる誰かがいる時だけなんじゃないかって。
でも、今日の勝ち方が、その直感を揺らしている。
黒猫が来なかったのに、こんなに楽に勝てた。相手の問題だとしたら、弱い相手には苦戦するはずでしょ。でも苦戦どころか、流して三馬身差。
……思ってたのと、違うのかな。
よく分からない。考えれば考えるほど、ぐるぐる回るだけだ。
「行こう。ウイニングライブ」
「ああ」
函館の空は高くて青かった。七月の風が、汗を乾かしていく。
勝った。三馬身差の圧勝。文句のない結果。
なのに、心のどこかで「これじゃない」と思っている自分がいる。高松宮記念の直線で感じた、あの全身が燃えるような充実感が、今日はどこにもなかった。
勝つだけなら、今の私でもできる。GⅢなら。
でも、あの火がなければ、私の走りは「勝てるだけの走り」で終わる。
もっと先に行くには、何かが足りない。
足りないものが何なのか、まだ分からないけど。
……高松宮記念の後、「楽しかった」と言えた。何回でも言えた。あの「楽しい」は、バクシンオーさんの隣にいたから生まれたものだ。
じゃあ、バクシンオーさんがいない場所では、楽しくならないの?
今日、楽しくなかったわけじゃない。走ること自体は嫌じゃなかった。函館の空気は気持ちよかったし、体は軽かったし、勝てた。
でも、あの「楽しい」とは違う。温度が足りない。
帰ったらタキオンさんに会おう。データを見せてもらおう。何か分かるかもしれない。
ウイニングライブに向かう通路を歩く。靴の裏に、柔らかくて重い芝の感触がまだ残っていた。
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