アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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70話 函館スプリント

七月。函館。

 

本州とは空気が違う。梅雨がない。湿度が低い。風に乗ってくる匂いが、京都とも阪神とも東京とも違っていた。海が近いせいだろうか。肌に触れる風がどこか乾いていて、肺の奥まですっと入ってくる。

 

函館スプリントステークス。芝1200メートル、GⅢ。

 

高松宮記念以来、約三ヶ月ぶりのレース。久々の実戦。

 

パドックに立って思ったことがある。

 

——静かだな。

 

高松宮記念のあの轟音を知ってしまうと、GⅢのパドックはどうしても物足りない。観客はそこそこ入っている。「カレンモエが出る」という話題性で、GⅢにしては多い方だと思う。でも空気の密度が薄い。中京の、あの地鳴りのような歓声と比べると、まるで別の競技を見ているようだった。

 

お立ち台から降りる。、歩くたびに、足元から芝の匂いがした。ここの芝は、阪神や京都とは違う匂いがする。少し青くて、少し土っぽい。

 

周りの出走ウマ娘たちを見る。知っている顔はほとんどいない。GⅠの常連ではなく、地方の実力者や、重賞初挑戦の子たち。緊張している子が多い。拳を握りしめている子、目を閉じて何かを唱えている子。GⅢが、この子たちにとっての晴れ舞台なのだと思うと、少しだけ申し訳ない気持ちになった。

 

私にとっては、肩慣らし。その温度差が。

 

「調子はどうだ」

 

フェンス越しに絢原さんの声。

 

「悪くないよ。体は軽い」

 

嘘じゃない。体は本当に軽い。高松宮記念前の張り詰めた緊張もない。GⅢだから当然かもしれないけど、それにしても楽だ。気負いがない。

 

「今日はシンプルに走れ。自分の走りを確認するレースだ」

 

「肩慣らしね」

 

「そうは言ってない。勝ちに行け。ただし無理はするな」

 

「はいはい」

 

函館入りしたのは三日前だった。絢原さんが「函館の芝は普段の芝と種類が違う。重くて深いから、本番前に感触を確かめておけ」と言って、コースでの軽い調整を組んでくれた。

 

走ってみた。確かに足元の感触が阪神や京都とは違う。重い。沈む。

 

でもそれだけで、別に走りにくくなかった。

 

絢原さんは「足を取られやすいから注意しろ」と言っていたのに、全然取られない。むしろ普段より踏み込みが安定している気がした。

 

「どうだ」と聞かれて「特に問題ないよ」と答えたら、絢原さんは少し意外そうな顔をして、「なら、今日はこれでいい。脚を残しておけ」と切り上げた。

 

レース当日。ゲートに向かう。

 

函館のターフを踏みながら、ゲートまで歩く。空が広い。本州のレース場より空が近い気がする。雲が少なくて、青がどこまでも続いている。

 

スタンドから歓声が聞こえる。GⅢの規模にしてはやっぱり多い。私の名前を呼ぶ声がちらほら混じっている。高松宮記念の後、「カレンモエ」として覚えてくれる人が増えた。ママの名前じゃなく、私の名前で。

 

ゲートに入った。狭い鉄の箱。呼吸を整える。

隣の枠の子が緊張で体を震わせている。分かる。GⅢでも、ゲートの中は怖い場所だ。

 

深呼吸。

 

 

 

~~

 

 

 

ガコン。

 

飛び出した。

 

いつも通り、体が勝手にトップスピードに乗る。1200メートル。全力で踏み続けるだけでいい距離。ギアを選ぶ必要がない。

 

五番手。中団の外。悪くない位置。

 

……来ない。

 

走り出して数秒で分かった。あの黒い猫が起きない。

高松宮記念の直線で、バクシンオーさんの隣で感じた、全身を焦がすような衝動。体の奥底から湧き上がる獰猛な渇望。

 

何も来ない。脚の奥は静かだ。水面みたいに凪いでいる。

 

京阪杯でも来なかった。シルクロードSでも来なかった。GⅢでは、いつも来ない。なぜかは分からない。分からないけど、もう驚かない。こういうものだと思い始めている。

 

でも、走れる。

 

高松宮記念で掴んだ感覚。自分の意志で手綱を握って、自分の判断で脚を動かす。体に乗せられるのではなく、私が体を動かしている。あの反応がなくても、ちゃんと走れる。

 

黒い猫がいなくても、私は私だ。その確認ができただけでも、今日走る意味はある。

 

第二コーナーを回った。向こう正面。

 

——今日、なんかスタミナを使ってない。

 

全力で踏んでいるのに、いつもの消耗感がない。阪神や京都で1200メートルを走ると、後半に入る頃には脚の奥にじわじわと疲労が溜まっていく。全力でしか走れない体だから、燃費は最悪だ。

 

なのに今日は、燃料が減っていく感覚が薄い。いつもの1200メートルなら、後半600メートルに入った辺りで「あとこのくらい」と残量が分かるのに、今日はまだたっぷり残っている気がする。

 

調子がいい。高松宮記念から三ヶ月、じっくり休んだからかもしれない。

 

第三コーナー。

 

前の子たちの背中が近い。手を伸ばせば届きそうな距離。高松宮記念の先行勢とは、一歩の重さが明らかに違う。失礼だけど、そう感じてしまう。

 

高松宮記念の先行勢は、背中越しにでも闘気が伝わってきた。追い抜こうとすると壁みたいに立ちはだかってくる圧があった。

この子たちにはそれがない。一生懸命走っているのは分かる。全力なのも分かる。でも、私の中の何かを揺さぶるものがない。

 

位置を上げた。外に持ち出して、三番手の横に並ぶ。自分の判断。自分の脚。体が勝手に動いたんじゃない。

 

三番手の子がちらりとこちらを見た。目が合った。驚いた顔をしていた。こんなタイミングで上がってくるとは思っていなかったのだろう。

 

GⅢで相手が弱いから楽なだけだろう。そういうことにしておく。

 

第四コーナー。直線。

 

踏み込んだ。地面を叩く。感触がいい。踏んだ分だけ返ってくる。

 

先頭の子を抜く。並ぶ間もなく、すっと前に出た。抵抗がなかった。あっけないくらい簡単に先頭に立てた。

 

あとは誰もいない直線。独走。

 

風が顔に当たる。函館の風。本州の七月とは違う、乾いた、どこか北の匂いがする風。その中を、一人で走っている。

 

耳を澄ませた。後ろの足音。

 

……遠い。

 

高松宮記念の直線では、バクシンオーさんの呼吸が真横に聞こえていた。一歩ごとに肩が触れそうな距離で、全身の毛が逆立つような緊張感があった。

 

今、背後にいる子たちの足音は、三身以上離れている。近づいてくる気配もない。確信できる。誰も来ない。

 

……余裕がある。

 

高松宮記念の直線とは別物だ。あの時は隣にバクシンオーさんがいて、全身が燃えていた。今は何も燃えていない。黒い猫は眠ったままで、私の通常出力だけで走っている。

 

それだけで、こんなにも差がつく。

 

ゴール板が近づいてくる。脚を緩めた。流した。全力で踏む必要がもうない。

 

ゴール板を通過して、振り返った。

 

二番手の子が、まだ走っていた。必死に腕を振っている。でも、届く距離ではなかった。

その子の顔が見えた。悔しそうだった。歯を食いしばっている。あの子にとっては、今日のGⅢが全力の舞台だったのだ。

 

 

 

~~

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

ゴールイン!

 

一着カレンモエ! 圧勝です!

最後は流してのゴール! それでも後続に三身以上の差!

GⅠウマ娘の格の違いを見せつけました!

 

上がり3ハロン、33秒8! 流してこの時計!

終始余裕のある走りで、最後は振り返る余裕すらありました!

衝撃の高松宮から初の一戦、圧巻の白星です!

 

 

 

~~

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

控室前の通路。

 

汗を拭いた。息はもう整っている。1200メートルを走った後なのに、最後は流してゴールした。流せるだけの余裕があった。

 

勝負服を着ていない。GⅢだから体操服だ。汗で張り付いた布地が気持ち悪い。早くシャワーを浴びたい。でも、その前に絢原さんと話さなきゃいけないことがある。

 

普通なら、GⅢとはいえ1200メートルを全力で走り切ったら、多少は脚にくる。未勝利戦の圧勝でも、ゴール直後は肩で息をしていた。

 

今日は流してなお三身差。スタミナがほとんど減っていない。

 

……なんでだろう。

 

「お疲れ」

 

絢原さんがタオルを持って来た。

 

タオルを受け取る。手が触れた。この人の手、いつも冷たい。私が走っている間、ずっとスタンドで風に当たっていたんだろう。

 

「ありがと。……楽だった。すっごく走りやすかった。スタミナ全然使わなかった気がする」

 

「お前はパワーがあるからな」

 

「なにそれ。か弱い乙女なんですけど」

 

「か弱い乙女は流してゴールして振り返ったりしない」

 

「……うるさい」

 

ちょっと笑った。絢原さんも口元が緩んでいた。こういう軽口が言い合えるようになったのは、高松宮記念の後からだ。

以前の私だったら「か弱い乙女」なんて冗談は言えなかった。自分のことを笑い話にする余裕がなかった。今は違う。走った後に笑える。それだけで、半年前とは全然違う場所に立っている。

 

絢原さんがタオルで自分の額を拭いた。この人は私のレースになると自分も汗をかく。走っていないのに。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

タオルで顔を拭きながら、上目遣いで見た。

 

「勝ったんだから、ご褒美くらいあってもよくない?」

 

「ご褒美」

 

「函館で美味しいもの食べたい。二人で」

 

「……約束のメシは先月やっただろう」

 

「あれはあれ。これはこれ。勝つたびに一回」

 

「勝つたびにか。お前の財布で行けるところにしてくれ」

 

「トレーナーの奢りに決まってるでしょ」

 

絢原さんが眉を寄せた。でも断らなかった。この人はいつもそうだ。眉を寄せて、文句を言って、結局やってくれる。

 

「……帰りに調べておく」

 

「やったぁ。じゃあ海鮮ね。函館なんだから」

 

勝った後は気分がいい。気分がいいと、この人にちょっかいを出したくなる。黒い猫が帰ってきてから、この衝動が前より強くなった気がする。走ることに対する貪欲さと、この人に対する貪欲さが、たぶん同じ場所から来ている。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

「ん」

 

「今日、黒猫が来なかった」

 

絢原さんの表情が少し変わった。軽口の温度が消えて、トレーナーの顔に戻る。

 

「高松宮記念では来た。阪神カップでも来た。フェブラリーSでも来た。でもGⅢでは来ない。オープン特別でも京阪杯でもシルクロードSでも来なかった」

 

「……ああ」

 

「GⅠとGⅡでは来て、GⅢでは来ない。なんでだろう」

 

絢原さんが腕を組んだ。考えている顔。

 

「……俺も、薄々気づいてはいる。お前のあの反応に、何か条件があることは」

 

「気づいてたの?」

 

「阪神カップで初めて出て、京阪杯で出なくて、フェブラリーSで出た。格の高いレースでだけ起きている。それは分かっている。だが」

 

絢原さんが眉を寄せた。

 

「今日みたいに、あの反応がなくても圧勝できるなら……あの反応が何のためにあるのか、正直分からなくなってきた」

 

「……」

 

「GⅢの相手には素の実力で十分勝てる。GⅠの相手にはあの反応が加わって勝負になる。辻褄は合っている。だが、今日の勝ち方は素の実力だけにしては楽すぎた。流して三身差はGⅢでも異常だ」

 

「……相手が弱かっただけじゃなくて?」

 

「分からない。だからタキオンにデータを見せる」

 

「うん」

 

分からないことだらけだ。黒猫の条件も、今日の楽すぎる勝利も。

 

でも、一つだけ。うっすらと感じ始めていたことがある。

 

高松宮記念で黒い猫が目覚めたのは、直線でバクシンオーさんの背中が近づいた時だった。阪神カップで「邪魔」「遅い」と思ったのは、GⅡの闘気の中だった。

 

GⅢでは来ない。オープン特別でも来ない。

 

……もしかして、相手の問題なんじゃないかって、思い始めてた。あの子が目を覚ますのは、本気でぶつかってくる誰かがいる時だけなんじゃないかって。

 

でも、今日の勝ち方が、その直感を揺らしている。

 

黒猫が来なかったのに、こんなに楽に勝てた。相手の問題だとしたら、弱い相手には苦戦するはずでしょ。でも苦戦どころか、流して三身差。

 

……思ってたのと、違うのかな。

 

よく分からない。考えれば考えるほど、ぐるぐる回るだけだ。

 

「行こう。ウイニングライブ」

 

「ああ」

 

函館の空は高くて青かった。七月の風が、汗を乾かしていく。

 

勝った。三身差の圧勝。文句のない結果。

 

なのに、心のどこかで「これじゃない」と思っている自分がいる。高松宮記念の直線で感じた、あの全身が燃えるような充実感が、今日はどこにもなかった。

 

勝つだけなら、今の私でもできる。GⅢなら。

 

でも、あの火がなければ、私の走りは「勝てるだけの走り」で終わる。

 

もっと先に行くには、何かが足りない。

 

足りないものが何なのか、まだ分からないけど。

 

……高松宮記念の後、「楽しかった」と言えた。何回でも言えた。あの「楽しい」は、バクシンオーさんの隣にいたから生まれたものだ。

 

じゃあ、バクシンオーさんがいない場所では、楽しくならないの?

 

今日、楽しくなかったわけじゃない。走ること自体は嫌じゃなかった。函館の空気は気持ちよかったし、体は軽かったし、勝てた。

 

でも、あの「楽しい」とは違う。温度が足りない。

 

帰ったらタキオンさんに会おう。データを見せてもらおう。何か分かるかもしれない。

 

ウイニングライブに向かう通路を歩く。靴の裏に、柔らかくて重い芝の感触がまだ残っていた。




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