函館スプリントSから五日後。
タキオンさんの理科準備室。
薄暗い。カーテンが閉まっている。
棚にはフラスコや試験管が並んでいて、机の上にはモニターが三台。
消毒液と、紅茶と、何か甘い薬品の匂いが混じっている。
この部屋の匂いにもだいぶ慣れた。入院中にタキオンさんが来てくれたことはあったけど、自分で足を運ぶようになったのは練習を再開した頃からだ。最初は白衣の匂いだけで緊張していた。今は紅茶の匂いの方が気になる。タキオンさんは砂糖をたっぷり入れた紅茶を一日に何杯も飲む。その甘い香りが、この部屋の空気にまで染み込んでいる。
絢原さんが先に来ていた。パイプ椅子に座って、タキオンさんと何か話していた。
私が入ると、二人とも黙った。
何を話していたんだろう。函館のデータのことだろうか。それとも、私がまだ知らない何かのことだろうか。
二人の間に流れていた空気が、私が入った瞬間に変わった。それだけは分かった。
「やあ。待っていたよ」
タキオンさんが、くるりと椅子を回してこちらを向いた。
白衣。眼鏡。ショートカット。
「座りたまえ。長くなるかもしれない」
パイプ椅子がもう一脚、用意されていた。絢原さんの隣。座った。
タキオンさんがモニターの一つをこちらに向けた。
画面にグラフが並んでいる。折れ線と棒グラフ。横軸に時間、縦軸に数値。色分けされた複数のライン。
「何のデータか分かるかい」
「分からない」
「君の心拍数だよ。レース中の。こっちが筋電位。こっちが呼吸数。全部、計測器から取ったデータだ」
タキオンさんがマウスを操作して、グラフの一部を拡大した。
「これが阪神カップ」
折れ線が、第三コーナーの辺りから急激に跳ね上がっている。心拍数が一気に上がって、筋電位も異常値を示している。
「これがフェブラリーS」
同じパターン。第三コーナー付近から急上昇。
「これが高松宮記念」
もっと激しい。グラフが天井を突き破るような跳ね上がり。しかも開始が早い。第四コーナーの手前から。
「そしてこれが、今回の函館スプリントS」
画面が切り替わった。
平坦だった。
折れ線が、最初から最後まで、ほとんど変わっていない。多少の上下はあるけど、他のレースで見せたような急上昇がどこにもない。
「……」
「見ての通りだ。阪神カップ、フェブラリーS、高松宮記念では、レースの後半に君の体が劇的に変化している。心拍数の急上昇、筋電位の異常値、呼吸数の変動。体のスイッチが入る、と君が呼んでいる現象を、データはちゃんと捕捉している」
タキオンさんが紅茶を一口飲んだ。
「函館では何も起きていない。体は通常の競走状態を維持したまま、最後まで走り切っている」
知っていた。体感で。
でもデータで見せられると、改めて突きつけられる。グラフの平坦さが、あの日の私の心の平坦さと重なって見えた。何も燃えなかった日の記録。
「京阪杯、シルクロードS、そして今回の函館。GⅢでは一度もスイッチが入っていない。オープン特別でも。パターンは明確だ」
「……うん」
「ここまでは、君も絢原君も分かっている話だろう。問題は、なぜスイッチが入るレースと入らないレースがあるのか、だ」
タキオンさんが椅子の背もたれに体を預けた。
「結論から言おうか」
「……うん」
「データからは、分からない」
「……え?」
「分からない、と言ったんだよ。体の側からは、この選別の基準が見えない」
タキオンさんが指で眼鏡を押し上げた。
「阪神カップの出走メンバーと、京阪杯の出走メンバーを比較した。ペース、馬場状態、気温、湿度、君の体調、筋肉のコンディション、疲労度、栄養状態。全部調べた。スイッチが入る条件と入らない条件に、物理的な差異は見つからなかった」
「全部?」
「全部だよ。私の検出限界の範囲でね。体の状態に有意な差はない。つまり、スイッチを入れる・入れないを決めているのは、体ではない」
タキオンさんが少し間を置いた。
「君の中の、もっと深い場所だ」
「深い場所」
「心、と言ってもいい。本能、と言った方が正確かもしれない。意識よりも手前にある、君自身にもコントロールできない領域。そこが、相手を選別している」
部屋が静かだった。
モニターの画面が青白く光っている。
「……選別」
「そう。君の中の何かが、特定の相手を獲物と認識した時だけ、体のリミッターが外れる。バクシンオーくん。エスポワールシチーくん。阪神カップの先行勢。逆に言えば、獲物と認識しなかった相手には——どんなに意志の力で全力を出そうとしても——あの追加ギアは入らない」
タキオンさんが紅茶に口をつけた。考えながら飲んでいる。
「面白いのはね、阪神カップの時、君はあの反応を望んでいなかった。むしろ怖がっていた。体が勝手に動くことに恐怖していた。それでも火がついた。君の意志とは無関係に」
「……うん」
「つまり、着火の判断は君の意識がしているのではない。もっと深い場所が勝手にやっている。本人が望んでいなくても火がつき、本人が望んでいても火がつかない。阪神カップでは前者、函館やGⅢでは後者だ」
タキオンさんが眼鏡越しにこちらを見た。
「その割に、現状では自分の意志で着火できない。これは不思議なことだよ。体が勝手に火をつけるなら、意志でも火をつけられておかしくない。同じ体の中にあるものなのだから。……なのに、できない」
「……」
「ここに何か鍵があると私は思っているけれど、データからはこれ以上見えない」
言葉にされると、胸の奥で引っかかっていたものが形を取った。
函館で「もしかして相手の問題なんじゃないか」と思いかけていた。でもあの楽すぎる勝利のせいで、直感を信じられなかった。答えに近づいていたのに、函館の結果がノイズになって、自分の感覚を疑ってしまった。
タキオンさんはデータでそこに辿り着いていた。私が感覚でうっすら感じていたことを、この人は数字で裏付けた。
「……でも」
口が開いた。反論というより、確認したかった。
「函館では、ギアが入らなくても楽に勝てたよ。流して三馬身差。……ギアが入るかどうかと、速く走れるかどうかって、関係ないんじゃないの?」
タキオンさんが一瞬、私を見た。
何かを考えるような間。モニターにちらりと目を落としてから、視線を戻した。
「それは別の話だよ」
「別の話?」
「函館で楽に勝てた理由と、スイッチが入らなかった理由は、別の問題だ。今日の議題は後者の方。混ぜると混乱する」
あっさりと流された。
……別の話、か。言われてみれば確かにそうかもしれない。函館で楽だったのはGⅢだったからで、スイッチの問題とは関係ない。絢原さんもそう言っていた。
「話を戻そうか」
タキオンさんが立ち上がって、窓のカーテンを少しだけ開けた。細い光が差し込んで、埃が舞った。
「スイッチの選別について。一つ聞いてもいいかい」
「何」
「バクシンオーくんの背中を見た時、何を感じた?」
「……食い殺したいと思った。あの人を追い抜きたいって。あの人の前に行きたいって」
「京阪杯や函館で、前を走っている子の背中を見た時は?」
「……」
何を感じたか。何も感じなかった。前にいるのに。同じ競争相手なのに。
「何も感じなかった、というのが正確だろうねぇ」
タキオンさんが静かに言った。
「バクシンオーくんの背中には反応して、GⅢの先行勢には反応しない。同じ前方にいる競争相手なのに。違いは何だ?」
「分からない」
「私にも分からない。だから科学の管轄外だと言っている。データは何が起きているかを教えてくれる。でもなぜ起きるかは教えてくれない。そこは、君が自分で見つけるしかない」
タキオンさんが紅茶のカップを置いた。
「ただ、一つだけヒントになるかもしれないことを言っておこうか」
「何」
「高松宮記念の直線で、君は楽しかったと言っていたね」
「……うん」
「追いかけるのが楽しい。食い殺したいのが楽しい。その二つが同居していた」
「うん」
「なら、その楽しいの出処を、もう少し深く掘ってみたらどうだい。追いかけることでしか楽しめないのか。別の走り方でも楽しめるのか。君の楽しいが追いかけることだけに紐づいている限り、追いかける相手を選んでしまうのは——たぶん、変わらないよ」
部屋がまた静かになった。
タキオンさんの言葉が胸に刺さった。
体が相手を選んでいる。
高松宮記念ではバクシンオーさんを「獲物」と認めた。フェブラリーSではエスポワールシチーさんたちを認めた。
でもGⅢの相手は認めなかった。函館でも、京阪杯でも。
認めた相手にだけ火がつく。認めなかった相手には何も起きない。
それが私の体の中にある法則で、自分の意志ではどうにもならない。
「……どうすればいいの」
「そう。それが難しいところだ。見つからなければ——まあ、GⅠ級の相手が目の前にいる限りは問題ないけどね。ただ、先頭に立った瞬間に獲物を失う、というリスクは消えない」
絢原さんが口を開いた。
「それは直せるのか」
タキオンさんが絢原さんを見た。
「直す、という言い方は正しくないねぇ。壊れているわけではないから。彼女の体は正常に機能している。函館でも、普通のスプリンターとしては十分すぎる走りをしていた」
「普通じゃ足りない」
「そうだね。GⅠで勝つには、あの追加ギアが要る。でもそれは体の問題じゃない。体は反応する準備ができている。反応しろという命令が来ないだけだ」
タキオンさんが白衣のポケットに手を突っ込んだ。
「私にできるのはここまでだよ。体の側は整えた。データも集めた。でも、なぜ君の本能が相手を選ぶのか、どうすれば選ばずに済むのか——それは科学の管轄外だ。君の脚の問題ではなく、君自身の問題だ」
「……」
「夏合宿があるんだろう? 色々な子と走る機会がある。その中で何か見つかるかもしれない」
タキオンさんがにやりと笑った。
「データが必要なら取るよ。いつでも。君は私の最高のモルモットだからね。もっとも最近のデータは、体よりも心の方が面白くなってきたけれど」
笑った。いつものタキオンさんの笑い方。研究対象を愛でるような、ちょっとだけ怖い笑い方。
絢原さんが立ち上がった。
「行くぞ、モエ」
「うん」
理科準備室を出た。廊下。放課後の学園。遠くで誰かの走る足音が聞こえる。練習帰りだろうか。蝉の声が窓の外から聞こえてくる。七月の学園は、暑くて、騒がしくて、でもどこか眠たい。
体が相手を選んでいる。
それが私の弱点で、自分の意志ではどうにもならない。
タキオンさんにも分からない。絢原さんにも分からない。
データでは見えない。科学の管轄外。私自身の問題。
自分で見つけるしかない。
でも、「自分で見つけろ」と言われて見つかるなら苦労はしない。体の底にある何かが勝手に相手を格付けしている。その法則を、どうやって変えればいいのか。
「トレーナー」
「ん」
「体が勝手に選ぶのって、止められるのかな」
絢原さんが少し歩いてから答えた。
「俺にも分からん。でも、お前が見つけなきゃいけないものだってことは分かった」
「うん」
「一人で見つけろとは言わない。俺もいる」
短い。でも、それだけでいい。
この人はいつもこうだ。答えは持っていない。でも、隣にいることだけは約束してくれる。それが、どれだけ心強いか。
「……トレーナー、もう一つ聞いていい?」
「ん」
「タキオンさんと、私が入る前に何話してたの」
絢原さんが少し間を置いた。
「……お前のデータの話だ」
「それだけ?」
「それだけだ」
嘘か本当か分からない。でも、追及しなかった。この人が黙っている時は、黙っている理由がある。
廊下の窓から、夕日が差し込んでいた。
七月の終わり。空が高い。
来週から夏合宿だ。
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