「トレーナー。夕方、暇?」
タキオンさんの三者面談からしばらく経った、ある日。
練習帰りに、私はトレーナー室に顔を出した。廊下から声をかけたら、絢原さんがPCから顔を上げた。
「……夕方?」
「うん」
「一応、合宿の書類整理はするつもりだったが」
「それ、今やってるんでしょ? じゃあ夕方は空くじゃん」
「……まあ、そうだな」
「じゃあ、一緒に映画でも見ようよ」
絢原さんが眉を寄せた。
「映画?」
「DVD借りてきた」
バッグからDVDケースを出して、机にぽん、と置いた。絢原さんがそれを手に取って、タイトルを見た。
『闇 の 座 敷』
「……」
「面白いらしいよ」
絢原さんは黙ってDVDを返してきた。
「見ないのか?」
「いや」
返事が一拍、遅れた。
「見る」
「よかった。じゃあ夕方、トレーナー室で」
「……わかった」
顔色が、ほんの少しだけ悪い気がした。でも、私は気にしなかった。今回の主眼はそこじゃない。
廊下に出て、私はにやついた。
タキオンさんの面談で「弱点」だの「獲物の選別」だの言われて、重い気分を引きずっていた。だからといって合宿まで落ち込んでいるのも癪だ。こういう時こそ、気分転換。具体的には——絢原さん相手の甘えタイム。
作戦は単純だ。ホラー映画を一緒に見る。怖い場面で「キャーッ」と絢原さんに抱きつく。暗闇と恐怖を言い訳に、密着する。合法的な甘え方。
我ながら、ぶりっ子くさい。でも、年相応のぶりっ子をする権利はあるはずだ。私だってまだ学生なんだから。
DVDは念入りに選んだ。有名で、評価も高くて、「怖い」ともっぱらの評判。話題作。観ていて損はない。
完璧な作戦だった。
夕方。トレーナー室。
カーテンを閉めて、電気を消した。PCのモニターでDVDを再生する。絢原さんはソファの端に座っている。私はその隣。微妙に距離を空けて。作戦の都合上、最初は距離を取っておいて、怖い場面で一気に詰めるのがポイント。
ポップコーンの袋を開けた。レンジで温めた塩味。指が少し油っぽくなる。一つ摘んで口に入れた。
「トレーナーも食べる?」
「ああ」
袋を絢原さんに向けた。絢原さんが一つだけ取って、黙って口に入れた。
ん?
声が、ちょっと硬いな。
タイトル画面が出た。赤い文字。不穏な音楽。
絢原さんの肩が、ぴくっと動いた気がした。
……気のせい?
画面の中で、物語が始まった。静かな日本家屋。古い畳。女の人がゆっくり廊下を歩いている。音楽は控えめ。でも、控えめだからこそ、何かが来ると分かる構成。
来た。
暗がりから、女の顔が覗いた。
BGMが、ドン、と跳ねた。
「キャッ——」
作戦開始。私は絢原さんの腕に飛びついた。右腕。ぎゅっと、両腕で抱きしめるように。顔も少しだけ寄せて。作戦通り。
絢原さんが、ぴくん、と動いた。
でも。
「……」
反応が、少し違った。
絢原さんは何も言わない。普段なら「無理するな」とか「怖いのか」とか、そういう一言がある。それがない。ただ、硬直している。
……作戦、効きすぎた?
私は少しだけ顔を上げて、絢原さんを見た。
暗がりで、画面の光に照らされた絢原さんの横顔は——
真っ青だった。
え。
「トレーナー?」
「……」
返事がない。
目が、画面に釘付けになっている。でも、映像を見ている目じゃない。視線が映像を「受け止めている」んじゃなくて、「直視できないのに逸らせない」目だった。
呼吸が、浅い。
……ん?
映画のシーンは切り替わっていた。さっきのは単なる前振り。これからもっと怖い演出が続いていく。案の定、もう一発、ドン、と効果音が跳ねた。
絢原さんの体が、また、ぴくっと揺れた。
膝の上で、両手の拳がぎゅっと握られた。
……は?
作戦では、私が絢原さんに抱きつく予定だった。絢原さんが動揺して、私をどう扱っていいか分からなくて、そわそわする予定だった。
今、絢原さんは自分の膝の上で拳を握っている。私のことが視界に入っていない動きだった。
もう一回、画面で何かが起きた。女の顔がアップになる。髪が垂れて、白い目玉が画面を埋めた。BGMが歪んで鳴る。
絢原さんが、ぎゅっと目をつぶった。
思いっきり、だった。眉間に皺を寄せて、瞼に力を込めて、完全に視界を遮断している。作り物だと分かっていても、反射的に目を閉じた——そういう子供みたいな閉じ方だった。
膝の拳は白くなっていた。
脂汗が、額に浮いていた。
作戦が、大破した。
いや、待って。
私は急いで状況を整理した。
絢原さんは、そもそも目を閉じている。
私が横でどんなアピールをしていても、この人の視界にはそれが映っていない。作戦の大前提が崩れている。映像も見ていない。隣の私も見ていない。ただ、怖がっている自分の中だけの世界にいる。
絢原さんが、私の作戦に動揺しているんじゃない。そもそも私の作戦が視界に入っていない。絢原さんは映画そのものに完全に飲み込まれている。
この人——
ホラーが、無理?
「……トレーナー。もしかして、苦手?」
「……」
「ホラー、苦手?」
「……いや」
目を閉じたまま返事した。
声が、震えていた。
「大丈夫だ」
全然大丈夫じゃない顔で言った。瞼はまだ閉じている。
画面の中で、また怖い演出が始まった。今度は長い。じわじわ来るタイプ。BGMが不協和音で引き伸ばされる。
絢原さんの呼吸が、浅くなっていた。短く、断続的に。目は閉じたまま。
無理だ、この人。
くっつくどころじゃない。
私はリモコンを取った。一時停止を押した。画面がブラックアウトした。絢原さんの肩から、ふっと力が抜けたのが、隣で見ていて分かった。
この人、本気で、本気で、無理だったんだ。
「トレーナー」
「ああ」
「ホラー苦手なら、最初に言ってよ」
「……」
「なんで我慢したの」
「……トレーナーが、ジャンルで断るのは、良くないと思った」
何それ。
「格好つけたかったの?」
「……」
「ねえ、格好つけたかったの?」
「……違う」
嘘だ。絶対違う。
呆れた。呆れたけど、同時に、ちょっと笑った。
この人が、ウマ娘の前では「何でも見透かしているプロのトレーナー」の顔をしている人が、今、画面の向こうの作り物の幽霊に完全に飲み込まれて、目をぎゅっと閉じて、膝の上で拳を握って耐えていた。
……可愛い。
思った。
思ってから、自分の中で何かが切り替わるのを感じた。
作戦は失敗した。甘える隙なんて、一個もなかった。でも、私が得たのは、もっと大きな情報だった。
絢原さん。この人、私に対しては防御が固い。大人として、トレーナーとして、「一定の距離」を保つのが上手い。私がいくら甘えても、のらりくらりとかわす。相手が一枚も二枚も上手だ、と私はずっと思っていた。
でも、違った。
この人、私には強いんじゃない。私相手だから、強くあろうとしていただけだ。恋愛的な話題とか、距離の詰め方とか、そういう方向の攻撃には構えている。
——でも、ホラー映画みたいな、想定外の方向からの攻撃には、無防備だった。
情報の宝庫。
この人は、攻略の角度を変えれば、いくらでも崩せる。
「……仕方ないな」
口から、自然に言葉が出た。
自分でも意外なくらい、落ち着いた声だった。
「え」
絢原さんが顔を上げた。
「次からは、最初にジャンル確認してあげるから。苦手なら苦手って言って。私、別に怒らないから」
「……ああ」
「あと——」
私は立ち上がって、冷蔵庫を開けた。トレーナー室の小さな冷蔵庫。絢原さんが自分用に入れているスポーツドリンクのボトルがあった。それを一本取り出して、絢原さんの前のテーブルに置いた。
「水分取って。冷や汗かいてるから」
「……ああ」
絢原さんが素直に手を伸ばして、ボトルを開けて飲んだ。
私はその様子を、ソファに戻って眺めた。
——面倒見てやるか。
そう思った。
この人、私には私なりの防御をしている。でも、それ以外の方向——今日みたいなホラーとか、たぶん他にも、色々——には、驚くほど無防備だ。
私の正面からの甘え方は効かない。効かないけど、それは絢原さんがその方向を警戒しているからだ。警戒していない方向から攻めれば、この人の知らない顔はいくらでも引き出せる。
今日、それが分かった。
私はまだ、恋愛というものの何も知らない。経験がない。教科書もない。でも、こういう「この人を崩す角度」を探す嗅覚だけは、たぶん、私はずっと持っていた。生まれつき、かもしれない。母譲り、かもしれない。
猫の目の話じゃない。全然違う。でも、どこかで繋がっている気もする。
「……モエ」
絢原さんが私を呼んだ。
「ん」
「ありがとう」
「何が?」
「DVDを止めてくれて」
「……あー。別にいいよ」
「助かった」
素直な声だった。普段より、少しだけ柔らかい声。
胸の奥で、何かが満たされた。獲物を狩った時の、あの満足に似ていた。でも、それとも違った。守った、と思った時の、別種の満足。
うん。
これはこれで、悪くない。
DVDを差し替えた。再生が始まる。明るい音楽。笑い声。絢原さんの肩が、目に見えて緩んだ。
私は横で、ポップコーンを食べた。
映画の筋は、あんまり頭に入ってこなかった。さっきの作戦のことと、失敗のことと、絢原さんの真っ青な顔のことと、ぎゅっと閉じた目のことで、頭がいっぱいだった。
……完全に、空振りだった。
でも、次がある。
私は、次のターンに向けた準備を、頭の中で始めていた。
映画が終わった。時計はそれなりに遅い時間を指していた。
絢原さんは、もう普段の顔に戻っていた。少し疲れた顔だけど、青ざめてはいない。
「お疲れ」
「ああ」
私はDVDを回収した。『闇の座敷』の方を、ケースに戻した。
「次、借りるなら何がいい?」
「……」
「ホラー以外で」
「……ホラー以外なら、何でもいい」
「それ、認めたじゃん」
「認めてない」
「認めたって」
絢原さんは黙って、ソファから立ち上がった。背中を向けている。
「……合宿の準備がある。お前も早く寝ろ」
「話そらしたな」
「そらしてない」
「じゃあ、今度は、一緒に遊園地のお化け屋敷、行こうね」
絢原さんが振り返った。顔が、ほんの少しだけ、引きつっていた。
「……行かない」
「なんで?」
「忙しい」
「今週じゃないよ。いつか」
「……忙しい」
ふふ。
「分かった。じゃあ合宿、頑張ってね。海の家にちょっとしたお化け屋敷あるかも」
「……」
「冗談だよ。たぶん」
絢原さんがため息をついた。疲れた、というより、降参した、という感じの。
私は鞄を取って、トレーナー室を出た。廊下は静かで、誰もいなかった。
……この話、誰にも言わないでおこう。マーちゃんにも、ウオッカにも、スカーレットにも。
これは、私と絢原さんの、二人だけの秘密だ。
作戦は失敗した。でも、今日手に入れたものは、作戦の目的より、ずっと良いものだった。
次は、私が主導権を握れる。この人、私相手には強いつもりでいるけど、実は全然強くない。今日、それがはっきりした。
私は少しだけ、にやにやしながら、廊下を歩いた。
もうすぐ合宿だ。
砂浜を走って、海で泳いで、ご飯を食べて、友達とバカ騒ぎする。そして、今回のこの秘密を、胸の奥にそっと仕舞っておく。
ホラーが苦手な、格好つけたがりの絢原さん。
——可愛い。
口には出さない。そのうち、直接本人に、もっと効く形で、色々仕掛けられる日が来る。
今日はその下見。
合宿から帰ったら、次の作戦を立てよう。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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