アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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72話 夏合宿

七月。

 

合宿所に着いた瞬間、スマホの電波が二本から一本に落ちた。

 

「……圏外じゃないだけマシか」

 

バスから降りると、潮の匂いがした。

 

木造の建物。年季が入っている。婉曲に言えば趣深い。率直に言えばボロい。

 

タキオンさんの面談から四日。「体が勝手に相手を選ぶ」という弱点を突きつけられたまま、合宿に来てしまった。どうすればいいのか分からない。でも、絢原さんが「色々な子と走る機会がある」と言っていた。何か見つかるかもしれない。

 

見つからないかもしれない。

 

 

 

マーチャンが慣れた足取りで玄関を抜けていく。スリッパに履き替える仕草も、靴箱の場所も、全部分かっている。

 

「マーちゃん、何回目だっけ」

 

「二回目ですよ。去年も来ました。今年は、モエさんも一緒ですね」

 

ちょっと嬉しそうに言った。

 

廊下の先で、ウオッカが振り返った。

 

「おっ、モエだ。お前、初めてだろ」

 

「うん。去年は入院してたから」

 

「あー、そうだったな」

 

あっけらかんと返ってきた。この子は気を使わない。それが楽な時もある。

 

「ここ、最高だぜ。飯がうまい。海が近い。そして暑い」

 

「暑いのは最高じゃなくない?」

 

「暑いから飯がうまいんだよ」

 

論理が飛んでいる。でも、本人が納得しているから何も言えない。

 

スカーレットは玄関の壁に貼ってある注意書きを読んでいた。「夜間の徘徊禁止」「海への単独行禁止」「食堂の私物持ち込み禁止」。去年と同じ紙らしい。隅の方が破れている。スカーレットが指でその破れ目を撫でた。

 

「これ、去年もあったわね」

 

「あー、あったあった。破れ目もそのまんまだ」

 

「直す気ないのよ、ここの人たち。来年もアタシたち、同じもの見ることになるわよ」

 

スカーレットの口調が少しだけ柔らかかった。この子は「アタシたち」と言う時、声のトーンが変わる。三強。デビュー前からの付き合いで、去年の夏もこの場所で過ごしている。

 

私は、二人のその会話の外側に立っていた。

 

去年、私は病室にいた。この合宿の記憶を、私だけが持っていない。

 

 

 

大部屋。畳の大部屋。布団が十人分並んでいる。

 

マーチャンが奥から二番目の布団を指差した。

 

「去年もそこだったの?」

 

「はい。去年もここでした。真ん中寄りが、夜に扇風機の風が来やすいんですよ」

 

「よく知ってる」

 

「記録してますから」

 

マーチャンがバッグからノートを取り出した。表紙にマーちゃんシール。合宿用のノート。過去のページを指でパラパラ捲って見せてくれた。日付。天気。扇風機の位置。夜の室温。自販機の在庫。どうでもいい情報がびっしり書いてある。でも全部正確に記録されている。

 

「マーちゃん、全部覚えてますから。去年の今日は、ウオッカさんがビート板流して泣きました」

 

「マジ?」

 

「マジです。沖に流れていくビート板を見ながら、『オレの板! 返せ!』って半泣きでした」

 

奥からウオッカの声。

 

「マーチャン、それ言うなって言ったろ!」

 

「言いましたっけ? 覚えてないです」

 

「お前、ぜってぇ覚えてるだろ!」

 

ウオッカが襖を開けて顔を出した。スカーレットが後ろで「去年ね、あれは笑ったわ」と上品に微笑んでいる。

 

私は、三人の顔を順番に見た。

 

去年の記憶を、全員が共有している。ビート板事件の笑いを、三人は当たり前のように持っている。私だけが知らない。私だけが、その時間にここにいなかった。

 

疎外感、じゃない。もっと静かな何か。「私はこの合宿に対して新参者だ」という事実が、体の中でぽつんと落ちた。

 

マーチャンが私の顔を見た。

 

「今年からは、モエさんも記録します」

 

「え」

 

「去年のウオッカさんの代わりに、モエさん、何かビート板を流す予定ですか?」

 

「流さない予定。絶対に」

 

「わかんないですよー。合宿はいつも予想外のことが起きますから」

 

マーチャンがくすっと笑った。

 

何か、少しだけ、胸の温度が変わった。

 

 

 

午前中。砂浜トレーニング。

 

砂の上を走るのは、芝やダートとは全然違う。

 

フェブラリーSでダートを走った時、最初は「芝とは違う」と身構えた。でも実際に走ってみたら、ダートはちゃんと地面だった。蹴れば反発が返ってくる。力が逃げない。芝とは感触が違うだけで、走ることの原理は同じだった。

 

砂浜は、違う。

 

足が沈む。一歩ごとに砂がずるっと崩れて、地面が逃げる。踏み込んだ力の半分が砂に吸われる。ダートが「固い地面」だとしたら、砂浜は「地面そのものが動く」。まったく別の生き物だ。

 

……まあ、当たり前か。ダートは競走のために整備された走路。砂浜は海が運んだ砂が積もっただけの場所。同じ「砂」でくくるのが間違っている。

 

最初の一歩で、バランスを崩しかけた。

 

「お、モエ、砂浜初心者の動き」

 

ウオッカが隣を並走しながら笑った。

 

「去年のオレみたいだ」

 

「え、ウオッカも最初はダメだったの?」

 

「当たり前だろ。砂浜はコツがあんだよ。普通に走ると沈む」

 

「コツ?」

 

「重心を前。後ろに落ちると砂に食われる。あと足首、柔らかく。固めると沈む」

 

「……それだけ?」

 

「それだけだ。あとはやれば分かる」

 

意外と短かった。でもこの子は走る時は天才肌だから、言葉で説明するのは苦手なタイプだ。感覚で掴んだものを、ざっくり投げて寄越すくらいがちょうどいい。

 

試してみた。重心を前に。足首を柔らかく。

 

……一歩の沈み方が、少しだけ浅くなった。

 

少しだけ。

 

もっと劇的に変わると思っていた。コツを意識しただけで、他の子みたいに砂の上を滑るように走れる——そんなイメージだった。

 

でも、違った。ウオッカに教えられたコツは確かに効いている。効いているのに、まだ沈む。他の子と比べて、私の方が沈んでいる。

 

「おっ、覚えた。早いな」

 

ウオッカが隣で言った。自分の動きを見る余裕のあるウオッカは、私よりずっと滑らかに走っていた。コツを覚えたての私より、教えたウオッカの方が砂浜慣れしている。当然だ。

 

「ウオッカも二年目だからって、ずいぶん偉そうに教えるようになったじゃない」

 

スカーレットが後ろから追い抜きながら言った。

 

「うるせー! 偉そうじゃなくて、普通に教えてんだよ!」

 

「普通に教えてる時点で偉そうなのよ、あんたは」

 

「意味わかんねぇ!」

 

「分からなくていいわよ」

 

スカーレットの背中が前に出ていった。歩幅が大きい。砂の上でも、あの子の走りは綺麗だった。ブレがない。完成度の高い体幹が、砂の不規則さに負けていない。

 

マーチャンはもっと後ろ。涼しい顔で走っている。息が切れていない。NHKマイルCを勝った子。スタミナがある。

 

全員、去年もこの砂浜を走っている。

 

私だけが、初めてだ。

 

でも——初めてだから下手なんだろう、くらいに思っていた。

 

三往復目。

 

太ももが悲鳴を上げ始めた。

 

早い。早すぎる。砂浜は負荷が大きいと絢原さんは言っていた。でも、三往復でここまで来るのは、自分の体でもちょっと想定外だった。

 

横を見ると、ウオッカは涼しい顔で走っている。砂に転んだあとも、すぐ立ち上がって追いついてくる。スカーレットは呼吸が整ったまま、同じペースを刻んでいる。マーちゃんに至っては、息すら切れていない。

 

なんで、私だけ。

 

「カレンモエ、息上がってんぞ。ペース落とせ」

 

絢原さんが浜辺から声を飛ばしてきた。

 

「……うん」

 

ペースを落とした。落としても、脚が重い。砂を蹴っても、蹴っても、前に進む感触が薄い。踏み込みが全部、砂に吸われていく。他の子たちは「砂が逃げる」と言うけど、私の場合は「砂に全部持っていかれる」感じだ。

 

おかしいな、と思った。

 

スプリンターだからスタミナ系のトレーニングで消耗するのは当然だ。でも、ここまで他の子と差が出るのは、ちょっと不思議だった。マーちゃんはスプリンターなのに涼しい顔だし、ウオッカも体幹が強いから私よりは保っている。

 

……まあ、私の体幹が甘いってことなのかな。

 

そう処理して、脚を動かし続けた。

 

砂が、また私の踏み込みを飲み込んでいった。

 

 

 

三往復目。ウオッカが砂に足を取られて転んだ。

 

「うぉっ!」

 

顔面から砂に突っ込んだ。スカーレットが足を止めて見下ろしている。

 

「あら。去年と同じところで転んでるわよ、あんた」

 

「……え?」

 

「ほら、あの岩の手前。去年もここで転んだでしょ」

 

「お、覚えてねぇよ!」

 

「アタシは覚えてるわよ。毎年同じ場所で転ばれたら、さすがに覚えるわ」

 

スカーレットが腰に手を当てて、呆れた顔をしている。本当にこの子たち、全部覚えている。

 

ウオッカが砂まみれの顔を上げた。

 

「……去年もここだったか?」

 

「だったわよ」

 

「記録係。正解は?」

 

マーチャンが立ち止まって、記憶を検索する顔をした。

 

「……去年は、あの岩の向こう側でした。今年は手前。二メートルほど、成長してます」

 

「おい、そこは進歩じゃねえ!」

 

ウオッカが立ち上がって、スカーレットに砂を投げた。

 

「ちょっと! 髪に入るじゃないのよ!」

 

「ざまーみろ!」

 

「子供なんだから、ほんとに!」

 

去年も同じ光景だったらしい。スカーレットの表情からは「またかよ」という諦めと、どこか嬉しそうな呆れが混じっている。同じことが繰り返される。それが仲間の形なんだと、私は思った。

 

マーチャンが隣で「あはは」と笑っている。私も笑った。

 

絢原さんが麦わら帽子の下で「砂浜を走れ。遊ぶな」と言っているが、誰も聞いていない。去年も同じことを言っていたのかもしれない。

 

 

 

昼食。合宿所の食堂。

 

大皿料理がテーブルに並んでいる。唐揚げ、サラダ、煮物、焼き魚、ご飯、味噌汁。おかわり自由。

 

私は三杯目のご飯をよそっていた。

 

ウオッカが箸を止めた。

 

「……モエ、それ何杯目?」

 

「三杯目」

 

「オレまだ一杯目」

 

「足りないの? おかわりすれば?」

 

「いや、お前の消費量の話してんの」

 

スカーレットが自分のきっちり計量された食事と、私の皿を見比べている。

 

「すごい食べるのね」

 

「タキオンさんに食べられる時に食べろって言われてるの。スプリンターは回復に食うんだって」

 

「へぇ……」

 

「私もよく知らないけど、とにかく食え、って」

 

四杯目をよそった。

 

スカーレットが少し考えるように箸を置いた。

 

「……アタシ、スプリンターじゃないから分かんないけど、確かに去年のウオッカも合宿中は食べる量が増えてたわよ」

 

「オレは毎日あれだ」

 

「毎日三杯食べる子が、合宿中は四杯になってたのよ。あんた気づいてないでしょ」

 

「……マジ?」

 

「マジよ」

 

マーチャンがにこにこしながら自分の皿を食べている。この子は量は普通だけど、食べるのが遅い。一口ずつ、丁寧に、ゆっくり。マーちゃん人形をテーブルの端に立てている。

 

「マーちゃん、その人形、食堂にも連れてくるんだ」

 

「もちろんです。マーちゃんはどこでもマーちゃんですから」

 

「去年もあったの、それ」

 

「はい。去年はもう一体いたんですけど、夜にウオッカさんがベッドで踏んでぺちゃんこにしました」

 

「マーチャン、それも言うなって!」

 

ウオッカの悲鳴が上がった。去年も、こうやって秘密がバレていったんだろう。

 

五杯目に手を伸ばしたところで、絢原さんが後ろから声をかけてきた。

 

「五杯目は午後の練習の後にしろ。食い過ぎると動けなくなる」

 

「……はーい」

 

渋々、箸を置いた。

 

 

 

午後。海。

 

午後のトレーニングの前に、一時間だけ自由時間がもらえた。

 

砂浜に出る。水着に着替えて。学園指定のスクール水着。濃紺のワンピース型に、白のライン。腰回りにストライプの装飾。機能重視のデザインで、可愛さはあんまりない。

 

波打ち際に足を入れた。冷たい。七月だけど、海の水はまだ体温より低い。

 

ウオッカがいきなり走り込んで飛び込んだ。

 

「うひゃっほーーー!!」

 

派手な水柱が上がった。

 

「……子供なんだから、ほんとに」

 

スカーレットが腰まで浸かって、顔だけ出している。髪を濡らさないようにまとめている。

 

「去年もあれ?」

 

私が聞いた。

 

「去年もそうよ。『海だーー!』って叫んで飛び込んでた。今年も同じ。進歩がないんだから」

 

「一貫性がある、とも言える」

 

「ポジティブに言えばね」

 

スカーレットがちょっと笑った。

 

遠くでウオッカが犬かきで泳いでいる。やっぱりフォームが怪しい。

 

マーチャンは浮き輪を持って波打ち際に座っている。

 

「マーちゃんは泳がないの?」

 

「マーちゃんは監視員です。皆さんの安全を見守る係」

 

「……それ、サボりでは」

 

「記録係は体力を温存するのも仕事なんですよ。去年もこの係でした」

 

「去年もやってたんだ」

 

「はい。二年目のプロです」

 

にこにこしている。この子はこういう子だ。

 

私は波の中に入った。腰まで。胸まで。肩まで。

 

冷たい。

全身の筋肉が、午前中の砂浜トレーニングの熱を吐き出していく。

気持ちいい。

 

潜った。

 

水の中は静かだ。波の音が遠くなる。歓声も、実況も、何もない。自分の心臓の音だけが聞こえる。

 

浮かび上がる。空が青い。入道雲が白い。

 

何も考えていない。勝ち負けのことも、火がつくとかつかないとか、そういうことも。ただ、海が冷たくて、空が青くて、息を吸うと潮の匂いがする。

 

砂浜の方を見ると、絢原さんがパイプ椅子に座ってクリップボードに何か書いていた。午後の練習メニューだろうか。麦わら帽子がまだ被っている。やっぱり似合わない。

こっちに気づいたのか、少しだけ手を上げた。

 

私も手を上げ返した。海の中から。ばかみたいだ。でも、悪くない。

 

「モエー! こっち来いよ! なんか魚いる!」

 

ウオッカが沖の方から叫んでいる。

 

「遠いよ! そっちに行く体力ない!」

 

「軟弱!」

 

「午前中の砂浜五往復のせいだから!」

 

「オレだって走ったし!」

 

「あんた途中で転んだでしょ!」

 

遠くでスカーレットのツッコミが入った。ウオッカが「うるせー!」と叫んでいる。

 

笑った。声を出して、笑った。

 

海の中で立って、空を見上げて、笑った。

 

三人とも、去年もここで同じように過ごしていた。その光景の中に、今年は私が混ざっている。去年欠けていた椅子に、今年は座っている。それだけで、胸が少しだけ温かかった。

 

 

 

夜。

 

大部屋。布団を並べて横になる。

 

窓は開けっぱなし。扇風機が首を振っている。虫の声。遠くで波の音。

 

暑い。でも、マーチャンの言った通り、我慢できないほどじゃない。

 

隣の布団でマーチャンが寝返りを打った。

 

「……マーちゃん、起きてる?」

 

「起きてますよー」

 

「今日、楽しかったな」

 

「そうですね。砂浜、きつかったですけど」

 

「きつかった。でも、楽しかった」

 

マーチャンの方を向いた。暗闇の中で、マーちゃん人形の輪郭だけがぼんやり見える。

 

「ねえ、マーちゃん」

 

「はい」

 

「去年、私がいない合宿も、楽しかった?」

 

マーチャンが少し間を置いた。

 

「楽しかったですよ」

 

「そうか」

 

「でも、ちょっと、寂しかったかもしれないです」

 

「……え?」

 

「モエさんがいない合宿は、モエさんがいる合宿と、違う合宿なので」

 

マーチャンの声が、いつもより少し静かだった。

 

「去年、食堂で、みんなで『モエさん、ご飯食べ過ぎるだろうなー』って話してました。ウオッカさんが『オレより食うに決まってる』って断言してました。スカーレットさんが『食べ過ぎは体に悪いのよ』ってお説教する予定まで決めてました」

 

「……」

 

「いない人の話をするんです、合宿では。マーちゃん、ノートの去年のページに『モエさんの椅子、空けておく』って書いてます」

 

息を呑んだ。

 

去年、私は病室にいた。この子たちは海にいた。私の知らないところで、この子たちは私の話をしていた。私が復帰するかどうかも分からない時期だったのに。

 

マーちゃんシールの三枚目は、今年のお正月だった。あの時、この子は「モエさんが、ちゃんと走れるようになったから」という理由で、シールを貼ったんだろう。

 

「……マーちゃん」

 

「はい」

 

「ありがと」

 

「いえいえ」

 

「いつも、隣にいてくれて」

 

「マーちゃんは記録係ですから。モエさんの隣にいるのはお仕事です」

 

「仕事って」

 

「冗談ですよ。……おやすみなさい、モエさん」

 

「おやすみ」

 

マーチャンの寝息が聞こえてくるまで、そう長くかからなかった。この子は寝つきが早い。寝相は壊滅的だけど。

 

扇風機の音。波の音。虫の声。

 

目を閉じた。

 

今日の砂浜のことを思い出した。隣をマーチャンが走っていた。ウオッカとスカーレットが前にいた。マーちゃんはNHKマイルCを勝った子。スカーレットはトリプルティアラ。ウオッカは阪神JFとダービー。——GⅠの舞台を何度も知っている子たちだ。

 

でも、あの反応は来なかった。

 

砂浜だからだろうか。レースじゃないから。タイムを競っていないから。

 

タキオンさんが言っていた。「特定の相手を獲物と認識した時だけ、リミッターが外れる」。砂浜は勝負の場じゃない。だから起きなくて当然。

 

……でも。

 

九月にセントウルSがある。マーチャンも出る。GⅡ。勝負の場。

 

あの場でマーチャンの背中を見た時、私の中の黒い猫は起きるだろうか。

 

マーチャンは友達だ。同室で、毎日一緒にご飯を食べて、寝相の悪さをフォローしてもらっている。大好きな子。去年、私のいない合宿で、私の椅子を空けて待ってくれていた子。

 

でも、大好きだからといって、あの猫が起きるとは限らない。猫が選ぶのは「好き嫌い」じゃない。もっと別の基準だ。タキオンさんにも分からなかった基準。

 

マーチャンの前で、ギアが入らなかったら。

 

友達に全力を出せなかったら。

 

この子の「椅子を空けておく」に、応えられなかったら。

 

……考えると、胸が冷たくなる。

 

天井を見た。木の梁が見える。古い建物の匂い。

 

明日も砂浜を走る。明後日も。その先に、秋のレースがある。セントウルS。マーチャンとの初めてのレース。

 

友達に全力を出せるのか。それを確かめるのが、九月の宿題だ。

 

でも今は、考えない。今日は、ただ、疲れた体を布団に沈めて、眠る。

 

目を閉じた。潮の匂いのする風が、窓から入ってきた。

 




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