——Recorder: Aston Marchan
合宿三日目の夜。
大部屋は暗いです。扇風機が首を振る音、虫の声、遠くで波の音。十人分の布団が畳の上に並んでいて、みんなもう寝ています。
マーちゃんはまだ起きています。
枕元に小さなペンライトを立てて、ノートを照らします。マーちゃん的お友達データベース。表紙にマーちゃんシールが三枚。それぞれ、大事なことがあった年に増えたやつです。
今日の記録。
「合宿三日目。砂浜トレーニング五往復。ウオッカさん転倒一回、三往復目、顔面から。スカーレットさん、砂を投げられ激怒。昼食、モエさん四杯半、五杯目は絢原さんに阻止。午後は海。モエさん、海の中から絢原さんに手を振っていた。ウオッカさんが犬かきで溺れかけ、本人は否定」
全部書きます。書かなかったことは忘れてしまうから。忘れるのが、一番怖いから。
ペンを止めて、もう一行。
「モエさん、砂浜を走っている時、笑っていた。レースの時とは違う顔」
レースの時のモエさんは、猫みたいになります。
写真を撮っていて気づきました。高松宮記念の直線。バクシンオーさんの隣に並んだ瞬間の横顔。瞳孔が細くて、鋭くて、獣みたいに光っていて、でも笑っていて。楽しそうじゃない笑い。獲物に追いついた時の笑い。
その写真、メモリカードから消せないでいます。怖いのに、目が離せなくて、美しいと思ってしまう自分がいて。
阪神カップでも同じ目でした。フェブラリーSでも。でも京阪杯では違った。シルクロードSでも、函館でも。
出る時と、出ない時がある。
大きいレースだと出て、小さいレースだと出ない。そういうふうに見えます。でも、それだけでしょうか。
ペンを置きました。
九月のセントウルSで、もしマーちゃんが前にいて、マーちゃんの背中を見ても、あの猫の目が出なかったら——それは格の話ではなくて、マーちゃんの話になります。モエさんの体が、マーちゃんを「その相手じゃない」と判断したということになります。
胸の奥が冷たくなりました。奥の方が、きゅっと。
考えないようにして、ノートを閉じました。
隣の布団を見ます。モエさんが寝ています。仰向け。片腕がはみ出ています。寝息は猫みたいに静か。すーすー。寮でも毎晩聞いている音。この音がないと眠れない体になってしまいました。
そっと布団から出ます。引き戸を音を立てずに開ける。モエさんを夜中に起こすと、朝の不機嫌が三倍になります。データで確認済み。
合宿所の裏手。
夜の空気は昼間より涼しくて、潮の匂いがうっすら混じっています。砂利道を歩くとスリッパがじゃりじゃり鳴ります。毎晩この時間、起きているのはマーちゃんとトレーナーだけ。合宿の夜は報告会の時間。
自販機が一台だけ光っています。その横に、います。
マーちゃん着ぐるみ。二メートル二十センチ。丸い頭。にこにこ笑ったままの目。自販機の白い光に照らされて、闇の中にぼんやり浮かんでいます。
「トレーナー、こんばんは」
「こんばんは、マーちゃん。今日も星が綺麗ですね」
着ぐるみの口は動きません。中から穏やかな声が聞こえます。落ち着いた声。もう何年も一緒にいるのに、このギャップには完全には慣れません。
見上げると、天の川がうっすら。
自販機でカルピスを二本。百円玉を二枚。がこん、がこん。一本をトレーナーに渡します。着ぐるみの口にストローを差し込んで、ずずず、と吸う音。何度見ても不思議です。
砂利の上に並んで座ります。
「セントウルSの話をしに来ました」
「はい。九月ですね」
「マーちゃん、出ます」
「ええ。登録の準備はしてあります」
「モエさんも出ると思います」
「でしょうね」
カルピスを一口。夜の自販機のカルピスは、昼に飲むのより甘い気がします。冷たさと甘さが、胸のもやもやに染みる感じ。
「勝てますか、マーちゃん」
「ほぼ確実に勝てます」
即答でした。
着ぐるみはにこにこ笑ったまま。トレーナーは嘘をつきません。データの裏付けなしに断言もしません。この人が「ほぼ確実」と言ったら、ほぼ確実。
NHKマイルCの前日、同じ声で「勝てます」と言ってくれました。あの時は嬉しかった。嬉しくて、怖くて、でも信じて走ったら、本当に勝てました。ゴールの瞬間、着ぐるみが両手を上げて飛び跳ねたのを覚えています。二メートル二十センチが跳ねると、地響きがしました。周りの人が驚いていました。
今は、嬉しくないです。
「マーちゃんは前哨戦ですから、七割で走ります。スプリンターズSに脚を残す方がいい。それは分かってます」
「ええ。賢明です」
「七割でも勝てるんですよね」
「勝てます」
また即答。
七割でも勝てる。
つまり、全力を出しても、モエさんの心には届かない。この人はそう見ている。
ストローを噛みました。歯が当たる。ぺこ、と音がしました。
「……でもね、トレーナー」
「はい」
「分からないですよ、レースって」
自分に言い聞かせる感じに、言葉が出ました。
「マーちゃんとモエさん、同室ですし。毎日一緒にご飯食べてますし。こうして合宿も一緒ですし。もしかしたら、今度は違うかもしれないです」
トレーナーは何も言いませんでした。否定も、肯定もしない。着ぐるみの笑顔だけが、隣で黙っていました。
「マーちゃんだって、GⅠ勝ってるんですから。NHKマイルC。ちゃんと、強いんですから」
口に出してから、ちょっと情けなくなりました。
自分の強さを自分で言わないといけない時点で、何かが足りていない気がします。モエさんは絶対にそういうこと言わない。黙って走って、結果で黙らせる。あの子の背中を見るたびに、マーちゃんは「ああいう強さの形が、かっこいいな」と思います。でもマーちゃんはマーちゃんで、自分の形を見つけるしかない。
「だから、もしかしたら。今度は」
少しの間を置いて、トレーナーが口を開きました。
「そうですね。もしかしたら」
優しい声でした。否定しない。肯定もしない。マーちゃんの「もしかしたら」を、そのまま返してくれた。
この人はいつもそうなんです。マーちゃんが信じたいものを、壊さない。データでは「ほぼ確実」と断言するのに、マーちゃんの「もしかしたら」はちゃんと受け止めてくれる。不思議な人です。
「ありがとうございます、トレーナー」
「いえいえ」
カルピスを飲み干しました。底の方が、ちょっとだけ温くなっていました。
「あとね、トレーナー。一つお願いがあります」
「はい」
「セントウルS、七割じゃなくて、全力で走りたいです」
着ぐるみは微動だにしませんでした。でも、中の空気が変わったのは分かりました。
「スプリンターズSに脚を残すのが合理的なのは分かってます。でも、モエさんの前で手を抜きたくないんです。マーちゃんの全力を、見てほしい」
「……」
「マーちゃんの全力が、もしかしたら、あの子の猫の目を起こすかもしれないじゃないですか」
もしかしたら。今夜、何回言ったでしょう。
でも、もしかしたらがなかったら、NHKマイルCは勝てませんでした。きっと多くの人が、マーちゃんが勝つとは思っていなかった。もしかしたらは、時々、本当になる。
「……分かりました。当日のコンディション次第で判断しましょう」
否定しなかった。この人は、マーちゃんの気持ちを、いつも否定しない。
着ぐるみの手が伸びてきて、頭をぽんぽんと叩きました。丸くて、大きくて、ふわふわの手。ぬいぐるみに撫でられるみたいな感触。でも、中の人の温もりは、ちゃんと伝わってくる。
立ち上がりました。スカートの砂利を払います。
「あとね、トレーナー」
「まだありますか」
「モエさんのこと、好きですよ。マーちゃん、すごく」
「知ってます」
「知ってるんだ」
「マーちゃんのことは、だいたい知ってますよ」
くすっと笑ってしまいました。
「大部屋に戻りますね。モエさん、寝相悪いから。マーちゃんの布団に侵入してくるんですよ」
「布団は多めに確保してありますので、予備をお使いください」
「さすがトレーナー。準備がいい」
「それがお仕事ですから」
砂利道を戻ります。振り返ると、自販機の光の中に、着ぐるみのシルエットがまだ座っています。トレーナーはいつもマーちゃんが去った後も、しばらくあそこにいます。一人で、星を見て。あの中から見る星空は、どんなふうに見えるんでしょう。今度、聞いてみます。
廊下を歩きました。非常灯の緑の光。自分のスリッパの音だけ。
大部屋。
引き戸を静かに開けます。扇風機の音。寝息。暗がりの中の布団の列。
モエさんの布団を覗きます。案の定、枕がずれて、片腕がこっちにはみ出しています。そっと枕を直しました。腕は動かしません。無理に動かすと起きます。朝の不機嫌が三倍になります。
この子の寝顔は、レースの時の顔とも、砂浜で笑っている顔とも違います。何にも守られていない、無防備な顔。猫の目も、アイドルの笑顔も、皮肉な口元も、全部消えている。ただの、マーちゃんと同い年の、女の子の寝顔です。
これを見られるのは、同室のマーちゃんだけ。
この事実が、胸の一番奥の、小さい引き出しにしまってあります。誰にも見せない引き出し。
自分の布団に潜り込みました。目を閉じる。
九月が来ます。セントウルS。
もしかしたらは、もしかしたら本当になるかもしれない。
マーちゃんの全力が、モエさんの猫の目を起こすかもしれない。起こせなかったら——その時はその時です。でも、手を抜いて勝つよりは、全力で負ける方がずっといい。全力で負ければ、その負けは、ちゃんとノートに書けます。手を抜いた勝ちは……書いても、嘘になります。
マーちゃんはカメラマンで、記録係で、モエさんの同室で、友達で——それから、ウマ娘です。NHKマイルCを勝った、G1ウマ娘です。
モエさんの寝息が聞こえます。すーすー。猫みたい。
信じてます。まだ、信じてる。
目を閉じた瞼の裏で、あの猫の目の写真が、少しだけ光りました。
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