アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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73話 記録係の夜

——Recorder: Aston Marchan

 

 

 

合宿三日目の夜。

 

大部屋は暗いです。扇風機が首を振る音、虫の声、遠くで波の音。十人分の布団が畳の上に並んでいて、みんなもう寝ています。

 

マーちゃんはまだ起きています。

 

枕元に小さなペンライトを立てて、ノートを照らします。マーちゃん的お友達データベース。表紙にマーちゃんシールが三枚。それぞれ、大事なことがあった年に増えたやつです。

 

今日の記録。

 

「合宿三日目。砂浜トレーニング五往復。ウオッカさん転倒一回、三往復目、顔面から。スカーレットさん、砂を投げられ激怒。昼食、モエさん四杯半、五杯目は絢原さんに阻止。午後は海。モエさん、海の中から絢原さんに手を振っていた。ウオッカさんが犬かきで溺れかけ、本人は否定」

 

全部書きます。書かなかったことは忘れてしまうから。忘れるのが、一番怖いから。

 

ペンを止めて、もう一行。

 

「モエさん、砂浜を走っている時、笑っていた。レースの時とは違う顔」

 

レースの時のモエさんは、猫みたいになります。

 

写真を撮っていて気づきました。高松宮記念の直線。バクシンオーさんの隣に並んだ瞬間の横顔。瞳孔が細くて、鋭くて、獣みたいに光っていて、でも笑っていて。楽しそうじゃない笑い。獲物に追いついた時の笑い。

 

その写真、メモリカードから消せないでいます。怖いのに、目が離せなくて、美しいと思ってしまう自分がいて。

 

阪神カップでも同じ目でした。フェブラリーSでも。でも京阪杯では違った。シルクロードSでも、函館でも。

 

出る時と、出ない時がある。

 

大きいレースだと出て、小さいレースだと出ない。そういうふうに見えます。でも、それだけでしょうか。

 

ペンを置きました。

 

九月のセントウルSで、もしマーちゃんが前にいて、マーちゃんの背中を見ても、あの猫の目が出なかったら——それは格の話ではなくて、マーちゃんの話になります。モエさんの体が、マーちゃんを「その相手じゃない」と判断したということになります。

 

胸の奥が冷たくなりました。奥の方が、きゅっと。

 

考えないようにして、ノートを閉じました。

 

隣の布団を見ます。モエさんが寝ています。仰向け。片腕がはみ出ています。寝息は猫みたいに静か。すーすー。寮でも毎晩聞いている音。この音がないと眠れない体になってしまいました。

 

そっと布団から出ます。引き戸を音を立てずに開ける。モエさんを夜中に起こすと、朝の不機嫌が三倍になります。データで確認済み。

 

 

 

合宿所の裏手。

 

夜の空気は昼間より涼しくて、潮の匂いがうっすら混じっています。砂利道を歩くとスリッパがじゃりじゃり鳴ります。毎晩この時間、起きているのはマーちゃんとトレーナーだけ。合宿の夜は報告会の時間。

 

自販機が一台だけ光っています。その横に、います。

 

マーちゃん着ぐるみ。二メートル二十センチ。丸い頭。にこにこ笑ったままの目。自販機の白い光に照らされて、闇の中にぼんやり浮かんでいます。

 

「トレーナー、こんばんは」

 

「こんばんは、マーちゃん。今日も星が綺麗ですね」

 

着ぐるみの口は動きません。中から穏やかな声が聞こえます。落ち着いた声。もう何年も一緒にいるのに、このギャップには完全には慣れません。

 

見上げると、天の川がうっすら。

 

自販機でカルピスを二本。百円玉を二枚。がこん、がこん。一本をトレーナーに渡します。着ぐるみの口にストローを差し込んで、ずずず、と吸う音。何度見ても不思議です。

 

砂利の上に並んで座ります。

 

「セントウルSの話をしに来ました」

 

「はい。九月ですね」

 

「マーちゃん、出ます」

 

「ええ。登録の準備はしてあります」

 

「モエさんも出ると思います」

 

「でしょうね」

 

カルピスを一口。夜の自販機のカルピスは、昼に飲むのより甘い気がします。冷たさと甘さが、胸のもやもやに染みる感じ。

 

「勝てますか、マーちゃん」

 

「ほぼ確実に勝てます」

 

即答でした。

 

着ぐるみはにこにこ笑ったまま。トレーナーは嘘をつきません。データの裏付けなしに断言もしません。この人が「ほぼ確実」と言ったら、ほぼ確実。

 

NHKマイルCの前日、同じ声で「勝てます」と言ってくれました。あの時は嬉しかった。嬉しくて、怖くて、でも信じて走ったら、本当に勝てました。ゴールの瞬間、着ぐるみが両手を上げて飛び跳ねたのを覚えています。二メートル二十センチが跳ねると、地響きがしました。周りの人が驚いていました。

 

今は、嬉しくないです。

 

「マーちゃんは前哨戦ですから、七割で走ります。スプリンターズSに脚を残す方がいい。それは分かってます」

 

「ええ。賢明です」

 

「七割でも勝てるんですよね」

 

「勝てます」

 

また即答。

 

七割でも勝てる。

 

つまり、全力を出しても、モエさんの心には届かない。この人はそう見ている。

 

ストローを噛みました。歯が当たる。ぺこ、と音がしました。

 

「……でもね、トレーナー」

 

「はい」

 

「分からないですよ、レースって」

 

自分に言い聞かせる感じに、言葉が出ました。

 

「マーちゃんとモエさん、同室ですし。毎日一緒にご飯食べてますし。こうして合宿も一緒ですし。もしかしたら、今度は違うかもしれないです」

 

トレーナーは何も言いませんでした。否定も、肯定もしない。着ぐるみの笑顔だけが、隣で黙っていました。

 

「マーちゃんだって、GⅠ勝ってるんですから。NHKマイルC。ちゃんと、強いんですから」

 

口に出してから、ちょっと情けなくなりました。

 

自分の強さを自分で言わないといけない時点で、何かが足りていない気がします。モエさんは絶対にそういうこと言わない。黙って走って、結果で黙らせる。あの子の背中を見るたびに、マーちゃんは「ああいう強さの形が、かっこいいな」と思います。でもマーちゃんはマーちゃんで、自分の形を見つけるしかない。

 

「だから、もしかしたら。今度は」

 

少しの間を置いて、トレーナーが口を開きました。

 

「そうですね。もしかしたら」

 

優しい声でした。否定しない。肯定もしない。マーちゃんの「もしかしたら」を、そのまま返してくれた。

 

この人はいつもそうなんです。マーちゃんが信じたいものを、壊さない。データでは「ほぼ確実」と断言するのに、マーちゃんの「もしかしたら」はちゃんと受け止めてくれる。不思議な人です。

 

「ありがとうございます、トレーナー」

 

「いえいえ」

 

カルピスを飲み干しました。底の方が、ちょっとだけ温くなっていました。

 

「あとね、トレーナー。一つお願いがあります」

 

「はい」

 

「セントウルS、七割じゃなくて、全力で走りたいです」

 

着ぐるみは微動だにしませんでした。でも、中の空気が変わったのは分かりました。

 

「スプリンターズSに脚を残すのが合理的なのは分かってます。でも、モエさんの前で手を抜きたくないんです。マーちゃんの全力を、見てほしい」

 

「……」

 

「マーちゃんの全力が、もしかしたら、あの子の猫の目を起こすかもしれないじゃないですか」

 

もしかしたら。今夜、何回言ったでしょう。

 

でも、もしかしたらがなかったら、NHKマイルCは勝てませんでした。きっと多くの人が、マーちゃんが勝つとは思っていなかった。もしかしたらは、時々、本当になる。

 

「……分かりました。当日のコンディション次第で判断しましょう」

 

否定しなかった。この人は、マーちゃんの気持ちを、いつも否定しない。

 

着ぐるみの手が伸びてきて、頭をぽんぽんと叩きました。丸くて、大きくて、ふわふわの手。ぬいぐるみに撫でられるみたいな感触。でも、中の人の温もりは、ちゃんと伝わってくる。

 

立ち上がりました。スカートの砂利を払います。

 

「あとね、トレーナー」

 

「まだありますか」

 

「モエさんのこと、好きですよ。マーちゃん、すごく」

 

「知ってます」

 

「知ってるんだ」

 

「マーちゃんのことは、だいたい知ってますよ」

 

くすっと笑ってしまいました。

 

「大部屋に戻りますね。モエさん、寝相悪いから。マーちゃんの布団に侵入してくるんですよ」

 

「布団は多めに確保してありますので、予備をお使いください」

 

「さすがトレーナー。準備がいい」

 

「それがお仕事ですから」

 

 

 

砂利道を戻ります。振り返ると、自販機の光の中に、着ぐるみのシルエットがまだ座っています。トレーナーはいつもマーちゃんが去った後も、しばらくあそこにいます。一人で、星を見て。あの中から見る星空は、どんなふうに見えるんでしょう。今度、聞いてみます。

 

廊下を歩きました。非常灯の緑の光。自分のスリッパの音だけ。

 

 

 

大部屋。

 

引き戸を静かに開けます。扇風機の音。寝息。暗がりの中の布団の列。

 

モエさんの布団を覗きます。案の定、枕がずれて、片腕がこっちにはみ出しています。そっと枕を直しました。腕は動かしません。無理に動かすと起きます。朝の不機嫌が三倍になります。

 

この子の寝顔は、レースの時の顔とも、砂浜で笑っている顔とも違います。何にも守られていない、無防備な顔。猫の目も、アイドルの笑顔も、皮肉な口元も、全部消えている。ただの、マーちゃんと同い年の、女の子の寝顔です。

 

これを見られるのは、同室のマーちゃんだけ。

 

この事実が、胸の一番奥の、小さい引き出しにしまってあります。誰にも見せない引き出し。

 

自分の布団に潜り込みました。目を閉じる。

 

九月が来ます。セントウルS。

 

もしかしたらは、もしかしたら本当になるかもしれない。

 

マーちゃんの全力が、モエさんの猫の目を起こすかもしれない。起こせなかったら——その時はその時です。でも、手を抜いて勝つよりは、全力で負ける方がずっといい。全力で負ければ、その負けは、ちゃんとノートに書けます。手を抜いた勝ちは……書いても、嘘になります。

 

マーちゃんはカメラマンで、記録係で、モエさんの同室で、友達で——それから、ウマ娘です。NHKマイルCを勝った、G1ウマ娘です。

 

モエさんの寝息が聞こえます。すーすー。猫みたい。

 

信じてます。まだ、信じてる。

 

目を閉じた瞼の裏で、あの猫の目の写真が、少しだけ光りました。

 




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