目覚めの日
――暗い。
温かくて柔らかくて、
どこか波のような音が響いている。
(あれ……俺、死んだんじゃなかったっけ?)
確か、横断歩道でスマホを見ながら歩いて、
眩しい光が視界を覆って――
そこで終わったはずだ。
なのに、今の俺は“生きている”としか思えない。
しかも、身体が妙に窮屈だ。
ギュウ、と押されるような圧迫感。
外から誰かの鼓動が伝わってくる。
(え……ここどこ?)
次の瞬間。
世界が――裂けた。
外気が流れ込む。
眩しい光が一気に視界を満たした。
「――産まれるぞ!」
誰かの声が聞こえた。
ぐ、と重たい力が俺の身体を押し出す。
世界そのものが俺を迎えに来るような強い引力。
そして俺は――
ぬるり、と外の世界へこぼれ落ちた。
冷たい空気。
乾いた藁の匂い。
人のざわめき。
そして――馬の、大きな息づかい。
俺は反射的に泣いた。
いや、泣いたのではない。
嘶(いなな)いた。
(……俺、馬になっちゃった……?)
理解に追いつかないまま、
温かいものが俺の身体を優しく舐め、包み込む。
それは、母馬の舌だ。
「元気な仔だ。栗毛か……いや、光って見えるな」
「クリスタルウィンドの仔、やっぱり綺麗だ」
クリスタル……ウィンド?
(あ、名前聞いたことある……
栗毛のスピード牝馬、1800mの重賞を何勝かした……)
競馬オタクの本能が、一瞬で血統を思い出させる。
(怪我で早期に引退し繁殖入りしました。現役時代はスピードと才能を評価されながらも大舞台に縁がなかった)
母にもう一度優しくなめられる
地面の藁が、巨大な視界の下に広がっている。
その景色を見て、ようやく自覚する。
俺は“馬として”生まれた。
「さあ、立てるか……?」
牧場のスタッフたちが優しく見守っている。
立てる……?
いやいや、俺はまだ産まれたばかりの赤ん坊だぞ!?
立てるわけ――
本能が、身体を勝手に動かした。
(ちょ、待って! まだ心の準備が!)
右前脚。
左前脚。
後ろ脚――
バランスなんてわからないのに、身体が覚えているかのように、すんなりと立ち上がった。
「立ったぞ! 早いな!」
「まだ産まれたばかりなのに!」
「これは俊敏な仔になるぞ……」
スタッフの歓声が聞こえる。
(……これが馬の身体か……すげぇ、筋肉が全部“走るため”にできる……!)
俺は歩こうとしたが、バランスを崩して前のめりに倒れた。
「おっと、大丈夫か」
(だ、大丈夫じゃないけど……気持ちは元気……!)
それでも何度か繰り返し、
俺はついに立ち、母馬の下へよちよちと歩いていった。
スタッフが笑う。
「楽しみですね。この子、きっと走りますよ」
走る――
その言葉だけで胸が熱くなった。
(走りたい……走れる……この身体なら、人間の時には夢でしかできなかったことが……)
俺はまだ、自分の名前を知らない。
だが――
世界中を駆け抜ける未来だけは、なぜか鮮明に感じていた。
そう、まだ誰も知らない。
この小さな仔馬が後に日本の競馬史に燦然と輝く金字塔を打ち立てることを。
そして、その魂の正体が
前世で競馬を愛し続けた一人のオタクだったことを。