日月星辰の日
美浦トレセンの朝は、いつも薄い霧と冷たい空気から始まる。
静寂の奥で、空気の粒子が震えている。
(いよいよ……我輩の初陣か)
アストライターは馬房の奥で、ゆっくりと首を上げた。
栗毛の体は朝露に濡れたようにきらめき、星を飲み込んだように深い瞳が天井の隙間から射す光を捉える。
今日はデビュー戦。
新馬戦の中でもハイレベルと言われる東京芝1800メートル。
その中で――アストライターは、すでに「主役」として囁かれていた。
父 ドリームジャーニー
母父 キングカメハメハ
そして何よりテキが
「こいつはレベルが違いますよ」
インタビューで言っていた
だが本人はそんなことには興味はない。
(走るだけだ。我輩は“星の旅”へ出るために生まれた)
テキが馬房に入ってきた。
「おはよう、アストライター。調子はどうだ?」
アストライターは軽く鼻を鳴らして答えた。
「……喋れないくせに表情豊かだよな、お前」
(うるさい。喋れないのは仕様だ)
天城は口角を上げた。
「お前のパートナーは桐生創太だ。若いが腕は確かだ。お前と合うと思って選んだ」
(あいつか)
桐生創太――22歳。
ルーキーながらいきなり重賞勝ちを量産している、時代の新星。
勝負どころで大胆に馬を動かす一方、馬の癖を読むのが異様に早いと関係者の評価は高い。
実は、すでにアストライターに一度跨っている。
その時のことを、アストライターは鮮明に覚えていた。
『すげぇ……こんな乗りやすい馬は始めてだ』
(お前の乗り方がうまいだけさ)
『あっ、今ツッコんだだろ?喋れねぇはずなのに』
(こいつ……察しが良すぎる)
桐生創太はわかっている
アストライターが言葉は返せずとも、意味は 理解していることを。
だから相性は抜群だった。
馬運車が東京競馬場へ向けて動き出す。
ゴウン……ゴウン……という腹に響く重低音。
アストライターには懐かしい音だが、今日はどこか違って聞こえる。
(我輩の名前……アストライター。星の旅路を行く者)
あの名付けの
馬主の蓮がいきなり思いつき、佐藤が慌ててた姿が思い浮かぶ。
蓮の笑顔
それが胸の奥で温かく灯る。
(必ず、夢を叶える。世界を駆ける星になる)
車が止まる。
扉が開き、ざわめき、蹄鉄の金属音が混ざった競馬場の匂いが流れ込む。
アストライターは静かに堂々と降り立った。
天城テキは手綱を引き、笑った。
「スターの風格だな」
(元からだろ)
「うん、元からだな」
パドックはざわついていた。
今日の主役は間違いなくアストライター。
「おーい、アスト!今日、よろしくな!」
明るい声で走ってきたのは、桐生創太。
勝負服に袖を通した姿はどこか不思議な存在感がある。
彼はアストライターの首を軽くひとなでし、笑った。
「お前……緊張ゼロだな?パドックで目がギラギラしてる新馬なんて普通いねぇぞ」
(緊張とは?)
「だよなぁ。うん、わかるよ。お前はただ走りたいんだ」
(よくわかってるではないか)
創太は瞳を輝かせた。
「……世界を取りに行く馬の目だ、これ。俺さ、今日のこと絶対忘れねぇよ」
天城テキが近づき、真剣な声で指示を出す。
「桐生。アストライターは折り合いがつく馬だが、前が遅ければ自分からハミを取っていく。ペース読めよ」
「了解っす。切れ味で勝つタイプっすよね」
「そうだ。ただし……次元が違うぞ?」
創太は短く息を飲んだ。
「……わかってます」
(我輩は星の旅人。初陣から、証明してみせる)
ゲート裏は緊張の空気に満ちている。
他の新馬たちは落ち着かず、耳を伏せたり、そわそわしたり。
そんな中――
アストライターだけは、風のように静かだった。
(我輩は行ける。あとは合図を待つだけだ)
ゲートイン。
金属音が響く。
桐生創太が囁いた。
「アスト……頼むぞ。お前の旅の始まり、俺に乗せてくれ」
アストライターは小さく首を動かして応えた。
観客のざわめきが収束する。
そして――
パンッ!!!
スタート。
アストライターの反応は、ほぼ“反射”。
ゲートが揺れるより早く前へ飛び出した。
「うわっ!?はっや……!」
(遅いぞ、創太!しっかり掴まれ!)
加速の瞬間、重心が宙に浮くような滑らかさ。
後続がバラバラと遅れてくる。
実況が叫ぶ。
『アストライター、好スタート!先頭に立ちます!』
創太は手綱を軽く引き、抑えにかかる。
「落ち着けアスト!まだ行きたいのわかるけど、今日は新馬戦だ!」
(う……む。仕方あるまい)
アストライターは渋々ペースを落としたが、脚はいつでも爆発できるよう震えていた。
最後のコーナー。
創太はアストライターの背中に手を添えるように言った。
「……行け。お前の強さを見せつけてやれ」
(任せろ!)
創太が軽く促しただけで、アストライターの脚は音を置き去りにする。
芝が裂け、風が悲鳴を上げる。
『アストライター!!抜けた!!』
他馬が止まって見える。
景色が流星の尾を引く。
創太は叫んだ。
「うわ……!加速がバグってる……!」
(これが我輩の走りだ!)
残り200。
誰も追いつけない。
いや、追いつく未来すら見えない。
『アストライター!圧勝!!デビュー戦、星の旅路の始まりを告げる鮮烈な勝利!!』
ゴール板を駆け抜けるとき――
アストライターの瞳には、もっと遠くの景色が映っていた。
(ここはただの通過点だ。世界が我輩を呼んでいる)
天城テキと蓮が駆け寄ってくる。
「やったなアストライター!とんでもねぇ怪物だ!」
「新馬であれは……歴史が変わるよ」
創太は息を荒げながら笑った。
「天城さん……アスト、マジでやべぇっす。乗ってたら鳥肌止まんなかった」
天城はアストライターの鼻面に触れた。
「アストライター……お前、本気で世界を獲りに行くつもりなんだな」
(最初からそのつもりだ)
「だよな。わかってたよ」
蓮が涙ぐみながら言う。
「お前の旅は、ここから始まるんだね」
(ああ。ここからだ。我輩は世界を巡る)
桐生創太が笑顔で言った。
「アスト、これからも俺を乗せてくれよ。お前の旅路、全部付き合うからさ」
(気に入ったぞ、創太。よろしく頼む)
喋れない。
だが、伝わる。
アストライターの旅は始まったばかり。
この先にはあらゆる大舞台が待っている。
黒鹿毛の彗星は、静かに天を仰いだ。
(世界よ、待っていろ。我輩がすぐに行く)
星の旅は、今動き出した。