阪神競馬場の空は、冬特有の白く乾いた光に満ちていた。
12月中旬。2歳GⅠ、朝日杯フューチュリティステークス。
アストライターは、美浦から夜通し揺られて阪神入りした。
馬運車の中、彼はずっと静かに目を閉じていたが、眠っていたわけではない。
ただ――風の音を聴き、蹄の奥に満ちる力の波を整えていた。
(我輩の旅の、次の扉だ)
デビュー戦の圧勝から3か月。
アストライターはすでに“怪物”と呼ばれ、スポーツ紙の見出しを賑わせていた。
天城テキは車を降りると、馬房の中のアストライターに近づき、小声で言った。
「アスト、今日の相手は強いぞ。グランアレグリアに、アドマイヤマーズ……簡単じゃない」
(簡単など求めていない。強いほど走る理由がある)
アストライターの瞳がゆっくりとテキを見返す。
テキはその眼を見るたびに、ある予感が浮かんでくる。
「……お前はきっと、日本の競馬の1つの答えになる」
(さすがに言いすぎだ)
「いや、言いすぎじゃない。今日勝ったら……世界への道が拓けるぞ」
(ならば勝つだけだ)
アストライターは鼻を震わせた。
パドックに出た瞬間、観客席が揺れた。
「うわ……あれがアストライターか」
「新馬戦のあの伸び、化け物だろ」
「いや、今日はグランアレグリアだって化け物だぞ」
アストライターは気にする様子もなく、大股でゆったり歩く。
栗毛の体が朝の光を反射し、まるで薄い炎をまとっているようだった。
(このざわめき……悪くないな。)
そこへ桐生創太がやってきた。
「おーいアスト!……今日も無駄にカッコいいなぁ」
創太の胸は緊張よりもワクワクの方が強かった。
「なぁアスト。今日の相手……グランアレグリアだぞ。2歳牝馬の中じゃ歴代最強クラス。
しかも……あいつは天才ルメールが乗る」
(良いではないか。強いほど面白い)
「だと思ったよ、お前なら絶対そう言うと思った」
創太はアストライターの首筋を撫でる。
「お前は……グランアレグリアとやりたくてここまで来たんだろ?」
(そうだ。あれは強い。我輩の方が強いがな)
天城テキが二人の隣に立つ。
「創太。今日のポイントはただ一つだ」
「折り合いっすね」
「ああ。ただし――この馬にとっての折り合いだ」
テキの意味深な言い方に、創太が眉を上げる。
「アストライターは、ただ抑えりゃいいって馬じゃない。」
「でも、それに乗りこなせるのが俺っすよ。」
創太は小さく笑い、鞍を握った。
「アスト、行こう。俺たちの2歳王者の舞台だ」
(ああ。我輩の星の旅の、正式な始まりだ)
本馬場の芝は冬で硬く締まっていた。
アストライターはその感触を、蹄から背骨へ伝える。
(悪くない。今日は速い脚が出る)
アストライターが走るたび、観客の歓声が波のように揺れる。
「うおぉ……!!」
「なんてバネだよ……!」
「あれが2歳馬か!?化け物かよ!」
スタート地点へ向かう途中、グランアレグリアとすれ違う。
アストライターは彼女に視線を向けた。
(グランアレグリアだな)
グランアレグリアはちらりとこちらを見た。
(あなた、強いわね)
(当然だ。我輩だからな)
返ってきたのは、どこか楽しげな気配。
(勝てると思わないで)
(同じことを返そう)
天才同士の会話に気づいたのは、ルメールと桐生創太だけだった。
創太は鳥肌を抑えきれなかった。
ゲートインの直前、天城テキが最後に創太へ声をかける。
「お前が信じるアストでいい。
ただし……アストが行くって決めたら迷わず行け。
アストはその瞬間に、ギアを勝手に上げる」
「言われなくてもわかってますよ」
創太はアストライターの首に手を置く。
「行くぞ、アスト。俺たちの2歳頂点へ」
(任せろ)
ゲートが閉まる。
アストライターの呼吸が一度、深く沈む。
空気が止まる。
観客席が固まる。
馬たちの心臓音が響く。
そして――
ガシャン
「うわっ!?アスト、速ぇ!!?」
アストライターは完全なる反射で飛び出した。
ゲートを抜けた瞬間
芝の上に残した蹄跡が、まるで光の軌跡のように見えた。
「アスト、抑えるぞ!まだ序盤だ!」
(わかっている!)
アストライターは嫌がる素振りも見せず、すっと折り合う。
創太が驚いた。
(今日は前目でいくぞ)
「お前……あの頃より、また賢くなって。
競馬がわかってるな。」
(勝つためだ。成長など当然)
先頭はミッキーブラック、その後ろにアドマイヤマーズ。
グランアレグリアは後方寄り、じっと脚を溜めている。
アストライターは好位四番手、完璧な位置。
実況が叫ぶ。
『アストライター、折り合い抜群!理想的な位置取りです!』
(風が……我輩の背を押している)
2コーナーに入ると、アドマイヤマーズがじわりと上がっていく。
(来たか……)
「アスト、落ち着け。これは挑発じゃない。マーズは自分の競馬してるだけだ」
(知っている。我輩は惑わされん)
だが――
後方でグランアレグリアが、ルメールの手綱に応えて動いた。
(来る)
(来るわよ)
同時に悟った。
「アスト……同時に仕掛けるぞ!」
(当然だ!)
3コーナー手前、アストライターがハミをとる。
創太が叫ぶ。
「来た……!ギアが上がる!!」
アストライターの体が震える。
彼の加速は、もはや加速という言葉では足りない。
風が裂け、音が後ろへ飛んでいく。
そう、それはまさに流星の如く
4コーナーで、先頭集団が一気に広がった。
『先頭グループ一気に密集!
アドマイヤマーズ!ミッキーブラック!
外からグランアレグリア!
内からアストライター!!』
(ここだ!!)
アストライターの視界が一瞬で開けた。
まるで黒い夜空に穴が開き、星々が流れ込むような感覚。
(世界が……広い)
創太は背中にしがみつきながら叫んだ。
「アスト……行け!!!」
直線に入った瞬間、観客席が爆発した。
「うぉぉおおおおお!!!」
「アストライターきたぁぁ!!」
「グランアレグリアも伸びる!!」
アドマイヤマーズが粘る。
内からアストライター。
外からグランアレグリア。
(創太!)
「わかってる!!出すぞ!!」
創太が軽く体を起こし、手綱を緩める。
瞬間――
アストライターがさらに加速する
『さあ、阪神外回りの長い直線に向きました!先頭はグランアレグリア、素晴らしい手応えで粘る!その後ろ、アドマイヤマーズ!そして内目から、不気味な手応えでアストライター!桐生颯太騎手、ゴーサインが出たか!』
(これが……我輩の本当の走りだ!!)
グランアレグリアの脚も鋭い。
(強い……!でも、まだ届かない!)
(悪いな。今日の主役は我輩だ)
残り200m。
アストライターは完全に抜け出した。
グランアレグリアが追う。
マーズが必死に粘る。
だが、誰も近づけない。
『激しい先頭争いだ!アドマイヤマーズが抜け出す!アドマイヤマーズが先頭に立つ!
しかし一頭飛んできた!
次元の違う末脚!アストライターだ!アストライターだ!坂の上りでもなんてことのない!』
『強い! 強いぞ、アストライター! グランアレグリアも追いすがる!もはや次元が違う!
アストライターだ!』
『アストライターゴールイン!! 世代の頂点に立ったのは、アストライター!! 鮮烈な末脚でライバルたちを蹴散らした!
お見事、今年はアストライターです!』
ゴール板を駆け抜けた瞬間――
アストライターは空を見た。
(星の旅の……第一歩だ)
創太は息を切らしながら笑った。
「アスト……お前……なんでそんなに強いんだよ……!」
(我輩は旅の途中だからな)
天城テキが駆け寄ってきて、アストライターの首を抱いた。
「お前……本当に世界へ行く気だな……!」
(わかるか)
「当たり前だ……こんな馬、見たことねぇよ……」
馬主の蓮は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫んだ。
「アストライター!!!日本一の2歳馬だ!!!」
(まだ始まったばかりだ。
皐月賞も、ダービーも、凱旋門も……全部取りに行く)
アストライターはゆっくりと頭を上げ、冬空を見つめた。
(星よ、道を示せ。我輩はまだ走り出したばかりだ)