朝日杯フューチュリティステークスを制した日の夜
(我輩の旅は始まった……だが、まだただの序章にすぎない)
勝利の余韻は確かにある。
だがその奥に、静かに燃える炎があった。
皐月賞、ダービー、そして世界へ。
人間たちは祝福し、未来の三冠馬と騒ぎ立てている。
それを、アストライターは否定するでもなく、ただ静かに受け止めていた。
(期待は嫌いではない。風のように背を押す。だが、乗りすぎれば転ぶ。
ゆえに我輩は……我輩自身の走りを、ただ極めるまでだ)
天城テキが馬房に戻ってきて、アストライターの首を優しく叩いた。
「アスト……すごかったな。
けど、お前はもっと先を見てるよな」
(当然だ。朝日杯は旅の始まりにすぎん)
「……だろうな。よし、帰るぞ。
皐月賞まで、みっちり鍛えてやる。お前の旅に耐えられる身体にしてやる」
美浦トレセンに戻ると、アストライターは一躍スター馬となった。
「見ろよ、アストライターだ……」
「朝日杯のラスト、鳥肌たったわ……」
「やべえよな、あの末脚……グランアレグリアと別の生き物だった」
スタッフや騎手たちの視線が刺さる。
アストライターは気にしない。
しかし
(ベタベタ触るな。我輩は男に撫でられる趣味はない)
「うわっ!?噛むぞこいつ!」
「父がドリームジャーニーだぞ、当たり前だろ」
天城テキは苦笑しながら言った。
「アスト、人気者ってのは大変なんだぞ」
(我輩は静かに鍛えたいだけだ)
「わかったよ……はいはい、特別メニューだ」
(わかってんじゃんテキ)
冬の間、天城テキと桐生創太はアストライタの走りを徹底的に分析した。
「こいつ……まだ伸びる」
「スピードもスタミナも、全てが異常っすよテキさん」
「強い馬はたくさん見たが歴代最高だ」
アストライターは、調教のたびに自分で成長していく。
ハロン15のペースなら、15.0を一切ぶれずに刻む。
ハロン12の追い切りなら、12.0でピタリと合わせてくる。
(体の使い方はわかってきた。
今は……懸命に走らずとも、効率良く動ける)
創太はその姿を見て、思わず呟いた。
「……天才って、馬にもいるんだな」
(褒めるならもっとわかりやすく言ってくれ)
「はいはい、すげぇよアスト」
(うむ)
冬の間、アストライターの名は競馬界を騒がせ続けたが、同時に
他の強豪たちも着々と力をつけていた。
まずは朝日杯で戦ったアドマイヤマーズ。
そして、共同通信杯を圧勝したダノンキングリー。
ホープフルSで強烈な末脚を見せたサートゥルナーリア。
「皐月賞はとんでもねぇメンツになるな……」
「怪物同士の激突、ってやつだな」
「アストライターの一択だな」
「いや、アストライターはフロックだろ」
「アストライターは三冠馬になるんだ」
創太はアストライターの背に乗りながら問いかけた。
「アスト……怖くないのか?」
(怖い?なぜ?強い相手は歓迎だ。
彼らと走れば、我輩の旅はより輝く)
「……だよな。お前ならそう言うと思ったよ」
三月。
アストライターはついに競走馬として仕上がっていた。
無駄な脂肪は完全に落ち、筋肉はしなやかで、触れればバネのように弾む。
調教では古馬オープン馬を並ぶ間もなく置き去りにした。
(最近馬の本能に精神が引っ張られてる)
「アスト!抑えろ!……おい!!」
(それでもこの程度で満足できるか!もっとだ、もっと速く……!)
「速すぎるっての!!」
天城テキは頭を抱えたが、同時に笑っていた。
「これでこそ、だよな」
皐月賞前哨戦、弥生賞。
多くがここを使って本番に向かう。
しかし、天城テキは言い切った。
「アストは弥生賞を使わない。
本番まで直行で仕上げる」
「マジっすか!?実践勘は!?」
「アストはそういうタイプじゃない。
レースを使うより、調教で研ぎ澄ませた方が強い」
(我輩もそれが良い。無駄な戦は要らん)
「弥生賞には行かなくていい。
お前は皐月賞を勝ちに行くんだ」
(任せろ)
弥生賞が終わると、競馬新聞の一面にはこんな見出しが踊った。
>「サートゥルナーリア圧勝!
だが……皐月賞の本命はアストライター」
「アストライターが強すぎる」
「サートゥルナーリアの方が強い」
「サートゥルナーリアと二強だけど……アストは次元が違う」
「アストライターはフロッグだ!」
「皐月賞は歴史的名勝負になる」」
そして、ある調教師がこう語った。
「アストライターと戦うのは、
世界に挑むつもりでなければ勝てない」
4月に入り皐月賞が迫り、美浦の桜が咲き始めたころ。
アストライターは俄然、気迫を増していた。
(体が……軽い。
圧縮されていた力が、外に向かって広がっていく)
桐生創太はその変化に気づき、驚いた。
「お前……春になってまた強くなってる?」
(当たり前だろ)
天城テキはある朝、アストを見て息を呑んだ。
アストは仕上がったのだ
それは頂点を取る準備が整った馬の姿だった。
皐月賞前。
美浦ウッドコース
アストライターは古馬重賞馬と併せて追い切りを行った。
「アスト、今日は本気はいらんぞ。」
「軽めで十分だぞー!!」
しかし
(軽めなど意味がない。ここで走らねば、我輩は我輩でなくなる)
スタートした瞬間。
アストライターの脚が“消えた”。
「おいっ!?速っ……!!」
併走馬は5秒で見えなくなった。
創太は恐怖すら覚えた。
「お、お前……これが本気じゃないんだよな?」
(当然だ。まだ旅は始まったばかりだぞ)
天城テキは調教時計を見てニヤリと笑う。
「化け物だ」
その日の美浦トレセンには怪物が産まれた。
皐月賞へ向かう馬運車の中
アストライターは落ち着き払っていた。
馬運車の揺れを背中で受け、目を閉じる。
これは、我輩の旅の1頁。
(皐月賞……待っていろ。
世界を震わせる第一撃を見せてやる)