まずは遠征ローテが練られた。
・7月上旬 渡航前検疫(成田)
・7月中旬 出国 → フランス・シャンティイ調教場へ
・8月 環境適応、坂路・芝コースで調整
・9月上旬 前哨戦・ニエル賞(G2)出走
・10月上旬 本番・凱旋門賞(G1)
これは史実でもっとも成功例の多い三歳馬の王道路線だ。
もちろん、渡航にはリスクがある。
気温、湿度、言語の壁、輸送ダメージ──名馬でも環境に飲まれ調子を崩す例は多い。
だがアストライターは違う
天城テキは馬房の前で腕を組む。
「本当に……大した馬だよ。お前はどこに行ってもかわらんな」
(……当たり前だろう、天城。
我は走るために生きている。どこの国でも関係ない)
もちろん、アストライターの心の声は誰にも聞こえない。
しかし、彼が心配ないのは、誰の目にも明らかだった。
ダービー優ジョッキー、桐生創太は新人だ。
新人を凱旋門賞に乗せるのは極めて異例。
通常は海外経験豊富なトップジョッキーに交代させられる。
しかし天城は言い切った。
「アストライターには創太だ。
あの2戦を見て確信した。
この馬と勝ち負けできるのは、創太しかいない。」
創太も迷いはなかった。
ダービーの直後、テキに呼ばれたとき、
「凱旋門賞、行くぞ。乗るか?」
と問われ、創太は即答した。
「……はい。必ず、勝ちます」
新人にとっては重すぎる責任かもしれない。
だがアストライターの背中に乗れば、怖れは不思議と消える。
(創太、心配するな。そのまま任せておけ)
アストライターの首筋がわずかに震えた。
彼の想いを知らぬまま、創太は馬のたてがみに手を置く。
「世界でも、お前と一緒に走りたい。頼むぞ、相棒」
渡欧の日
揺れる飛行機の中で
輸送機が大きく揺れた。
普通の競走馬なら驚いて暴れる揺れだ。
しかしアストライターは微動だにしなかった。
(……ふむ。この程度、風が吹いただけだ)
十数時間の飛行を終え、アストライターはフランスに降り立った。
歴史ある芝を踏む。
外国馬ばかりの厩舎街は、静かで、空気が澄んでいる。
アストライターは鼻を鳴らし、周囲の空気を確かめた。
(……悪くない)
芝の匂い、森の湿り気、空気の粒感。そのすべてが走るのに適していると告げている。
初めての調教の日。
創太がまたがった瞬間、アストライターはすぐ理解した。
(創太……お前、少し緊張してるな?)
創太は深呼吸し、馬の首を軽く叩く。
「大丈夫。アストライターがいれば……怖くない」
調教は軽めのキャンター。
しかしアストライターは坂を上るたび、脚が勝手に伸びそうになる。
(うむ。この坂、悪くないぞ。全力で駆け上がってもよいか?)
「だめだって! 今日は軽めだって言われてるんだよ!」
アストライターは渋々速度を落とす。
しかし、その動きひとつひとつが“規格外”。
現地スタッフは目を丸くした。
「What a stride…!
日本から来た馬は、みんなこんなにバネがあるのか?」
「いや、これは……桁が違う……」
アストライターは胸を張る。
(当然だ。我は世界を獲りに来たのだからな)
テキはいつもの静かな表情で説明した。
「本番のロンシャンを経験できる。
斤量も軽い。レース間隔もちょうどいい。
最強の馬には、最強の王道路線が似合う」
創太はこくりとうなずいた。
「勝ちますよ。前哨戦から」
「ああ。取りこぼしは許されん」
(当然だ。前哨戦? 本番? そんな区別は知らん。
我輩は全レース、完勝する)
前哨戦 ― ニエル賞当日
9月。ロンシャン競馬場にはすでに紅葉が始まり、木々が赤く色づきはじめていた。
アストライターは馬装を済ませ、パドックに現れた。
観客たちがどよめく。
「美しい……」
「日本の三冠馬候補だって?」
「筋肉の張りがすごい」
創太が背に乗り、軽く手綱を取る。
「行くぞ、アストライター。
ここから、世界に名を刻むんだ」
(おう。お前も、しっかりついてこい)
返し馬での動きは軽かった。
芝を掴む脚がまったくブレず、バネが全身から溢れていた。
そしてゲートイン。
実況が響く。
「世界が注目する日本馬──アストライター!」
ゲートが開いた瞬間、アストライターは静かに、しかし鋭く飛び出した。
前半は折り合い良く中団。
ロンシャン特有の坂でも、呼吸ひとつ乱れない。
(ふむ……軽い。皆、遅いぞ?)
創太がそっと合図を出した瞬間──
アストライターの栗毛が爆発した。
スパーンッ!
後肢が大地を蹴り、前の馬たちが一瞬で後方に消えていく。
直線入り口、すでに先頭。
創太は追わない。ただ落ち着けと手綱を添えているだけ。
(まだまだ行けるぞ……!)
「待てって、アストライター! 本番は凱旋門賞だ!」
結局アストライターは流したまま圧勝した。
ロンシャンに衝撃が走った。
「Crazy…!」
「なんてスピードだ!」
「三歳でこれは反則だろ!」
天城テキは静かに腕を組んで言う。
「これで良い。本番は、もっと強い走りを見せる」
(当たり前だ。)
ニエル賞圧勝の翌日から、世界中の競馬メディアがアストライターを一面で取り上げた。
「史上最強の日本馬」
「黄金の血が欧州を制圧するか」
「新人騎手×怪物馬の挑戦」
「本命はアストライターだ」
どの媒体にも称賛が溢れている。
だがアストライターは浮かれなかった。
(騒がしくなってきたな……
だが、我輩がやることはひとつだ)
創太が馬房に来て、静かにたてがみを撫でる。
「勝とうな、アストライター。
胸張って、日本へ帰ろう」
(うむ。世界を獲って帰るぞ、創太)
世界最高峰の舞台へ向け、
アストライターは揺るぎない眼で前を見据えていた。