フランス・パリ。
空は重たい鉛色に沈み、冷たい風が樹々を揺らしていた。
ロンシャン競馬場の調教スタンドに、天城テキはフードをかぶりながら立っていた。
その隣で、馬主の蓮が息を呑む。
「……本当に来たんだな、アスト。ここに」
(当然だ。世界を制すと言った以上、避けられぬ舞台だ)
アストライターは栗毛の体を震わせることなく、静かに佇んでいた。
霧雨の中に立つその姿は、まるで光そのものだった。
濡れた栗毛が黒く沈んだ空と対照的に輝き、深い瞳は揺るぎない。
弱さも迷いも一切ない。
ただ、前へ、ただ勝つために生まれた馬の瞳だ。
「アスト……馬場、最悪だぞ。昨日からずっと雨でさ……」
天城が言う。
(問題ない。地球上のどんな馬場でも、我輩は走る)
「……はは。だよな。お前に不得意なんかねぇよな」
桐生創太が軽く笑った。
「よし、アスト。軽くキャンター行くぞ」
(任せろ。体はできている)
その瞬間、アストライターはゆっくりと歩き出した。
静かすぎる。
栗毛の彗星は、地を踏む音すら消してしまう。
見ていた現地スタッフが震えた。
「……この馬、ただ者じゃないな」
「何て馬だ!」
創太が背に跨り、軽く促すと
アストライターは霧雨を切り裂く刃のように、無音で加速した。
跳ね返る泥は全て後ろへ流れ、体はまったく沈まない。
極悪馬場のはずなのに
まるでアストライターだけが、別の世界を走っているみたいだった。
(悪くない。むしろ、この重さ……我輩の力を示すにふさわしい)
天城テキは腕を組んで笑った。
「これでこそ、アストライターだ」
前日、アストライターは公開調教で軽く流しただけだったが、その動きは世界中のメディアに衝撃を与えた。
『日本馬アストライター、重馬場を滑走!』
『ロンシャン騒然、日本の怪物』
『エネイブル三連覇の前に現れた新星』
地元記者が呟く。
「エネイブルを倒すとしたら……あの馬かもしれない」
「いや、あれは……三歳なのに完成されすぎている」
「ジョッキーはあんな日本の新人で良いのか?」
アストライターは注目を浴びても気にしていない。
(世界が騒ごうと、走るのは我輩だ)
創太も同じだった。
「日本の新人とか、関係ない。アストに乗れるなら、それで十分だ」
蓮は嬉しさに震えながら言った。
「アスト……絶対勝とうなんて言わないよ。だって、もう世界最強の馬なんだもんな」
(当然だ。我輩は常に最強だ)
アストライターの自信は揺らがない。
天才と呼ばれる馬は多い。
だが、「揺るぎない自信」を持つ馬はほとんどいない。
その点、アストライターは最初から違っていた。
凱旋門賞当日
ロンシャン競馬場は朝からどしゃぶりの雨。
パドックは泥の海。
観客の足元もぬかるみ、風は冷たく頬を切った。
「……史上最悪の馬場だ」
天城テキがつぶやく。
それでもアストライターは耳ひとつ動かさなかった。
(最悪? 違う。世界を制すものにふさわしい試練だ)
創太はアストライターに寄り添い、囁いた。
「いいか、アスト。今日の相手は世界のトップだ。エネイブル、ソットサス、ジャパン、ヴァルトガイスト……」
(知っている。全て倒す)
「……だよな」
創太は笑った。
これほど頼もしい馬を、彼は他に知らない。
栗毛の彗星は、泥に沈んだ地面に一歩を置くたび
地を震わせるような走る前の鼓動を観客に伝えていた。
観客がざわめく。
「Astraiter……あれが日本の怪物か」
「泥の上でも輝いて見える……」
「三歳でエネイブルに挑むなんて無茶だ、どうせエネイブルが勝つ」
蓮は震える手を胸に当てた。
「アスト……世界は広いようで狭いね。みんな、君を待ってたんだよ」
(当然だ。我輩は星の旅を続ける者だ)
静寂と熱気が混じり合う、独特の空気。
(ふん……ここが世界の舞台か)
アストライターは落ち着ききった目をしていた。
パドックでも返し馬でも、周囲の馬が少しそわつく中、ただひと頭だけ王のような風格を保っていた。
実況
「海外の記者から日本からの刺客、
アストライター、堂々たる姿!」
返し馬を終えると静かに語る。
「今日も、お前の走りをそのまま出せばいい。
相手が誰でも関係ない。いつものように勝つだけだ」
(理解している。世界だろうが、我輩に違いはない)
ゲート入り。
アストライターは迷いなく進み、ゲートに入った。
ガシャン!
「今スタートしました!!」
ゲートが開くと同時に、欧州馬らしい重たい一歩で隊列が形成されていく。
ロンシャン特有の序盤は流れが落ち着かない空気。
ラビットが前を強引に取りに来る。
フランス勢とイギリス勢が、位置取り争いをする。
しかしアストライターは流されない。
佐藤が軽く押さえ、馬自身も冷静に息を整えていた。
(焦る必要はない。勝利は後半で決める)
実況
「おっとアストライター、好発から無理せず中団!
完璧な折り合いです!」
1コーナー
序盤、中団の外。
スピードを抑えながらも、常に前の動きを見ている。
ヨーロッパ勢は早め早めに仕掛けるため、前半から息の入りづらい展開。
それでもアストライターの脚は伸びやかで、むしろリズムが整っていく。
(この程度の流れ、問題ない)
(我輩は常に最強である)
創太はほとんど手綱を動かさない。
アストライターのリズムに全てを任せているようだった。
実況
「アストライター、静かにレースを進めています!
余裕すら感じます!」
残り1600m
すると先頭集団がペースを上げはじめた。
欧州勢の早めロングスパートの構えだ。
前の馬の脚音が変わる。
後方からひと頭が動く。
しかしアストライターは動じない。
「まだだ。お前の脚なら十分届く」
(言われずとも分かっている)
それどころか、中団の位置を保ったまま、徐々に馬群がアストライターの後ろに吸い寄せられるように詰まっていく。
実況
「アストライターはまだ動かない!」
残り1000m
ここからレースは一気に動く。
欧州の有力馬が下りを利用して加速。
馬群がバラけ、前へ前へと殺気を帯びる。
佐藤が小さく息を吸い、手綱をほんのわずか前へ送る。
(……行くか)
その瞬間、アストライターの肩が沈み、スピードが一段階上がった。
実況
「アストライター動いた!!
アストライターついに進出開始!!」
馬場のうねりに合わせて
アストライターはしなやかに体を使い、
坂を駆け下りていく。
ここで一気に横一線。
誰もが勝負をかけるポイント。
騎手のムチの数が増える。
叫び声が飛び交う。
しかしアストライターと佐藤だけは静かだった。
佐藤
「よし、ここだ」
(任せろ)
アストライターが外に持ち出された瞬間、
まるで重馬場でないかのように進出。
スタンドが揺れる。
海外実況も声を荒げる。
「JAPANESE MONSTER!!
HE'S COMING!!」
直線
ロンシャンの長い直線。
どの馬も脚を使いきり、伸びきれない者は脱落していく。
だがアストライターは問題ない
(ここからだ。我輩の勝利を刻む)
ドンッ
という衝撃のような一歩で前との差が一瞬で縮まる。
実況
「さあ、ロンシャンの直線、世界一を決める闘いだ! エネイブルが先頭に立とうとする! 馬場は重い! 脚が沈む! しかし、日本からの挑戦者、アストライターは問題なく馬場の外にもちだした! 桐生創太!」
「 来たぞ!来たぞ!泥を跳ね上げ、その馬体を躍動させる! アストライターだ! 最後の坂を、今、この黄金の彗星が駆け上がる! 桐生颯太の鞭が閃く! 並んだ! エネイブルに並びかけた!」
「伸びる! 伸びる! 譲らない! エネイブルも粘るが、アストライターの勢いが違う! 抜けた抜けた!アストライターが抜けた!黄金の一族の血に刻まれた、全ての夢を乗せて! 日本の悲願へ!」
「 やったぁぁぁぁぁぁ!!!!! 勝った! 勝ったのは、アストライターだ!!!!! いままでの無念を晴らし、遂に、遂に、黄金の旅路は世界を貫いた!! 3歳馬アストライター! 年凱旋門賞、歴史的制覇!!」
創太は拳を握り、
アストライターの首を優しく叩く。
「お前……本当に最強だ」
(当然だ。次はどこで走る?)
スタンドからは割れんばかりの声が響く。
「ASTREITER!!
ASTREITER!!」
その名は、ついに世界に刻まれた。